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「水晶の魔女」の魔法塾

マイと水晶と言葉の魔女

作者: 蒼久斎


 つまり水晶、石英という鉱物は、人の似姿なのだ。

 この地球上の二酸化ケイ素が、悠久の時の中で結晶を生成する。

 時に屈折し、時に融解して結晶構造を失い、時に外的要因によって変色し、時には内包物インクルージョンを受け止めて、純粋さからは遠ざかる。

 いわゆる「完全無欠の水晶」というものは、まず自然界には稀で。

 だからこそ透き通る、美しい結晶の価値が高いのだけれど。

 むしろ、そのような「水晶」のあり方こそが、とても人間に似ていて。

 だから人類は永い歴史の中で、水晶を愛してきたのかもしれない。



 ……そんな先生の語りを、マイは思い返す。

 先日も適合する水晶は見つからず、今日また再挑戦だ。また、再挑戦。再挑戦というか、再々挑戦というか、むしろ、これで都合何度目になるのか、もう数えていない。

「ああ……本当にあるのかな? 私を待っている水晶クリスタルって」

 怪しい先輩に誘われ、怪しい先生に導かれ、怪しいクラブに入った。

 色々な「不思議」を操る先生や先輩たちに憧れて、決断したのは、自分だ。

 どこまでもどこまでも果てしなく自分の責任なのだけれども。

 一緒に入ったクラスメートが、スパッと適合水晶を見つけて、軽々と「不思議」を操れるようになったのも、何か壮大なドッキリのように思えてくる。もうそろそろ七月が近いので、さすがにここまで念の入ったドッキリはないだろう、と思いはじめてもいるのだけれど。

「だいたい、高校生になっても魔法少女ってね……うん……」

 いやいや中学二年生ぐらいなら分かる。

 そういう「特別」に憧れたいお年頃だもんね。

 色々いたなぁ、自分には何かの特別な力があるんだ、とか叫んでた元同級生……男子が多かったような気がするけれど、でも女子も何か、不思議なことが起きることへのときめき、ってのを、まだまだ失くしていなかったような気がする。マイもそうだった。

 そのときめきが朽ちかけてきた頃に、あの胡散臭い先生と先輩弟子が現れたのだ。

 丸め込まれたのかなぁ、と思う反面で、でも友達がなぁ、と考え直す。

 友人のモモは、おっとりとして優しくて、いわゆる女の子らしい可愛さがあって。恋心を抱く相手もいるようで、ドジだけれど、マイが傷ついて泣いている時に、必ず傍にいて慰めてくれる。そんな彼女の適合水晶は、彼女のふんわりとした優しいイメージにピッタリの、紅水晶ローズクォーツだった。

 先生は、彼女が「これ!」と叫んだ途端、「ほほう」と頷き、それから「難しいわね」と呟いていた。

 その後の説明によると、紅水晶ローズクォーツの結晶には小さなものが多く、そのため必然と、モモの使える「不思議」は、「クリスタルに補助されて」発動するというよりも、「クリスタルを補助しながら」発動することが多くなるらしい。よく分からないが、大技が難しいようだ。

 まぁもっとも、と先生は付け足した。

「そのレベルになるまでは、結晶型に研磨したので十分でしょう」

 モモは先生が見繕ってくれた、六角ポイントの結晶型に研磨された紅水晶ローズクォーツの中から、彼女がいちばん「可愛い」と思うものを選んでいた。

 ……そんな理由で選べるのなら、自分だって「かっこいい!」と思った紫水晶アメシストの研磨ポイントを選びたかった。

 しかし先生は、首を縦には振ってくれなかった。

紫水晶アメシストは……君の水晶ではないねぇ……」

 ちなみに先輩の水晶は黄水晶シトリンだった。こちらも天然の結晶はとても稀なので、紫水晶アメシストを加熱して黄変させたものを使っているらしい。

 肝心の先生はというと、水晶を二つ持っている。

 もっとも、マイが見たことがあるのは、細長い「レーザー水晶」の杖だけだ。

 あの杖を振って、先生が「不思議」を起こしているのを見て、マイは「魔法少女」に、久しぶりに本気で憧れた。まぁ、先生は立派に大人の女なので、「少女」と形容するのはどう考えても詐欺だけれども。

 ああ、魔法。

 それは子どもが誰しも一度は憧れるであろうもの。

 杖を振って不思議の現象を起こす、そんな光景を真似るのは、誰もが一度は通る道。

 そして、中学生や高校生になると、そんなことはしていなかったんだ、と否定したくなる、お決まりの黒歴史の一つ。

 いずれマイは、今の自分の記憶をも抹消したくなるのだろうか。

 そんなことを思いながら、しかし、無邪気に笑う級友のモモとともに、先生の喫茶店に足を向ける。そこが学校非公認クラブ「不思議同好会」の活動拠点だ。


 非常勤講師である先生は、学校にいない日も多い。

 先生は学校のセンセイであり、小説書きであり、イラストレーターであり、アロマセラピストであり、アクセサリーのデザイナー兼作家であり、真面目な学問の研究者であると同時に、胡散臭い占い師でもある。作曲家、兼、作詞家、兼、編曲者であり、自分で歌も歌ってしまう。そして料理上手で、自分で服が縫えるぐらいに裁縫上手で、染色と刺繍をこなし、布だって自分で織ってしまえる。色んなコトを知っていて、ついでに茶目っ気たっぷりの眼鏡だ。そして眼鏡だというのに、喧嘩が強い。

 マンガのキャラクターだったら、編集者に即ボツにされそうなほど、無茶苦茶に設定を盛り込んで盛り込んで、盛り込みまくったような人だ。

 世の中には、こんなに何でもできる人間がいるのかと、マイとモモは驚いたものだ。神様がこの世を創ったのなら、こんな不公平はちょっとどころでない意地悪だと思う。

 カランカラン、と喫茶店のベルが鳴る。

 この喫茶店は、先生の旦那さんが経営している。

 時々、先生も手伝っているらしい。

 そして先輩は、ここでバイトをしているようだ。

 マイとモモの顔を見ると、おう、とダンディなヒゲを生やした店主は、軽く手を挙げて奥の部屋を示した。予約客のためのスペシャルルームがあるのだ。

 ああ、いつ来ても、この喫茶店の雰囲気は大好きだ。

 落ち着いたダークオークを基調とした店内は、アンティークっぽい内装で統一されていて、ねじ足が特徴的なジャコビアン様式のテーブルと椅子がいくつも並んでいる。それだけを見れば、特にすごく珍しい店でもない。しかし、十五、六席ばかりの見通しの良いそのゾーンを抜けて、さらに奥へ行くと、この店の風変わりさが、だんだんあらわになってくる。

 端的に述べてしまえば、テーブル席が半個室状態であちこちにある。

 ただ、この半個室状態というのがくせもので、緑生い茂る庭かと思うと、色とりどりの魚たちが泳ぐ水槽に囲まれていたり、古びた歯車の並ぶメカニカルな隠し部屋があるかと思えば、燦々と陽の光が降り注ぐ空中庭園のような部屋もある。不思議の森に迷い込んだように、突如として死角から、新しい世界が見えてくる。そんなこの店の構造は、マイとモモの好奇心を多いに刺激してやまなかったが、先生との勉強部屋は、いっとう風変わりだった。

 一段奥まったところにあるその部屋は、喫茶店の特別個室というよりは、喫茶店に注文も出来る、個人経営の塾のような感じの広い部屋だ。飲食店の個室にしては、という意味での広さであって、まぁ五畳か六畳間といったところだ。

 中央に大きなテーブルがあり、そのまわりを六脚の背もたれつきの椅子が囲む。最初に店に入った時に見える、ダークオークのジャコビアン様式の机と椅子だ。生徒はこの中央テーブルの好きなところに着席する。先生は、テーブルにつくこともあるし、あるいは特別のデスクに座っていることもある。デスクというか、ライティングビューローなのだけれども。そして、黒板の前に立ったりもする。

 入ってすぐ左手の壁一面は、本棚が埋め尽くしている。右手に黒板がある。奥の壁には下半分に実験器具を入れる棚があり、陶製の流し台もついていて、理科室のようである。棚の上には、たくさんの生物標本や化石や、骨格模型や分子モデルなどが並べられた飾り棚があり、そして手前の壁は、腰から下が中の見えないロッカーになっていて、その上には作業中の色々なものが並べられ、そして壁面には、地図や精巧な絵が飾られている。

 天井からステンドグラスが下がっていないのが、少し惜しかった。ここの照明は蛍光灯である。やっぱり似合うのはシャンデリアだとマイは思うけれど、市松模様になった磨りガラスのパネルに隠れているので、部屋全体の雰囲気を損ねているわけではない、かもしれない。それでも本当はシャンデリアがいいけれど。ただ、その磨りガラスだって、エッチングで流麗な模様が描かれていて、天井パネルにしては、なかなか雰囲気がある。そのエッチングも先生作だったと知った時は、あまりにも何でも出来すぎて、嫉妬も羨望も起きる余地のない驚嘆に襲われたものだ。

 初めてこの部屋に入った時は、どう考えても塾だな、と思ったのを覚えている。それも少人数指導の特別塾だ。実験までさせてもらえる、とても素晴らしい塾。

 実際、それはあまり間違っていない。



 モモと二人、いつも決めた席に着くと、二人はまず宿題を片づけに掛かる。英語の文法と読解と、国語は古文と漢文の予習復習、数学1Aに理科の問題集とこれをやるだけでも軽く一時間が経過する。やっているうちに、バイトを終えて先輩が合流するので、時には教わったりしながら、勉強を進めていく。

 宿題が終わったら、ノートを確認し、それでもまだ先生が来ないなら、互いに教え合いをしながら、さらに予習を進める。あるいは資料集を読み込む。

 時々は、たわいもない話や、このお年頃にはつきものの、恋の悩み相談や、あるいは進路の話なんかをしたりもする。二年生である先輩のアキは、そろそろ最終所属クラスを決定しなければならず、国公立と私立とで悩んでいる。

 やがて、美味しいお菓子の匂いを漂わせて、先生はやって来る。

 二段のケーキスタンドを二つ。お皿の上には、プレーンのスコーンと何種類かのジャムとマーマレード。それから今日はショコラマドレーヌに、クッキーとポテトチップ。

 保温台に載せた紅茶のポットと、カップ&ソーサーのセットを人数分。シュガーポットとシュガートング、たっぷりのエバーミルクを入れたクリーマーは二つずつ。そしてお洒落な紙ナプキンを人数分のケーキ皿に載せて、それらを載せたワゴンを押してくる。

 軽くノックの音がすると、三人は勉強道具をそのままにして、立ち上がる。

 扉を開けるのは、先輩であるアキの仕事だ。世の中では扉を開けるのは新人の仕事らしいけれども、この「塾」では、扉を開けて最初に先生と対面する権利は、先輩のものなのだ。

 マイとモモは、勉強机の真ん中あたりからは勉強道具を退かせて、消しクズなどを、備え付けの小型クリーナーで吸い込んで掃除し、布巾でテーブルを拭く。

 テーブルの真ん中に保温台とポットを置き、その長辺に沿う両隣にケーキスタンドを一つずつ配置する。そして、紙ナプキンを載せた皿を各自の席の前に置き、カトラリーを入れた内側に薔薇柄の布が張られた飴色のバスケットを、ポットの座席側に向けて手前にそれぞれ置く。教科書や資料集は、まだ開きっぱなしだ。

「じゃ、ティータイムにしましょう」

 先生がそう言って、皆と同じようにテーブルにつく。ナプキンを膝に置き、いただきます、と手を合わせてから、それぞれお目当てのお菓子に手を伸ばす。

 最初に手にした茶菓子を食べ終え、一杯目の紅茶を飲み干す。

 この頃になると、生徒三人の眉間には、大なり小なり皺が寄り始める。

「さぁ、二杯目よ」

 各自のカップに、二杯目の紅茶が注がれていく。

 ちなみにこの勉強会のカップは、自分たちが専用として選ばせてもらったものだ。割ったら弁償できる、ということが条件なので、さすがにあまりに高額なものは選べなかったが、アキはウェッジウッドのコーヌコピアを使っている。ウェッジウッドの中では、安価だというわけではないけれども、めちゃくちゃ高い、というものでもない。

 モモが使っているのは、ロイヤルアルバートのオールド・カントリー・ローズ。世界で1億点も売れたという、同社の看板商品で、意外にお買い得の一品だ。

 先生は、その日の気分によって替えている。今日はウェッジウッドで、代表的なシリーズの一つである、コロンビア・セージ・グリーンだった。カップ&ソーサーのセット1客で、約3万円というお高い品である。

 マイは自分の選んだ、ムーンライト・ローズのカップを見つめた。モモのオールド・カントリー・ローズの暖色系の薔薇の色が、青になった色違いのシリーズだ。

 アキと今日の先生のカップは、ピオニー型。マイとモモのカップは、モントローズ型とよばれ、どちらも紅茶を美味しく味わうために発展した形をしている。

 紅茶はコーヒーと違って、淹れてから飲むまでの時間が短く、出来上がり時の温度が高い。高台をつけて底面に空気の層を入れ、さらに底をすぼませることで、飲む前の紅茶の温度を保つ。逆にカップの上の方では、一気に口を広げて、空気と触れる面積を増やす。これが香りを立たせつつ、飲むのに良い温度まで速やかに冷える、カップデザインの工夫だそうだ。


 三人は神妙な顔で、紅茶の香りを嗅ぐ。

 優雅さというものはちょっとかなぐり捨てておいて、スンスンと嗅ぐ。

「……なんだか、草原のようです」

 まずアキが、先陣を切って、紅茶のイメージを述べる。

「ふむふむ。いいよ、他の人も、続けて」

 先生に促され、モモが感想を述べる。

「刈りたての草の香り……太陽の明るい光を感じます」

 マイも必死にイメージを想起しようとする。

 言われたら納得だ。とても美味しい紅茶。アキの言うように、草原のようで、モモの言うとおりに、草刈りを終えた野原で日向ぼっこをするようなイメージが浮かぶ。

「香りだけなら……晴れた青空、ですね」

 アキがさらにイメージを出す。

 どんどん焦るマイに、タイムアップを告げるかのように、先生が「じゃ、今度はゆっくりと味わってみましょう」と言った。

 一口、口中に含む。

 仄かな渋みを感じるけれど、ふわりと包み込むような口当たりの良さで、渋みはえぐみではなく、味を引き立てる特徴の一つにうまく収まっている。

 飲み終えつつある口中に、ふいっと外気を取り込む。

 その途端、紅茶の香りが口の中一杯に充満する。

「……青い、青い、真っ青な空を見上げています」

 アキがイメージを語る。

「そうですね……見渡す限りの草原地帯。草の色と真っ青な空。モンゴルの風景を思い浮かべます」

 アキの口から滔々と語られるイメージは、味わうほどに「確かに」「なるほど」という納得を伴ってくる。それだけに悔しい。

 素晴らしいこの味を表現するイメージを、マイはなんとか思い描こうとする。

「ほのかに……花のイメージがあります」

 モモがマイをさらに焦らせる。

「ふむ。どんな花かな?」

「薔薇などの、目立つ大きな花ではありません。どちらかというと、私たちの身近な草むらで見つかる小さな雑草の花で……紫がかったピンク色の、星のような形の花です。とても小さくて……そうだ! 庭石菖ニワゼキショウの花!」

 ニワゼキショウの花が、マイには分からない。

 これは後で図鑑を引いておかないと、と、マイはノートにメモを取る。

「アキは雄大な風景を、モモは身近な野原をイメージしたのね?」

「いいえ」

 即座にモモは首を横に振った。

「とても壮大なイメージです。でも、決して手の届かない大きな世界ではなくて、ふと足もとを見ると、慈しむべき小さな花が咲いている……そんな感じです」

 その説明を聞いて、なるほど、と先生は頷いた。

 まだ、マイだけが発言していない。

 焦りながら、もう一口大きく口に含んでみる。

「あ……」

 なんとなく、ちょっと「見えた」気がする。

「マイ?」

 先生が発言を促すように名前を呼んだ。

「小さな花束……野草を束ねた……」

 モモや、ましてやアキのような語りなどできず、それだけを伝える。

 先生はにっこりと笑った。

「ダージリン、ジュンパナ茶園、セカンドフラッシュよ……今日見えたのは青空のようね。年によっては夜空のようなイメージが浮かぶこともあるのよ」

 ほうほう、と頷いて、マイとモモはせっせとメモを取った。時々、同じお茶が出てきて、それを当ててご覧なさいと言われることがあるのだ。アキは知っているようだった。去年飲んだのかもしれない。

「さぁ、ではここからは、何も難しいことは考えずに、美味しくいただきましょう」

 ほっと三人から肩の力が抜ける。



 実のところ、この「不思議同好会」は、こんな風に「紅茶愛好会」みたいな面も持ち合わせていたりする。

 怪しい部活のアリバイの一つでもあるらしいけれど、先生によると、紅茶のように淡い味わいのものからイメージを想起するのは、非常に難しいことだそうで、それを訓練することによって、自分たちの想像力と表現力を鍛える意味があるそうだ。

 最初に「不思議」を見せたあと、先生は何度も何度も二人に言った。

「いいですか。人の想像力には限界があります。表現力にも限界があります。自分の知らないものを具体的に思い浮かべられる人はいませんし、自分の感じたことのないものを伝えられる人はいません。だから私たちは、より多くのものを見聞きし、感じていくことで、想像力の基礎となる経験を積まなければなりません。想像できないものを表現することはできませんし、表現できないものを呼び覚ますことは、まずできないことだからです」

 だから「不思議」を起こそうとするのなら、たくさんの勉強をし、たくさんのことを感じ、色々なことを考えていかなければならない。

「感じたことを表現するためには、自分の伝えたい内容にぴったり合致する言葉を、探さなければなりません。知らなければなりません。だから私たちは、たくさんの言葉を知らなければなりません」

 先生はそうも言った。

「手っ取り早い勉強方法は、辞書を読むことです」

 そう言われた時には、なんだかあまりにも「お勉強」すぎて、がっかり思いさえしたけれども。

「しかし、辞書とはいわば言葉の『標本集』です。そこには学ぶべき数多くの事柄が記されてはいますが、言葉本来の『生き生きした姿』は見られません。だから私たちは、言葉を自在に駆使する文学を学ぶことで、言葉に関する感覚を研ぎ澄ませなければなりません」

 先生が辞書のことを「言葉の標本集」と言ったのは、なんとなくしっくりきたので、よく覚えている。言われてみれば、たしかに辞書は図鑑に似ている。

 その次の言葉は、少し寂しかった。

「しかし、どんなに学んでも、どんなに自分自身には十全に表現できたように思えても、相手に伝わるとは限りません。相手の知らない事柄や、相手の知らない言葉を用いれば、どんなに自分自身にとってぴったりの表現であっても、それは表現としては不十分です。言葉を用いるのは、伝えたいことを表現するためなのですから、表現されたことが伝わらないというのは、言葉の使い方として、まさに本末転倒です。枝葉にこだわって幹を忘れるようなものです。あるいは花にこだわるあまり、茎や葉の姿を忘れてしまうようなものです。それでは本来の姿の再現にはなりません」

 たしかにその通りだと思ったけれど、辞書を読んでまで勉強して、それで新しく覚えた言葉が使えないというのは、何か空しいようにも思えた。

 でも先生は、「覚えたての言葉をさも知ったように使うと、手痛いしっぺ返しを受けることがありますよ。何度も使って、体と心に染みついた言葉でなければ、十分に使うことはできません。十分に心を込められていない言葉を、相手の込めきれなかった思いも含めて受け取ることができるのは、本当に感性を磨き抜いた、ほんの少しの人間だけです」とも言っていた。

 その説明には一理も二理もあったので、なんだか悔しいけれども納得せざるを得なかった。

 たしかに、たとえば告白をしたいと思う時に、背伸びをして、自分でもよく分かっていない洒落た言い回しを使ってみても、きっと格好はつかないだろう。十分に思いも伝わらないだろう。よしんば相手がその言い回しを知っていたとしても、十分に思いの乗っていない言葉は、心に響かないだろう。

 でも、たとえば愛の告白だとして、シンプルに「好きだ!」というだけでは、あまりに芸が無くて、ありふれすぎていて、やっぱり何か足りないようにも思える。だから、辞書を読んで勉強することは、単純な「好きだ」という叫びと、洒落っ気の利き過ぎた気障な愛の囁きの間にある、自分の本当の気持ちの姿を、的確に表現するのに、やっぱり必要なことなのだろう。

 言葉にこだわるだけあって、先生の表現は多彩だ。知らない言葉が出てきたら、二人は先輩であるアキに意味を聞いたり、自分たちで辞書を引いたりした。現代文の表現にはじまり、漢籍や和歌なども自在に操る先生と話しているうちに、二人の国語の成績も伸びていった。もともと決して悪い方ではなかったと思うけれども、今は明らかに「良い」方になっている。これでいて先生は、実は国語の先生ではないのだから、本当に驚きだ。


 この「塾」では、自分で文章を書いたり、詩や歌を作ったりして、履き慣れない靴を慣らすように、新しい言葉を体になじませたりもする。最初はなんだか恥ずかしいと思ったけれども、プロでもリハーサルはするものでしょう、と言われて、それもそうだと納得した。

「読み返したら恥ずかしくなって、破っちゃうかもしれませんからね」

 先生はそう言って、言葉の練習は必ずルーズリーフでさせた。色々な言葉を並べたそれらは、全て先生の手元にあるバインダーにまとめられる。ものすごく黒歴史を握られている気分だ。そう思っているのは先輩であるアキも同じようで、この集まりに参加しはじめて間もない頃に、こんなことがあった。

 アキがとても綺麗な、そして情景が目に浮かぶような詩を作った。

 それが自分たちの言葉の羅列とは別格だったので、なんだか越えられない壁のようなものを感じて、やっぱり無理なんじゃないかな、と二人して思ったことがあったのだ。

 その時、先生はにやりと笑って、昔まったく同じお題を出したことがあったわね、と言って、アキのバインダーから古いルーズリーフを引っ張り出したのだ。

 その後のアキの必死の抵抗といったら、それこそマイの貧相な語彙では到底表現できない、まさに筆舌に尽くしがたい有り様だった。全力の抵抗空しく、少しだけ暴露されてしまった先輩の黒歴史に、二人は大きな安心感と、ちょっぴりの申し訳なさを感じたのだった。

 そんなことをやっている先生は、自分の黒歴史を一切公開してくれない。

 なのでマイは、アキに誘われた「先生の黒歴史を発掘し隊」に、こっそり加盟した。

 マイはまだ誰にも会ったことはないのだけれど、アキによると、この店には先生の昔を知る人が結構出入りしているらしく、時々昔の先生のことを話してくれるらしい。うまく話を合わせて、先生の黒歴史を暴露するよう誘導尋問することについて、この先輩は「言葉を操る訓練の一つよ」と、欠片も悪びれる様子無く、爽やかに言い切っていた。

 言葉を操るというのは、単純なようでいて、とても奥が深い。日常何気なくやっている行為の一つなのに、いざ分け入ってみると、どこまでいっても果てのない複雑さに、思わずおののいてしまいそうになる。単純な言葉選びにとどまらず、その発音や声色の使い方まで考えると、字面では同じやり取りですらまったく違う効果をもたらすのだ。なるほど「言霊」という考えも生まれようものだ、とマイは思う。


 紅茶とお菓子を味わいながら、マイは今日は何の日だろう、と考えた。

 適合水晶の見つかっていない自分は、今日も新しい水晶が入っていれば、それとにらめっこすることになるだろう。とりあえず、普通の無色透明の水晶と、アキの使う黄水晶シトリンと、モモの紅水晶ローズクォーツと、それから紫水晶アメシストは、試し終わった。放射線の影響で少し黒ずんだという煙水晶スモーキークォーツも、それがもっと不透明に濃くなった黒水晶モリオンも、すでに試し終わった。

 他にも、黄水晶シトリンの発色は鉄イオンが原因だそうで、同じ黄色系の石英であるレモン水晶(レモンクォーツ)というのも見せてもらった。何が違うのかと尋ねると、こちらは鉄イオンによる発色ではなく、含まれた硫黄の色によって黄色に見えるのだそうだ。同じく結晶の中に入り込んだ石によって色づいて見える、緑水晶グリーンクォーツも見せてもらった。どちらも合わなかった。

 で、マイはどうやら色つき水晶には適合しないらしい、と判断された。

 実は水晶クリスタルといっても、先生によれば二酸化ケイ素を主体にしていれば、別に結晶質の好物でなくても良いらしい。杖につける六角のポイントだって、できれば自然結晶が望ましいけれども、今のモモのように人工的に研磨したものでもいいし、適性が玉髄カルセドニーのような隠微晶質クリプトクリスタラインの石や、非晶質アモルファスのオパールにある場合には、別に杖じゃなくても良いのだという。

 とりあえず、先日は玉髄カルセドニーの類を試しまくった。紅玉髄カーネリアン緑玉髄クリソプレーズ、色とりどりの瑪瑙アゲート碧玉ジャスパー。酸化鉄を含んだ碧玉ジャスパーの変わり種、血星石ブラッドストーンも試したが、何も閃かなかった。

 オパールも試した。遊色効果を持つものも、持たないものも試した。

 もしオパールに適性があったら、ものすごくお洒落な宝石とかで「不思議」ができるね、と、モモが試験開始前に言ってくれたのは、果たして良かったのかどうか。

 今日まで二酸化ケイ素の様々な有り様を見てきたけれど、ここまで時間が掛かるのは珍しいらしい。

 無色透明の水晶に適合する者こそ少ないが、たいていは紅水晶ローズクォーツ紫水晶アメシスト、少し珍しくて黄水晶シトリンときて、それでだいたい当たる。紅水晶ローズクォーツは、もっとも適合者が多いらしい。

 ここらあたりで適合しなくなると、玉髄カルセドニーやオパールを試す。

 それでも適合しないというと、これはいよいよレア鉱物の気配だ。

 高温型石英とかいう、いつ切れるか分からない劣化の始まった電池と、持続力勝負の試験に臨むことになるのは、できれば勘弁願いたい。調べたら閃電石という、超強力な雷が硅砂けいさに直撃してできる鉱物もあるそうだ。日本では、北海道で高圧電線が雷に切断された時に偶然出来た一例があるだけという、超絶レアな「二酸化ケイ素主体の塊」だ。これだったらどうしよう。

 先生が、カップを置いた。椅子を引いて立ち上がり、ワゴンの上に返す。

「では、演習の時間に入りましょう」

 ティーセットを片づけて、ワゴンに載せる。モモとマイは、食器の片づけとハンディクリーナーでの食べこぼし掃除をする。先生が扉を開けてワゴンを外に出すと、外で待っていた店主たる旦那さんが、今度は色々と必要な道具を載せたワゴンを、替わりに渡してくれる。

 その道具用ワゴンの上の段には、アキのための発展学習用教材と、モモのための基礎学習用教材とが、それぞれお気に入りにデコレーションした箱の中にはいっている。そして下段には、未だ能力の糸口の見つからないマイの「水晶」候補の入った箱が、載せられていた。



 モモは美術の課題で、部屋の中の風景を絵に描くように言われた。これも観察力を磨く大切な訓練だそうである。マイも水晶探しが出来ない時にやったことがある。小さな静物を丹念に描くのもよし、人の動く様子をざっくりスケッチするのもよし。ただ、後者は「この絵を通じて何を伝えたいか」という説明をより丹念にせねばならない。なので一年生二人は、まだ静物画しか描いたことはない。

 先輩であるアキの課題は、古今和歌集から一首を選んで読み込み、その和歌の内容を自分なりに表現すること。形式は、詩でも小説でも絵でも一人芝居でもいいが、マンガと短歌は禁止。短歌が禁止なのは同じ形式を避けるためで、マンガが禁止なのは、マンガでは絵と言葉の両方が使えるので、訓練として不十分になってしまうからだそうだ。

 そしてマイの眼前には、二酸化ケイ素を主体とする鉱物の入った箱がやってくる。

「大事なことを忘れていたのよ」

 いきなり、先生がそんなことを言いだした。

 なんだなんだ、と、モモもアキも視線を先生に向ける。

 先生は、課題を出した生徒二人の視線を気に留めることなく、さらりと言った。

「ひょっとしたらマイは、とてもレアな鉱物ではなくて、単なる『変わり水晶』に適合するのかもしれないわ。『変わり水晶』の適合者は珍しいから、まだ試してなかったけれども。少なくとも閃電石に適合するよりは、確率が高いでしょう」

 モモが小声で、アキに「変わり水晶って何ですか」と問うている。

 アキは後輩にやはり小さな声で、説明した。

「基本的には普通の水晶なんだけど、内包物インクルージョンが見た目に強く影響してるの。典型例は、金紅石ルチルの入った『針入り水晶』で、金色の細い針が、水晶の中に何本も走っているの。流星雨みたいに見えるのもあるわ。あとは、植物が入っているように見えるのとか……」

 アキの説明に、うん、と相槌を打つように先生が頷く。

 そして箱から、さっきアキが説明したばかりの「変わり水晶」を取り出した。

「これが『針入り水晶』で……」

 ごとりと置かれた水晶は、手のひらでちょうど包み込めるぐらいの大きさで、中に金色の線が何十本も走っている。川の中でも転がっていたのか、六角の結晶の形がやや丸みを帯びている。

「これが緑泥石クロライト入りの『草入り水晶』……」

 また見事な標本だ。苔色の煙が不定型に沈積した大きな水晶の塊である。さながら結晶の中に、坪庭を封じ込めたようだ。

苦土電気石ドラバイト入りの『ススキ入り水晶』……」

 とても細い、緑がかった茶色の針が、もやもやと水晶の底から立ち上っている。澄み渡る秋の空気にそよぐ薄の野原の風景を、水晶の中に固定したようだ。あるいは、水草の生い茂る清流の一角を、結晶に固めて持ってきたようである。

「内部の空洞に水が入った『水入り水晶』と、石油が入っている『油入り水晶』」

 水晶の結晶の中に、小さく空洞があって、気泡が動くのが見えた。ただ、外から見るだけでは、中に入っているのが水なのか油なのか、区別はつけられなかった。マイは首を傾げる。

 先生は、このテストが始まってからようやく、にやりと笑った。

「そしてね、実はこれが何となく本命なんだけれど……」

 本命らしく勿体ぶって取り出した一つの箱を、先生はやけに仰々しくマイに手渡した。

「開けてご覧なさい」

 言われるとおり、マイは箱の蓋を開けた。

 さっき見た「草入り水晶」によく似た、淡い緑色のもやが入った水晶だ。

 だが、この水晶は、さっきの「草入り水晶」とは、決定的にその姿が違っていた。

「……なんですか、これ?」

 シリコンで型取りをしたなら、ただの六角形のよくある水晶の柱だ。しかしその内部、緑色のもやの下には、透き通る水晶の柱が一つ、沈められている。

「成長痕を外部から観察できるのが特徴の『山入り水晶』……別名は『幽霊水晶ファントムクォーツ』よ」


 水晶も最初は小さな結晶だ。それが少しずつ成長して、大きな結晶になる。その成長の途中に内包物インクルージョンが入ると、すでに出来ていた結晶との境界を明確にして、結晶の成長過程を観察できるものとなる。それが「山入り水晶」である。

 マイはおそるおそる、小さな結晶をもやの中に隠し持つ、その水晶に触れた。

 その瞬間、マイは級友が紅水晶ローズクォーツに感じたのだという、その感覚を理解した。

「……これです!」

 マイは思わず大きな声で叫んでいた。

 この水晶こそが、自分を待っていた水晶だ。

 何故かは説明できないけれど、心の底からそう感じた。

「おめでとう!」

 モモがそう叫んで、マイに抱きついてきた。アキが拍手をしてくれる。

「やったわね、マイ」

 先輩の言葉も嬉しいけれど、何故だろうか、この水晶に会えたことが何より嬉しい。

「……泣くほど嬉しい?」

 モモが不思議そうに訊いてくる。

「うん……」

 マイは手の甲で涙を拭いながら、そう答えた。同じ「適合水晶」に出会えただけなのに、どうしてあの時のモモと今の自分には、こんなに感動の違いがあるのだろう。見つかるまでに掛かった時間の長さが、違うからだろうか。探して探して、ようやく出会えたからだろうか。

 感涙にむせぶマイを見ながら、先生はその「幽霊水晶ファントムクォーツ」の入った箱を、そっとマイの方に押しやった。これは「くれる」という意味だ。

「……いいんですか?」

 テストに使うのは基本的にサンプルだ。モモも、聞いた話ではアキも、テストの後に自分用の水晶を選ばせてもらったという。なのに、先生はマイには標本の箱ごと渡してくれている。

「マイ、これはあなたのための水晶よ。単なる適性だけじゃない、本当の本当に、あなたに会える日を待っていてくれた水晶なの」

 その表現に、モモとアキはちらりと視線をかわして、それぞれ自分の選んだ水晶を見た。

「アキ、そしてモモ。あなたたちもいずれ、きっと出会うわ。他の石では絶対に替えが利かないと感じる、特別な水晶と。マイはたまたま、最初にそれに出会えたのね」

 マイは何度も頷いた。この石は自分を待っていた。だからこんなに嬉しいのだ。

 二人には、まだいまいち感覚が分からないらしい。

 先生は優しく微笑んで、レーザー水晶のついた自分の杖を取り出した。

「アキとモモが使っているのは、私にとってのこの水晶と同じ。適性があって、それなりに使える。でも喩えるなら、一般向けの既製品みたいなもので、本当の本当に自分のために作られた、オーダーメイドの品ではない。だから、ある程度まではしっくりくるけれど、完全に自分のものだとは感じきれない……まだまだアキにも先の話だけれど、その違和感が決定的になる日がいつか来る。心底から共鳴しないと表現できない何かを伝えようとする時に、物足りなさを感じる日が」

 先生は杖を振る。

 バリバリ、と部屋中の空気が震える。

 アキとモモが、怯えるように肩をすくめる。

 マイはそれを、不思議な気持ちで眺めた。

 何故だろう。ちっとも恐くない。手の上に載せた幽霊水晶ファントムクォーツから、柔らかな安心感が伝わってくる。一緒にいる。まるで石の鼓動を感じるようだ。

「ほら、マイは動じていない。こういう、自分と心底共鳴する水晶のことを、私たちは『つがいの石』と呼んでいます。自分の最高のパフォーマンスを支えてくれる、最強の相棒です」

 先生の説明に、アキが真っ直ぐ手を挙げた。

「私たちも、その『番の石』に出会えるんですか?」

 先生はゆっくりと頷いた。

「出会いたいと願う意志があるのなら。そして出会うために行動し続けるなら」



 アキとモモの二人は、ぐっと握り拳を作った。なんとしても自分たちの「番の石」を探し出してやる。そういう意志の炎が、二人の目に宿っている。

 この雰囲気をぶち壊すのは悪いような気がしたが、マイには気になって仕方ないことが出来た。

「先生……」

 おそるおそる、小声で話を切り出す。

 何もかもお見通しだ、と言わんばかりに、先生はにやりと笑った。

「どうしたの、マイ?」

「あの、この子を杖にするんでしょうか? 砕いたり?」

 はたと気がついたように、アキとモモの視線が、マイの持つ幽霊水晶ファントムクォーツへと注がれた。二人が選んだ黄水晶シトリン紅水晶ローズクォーツとは違い、マイが出会ったこの幽霊水晶ファントムクォーツは、手で握っても少し足りないぐらいに大きな石だ。これを杖の先端につけるのは無理だし、土台の部分に使うにしても、ちょっと具合が悪い。

 どうするのだろう、という生徒たちの視線を受けて、先生はにやにや笑いを深める。

「『番の石』が杖になるとは限りません。私の知っている限りでは、二十キログラムを超す水晶の塊が『番の石』だった人がいます。その人物は、塊のままそれを大事に保管していますよ。逆に研磨済みの宝石が『番の石』だった人もいますし、すごいところでは、どこに埋まっているか分かったんだけれども、掘り出す時ではないと言って、産地のすぐ近くに引っ越した人もいます。どんな状態で自分を呼んでいるのか、それは分かりません。ただ、出会った時の形を保つのが、私たちの原則です」

 だから、と言って、先生はワゴンの下段に載せた袋を持ち上げた。

「比較的相性の良い替わりの石を、杖には使います……まぁ杖なんて媒体の一つです。アクセサリーでもいいし、長くなじめば離れていても存在を感知できるようになるのだから、本命はそれこそ家の玄関の置物にでもしてしまうのも、アリと言えば大アリです。『番の石』に替えはありませんが、そのかけがえのない石と『繋がってる』と感じられるのなら、手元にあるのは本体じゃなくても良いんですよ」

 そう言って、先生は穏やかに笑って、左手の薬指を示した。

「相手が隣にいなくても、指輪をしていたら、相手の存在を感じるでしょう?」

 ようするに、壮大な旦那さんとのおのろけ話である。

 三人とも、特にアキが、ゴチソウサマでした、と言わんばかりに両手を合わせる。

「こらこら……番の石探しと、人生の連れ合い探しは似てるのよ」

 両手を腰に当てて、先生はさも先生らしいポーズをとった。

「待っているだけで出会うこともあるし、探しても探しても見つからないと思っていたら実は意外と近くにいることもあるし、出会えたとしても手の届かない世界の存在で、見つめるだけの関係になってしまうこともあるし……」

「三つ目の具体例が聞きたいです、先生」

 モモが手を挙げて質問をした。

 先生は、はっはっは、と笑って、腕を組んだ。

「鉱物標本には、博物館級ミュージアムクラスと呼ばれる、超一級の良質標本や巨大標本、SS級のレアものなどがあります。オパールなどでは特に多いですが、宝石としてどうしても高価格になるものもあります。そういう石が『番の石』だったりすると、なかなか悲惨ですよ」

 さながらアイドルに恋する乙女のようです。

 その表現に、ああなるほど、と三人はなんとなく理解した。

 まぎれもなくこちらは存在を感じているけれど、絶対にこっちには来てくれない。

「だからね。私は貯金を推奨します」

 いきなりの話題転換に、三人は一瞬、ぽかんと口を開けた。

「お金を稼いで貯めておけば、いざ出会った子が高嶺の花だったとしても、ある程度までは希望が持てますからね……特にアキ!」

「はい?」

「天然無処理の黄水晶シトリンが『番の石』だったら、十万円単位の出費は覚悟なさいよ。マイだって、たまたま私の標本が適合したから良かったものの、『幽霊水晶ファントムクォーツ』は綺麗で大きなものだったら、それこそ百万円出ることもあるんですからね」

 手の中の水晶の値段を聞いて驚愕し、しかし取り落としかけはしないマイ。

 モモが再び挙手して質問をした。

「先生、私の紅水晶ローズクォーツは?」

「世の中に大量に出回りすぎていて、ものすごく空振りが多いと思いますが、挫けない心を持って探し続ければ、値段自体はおそらく、そう高くはないはずです。紅水晶ローズクォーツの有り難いところは、紫水晶アメシストと違って、高価な宝飾品に加工される可能性が低いところですね」

「わかりました!」

 モモは元気よく答える。アキは自分の貯金を暗算しているのだろう。

 しかし、こうして劇的な実感を味わったから言えるけれど。

「……本当この『塾』って、パワーストーン系詐欺みたい」

 呟いたマイの声はばっちり先生に拾われ、そぉりゃ、と杖を振られる。

 ぱちんと手足が机に貼り付き、背筋が何かに引っ張られるように伸ばされた。

「初回も言ったと思うが、我々はパワーストーンというのは基本的に信じていないんだよ?」

「ですよねー」

 あの衝撃的な事例は忘れようがない。

 初回にマイが「パワーストーン」と口に出したら、先生は「ラピスラズリは争いごとを遠ざけ、平和をもたらす石だそうだよ」と返してきたのだ。へぇ、と納得しかけたところに、「だが有名産地はアフガニスタンだ」と言われて、逆の意味で深く納得した。


「パワーストーンの業界でも、石英質の鉱物はとりわけ強い力を持つとされていますが、我々の場合には、まぁ分かり易く言えば逆ですね。石の力を使うのではなく、石を用いて自分自身の本来の力を発揮する。我々を音楽家に喩えるならば、適合水晶とは、自分の技量を最大限に引き出してくれる楽器です。マイにとっては、今日出会ったその『幽霊水晶ファントムクォーツ』が、他の何にも代え難い、ストラディバリウスです」

 ものすごい喩えをされて、伸びていたマイの背筋がいっそう伸ばされた。

 先生はにやにやと、意地悪そうな笑みを浮かべて、言った。

「しかし、マイ……君は自分に、ストラディバリウスを使える価値がある、と思います?」

「今のところは、まだないです!」

 マイは全力でそう宣言した。口が裂けても、今の自分にあるとは言えない。逆立ちしたって無理だ。だがしかし、今日の自分は努力をしたと思うし、努力の分だけは昨日の自分より成長したと思う。こうして毎日成長を重ねていけば、きっといつかは「ストラディバリウス」に手が届くはずだ。

 そんな生徒の心中はお見通しとばかりに、先生はうん、うん、と頷いた。

「音楽の道と異なるところは、我々の『適合水晶』は、真摯に努力を積み重ねていくのなら、やがては使いこなせる境地に至れる、というところです。ヴァイオリニストと一口に言っても、実力には大きな差があります。あなたにこそ『ストラディバリウス』を弾いて欲しい、と思う人もあれば、あなたごときにはもったいない、と叫びたくなる人もいる」

 先生は、結構手厳しいというか、毒を含んだ言い回しをした。

「しかし、我々の『水晶』というのは、いずれ出会うべき永遠の伴侶、運命の相手というやつです。この運命の前には、様々なモノが立ちはだかります。最終的に手に入れられない人もあります。しかし、一度であったその瞬間に繋がれた『ゆかり』は、あるいは『きずな』は、そう簡単には途切れません。そしてつながりを感じている限り、もはや孤独ではありません」

 端から見ると滑稽かも知れませんが、と足されて、うーん、とマイはうなる。

「……滑稽?」

 モモに問うと、親愛なる友人は「ううん」と、首を左右に振った。

「ようするに運命の出会いなんでしょ? 恋に喩えたら、それは格好悪くてもアリだと私は思うな。すっごい高嶺の花のアイドルに運命を感じて、それで相手も運命を感じてくれるのなら、それって繋がってることだよね。すっごく大変な恋になると思うけれども、お互いに愛し合って困難に立ち向かっていけるのなら、それは素敵なことだと思うな。ただ、片方がもう片方に甘えていたらダメだと思うけど」

 最後の一言は鋭い指摘だった。

「うん……精進するよ……」

 幽霊水晶ファントムクォーツの石言葉は「忍耐・成長」だそうだ。

 今日出会った運命の石に釣り合う「魔法使い」になるべく、マイは杖用の石を見繕った。なるべく似た色合いで、綺麗なものを選ぶ。

「了解。じゃあ、杖はまた作っておきましょう。杖で良いのね? うん……しかし、三人揃って杖を使った術の練習に到達するまで、どのぐらい時間が掛かるでしょうねぇ」

 先生が天井の細工を見上げながら呟く。自分の作品に囲まれて生活するのが、ちっとも黒歴史にならないのなら、それは職人と呼んで良いのかもしれない、とふとマイは思った。

「なにせ、我々のカリキュラムは、どっかの魔法学校と違って迂遠ですからねぇ……いかにもなことを出来るようになるまでの、基礎の時間がとてつもなく長い」

 それはそうだろうな、とマイとモモは思う。

 でもそれは、と口を開いたのは、アキだった。

「私たちの『番の石』が、私たちに出会うまでに重ねてきた歳月に比べれば、ほんのちょっぴりの時間に過ぎませんよね?」

 我が意を得たり、とばかりに、先生は大きく頷いた。

「地球人の我々にすれば不思議かも知れませんが、石英というのは、宇宙でも地球ぐらいにしかない、とても珍しい鉱物なのです。生成要因に水が大きく絡むため、水のある星でしか出来ません。そして水晶の構成成分である二酸化ケイ素は、ケイ素と酸素の化合物です。酸素はこの地球上で一番、ケイ素は二番目に多く存在する元素であり、いわば水晶というのは、小さな地球の欠片です」

 杖の先端につけたレーザー水晶を撫でながら、先生は語る。

「私たちは、この地球という惑星の一員として、その小さな欠片である水晶を媒体にしつつ、大自然の力をほんの少し借りるのです。想像力の及ぶ限り精密に、表現力の及ぶ限り精確に、望んだ方向へと少しだけ力を動かすことを許してもらう……それが私たちの『不思議』です」

 世に言う「魔法」とは違い、何でも出来るものではない。

 ほんの少しだけ確率を動かし、ほんの少しだけ願ったタイミングで、願ったことを実現する。

「『奇跡』というのは、あり得ないことではありません。あり得なくはないことが、計ったようなタイミングで起きることを、人はそう呼びます。皆、旧約聖書の出エジプト記で、モーゼが海を割る話は知っていますね?」

 さすがにミッション系高校生である。知らないわけはない。

「諸説ありますが、五千年に一度ぐらいの確率で、インド洋に非常に強力なサイクロンが発生するそうです。そのサイクロンのあまりに強い風が、海の水を割って道をつくる可能性は、非常に低いですが、決してあり得ないことではないそうです」

 三人とも、目を真ん丸に見開いた。

「もちろんこれは極端な例ですが、こういう現象が起きる可能性もゼロではない、ということを知っておくのは大切です。そして、その低い確率を捕まえられるように、日頃から感覚を研ぎ澄ませておく。それが本来の『魔法使い』の姿なのですよ」

 先生はくすっと笑って、自習課題の前に、星の部屋に行きましょう、と言った。

「虹が出ているはずです」

 雨なんか降っていたっけ、と顔を見合わせる一年生二人に、ああ、と先輩は頷く。

「バイトが終わる頃から、ぽつぽつ降ってたわよ」

 もう止んでいると、室内にいるのに何故分かるのか不思議な気はしたが、それこそ「長年かけて磨かれた感性」のたまものなのだろう。

 喫茶店の半個室の、一番高い天井付近にある部屋へ向かう。天球儀や地球儀、月球儀に天体望遠鏡など、星空との関わりを思わせるインテリアが並ぶ。少し膨らんだ円形の天井には星図が描かれ、柔らかな間接照明の明かりに照らされている。他に、北側に小窓、東西南に大きな窓がある。

 東側の窓を開けると、二重の虹が空に出ていた。

 綺麗、と言おうとして、マイはやめた。



 いつか、この空を的確に表現できるだけの力を身につけよう。

 今日出会ったあの水晶と、心の底から共鳴する「言葉」が使えるようになろう。

 そしていつの日か、立派な「言葉の魔女」になろう。

 アキのように真摯に努力し、モモのように心優しく、先生のように流麗に言葉を操り、一人でもたくさんの人を笑顔に出来る、そういう「魔女」に、自分はなろう。

 自分の手元にやって来てくれた、何百万年もの時を経てやって来てくれた、水晶。

 地球の小さな欠片。

 そして、とてもとても人間に似た鉱物。

 どうか自分が運命の存在と出会えたように、自分の大切な人たちも、本当に大切な運命の存在に出会えますように。

 それがたとえ水晶であっても、人であっても。

 かけがえのない存在を大切にすることを、忘れない自分であれますように。




ひょっとしたら「あやしい魔法塾」シリーズになるかもしれません。しかし、どうやってもよくある「杖を振ってバーン☆ドカーン」な感じの魔法は出ません。箒に乗って空を飛んだりもしません。薬草を混ぜたり占いはしますが。

でも「魔女」を職業に登録している人たちって、だいたいこのレベルなので……地球的には標準の魔法塾だと思います。ファンタジーからはギリギリ弾き出される感じの微妙さにこだわりました。

言葉の使い方一つで人間心理を操るというのも、魔法の一つといえば一つなんじゃないかなぁ、と思ってみたりする今日この頃です。

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