主治医の見解
エミーリアの滞在中、館に常駐しているシモン・ハーグリーヴス医師は旨い酒と肴に目がなく、珍味の類と引き換えに、気さくに村人を診てくれる、という事で村人にはありがたがられていた。
そもそもシモンは政治力を働かせるよりは症例を集める方が性に合っている、と考えるタイプの医師で、そんな彼が『良家の令嬢の主治医』などというものをやっているのは、エミーリアが子どもの頃に患った流行り病の予後を観察したい、との考えからだった。
いや、単純に、あの病の生き残りを見守りたい、というだけだったかもしれない。エミーリアが病を得た町は彼の妻の出身地で、身重だった妻はその病で命を落としていたからだ。
だから、エミーリアが『家を出る事にした』と打ち明けてきた時には、複雑な感情を味わった。決心したのか、という安堵、果たして自活できるんだろうか、という心配、結局最後まで見届ける事はできないのか、という不満。
本気を疑う気は起こらなかった。温和しげに見えて、いや、そう見えるからこそ、いったん口にした事は必ず実行する、という頑固さのあるのがエミーリアだったからだ。
そして、実行前にそれを口にするときは必ずと言っていいほど何らかの協力を要求する時だ、というのも解っている。
「それで、どんな協力が要るんだね?」
溜め息を吐いてそう聞き返すと、エミーリアは儚げに笑って、
「それは協力者が到着してから」
と答えた。
「成功の可否は協力者にかかっているので」
とも。意志は固いはずなのに、肝心なところを人任せにしているのが、妙にらしくなかった。
エミーリアが館を離れる前日の慌しい時に、その患者は運び込まれた。
数か月先に輿入れが決定しているエミーリアがこの館に戻ってくる事はおそらくもうない、ということで、すべての部屋が念入りに点検され、片付けられている、という人手が足りないところへやってきたので、普段ならば使用人の誰かが診療の手伝いに就くのだが、今回に限っては一番手の空いているエミーリアがその任にあたった。
患者は、崖から転落したらしい、という怪我人で、旅装であるところをみると、村の者ではないようだ。ひょっとしてこれが? と思いエミーリアの表情を窺ったが、それらしい表情の変化はない。
一通り診たところ、骨も折れていないようだし、深い傷もない。ひどい打撲と擦過傷だけだが、まだ安心はできない。頭を打っているかもしれないからだ。意識がないのも不安材料の一つだ。とりあえず、怪我の手当てだけして様子をみる。意識が戻ればいいが、そうでないときは、そのまま息を引き取る可能性が高い。
そう告げるとエミーリアの表情に初めて変化が生じた。だがそれは、赤の他人が自分の屋敷内で瀕死の状態だ、と告げられたとしても同様の表情を見せるであろう、という困惑の表情で、相変わらず大した抑制力だ、と感心するほどわずかな変化だった。
「まあ、呼吸の乱れはないし、痛みに反応するようなので大事ない、とは思うんだが、念のため、様子を見ていてもらえませんかね?」
「具体的には、何に注意すれば?」
「そうだな……とりあえず、呼吸の乱れ、とか体温の変化、かな。呼吸が弱くなったり、手足が冷えてくるようなら、知らせてください。あと、意識を取り戻す気配が見えた時も。……ところで」
ハーグリーヴスが口調を変えたので、エミーリアは顔を上げた。
「協力者っていうのは、このひと?」
だとしたら、ずいぶんとかわいらしい協力者だ、とハーグリーヴスは思った。年の頃は十三かそこら。どんなに多く見積もっても二十歳には届いていないだろう。ふわふわした金髪にハシバミ色の目。きれいな子なのは確かだけれど……エミーリアをこの家から逃がすほどの力があるのだろうか?
エミーリアは一瞬だけ、蕩けるような笑みを閃かせた。
「ええ。大変だったんですよ、口説き落とすのに。王宮の方でも目をつけてたようだし」
王宮で。という事は、魔法使いか。……だとしたら、多少幼く見えても能力的な心配はないか。
それにしても、王宮相手に競り勝つとは。いったいどんな手管を用いたのか。『口説き落とした』とか言っていたが、……まさか色仕掛け? いやいや、ソンナ子ニ育テタ覚エハアリマセンヨ? 育てたのはもちろんハーグリーヴスではないのだが。
「……でも、意識を回復していただかない事には。遅くとも明日までに。でないと、協力どころではありません」
溜め息を吐いて気遣わしげにベッドの上に目を落とすエミーリアを置いて、ハーグリーヴズは部屋を出る。……何となく、二人きりにさせた方がいいような気がしたので。自分のために。
玄関ホールに向かう廊下の角を曲がったところで、使用人通路に通じるドアから大ぶりな鞄を手にこちらへ歩いてくる使用人の姿が目に入った。
「それは、患者の?」
「はい、おそらく。運んで来る途中で気にするそぶりを見せたので取りに戻ったのだ、と言って、村の者が、たった今」
『村の者』というところをみると、ここに常駐しているのではなく、王都から来た(エミーリア曰く「あまり自分が羽目を外し過ぎないように監視するためにいる」)五人ほどのうちの一人か。
「ではそれは私が預か……っと、その前に。それを持ってきた彼は、もう帰ってしまったのでしょうか?」
「はい。何やら用事があるとかで」
まあ、ここまで二往復もすれば、余計な時間を取られるのは当たり前だから仕方ないか。
「そうですか。発見した時の状況をもう少し聞きたかったのですが……まあいいでしょう。それは私が預かりましょう。何か身元が判るものがあるといいのですが」
「身元? ……村の者ではありませんの?」
「おそらく。村人だったら、連れてくる時にそう言うでしょう?」
「それも……そうですわね。困りましたわ」
身元が判らないものを館に置いておくにはいかない、という事だろう。実のところ身元はエミーリアが把握しているようなのだが。だが、エミーリアの知り合いだ、という事は隠しておくべきだろう。
「ご心配でしたら、患者が動けるようになるまで私が残って面倒を見ますが……まあ、今そういう心配をしても」
それは意識が戻ってからでも、と言うと、確かに、と頷いた使用人は、重そうな鞄を医師に手渡して戻って行った。
背負うための肩ひもとごつい鍵で固定された蓋がついた鞄は、見た目ほどには重くなく、魔法の影響を感じさせる。それでもやはり、この武骨さと堅牢な造りはもう少し大柄な人間が背負うようにできているのではないかと思われた。……いろいろと予想を覆してくれる子だ。
ご意見、ご感想、誤字脱字の指摘などがありましたらよろしくお願いします。