霙
用意された湯で軽く汚れを落として着替え、食事とちょっとした社交行事を済ませて戻ってくると、夜もとっぷりと更けていた。天候のせいで外に出歩かなかった常連客が、思いのほか多くて、入れ替わり立ち替わり挨拶に来るのだ。婚約者の赴任先からの帰国が遅れている、というのも話題の的になる原因の一つであったが。
彼が赴任先で風土病を患った、という報せがもたらされたのは、エミーリアが王都を発つ間際のことで、その後の経過などは全く知らされていないのだ。
まっとうな婚約者として彼を慕う気持ちは全くないが(当たり前だ)、病を得て帰国が遅れる、と聞けばそれなりに心配する。あくまでも友誼の範囲でだが、対外的には心配でたまらない、という憂い顔は作っておく。
王都方面からの客の話によれば、彼の帰国の目処は全く立っていないようだ。そうなると、婚礼に向けてのスケジュールに変更が出るかもしれない、という情報だけ頭の隅に書き加えた。
……おかげで、軽い夜食を部屋に持ってきてほしい、と宿の者に頼みやすくはなった。
「……起きてますか?」
侍女を控えの間に下がらせて十分な時間がたったのを見計らい、ラウドの入ったトランクをあらかじめ決めてあった手順でたたくと、「寝ています」とくぐもった返事があった。
「起きているじゃありませんか」
トランクを開けると、ふてくされたような声で、「いいえ、寝ています。寝ているんだから、起さないでください」といって顔を背ける。
「眠いんですか?」
「癒やせない空腹は寝てごまかすに限ります。いいですよねエミーリア様はちゃんと食事が摂れて」
どうやらトランクに詰められたままで食事が摂れなかったことにご立腹のご様子。こっそり軽食を忍びこませていたとはいえ、早朝からこんな時間までだから空腹は致し方ないだろう。
「申し訳ありません。私のミスです。夜食を用意してありますからご機嫌を直して出てきてください」
そう言ってトランクの方に手を差し伸べる。
体がこわばってしまって向きを変えるのも一苦労しているので、肩の下に手を入れて抱き起した。
「……別に、機嫌を損ねているわけでは……」
明らかに『夜食』という単語で表情が変わったのにそんなことを言う。素直なのかひねくれているのかわからない。
トランクの縁に手をかけて立ち上がろうとするのを手伝う。
床に下り立ってこわばった体をほぐすために体のあちこちを曲げ伸ばしする。体をほぐし終えたのか、はあ、と溜め息を吐いてようやく動き始める。
「夜食はこちらですよ」
夜食を置いたテーブルの方に誘導する。
「軽く、と頼んだので、満足には程遠いんじゃないかと思いますが……」
見る見るうちにトレイの上が空になる。予想以上に早い。
「いえ。飲まず食わずで引きずり回されるのを覚悟しかけていましたから、十分です」
「いくらなんでもそんなことしませんよ?」
どんな鬼畜だと思われているんだ。……ああ、でも、今の天気の話をしたら、『鬼畜』って呼ばれても仕方ないか。
「ところで、悪いお知らせがあります」
「ばれましたか。それだったらある意味私にはいい知らせですが」
少し冷めたスープを口に運びながらさらりときついことを言う。
「いいえ。それだったらのんびりと食事なんかしていられませんよ、あなた」
「冗談です。……吹雪にでもなりましたか?」
驚いた。緞帳は閉まっているから、外は見えないのに。
「いいえ、少し違います。霙です。……だいぶおさまってきてはいますが」
そう告げると、スープを口に運ぶ手を停めて、こちらを見上げてきた。
「……試練ですね」
宿場町の入り口にほど近いその宿に、疲れ切った様子の令嬢と小間使いの二人連れが現れたのは、夜半近くの事だった。
普通であれば令嬢が泊まるようなところでないその宿に二人が転がり込むように入ってきた様子は、まるで夜盗にでも襲われたかのようだった。
だが小間使いの語るところによれば、かの令嬢は領地にいる祖母に「とにかく来い」と呼ばれて、取るものもとりあえず帰るところなのだという。なぜ徒歩なのかというと、途中で馬車が壊れとりあえず令嬢だけでも近くの町まで、という事でこの霙の中を衝いてきたのだとか。
「とにかく恐ろしい大奥様で。こうしている間にもご機嫌を悪くしているのかと思うと……」
そう言って小間使いが身を震わせる。
令嬢を泊められるような部屋はないが、とりあえずあいている地で一番いい部屋を開けるので、といわれて用意された部屋は、二階の突き当りの部屋だった。
霙に当たって冷え切った体を温めるのに良い、と言って、半地下にある温泉に明かりを入れてくれた。まず先に令嬢の方が入り、部屋に送り届けた後小間使いの方が浴室に向かった。
「これは、風邪予防に。容器は朝食時にでもお返しください」
二階に向かう小間使いに差し出されたのは、スパイスの香りが漂うホットワインだった。
「……ありがとうございます。知り合いがこの街に来るようなことがあれば、ここは良い宿だ、とお勧めすることにします」
存在自体が嘘で固められたような人と行動を共にすると、嘘を吐くことに罪悪感がなくなっていくなあ、とラウドは内心思った。
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