回復期
エミーリアの熱が下がるまで四日ほどかかった。ベッドから下りられるようになるにはさらに二日。
医者が言うには、まあまあ普通の経過、らしい。
三日目に喉が腫れて声が出にくくなったので会話は筆談となり、エミーリアはひどくもどかしい思いをした。
どうでもいい事だが、寝床を占領される羽目になった家主は、夜「知り合いのところに泊めてもらう」と言って出て行っては、朝化粧品の匂いをつけて帰ってきた。どうやら化粧品の匂いから察するに、毎回同じところのようだ、とエミーリアは思った。が、泊めてもらうにあたって、『宿泊代』を払うような『知り合い』かどうかについては詮索しなかった。
その間、クラウディアは何をしていたか。
一日に二回宿の外へ出て、馬商人の許へ出向いて、馬の預かり料を支払い、乗馬の練習かたがた、馬に運動させる事、エミーリアから指示を仰いでこまごました買い物をする事、そして、宿でエミーリアのドレスを自分のサイズに仕立て直す事、だった。
「宜しいんですか? 仕立て直しちゃっても」
エミーリアの指示に対してそう質問すると、
「だって、あなたに『偽エミーリア』をやっていただくのでしたら、着替えは必要でしょう? サイズの合ったのが。前以て用意できればそんなお手数をかけずに済んだのですが…」と返ってきた。
クラウディアの手間は、大した問題ではない。時間は潰しきれないほどあるのだ。
「でも……あなたの着替えは……?」
宿を移るにあたって、エミーリアの方の荷物を改めたところ、男ものの服は下着とシャツがあと一組だけで、残りはすべて女性の身に着けるものだったのだ。
「そっちは古着屋で調達しようかと考えていますが……ああ、『エミーリア』の服もそのまま、一・二着、古着屋で処分して、もう少し動きやすい服を手に入れておくといいですね」
クラウディアの魔法で鞄が拡張できたので、当初の予定よりも多めの服や装身具を持ち出してきているのだ。換金用に。
「まるで前々から考えてあったみたいですね。病気まで計画のうちだったんですか?」
ほんの冗談のつもりだったのに、こともなげな返事が返ってきた。
「自分の体力不足が、最大のマイナス要因であることは認識していますから、どこかで足が止まる事は前以て織り込み済みですよ? ……もっとも、こんな始めの方で、というのは、想定していませんでしたが」
そう言って肩を竦めたのだった。
「あー、これでやっと自分のベッドで眠れる」
エミーリアが宿の方に移る事になった日、ウィロウがせいせいしたように言った。
「……んで、街にはいつまでいる予定?」
宿までの道々、ウィロウがエミーリアに気のない様子で訊ねた。
「……とりあえず、三日、ほど。……あと二・三回宿を変えて。……長くて十日くらい」
喉がまだ本調子ではないので、エミーリアの答えはぶつ切りだ。声も、途中でかすれ気味になる。
「悪かった。も、あんましゃべんな」
路上で筆談するわけにもいかず、その後はウィロウが一人でしゃべって、エミーリアは相槌を打つ程度にとどめた。
とある宿の間で足を止める。
「……ここ、ですか?」
店の構えはそこそこ大きい。大通りに面しているので、酔漢などに絡まれる事はあまりなさそうだ。一階の出入り口の横に、二階へ向かう階段がついている。一階は飲食店になっているようだ。……まあまあ合格、といってよい宿だろう。
「名前は『エミーナ・アベール』でとってるからな。しばらく街にいるなら、会う機会もあるだろうな。じゃ」
ウィロウがそう言い残して立ち去る。残された荷物を担いで階段を見上げる。階段の幅は十分に広いが、傾斜がややきつく、病み上がりの身にはちょっと辛そうだ。――殊に、荷物を背負っていると。
この街では階段を上らないと目的地に行けないようになっているのか、と、エミーリアは心中でひそかに毒づいて階段に足を掛ける。その時、一番上にクラウディアの姿が現れた。
「……ディア?」
窓際で縫い物をしながら、ふと気付くといつの間にか手を止めて窓の外を見ている。
そんなに待ち遠しいなら、迎えに行けばいいのに。
……だって、そういう設定にはなってないし。
頭の中をかすめる声に、自分自身でそう応える。
『エミィ』に判っているのは、待ち続けた『恋人』が、ようやく、今日の午後、この街に着くはずだ、とだけ。『彼』がどちらから来るかもわからない。
何なんだその設定。
ツッコみたかったが、どこをどう手直ししていいのか判らなかったので、ツッコミは飲み込んだ。
前から考えてあったのか、その場で考えたのかは判らないが、熱が下がって喉の赤みが引き始めた日に、エミーリアの方からそういう設定で宿で待機、という指示が出ていた。
設定はともかく、『ただ待て』という指示は、今までベッドに縛り付けられていたやつあたりか、と思わないでもない。
よそ見をしながら針を使っていたので、うっかり、指を突いてしまった。自分の不手際に軽く腹を立てながら指先に滲む血を舐めとっていると、通りの角を曲がってこちらに向かってくる姿が目に入った。
本人は気付いていないようだが、すれ違う人の三人に一人(老若男女を問わず、だ)は振り返って見ている。追い越す方も(病み上がりのせいか、彼らはかなりゆっくりした速度で歩いているのだ)五人に一人くらいは振り返る。本人も一緒に歩いている人も気にしていないような様子を見ると、あるいはそういう状況に慣れているのか。
……まったく、あんなに目立つんだったら、『偽装工作』は何のためにしているんだろうか、と考え込んでしまう。探されているのが女装したエミーリアであっても、彼の家族はエミーリアが男性であることを知っているのだから、服装を変えていることを考慮しないはずがない。
……ちょっと、目立たないように、軽く目くらましでも掛けておいた方がいいかもしれない。
切りのいいところで縫い物を切り上げ、出迎えに向かう。できれば、宿の者の目につく前に、目くらましが掛けられるように。
……ああ、目立つのは『容姿』ではなくて、『全体のたたずまい』なのだ。
以前は、『男性がドレスを着こなしている異質さ』にその原因がある、と思っていた。だが、周りの人はそんな違和感を感じなかったみたいだし。こうやって今歩いて来る様子を見ると……その考えは間違っていたようだ。
だって……立ち止まって話をしているだけで、人目を引くのだ。服装がおかしい訳でも、挙措が怪しい訳でもないのに。
全ての人が、というのでないのは幸いだ。
近くの人が注目する要因はまず間違いなく『容姿』だろうけど、顔が判別できるかどうかも怪しい、遠くにいる人が注目する要因は、それ、だろう。だから、一緒に歩いている案内役のウィロウ・ハーグリーヴズは気付かない、のかもしれない。
早めに気付いてよかった、と思っておこう。目くらまし程度でどうにかできるようなものじゃない、あれは。
ウィロウが片手をあげて踵を返す。上がってこないつもりか。……まあいい、塒は判っているから、あとで乗り込もう。さんざん世話になったのだ、礼くらい言っておくのが筋だろう。
階段の下に目を戻すと、片足を踏板にかけた形でこちらを見上げたエミーリアが固まっている。
「……ディア?」
彼の口がそう動いたように見える。自分で押しつけた設定を忘れたのか。
ちょっと、反省を促しに行ってやろう。
一歩一歩、確かめるような足取りで、階段を下りてくる。
だんだん足取りが速くなる。最後の数歩は、転げ落ちそうな勢いで抱きついてきた。
「もう、お会いできないかと思っておりました」
その言葉とともに、クラウディアの飛びつく勢いが何かに相殺された。同時に、肩に担いだ荷物が軽くなる。
「……ディア、遅くなってすみません。……ですが、ようやくこうやって……」
私の胸に顔をうずめる形になったクラウディアが、さりげなく荷物に手を触れる。すると、手触りは変わらないのに、見た目が古びた感じになる。
「……目くらまし、ですか? いったいどうし」
「いかにも新品に見えます。ここまで旅してきた、というなら、それなりにくたびれていないと」
……ああ、それは気がつかなかった。
「わざわざそのために?」
「荷物が重そうでしたもの。ここの階段、ちょっと急ですし」
「……お手数をおかけします」
「あとは、ちょっとそれらしい演出を、と」
そう言ってクラウディアがそっと手を離す。
演出、ね。ちょっと残念。
「それに、名前、間違えてます。『エミィ』でしょう、ここでは」
一際声を低めてそうささやく。傍からは甘えているように見えるんだろうが、内容はダメ出しだ。キビシイ。
「……そうでしたね。とにかく、上へ行きましょう。今後の話もしないと」
宿泊手続きを済ませて部屋に入る。クラウディアの泊っている隣だ。この六日間ずっと押さえてあったのでその分の料金がかさんでいるであろうことを考えると、ちょっともったいない事をしたかも、と思う。
が、入ってみて驚いた。
「………あの、これは?」
室内がまるでお針子部屋のようになっている。
「あ、すみません。こちらの部屋の方が窓が大きくて、針仕事をするのに都合がいいので、使わせてもらっていました。……今、片付けます」
「針仕事、は、いいですが……これ、『手直し』ってレベルじゃありませんよね?」
「なかなか、値段と折り合える状態の古着が少なかったので、いっそのこと、と」
ベッドの上には何枚かのスカートと、ブラウスが二枚、仕上げる途中らしいブラウスがもう一枚、折り重なっている。
「服屋でも開くのか、という勢いですね」
「そんな……お恥ずかしい」
ベッドの上の服を拾い集めて部屋を出て行こうとするのを引き止める。
「針仕事をするには、こっちの部屋の方が都合がいいのでしょう?」
クラウディアの抱えている服を取り上げて、書き物机の上に置く。
そのまま、クラウディアを抱き寄せた。
触れるだけのキスから始めて、気が付くと日没も間近だった。
急いで博労の許へ走り、その日の分の預かり料を支払った。
その晩のクラウディアの食事の量といったら……
「ところで、『エミーリア』じゃない名前を教えていただけませんか? その格好でエミーリアはおかしいでしょう」
忌々しい病から回復してちょうど十日目、街を出発してしばらく行ったところで、不意にクラウディアがそう話しかけてきた。
では今までなんて呼んでたんだろう?
思い返してみると、巧みに名前で呼ぶのは避けられていたのに気付く。
まあ、自分の方も『ラウド』は避けていたのだから人のことは言えないが。
「……そのうちにね。今は取り敢えず、好きなように呼んでくださってかまいませんよ」
振り返ってそう答えると、彼女の不満そうな顔が見えた。
頭の中に地図を描く。ちょっと遠回りになるが、一度見せておいた方がいいだろう。




