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日常 (輝美side)




 乱雑で異臭のする空間に一人取り残されている。

 運動用ジャージを着込み、長い髪をてっぺんにひっ詰めてマスクをしたあたしは箒の柄を握り締めたまま呆れていた。

「あいつらめ、あたしが休んでる間にこんなに散らかして!」激怒する。

 男臭さと汗臭さ、何かの獣の匂いが充満した部室の窓を全開に開け放つ。

 運動部の女子マネージャーは辛い。元々は幼馴染に頼まれて入部したサッカー部だけど、掃除や洗濯をする為に入部した筈ではなかった。

 弱小サッカー部のマネージャーはあたし、天神輝美一人。家が自営業だけあって毎日部活には来れないが、雑用は殆ど全部あたしがこなしている。

 まずは散らばるゴミと必要な道具を分別する。割と簡単な作業なのに、とにかく汚くて嫌になる。

「…………女子が在籍してるの完全に忘れてるのか」

 誰の所有物だかはっきりしない変な雑誌を発見してゴミ袋に放り込んだ。賞味期限切れの食べ物の類が並べた机の上に放置されている。その類も全てゴミ袋へ。

 一通りゴミを片付けると、次は汚れた衣類や備品の回収が待っている。

 ロッカーの上に放棄されたダンボールに手を伸ばす。届かない。

「とっ、とっとっと……」つま先立ちして箱に手が届く。

 ダンボールの角を指で引っ張る。何とかロッカーの上から動かす事が可能だったが、

 ガゴーン! 目の前のロッカーが倒れてきた。

「うぎゃあーっっっ!」鋭い反射神経で咄嗟に飛びのく。

 もうもうと埃を舞い上げながら三人用のロッカーが床に倒れ伏している。

 断末魔の醜い悲鳴を上げて飛び退いたが、無残に脚をロッカーと床に挟まれていた。痛さよりも驚きが勝る。

「もう! やってらんないわよ!」一人で自暴自棄になって怒鳴る。

「何してんだお前……?」

 針金のような癖のない髪に意思の強そうな瞳をした男子がこちらを怪訝な顔でじろじろ見ている。あたしの散々な末路をサッカー部員が部室の入り口のところで呆れて見守っている。

「……け、啓介。み、見てるんなら助けなさいよ!」怒鳴る。

 幼馴染の鈴代啓介に無様な姿を見られていた。あたしは急に恥ずかしくなってイラッとして怒鳴り散らすしかやり場のない怒りの発散方法が無い。。

「ドジだなー、ホントに」啓介が薄ら笑いを浮かべてロッカーを元の位置に起こす。

 ロッカーの中の荷物がドドドッと雪崩れ落ちてくる。

「うっぷ……!」顔をしかめる。

 汚れた衣類と醗酵したロッカーの臭いで目が回りそうだ。あたしは既にサッカー部のマネージャーに就任した事に激しく後悔していた。

「ほら、立てるか?」

 啓介に手を貸して貰う。あたしは情けなさを覚えながら立ち上がった。

「うー、最悪だー」

「立て付け悪かったんだろうな、このロッカー」

 啓介がロッカーの位置を調整して安定させようとしている。その後姿を不満げに見守りつつ、あたしは雪崩れ落ちた荷物を拾い集める。そもそも、災難の現況はこの幼馴染のサッカー部員にある。この部活に入部したのは啓介の頼みがあったからなのだ。

「あ……」

 不意に啓介の膝に擦り傷があるのを見つける。泥に混じって血が滲んでいる。練習中に転んだのだろうか。

「あら、あんた、怪我してるじゃない」

「おう。その為にこっち来たんだ」

「ふーん、怪我の治療だけに来たのか……。ま、いいか。お陰で助かったし」

 部室の隅にある救急箱を持ってきて、あたしは啓介の膝の治療を始めようとする。

「ハイ、染みるからね」

 消毒薬の染み込んだ綿球をぐりぐりと乱暴に押し付ける。消毒しながら傷口の汚れを拭き取っているのだが、それが染みたり擦れて結構痛そうだ。

「痛ってぇぇぇ! もっと優しく出来ねえのかよ?」

「大袈裟に暴れないでよ。ガキじゃないんだし」

「うるせえな、痛えもんは痛えんだよ」

 傷口にガーゼを当ててテープで固定する。一応包帯を巻いて傷を保護しようとしているが、気休めに過ぎない。あたしのテーピングは我ながら上手じゃなかった。

「出来たわよ」

「下手くそだなー」

「文句を言うならあたしじゃなくて保健室に行けばいいでしょ」

「保健室のオバチャンうるさいから嫌なんだよ」

「あっそ。素直にあたしがいいって言えばいいのに。ありがとうは?」

 ムッとした啓介の表情が急に朱を差す。

「お、お前こそ。さっき助けてやったのにありがとうはねえのかよ?」

 お互い気まずい空気で睨み合う。

 素直になれないお年頃だからこんな顔しか出来ない。

 物心付いた時から常に一緒に日常を暮らしているあたしと啓介は同時にそっぽを向くのだった。

「じゃ、俺行くわ」

「うん……」

 あたしが啓介の後姿を見送る。日暮れまであと少しの傾いた太陽光が逆光として差し込んできた。シルエットになった啓介がチームメイトの待つグラウンドに遠ざかって行った。


 日がすっかり暮れた頃、

「それじゃあ、あたし帰ります」

 制服を着たあたしはサッカー部員の面々に挨拶をして先に帰路につく。

「お疲れ様」や「ご苦労様」等の声を受けながら、軽く先輩方に会釈して帰る。

「おっかれ~」練習を終えた啓介が口の中に棒付き飴を入れながら手を振っている。

 なんだか妙にむかついた。さっきの事も忘れて軽いんだから……。

「ハイハイ、お疲れ!」

 啓介とは帰宅してもどうせ店で顔を合わせるのだ。夕飯の頃にはどっと疲れが沸いてきそうだ。

 家に帰ったら帰ったで、家業の定食屋のディナータイムを手伝わされる。それが天神家の慣わしである。

 あたしの一日はまだ終わらないのだ。

 腕時計を見てげんなりする。門限は過ぎており、職人の父親に真っ先に怒鳴られる事は想像出来る。サッカー部のマネージャーは門限を過ぎなければと許可されていた。

「急がなくっちゃ……」

 帰りのバスに乗ろうとバス停まで小走りになる。

 その時、大荷物を背負った作務衣姿の老婆を見つけた。

 歩道橋を上がろうとしているのに、老婆は躊躇している様子だ。和装にそぐわない大型のザックが目立つ。中に何が入っているのか想像が付かないが、とにかく重そうだ。

 あたしは困っている人を見ると基本放って置けない性格。そうしろ教育されている。

「あのう、お婆さん? 荷物持ちましょうか?」

 小柄な老婆が顔を上げる。皺や加齢染みだらけの顔が綻ぶ。

「いいのかい?」

「はい。歩道橋を渡ってあっちの歩道まで持って行けばいいんですよね?」

「ありがとうよぅ。助かるわ」

 老婆からザックを受け取る。どこに旅行に行くのかという位に荷物が重い。それを背負う。脚がもつれてよろけた。

「あらあら、お姉ちゃん大丈夫かい?」老婆は微笑みながらあたしの後を付いてくる。

 老婆と一緒に歩道橋の階段を同じペースでゆっくり上がる。

 荷物が手に食い込んで結構痛い。

 階段を全部上がり切った所であたしが息を切らせる。本当に何が入っているのだろうかとやけに気になる。

 こんな重い荷物を小柄な老婆が背負っていたなんて信じられない。

 手ぶらの老婆は腰に手を組んで牛歩で進んでいる。

 この老婆は一体……?

 謎は歩道橋を降りた所で一層深まった。

「ありがとう。もういいわ」老婆があたしからザックを素早く奪った。

 老齢にそぐわない軽めの身のこなしに驚く。

「この年になると足腰が大変でなー。お姉ちゃんはいい学生さんだね」

 老婆は懐から装飾が錆びた古い鏡を差し出した。受け取れと言わんばかりにうりうりとあたし押し付けてくる。

「あの、これは……?」

「お礼じゃよ。わしの店の売り物にするつもりじゃったが、お姉ちゃんにあげるよ」

 正直、こんな汚い鏡はいらない。ただの老婆なら持ち合わせのお菓子や果物をくれたりするのでありがたく頂戴するのだが、この曰くありげな道具には戸惑う。

 視線を鏡に落とす。持ち手の無い円形の手鏡が掌に収まっていた。

「お婆さん、骨董屋さんですか?」

 質問をしようと老婆に向き直るが、そこに老婆は居なかった。

 手の中には汚い鏡が残された。

「ちょっと、お婆さん?」

 視界の端に老婆の姿を見つけた。いつの間にか直進して遥か向こうの横断歩道まで歩いていた。素早くて捕まえられない。信号は赤に変わっていた。

 不思議な老婆はタクシーを捕まえて乗り込み、すっかり見えなくなってしまった。

「参ったな……」

 取り残されたあたしはしばらく立ち尽くし、諦めて老婆から受け取った鏡を鞄の中に押し込んだ。


 定食屋『天ちゃん』の暖簾をくぐる。引き戸を開けると揚げ物の香ばしい香りが鼻腔をくすぐった。

 夕食時の店内は仕事帰りの若いサラリーマンや大学生で賑わっている。安くてボリュームがあって美味いと評判の店は繁盛している。

「ただいまー」疲れ切った表情であたしは店に足を踏み入れる。

「今何時だと思ってるんだ、輝美!」すぐさま父親の雷が飛んで来た。

 最近、天ちゃんの親父の怒鳴り声が名物となりつつある。常連客ではない客はカウンターの中でフライパンを振るうハゲ頭と、その一人娘を不思議そうに見比べる。

「まあまあ、お父さん、新しいお客さんビックリしてるから」新規客にお冷を持って行きながらあたしの母がなだめている。

 あたしが部活をやりだしてからのいつもの光景である。

「おい、今日は部活で遅れたなんて言い訳通用しねえからな!」怒号と共に菜箸があたしに差し向けられる。

 お父さんはスキンヘッドに近い坊主頭をいつものように真っ赤にして怒っている。

「あーもー、今日は歩道橋で立ち止まって困ってたお婆さんを助けてたんだってば~。うるさいなぁ」ぐったりしながら店の裏に回る。

 お父さんの小言を真正面から受け止めてしまうと疲れてしまうので、聞き流す形で住居にしている二階に上がった。

 制服を脱いで普段着に着替える。食べ物の油で汚れてもいいように、ダサめのTシャツとGパンがいつものスタイルである。ポニーテールの髪の毛を多少整えて、エプロンを着ければ天ちゃんの看板娘に変身する。

 着替えたらすぐさま下の階の店に下り、付け合せ用の和え物を勝手に箸でつまんだ。

「コノヤロー、てめー働かざるもの食うべからずと言ってるじゃねえか」あたしの父親は何をしてもすぐ怒る。

「ハイハイ。わかってますよーだ」軽く受け流す。

 あたしは次の瞬間には注文された料理をテーブルに運んでいた。

 若さと可愛らしさが弾ける様な営業用の笑顔は割りと年季が入っていたりするのだ。

「お待たせしました。から揚げ定食と天丼ね」

 料理をテーブルに置くあたしの姿を、殆どの男性客はうっとりと眺めている。新規の客の二人組みも既にあたしの笑顔の虜になっていた。

 幼い頃から店を手伝っているあたしの美しさは年を重ねるごとに輝きを増しているようだと、両親は納得して頷き合っている。我ながらあたしもそれを誇りに思っている。

 天ちゃんの戸が開いた。

「いらっしゃい」先に母が客に声を掛ける。

 輝く笑顔であたしが客に振り向くが、次の瞬間には通常の自分に戻った。

「なぁんだ、啓介か」

 部活帰りのジャージ姿で啓介が店に入る。

「何だはねえだろ。俺だって客じゃんかよ」空いているカウンター席に座った。

「遅かったわね。あたしが帰ってきた後すぐに来るはずじゃん?」お冷を啓介の前に置く。

「みんなでラーメン食ってきた」

 啓介が言っているのはあたしを抜かす部員全員という事になる。仲間外れにされているようで何だか悲しい。

「何よ、だったらウチに来る必要ないじゃない」ムッとしてそっぽを向く。いちいち啓介の態度はむかつくのよね。

「あるだろうが、馬鹿者が」頭上からお父さんの声。

「おじさん、今日の弁当のメインは何?」

「サンマの照り焼き。良枝さんの好物だったな」カウンター越しに弁当箱を置いた。

「ありがとう。おふくろ喜ぶわ」

 啓介の家庭は母子家庭なんだ。その母親は仕事の都合で一切料理が出来ないので、毎晩のようにこの店で母親用の弁当を作ってもらっている。

「啓、今日は飯いらねえんだってな。折角多めに照り焼き作ったのにな。よし、輝美、多めに食っていいぞ」

「あ、うん。そうするー」あたしがエプロンを外して啓介の隣に座った。

「おいおい、何も食わないって言ってないって!」

 二人分のサンマの照り焼きとキャベツのどか盛りの定食がカウンターに無造作に置かれる。照り焼きの甘じょっぱい香りが食欲を誘う。

「あんた、また食べるの?」

「俺は育ち盛りなんだから飯が足りねえんだって」美味そうに照り焼きを頬張り、大盛りのご飯を胃袋に掻き込んでいる。

 隣で二回目の夕食にがっつく幼馴染の姿を見て、あたしは呆れるばかりだ。ラーメン食べて置いてよくうちのドカ盛りの定食が食べれるなと。

「考えただけで太りそう……」

「運動やってりゃ太らないって」

「そうねー」あたしは遠い目をしていた。

 あたしはたまに啓介を羨ましく思っている。サッカーの練習試合でピッチを駆け回る彼の姿を眺めるだけで、自分は直接試合に出る事は無い。昔は一緒に河川敷などでサッカーの練習をしたりしていたのだけど、年齢を重ねるごとに性別と体力の違いが出てきた。もう啓介とは隣で一緒に走れない事を実感している。

 中学の時は男女の差をそんなに感じなかったのに、高校に上がってからは顕著に感じるようになっていた。食事の量がそうだ。あたしは体型や美容を気にしてあまり食べないでいる。

「何? 食わないの?」啓介の箸があたしの皿に伸びる。

「食べるわよー。意地汚いな。コレはあたしの分だからね」

 思春期真っ只中のあたし達が仲良く食事しているのを、いつも眺めている両親は暖かい表情で見守っている。それは鈍いあたしでも承知していた。

 それが自分達の日常。忙しくも平凡な日々の一端である。

 食事の途中であたしは、帰宅途中に遭遇した不思議な老婆の話を啓介にも話したが、他愛も無い話として片付けられた。

 それからしばらくして、あたし自身も忙しく、今日会った老婆の事はすっかり忘れてしまった。



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