決行
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館の門から出ていく二台の馬車を窓から見送り、シモン・ハーグリーヴスは溜息をついた。振り返れば、ベッドの上にはラウドの姿がある。だがこれの正体は、ただの丸めた毛布なのだ。
『四日経てば魔法の効力が切れます。見た目だけならその後もごまかせますが、手を触れれば効果は完全に消滅します。……ああ、手以外でも、ですよ』
律義にそう念を押して置いていった人形は、作り主にうり二つだった。顔や手の甲に見える、実際にあったものよりいくらかひどいすり傷や打撲痕がなければ、だが。顔や手を近づければ、呼吸する気配や、体温まで感じる事ができる。服に隠れているが、打撲痕は少し腫れて、発熱しているかのような温かさを感じる、という凝りようだ。
《学院》を出た者ならば、誰でもできる、という技ではないだろう。王宮が目をつけていた、という話もうなずける。
だがそれほどの人物を――いくら小柄だからと言って――箱詰めにして荷造りしてしまうのはいかがなものか、と首をひねる。
指示する方も指示する方だが、文句を言いながらも従う方もどうかしている。いったいどういう関係なのだろう? あまり深く詮索しない方がよさそうな気がする。
いくら箱の内張りには詰め物がしてあるとはいっても、昨日の今日だ。揺れる馬車の中で気分を悪くしたりしていなければよいが、とハーグリーヴスはひそかに祈った。
「お嬢様、雪ですよ」
小間使いの少女の、こころなしか弾んだ声にエミーリアはもの思いから引き戻された。
同じ声をラウドはトランクの中で聞いた。
そして二人ほぼ同時に、まずいな、と考えた。
「そう……積もらなければよいのだけれど」
言いながら体を乗り出して窓の外を見る。雲はそれほど厚くないが、これから向かう町の方角は暗い。
「足止めされるほどの雪にはならないと思いますよ、この分だと。王都への到着は多少遅れるかもしれませんが」
「だといいのだけど……」
「そのためにも、エミーリア様はお風邪など召さぬよう、窓から離れてくださいまし」
エミーリアより十ほど年嵩の侍女が割って入る。この女はエミーリアの縁組が決まって間もなく本家から送り込まれた女で、婚家にもついてくる事になっている。
月のものがないなど、エミーリアの体が同じ年頃の少女といくらか異なっている事は解っているようだが、その真相まで知っているかどうかは定かではない。
「寒くはございませんか? もう少し炭を注ぎ足しましょうか?」
本家の思惑はともかく、彼女がエミーリアの体調を心配しているのは確かだ。
「大丈夫ですわ。外を歩いているならともかく、馬車の中ですもの」
「それならよろしいですけど。どうしてこのような時にハーグリーヴス先生は……」
「しかたありませんわ。患者が心配だと言われれば」
「そうかもしれませんけど。でも。身元も判らないあんな……」
「氏素性は判りませんでしたけど、恩を売っておいて損はない方だと思いますわよ。《学院》の制服着てらしたもの」
「《学院》の……?」
「ええ。かなり年季が入っていて、校章が外れていましたけど。ですから、身内かお知り合いに卒業生がいらっしゃるのかもしれませんわね。あるいは、入学希望者かも」
《王立魔法学院》では制服の着用が義務付けられており、自分で用意できない者には、学院から夏服と冬服が年に各一着ずつ、支給される。これは《学院》創立時からの伝統だ。
制服の形は古色蒼然としたもので、あまり洗練されてはいないが、上質な材料を使っているので、かつてはこの制服を目当てに入学を希望する貧民も多かったという。
むろん、ラウドも支給された制服を、在籍年数分、持っている。だがそれらは、ここへ来る前にまとめて故郷へ送ってしまったので、今手元にない。どうするつもりだろう、今後制服を必要とする場面が出てくるのだろうか、とラウドは考え、そして苦笑した。
制服が必要になるとしたら、今、ここにいる自分ではなくて、置いてきた人形の方だ。
そしてあの人形に降りかかるもろもろのトラブルの対応は、ハーグリーヴス医師に一任してある。最悪の場合、事実を明かす事も含めて。
『事実』とは、無論医師が把握している範囲の事実なので、ラウドの氏素性とか、エミーリアが向かった先とかは、判らない、はずだ。
だいたい行き先については、ラウドだって知らされていない。全てはエミーリアの頭の中だ。これは『エミーリアの家出』なのだから。エミーリアがどんな戯言を口走ろうと。
宿に着いたのは日も暮れてからの事だった。
この宿に泊まるのはエミーリアと侍女の二人、残りは荷物の大半と共に別の宿を取る事になっている。いつものように。
「このトランク、ずいぶん重いですねぇ」
ラウドの入ったトランクをエミーリアの部屋に運び込んだ使用人がこぼす。
「ええ。別荘に置きっぱなしになっていた本を、すべて引き揚げてまいりましたの。いくつかは置いていこうかと思ったのですけど、久しぶりに読み返したら懐かしくて、つい」
エミーリアがおしゃべりや手芸より、読書をたしなむ事は、別荘に随伴した事のある使用人すべてが知っている。なにしろ、訪問者の少ない別荘では、どこに行くにも本を手放さないのだ。
「はあ……あまり夜更かししないで下さいよ。明日は早いんですから」
「昨夜もそう言われましたわ。今朝はちゃんと起きてきたでしょう? だから、大丈夫」
「……だといいんですがねぇ。……と、必要なのはこれで全部ですか?」
「えーと……ええ、これで全部。ありがとう。ゆっくり休んでね」
使用人を送り出して、ふう、と溜め息をつく。
窓の外の雪は、霙に変わっている。出歩くには最悪の天候だ。……でも。
「エミーリア様。お茶の支度ができました。お持ちしてよろしいでしょうか?」
侍女が入った控えの間の扉がたたかれる。ずいぶんと短時間で用意ができたものだ、と思いながら入室の許可を与える。
茶道具を乗せたワゴンを押しながら入って来た侍女は、テーブルの傍にワゴンを据えると、手早く茶を淹れ始めた。
「ずいぶんと手回しがいいのね?」
と、疑問に思っていた事をエミーリアが訊ねると、侍女はこともなげに答えた。
「宿の心尽くしですわ。エミーリア様が寒さに弱いのを承知しているようで。あたくしが荷解きをする間もなく届けられましたの。せっかくの心尽くしですから、お湯が冷めないうちに、と思いまして」
言われてみれば、侍女も外套を脱いだだけの旅装のままだ。
「……そう。ありがたいわね」
この宿はアウレリス家が定宿としているところだから、それくらいは把握されていてあたり前のようだが、内容が『寒さに弱い』というのは……些かばつが悪い。
殊に、トランクの中で聞き耳を立てているかもしれない、と思うと。
だが実際のところ、ラウドはトランクの中でうとうとしかけていた。揺れる馬車から下ろされ、温かい室内に入ったので。
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