駆け落ちのお誘い
「わたくしを、連れて逃げていただきますか?」
脚立の上で花柄摘みをしていた手が止まった。ゆっくりと、声の主の方へ振り返る。
『笑わん姫』エミーリアだ。
真夏だというのに、高い襟のドレスを着ている。薄手の生地だし、袖も風の通る緩やかな意匠ではあるが、手首まできっちり覆う長袖だ。
エミーリア・アウレリスは、呼吸器が弱いので喉を冷やさないために、夏冬を問わず高い襟の服を着ている。
さらに、社交シーズンピークである厳冬期の二月ほどを、王都から離れた避寒地の別荘で過ごす。王都が雪に覆われるため、呼吸器の弱いエミーリアは庭先にさえ出られなくなる、とのことで。
にもかかわらず、というべきか、それゆえに、というべきか、エミーリアは社交界にデビューした年から注目を浴び続けた。
一つには、デビューする歳になるまで、一切エミーリアを表に出さない、というアウレリス家の情報操作が利いていた、というのもある。
だがそれはエミーリアに対する前評判をあおる要因になったに過ぎない。
清雅な美貌と怜悧な頭脳を持つ、だが少しおっとりした、めったなことでは表情を動かさない令嬢。そしてその稀な笑顔はひどく魅力的。
それがエミーリアに対する貴顕紳士の大方の評価だという。
その、エミーリアが、炎天下の中庭で。
人目を憚る様子で不穏なことを口にしている。
「すみませんが……今、何ておっしゃいました?」
脚立の上に座り直した庭師がエミーリアを見下ろして怪訝そうに訊き返す。
「わたくしを、連れて、逃げていただきたい、と申し上げましたの」
訊き返されたエミーリアは、一語一語を区切って、ことさらゆっくりと言い直す。
庭師が反応を返すまで、瞬き数回ほどの間があった。
不意に、何かを思い出したかのような表情を浮かべた庭師がおもむろに脚立を降り、陽射しよけに被っていた帽子をとって、自分よりいくらか上背のある相手の顔を見上げて言う。
「……今、誰かと隠れ鬼」
「していません。比喩的な意味でも」
遮るように答えられて、庭師の眉間にしわが寄る。すごく嫌そうに。
小柄でいくらか童顔の庭師がそんな渋い顔をしても、あまり迫力はない。その迫力のない困り顔が一つ溜息を吐く。
「……えーと、確認いたしますが、確か、エミーリア様は、来春婚儀を上げるご予定ではありませんでしたか? しかも、その相手は……」
「はい。こちらのご子息でございます。ですからこれは、いわゆる、『駆け落ち』のお願いです」
凝った形に結いあげられたプラチナブロンドに縁取られた顔が、こともなげにそう答える。
それが何か? と言いたげな態度に、しばし庭師が言葉を失う。
「確か私、以前お聞きしましたよね、それでいいのですか? と。で、確かその時のお答えは……」
木洩れ日に目を細めた庭師が、帽子のつばで口許を隠しながら、険しい口調で、だが、低い声で確認する。
「……父の意向なので、仕方がありません、でした。でも、あれからわたくし、考えたんですの。いくら本人が承知しているからと言って、縁もゆかりもない者に犠牲を強いていいものか、とか、相手の方をたばかるのは、許される事なのか、とか……」
「……で、結論が、私に、連れて逃げてくれ、と?」
庭師が声を低めて、唸るように言う。
「はい。わたくしがこのような事を考えるに至ったのも、あなたのその言葉が原因ですので……」
「…………だから、責任を、取れ、と?」
「はい」
正解、とばかりににっこりと微笑む相手の前で、庭師はますます顔を曇らせる。
めったに見せない、という笑顔が大盤振る舞いだ。
「他に、当てはないんですか? ……その、……駆け落ち、の」
『駆け落ち』という単語を、非常に発音しにくい難しい単語であるかのようにぎこちなく舌に載せる。
「他の……殿方では、こちらの方の二の舞になってしまいます。本当の事を打ち明けて、協力してくれる方がいるとも思われませんし」
「…………なるほど」
庭師が口の中で小さくつぶやいた。
うっすらと額に汗をかいた庭師の眉間に寄せたしわが、更に深くなる。
その険しい視線の先には、瀟洒な四阿が涼しげに佇んでいる。
二年前、あの四阿で。事の起こりはそこで、だった。
演出上の都合で心理描写を削らせていただきました。
今後も本編は『カメラ』に徹した視点で行きたいと思います。カメラになりきれていなかったときは笑ってご容赦ください。
それぞれの視点でのお話は後日アップするかと思います。
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