【癒しの手】の魔法使い
病室に充てられている客間のドアを開けると、エミーリアがほとんど覆い被さらんばかりにベッドの上に乗り出して患者の顔を見つめていた。表情は窺えないが、『口説き落とした』といった時の表情から察すると……いや、想像しない方がいいだろう。
「何か変化は?」
この短時間で変化が起こる事はないだろうと思ったが一応訊ねてみた。案の定エミーリアは首を振って否定する。視線はベッドの上に当てたままだが。
「その人のものと思われる荷物が届いています。……見覚えは?」
「ないと思います。だいたいわたくし、この方の私物、見た事がありません」
床に置いた鞄の方をちらりとも見ないでエミーリアが答える。
「こうやってじっとしているところを見るのも、初めてかもしれません。表情も手も、くるくるとよく動いて……決して落ち着きがない、という訳でもないのに」
よく動く、とは?
あまり自分の知っている『魔法使い』のイメージとはそぐわない気がするが……それとも、学生だからか?
ハーグリーヴスは「一体どういう知りあいなのか?」と訊こうとしていったん口を開きかけ、そして閉じた。『家を出る』と言っているエミーリアが正直に答えるとは限らない。
「ん……」
ベッドの上で身動ぐ気配がした。
「つっ……った……ぁ」
続いて小さな呻き声が聞こえる。どうやら患者が意識を取り戻したらしい。
「ここ……は?」
ゆっくりと開いたハシバミ色の目が周囲を見回し、エミーリアと医師に均等に視線を当ててそうつぶやいた。
「うちの冬の別荘です。……間に合って、よかった。もう、おいでいただけないかと……」
「すみません。ちょっと道に迷ってしま……」
不意に口をつぐみ、医師の顔とエミーリアとの間ににわかに鋭くなった視線を往復させる。
「ああ、大丈夫です。先生には話を通してあります」
エミーリアの言葉への反応にはしばらく間があった。
「話が違うじゃありませんかっ。協力してくれる人はいないって……つっ」
エミーリアに食ってかかろうと体を起こしかけ、痛みに顔をしかめる。
「だって、先生も同じ泥沼に入り込んでいるのですから。引き上げていただくには外部の方でないと」
涼しい顔でエミーリアが応える。泥沼とはいったいどういう意味が……?
その答えを聞いた患者が、片手で忌々しげに自分の顔を覆う。
「……他には?」
「はい?」
「この方の他に『話を通してある』人は何人いるんですか?」
「そう多くはありません。今この館にいるのは、先生一人。あと、うちの下の兄二人と、もう辞めてしまった古参の侍女と小間使いが二人ほど」
すらすらとエミーリアが答えるとベッドの周りの空気が若干冷えたかのようになる。
「そんなにいてよく協力者がいないなどと……ああ、皆同じ泥沼の中なんですねなるほどね」
『協力者』の機嫌がどんどん低下していくのが手に取るようにわかる。大丈夫なのか?機嫌を損ねたら協力してくれないんじゃないのか?
「ええ。頭の回転が速い人は話が早くて助かりますわ」
「……話が通っているなら、これ、このままにしとかなくてもいいですよね?」
憤りも露わな声でそう言うが早いか、指先が動いて額の傷に触れる。見る見るうちに無数の擦り傷が塞がり、瘡蓋がぽろぽろ落ちる。おそらくは服の下の打撲痕も消えているだろう。
「【癒しの手】、か? 初めて見た……」
あっけに取られたように医師が呟く。【癒し】の魔法が使える者は少なくないが、これほど速やかに作用するのはあまり見ない。
「ええ。こちらのお嬢様に『命にかかわらない程度の怪我か病気で行き倒れろ』という無茶なお願いをされたので、使うのを我慢するのに相当気を使いました」
おかげで痛みで気を失う、などという珍しい体験をする羽目になりました、と剣呑な笑みを浮かべながら、ゆっくりと患者が上体を起こす。小柄な体が、怒気を孕んで大きく見える。
「……ところで、あなたの事はどうお呼びすればよろしいのかな?」
剣呑な雰囲気に若干怯みながら小さな魔法使いに医師が話しかける。
「ラウ。もしくはラウド、と。短い間ですが、よろしく」
剣呑な雰囲気をあっさりと消して、にこやかにあいさつする。
でも、『ラウド』? エミーリアの表情を窺うが、特に変わった様子は見えない。……まあ、いいか。
「それで、先生にお願いなんですけど、この怪我、実際よりもひどかった事にしておいていただけませんか?」
「……そうしたら、どうなるんだね?」
「怪我が治るまでの数日間、先生が居残って介抱する事になります。実際にはラウドはわたくしが連れて行きますが」
「だが、その間誰か身代わりが必要になるのでは?」
誰か。もしくは、何かが。
「そう。それなんですけど……ラウド?」
エミーリアの言いにくそうな呼びかけに、いやその少し前、『身代わり』という単語を耳にして、ラウドは渋い顔になっていた。そんな言葉を口にしたことをハーグリーヴスは後悔した。
「私の魔法は当てにするな、と、申し上げましたよね? 何度も。繰り返し」
静かな声だが、妙な迫力があった。
「そんな怖い顔なさらなくても。まだ何も言ってないじゃありませんか。そうですね……ちょっと横になっていただけませんか? 頭から布団を被って」
渋い顔のまま、言われた通りにラウドが横たわる。エミーリアが一度上掛けを持ちあげ、ふわりと掛け直すと、小柄な体格のラウドはどこにいるか判らなくなる。
「見た目の方はこれで問題ないんじゃありませんか?」
うーむ、と医師がうなる。時間が経てば布団の自重で存在は明らかになるだろうが……
それにしても……小さい。そこにいると解っていても居場所が判らない。
不意に布団が跳ね上がる。
「どういう意味ですかいったい!」
噛みつくような勢いのラウドに、エミーリアが澄まして答える。
「うちのお布団は厚みがあるから、中に人がいてもいなくても判らない、っていう話ですわ」
違うだろう。今の流れだと『ラウドは小さいから』だろう。……とても楽しそうにエミーリアがラウドをからかっているのは判る。判るのだが。
「いや、床に就いている間はごまかせても、恢復した後は……いったいどれくらいの間ごまかせばいいんですか?」
そうですね、とエミーリアが人差し指をあごに当てる。
「できれば五日。少なくとも三日はごまかしてください。うちからの問い合わせが来るのに、それくらいはかかるはずですから。……んー……そうですね。荷物を置いていけば、よりごまかしやすいでしょうね」
えぇっ、とラウドが抗議の声を上げる。
「何も全部置いてけ、とは申しませんわ。鞄だけでよろしいのよ? 中身はわたくしの荷物に紛れ込ませば」
「でもあの鞄は……」
しつこくラウドが食い下がる。鞄自体に値打ちがあるのか、あるいは魔法的な仕掛けがあるのか。とにかく鞄を置き去りにはしたくないらしい。
「ああ、そうですわ。ハーグリーヴス先生に他の人が手を触れないように見張っていただければよろしいのよ。それならば何も鞄を置いていかなくても、何かをそう見せかければよろしいのですもの。……もう少し早くおいでになっていれば、口裏を合わせる相談を練る時間もあったでしょうに」
どうしてもラウドに魔法を使わせたいらしい。言外に『遅れてきたラウドが悪い』と匂わせる。
「………わかりました。身代わりを作ればよろしいのですね? 人形と、鞄の、二つ」
唸るような低い声でラウドがそうつぶやき、続けて『やっぱり来るんじゃなかった』と唇が動いた。
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