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『南慎一郎』
というのが俺の本名だ。
因みに、妻は南真理。
俺の名前が長過ぎるという理由で、妻は出逢った時から俺の事を『南君』と苗字で呼んでいる。
結婚してからもそれは続き、俺も『長過ぎる』という理由で却下された名前を呼んでくれとは言い辛くて、何となくそのままになってしまった。
苗字が『南』だと何だか少ない感じがするので、バランスを取る為に名前を長くした親心はよく分かる。
だけど、どの道『慎ちゃん』と略される運命なんだから、残りの『一郎』の部分は完全に蛇足だ。
・・・でも、『慎』だけだと寂しいな、確かに。
かと言って『一郎』だけでは昭和の人みたいだ。
しかも、野球をやれって言われるに違い無い。
そして、常にヒットを期待されるんだ。
日本中の一郎さんがこの悩みを抱えているだろう。
結果的に、俺は『慎一郎』になる運命だったのか・・・。
妻が出て行った後、俺は自分の為に作ったカップ麺2号を啜りながら、どうでもいい事を考えていた。
いや、名前の事なんて本当にどうでもいい。
俺は寧ろ、妻がドサクサ紛れに放った衝撃の一言に動揺していた。
「自分だって『あんた』とか『お前』とか、あたしの事名前で呼んでくれた事ないくせに(中略)あたしの名前なんか覚えてもないくせに図々しいのよ!」
何の不満もないと思っていた俺達の夫婦生活。
それがさっきの一言で、妻の不満の一部が露呈された形となった。
確かに俺は妻の事を名前で呼んだ事はない。
呼ぶときは『おい』とか『あんた』とか『お前』・・・。
うわあ・・・最悪だ、俺!
思い返して俺は頭を抱えた。
これではまるで昭和のオヤジだ。
いつの時代の亭主関白だよ。
だからと言って、30も越えた今更『真理ちゃん』なんて呼べるわけない。
俺がそんなキャラじゃない事は、あいつが一番知ってる筈だ。
・・・でも、やっぱり不満だったんだな・・・。
暗黙の了解の元、お互いに干渉しないいい夫婦関係。
そう思い込んでいたのは俺だけだったらしい。
妻が不満に思っていたなら認めざるを得ない。
俺は彼女がさっきまで食べていたカップをチラリと見た。
今日のあいつはいつもの元気がなかったどころか、完全に鬱モードに入ってた。
このまま放っておいたらどこまでも沈みこんでいくだろう。
それに伴って、俺の晩飯が食卓に並ぶ日もどんどん遠ざかってゆく。
何より能天気だけが取り柄の元気な妻が塞ぎ込んでいるのは、少なからず気になる。
「・・・何とかしなくちゃな」
誰に言うともなく、俺はそう呟いて箸を置いた。
◇◇◇
シャワーを浴びてから、俺は自分の部屋に引き篭りベッドに寝転んだ。
本当は風呂に入りたいのだが、晩飯さえないのに風呂が沸いてる筈もない。
「南クン、先にご飯にする?それとも、オ・フ・ロ?」
なんて妻が玄関で迎えてくれた日は、何十年も昔の事のように思われた。
尤も、結婚するまでに付き合いが長かった俺達は、最初の1ヶ月だけ白々し程にベタベタな新婚生活を装ってみたものの、すぐに馴れ合いのユルイ関係になってしまい、お出迎えもそれと同時に自然消滅した。
俺はそんな空気みたいな関係が心地良いと感じていたんだけど、妻は少なからず不満だったのかもしれない。
少なくとも、名前で呼んで欲しかったんだ。
そこは男として、夫として、考慮してやるべきだった。
さっきの一言で、俺は彼女が抱えていた俺に対する鬱積した不満を垣間見た気がしたのだ。
ベッドに寝そべったまま、俺はケータイから『小説家になろう』のトップページを開いた。
パソコンは妻が独占しているので、ネットを見るときはケータイを使うしかない。
すぐに『小説家になろう』のトップページが現われた。
さすがに人気サイトらしく、モバイル版でエロ小説サイトのバナーまでくっついている。
そのページを見て、俺は目を疑った。
『小説掲載数165,944作品。登録者数235,765人』
登録者数が23万人もいる。
あいつみたいにパソコンの前にしがみついて、三文小説書いてる人間がそんなにいるってことか?
あんなのが23万人もいたら、日本はどうなってしまうんだ!?
しかも、掲載されている小説が16万と、書いてる人間数より少ないのはなんでだろう・・・という疑問はさておき、23万人の中から妻を探すのはかなり困難に違い無い。
だが、俺はこの23万人の登録者の中から、あいつを探し当てる自信があった。
何故か?
あいつの単純な思考回路は、俺には手に取るように分かるからだ。
しばらく検索してみて、少しづつこのサイトの見方が分かってきた。
カテゴリーごとに検索が可能で、そのほかにも、人気順やら、最近の作品やら、色んな視点から検索ができる。
まず、あいつが書くのはしょうもない恋愛モノに違い無い。
付き合いだして初めてアイツの部屋に入った時に、乙女チックな表紙の腐女子向け文庫本がズラリと並んでいてドン引きした記憶がある。
30も越えた今も、ヤツは王子様に憧れてるんだ。
俺の愛読書は『ムダに胸だけデカイ女がエッチなコスチュームで闘うヲタク漫画』と一刀両断され、押入れにブチ込まれたというのに。
その漫画は映画にもなって、世界的にも評価されてて、監督は超有名人なんだって言っても、聞き入れてもらえず、「南クン、こんなエロ漫画読んでるんだ」と蔑まされれば、俺だって腹が立つ。
だったら、お前が読んでる『普通の女の子がイケメン生徒会長に気に入られて、豪邸で暮らす事になったら、同じくイケメンの執事にもコクられる』小説は、俺のエロ漫画より価値があるのかと問いたい。
ブツブツと一人で呟きながら、俺は更に検索を続ける。
恋愛カテゴリーの中から、1週間前から始まって頻繁に更新されている作品を探す。
メシも食わずにキーボード叩き続けてるんだから、ものすごい更新速度に決まっている。
その中で、今だにポイントも評価もない作品。
そしておそらくペンネームは、乙女チックでベタな感じ・・・。
そこまで検索した時、どっかで聞き覚えのある名前が俺の目に留まった。
心臓が一瞬、ドクン!と音を立てる。
『美波マリリン』
・・・こいつに間違いない。
俺はケータイを握り締めて、ニヤリと笑った。