鏡の向こうへの憧憬 (セレーナside)
セレーナが筆を走らせてスケッチブックに描き留める相手、女王の機嫌は良く意識もはっきりしている。
「こちらにお寄りなさい」節くれた指を伸ばす。
老婆のような母親は白濁した瞳を彷徨わせ、セレーナの姿を追う。老眼が進んでろくに目が見えなくなってきている。
「はい。お母様、セレーナはこちらにおります」
枯れた母の手を握るセレーナは、自らの頬に手を引き寄せる。
「泣いてはおりませんね」母親は安堵している。
今朝は天候も良くて、女王の容態が良かった。老化が進むにつれ、女王の肉体の衰弱が激しい。しかし、それは世界を司る精霊の状態にも左右される。
「安心なさい。わらわはあなたが成人して婿になる王を貰うまで死にはしません」
言葉は気休めに過ぎず、女王の激しい老化現象が迫り来る死を顕著に語っている。
「お母様……」続く言葉が見つからない。
血族結婚を繰り返し、維持を続ける精霊を統率する能力は現女王の代で限界に来ていた。近代になってからテクノロジーを駆使し、≪マナ≫と呼ばれる精霊元素の安定供給を担うようになるが、王族は生命力ごと奪われて短命になってきている。
初代の『精霊王』と呼ばれた人物の意志を継ぎ、王族は代を重ねている。
例えそれが血族の破滅の道と危惧されようとも、手に入れた文明を統率者として見捨てる訳には行かないのだ。
「セレーナ、未来を案じておりますのか?」
「…………お母様、私は怖いのです」
「あなたが次代の王になる事がですか?」
「ええ……」
「精霊を統べる素質があるのはあなたのみ。本当ならばわらわの弟のデュランに王を任せたいのだけれど、彼には素養がありません。酷な話でしょうが、理解して頂戴」
セレーナが最後の末裔だと自覚している。女王と血を分けた腹違いの弟は能力者である王族の血を半分しか引き継いでおらず、実質、素質を見ても無理な問題だ。
「解っております」弱々しく頷くのみだ。
悲しさという感情を超えた虚無と矛盾が常に付きまとっている。
「そうだ、セレーナ。あなたに良い物を差し上げましょうか」
「良い物、ですか?」
玉座に縛り付けられた女王が動く事は許されない筈である。精霊を中継するコードに常に繋がれていて、ろくに身動きが出来ない彼女に持ち物があるとは思ってもいなかった。 女王は腰に巻いている太いベルトの間から銀細工を施した円形で持ち手の無い小さな手鏡を取り出した。
「あなたが持っていなさい」
力なき手が、鏡を受け取れと震えている。セレーナは女王が鏡を床に落とす前に手に取った。
「この鏡を、私に?」
「異世界へと通じる鏡と呼ばれているのですよ。ただの言い伝えですが、この鏡の向こうにはもう一人の自分が存在するそうなのです」
その磨き上げられた鏡は何の変哲も無いただの鏡に過ぎない。セレーナが鏡面を覗き込んでも、セレーナ自身が反転して映し出されるだけ。
「向こうの自分は別の世界で楽しく暮らして過ごしている。そう思いを馳せれば少しでもこの状況を悪くないと思えますよ」老婆の母親は皺を更に作って笑顔でいる。
幾ら肉体が衰弱しても、精神までは衰えてはいないようだ。
女王である前に、目の前の肉体だけが年衰えた女はセレーナの母親であった。
「ありがとうございます、お母様。大切にします」鏡を胸に抱く。
「くれぐれも壊してはいけませんよ」
「そんな事は致しませんわ。お母様の大切な宝物ですもの」
「うふふふ……」
母子はしばし笑い合った。
公務が無い時間はこうして親子で穏やかに会話する貴重な時間があった。
今までは……。
数日の時が過ぎた頃、女王の容態が急変する。
役人や技術者、精霊を操る魔導師が城内を忙しなく駆け回っている。
「精霊力の循環が安定しません!」
「大気のマナレベルが急上昇しております」
報告し合う人々の狼狽した声を、セレーナは謁見の間の片隅で聞いている。
女王の姿は無残にも、人間だったとは呼べない姿になりつつある。精霊を統べる者と最先端テクノロジーの末路は悲惨なものだ。
円柱に組み込まれている精霊が断末魔の悲鳴のような高音の音波を発していて耳障りである。謁見の間は不気味な空気で包まれていた。
女王の命の灯火は徐々に燃え尽きようとしているが、技術者が延命措置を施して阻止を繰り返している。
「フィオナ女王、お気を確かに!」女王の側で聖女が呼びかけている。
セレーナは元老院の者達を避けるように遠巻きに離れて女王の様子を伺っていたが、突然糸が切れたようにその場から去ろうと踵を返し歩を早めた。
次第にセレーナは駆け出す。途方も無い恐怖と絶望感に追われて逃げるようにただひたすら廊下を走る。
女王はもう二度と助からないだろう。
そして、自分の末路も母親といずれ同じになる。
自分の死が少し早まっただけだ。
解りきっているが、怖くて堪らない。
息が切れ、苦しさで立ち止まるとエントランスに来ていた。このまま外に出たいが、扉を守る衛兵がこちらの動向を見守っている。出してはくれないだろう。
どうにもならないもどかしさに焦燥だけが募る。
過ぎるだけの時間を黙って待ち、死に行くならば、最後までもがき足掻いてから死ぬのも遅くは無いだろう。
セレーナは最後に頼るべき者が居そうな場所を彷徨い、そして見つける。
黒い布を持ち歩く幼馴染のヨシュアを引き止める。
「セレーナ様?」
「お願い。何も言わずに私と逃げて欲しいの」
懇願されたヨシュアは返す言葉も無く、戸惑いを隠せずに考えている。
「私の命令が聞けないの?」必死の形相ですがり付く。
恐怖と狼狽で歪むセレーナの表情。絶望を色濃くした双眸には涙が滲んでいた。
「俺は……」言葉が出ない。
ヨシュアはセレーナ付きの使用人では無いのだ。厳密にいうと、城に所属する女王の弟デュランの使用人である。セレーナの所有では無いのだから、無理な話である。
「私達は幼馴染では無かったの?」
駄々をこねる子供のようなずるい話を持ちかけても、ヨシュアは頷けない。
こんな時ばかり「幼馴染」を出しても話を聞いてはくれないだろうとセレーナ自身も自覚をしている。だが、絶望を前にしては突き放した相手でもすがるしか出来ない。
狼狽するヨシュアはセレーナの瞳を直視できないでいた。
身分が低く、国を動かす力の無い自分にはどうにも出来ないのだ。
「黙っていないで何か言いなさい!」怒号のような悲鳴。
罪を犯さない姫が死刑台に立たされる様な事態を黙って見過ごせない幼馴染は常に葛藤を覚えている。ヨシュアもセレーナと同じく、表情が泣きそうに歪んだ。
「俺には自由に発言できる権限がありません」雛形で答えるので精一杯だ。
「もういい! あなたには頼みませんから!」
幼馴染の間の溝は一向に埋まる気配を見せない。
恐怖でおかしくなりそうなセレーナは弾かれた様にヨシュアの元から離れ、一目散に逃げ駆け出していった。
自室に引きこもり続ける事でしか抵抗できない。
お付のメイドを追い出し、決して他者と関わりが無い様にして死への恐怖を避ける。
ドア越しに母の死を知った。
すぐさま謁見の間に駆けて行きたいが、ドアを開ければ同時に辛い現実が待っている。開ければ負けだ。
広いベッドの上で涙に暮れながら何度も眠りに落ちる。
まぶたが泣きすぎて痛い……。
夜着を引きずって鏡台に立つと、瞳は充血しまぶたが少し腫れていた。
(そういえば、形見の鏡が……)
思いついたセレーナは女王から受け取った手鏡を引き出しの中から取り出した。
鏡の向こうには幸せな自分がいる。母は向こう側の自分に思いを馳せる事で精神を保っていた。激しい苦痛の中で穏やかに微笑んでいれたのもこの鏡があったからだ。
美しく磨かれた鏡に手垢を付けるのは気が引けるが、手を伸ばさずにはいられない。
(向こうには何が映っているのだろう?)
母親からの逃避の方法が娘にも受け継がれようとしている。
向こう側の世界に思いを馳せれば少しは気が楽になるのだろうと信じるしかセレーナには出来なかった。