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妻はその日から家事に割いていた時間を大幅に減らし出した。
「印税が入ったら家政婦さんを雇う」どころか、完全に引き篭りのニート状態になってしまった妻は、俺が仕事から帰ってきても部屋から出て来ない。
弁当がなくなったあの日から夕食さえも用意されなくなり、仕事から帰ってきた俺は発狂寸前だった。
俺を迎えるようにオレンジ色の電燈が灯されていた小さなマンションの玄関。
それが帰ってみると真っ暗で、ドアの鍵を開けるのに一苦労だ。
「ただいま~」なんて一応言ってみるものの、締め切った妻の部屋からは返事はなく、代わりにパソコンのキーボードを叩くカタカタという音が断続的に聞こえてくる。
主人が帰ってくれば犬だって一応出てくるのに・・・。
俺は苦々しく舌打ちして、一人で寂しくキッチンに入る。
夕飯がなくなってから、キッチンにはいつもインスタントラーメンを用意しておくようになった。
カップヌードルに熱湯を注いで時計を見ながら三分待つ。
・・・俺、何やってんだろう?
虚しくなってこんなことを思うのは、決まってこの三分の間だ。
やがて、カップの隙間からラーメンの匂いが立ち上ってきて、少しテンションも上がった俺はいそいそと箸を持った。
その時。
突然、背後のキッチンのドアがギイイ・・・と音を立てて開いた。
振り向いた俺は、思わずギョっとして息を呑む。
そこに幽霊のように突っ立ってたのは、やつれ切った姿の妻だった。
「・・・お腹・・・減った・・・」
掠れた声でそれだけ言うと、妻はヨロヨロと俺の隣にやってきた。
頭の天辺でおだんごに纏めた髪はパサパサに乱れて簾のように垂れ下がっている。
その隙間から充血した目が覗いて、まるで平家の落武者だ。
クマができて落ち窪んでるものの、眼光は鋭くて、獲物を狙う猛禽類みたいにギョロリと俺を見ている。
唖然としている俺に構う事なくヨロヨロと近づいてきて、人の横にチョコンと座ると、3分待っていたカップヌードルを勝手に食い始めた。
「あ!おい!人のカップラーメン勝手に食うな!」
「だって、お腹減ってるんだもん。あたし、昨日から何にも食べてないの。このままじゃ印税入る前に餓死しちゃうよ」
「んな事、知るかよ!ってか、俺だってこの一週間カップ麺しか食ってねえし、餓死すんなら俺が先だろ!誰のせいだと思ってんだ!?」
食わせまいとして妻の手から箸を奪い取ろうとしたが、妻はギュっと握り締めたまま放さない。
箸を巡る激しい攻防はしばし続いたが、俺はとうとう諦めて立ち上がった。
こんなことしてる間にもう一杯作った方が早いじゃないか。
単純な事実に気付いた俺は、キッチンに戻って再び湯を沸かし始める。
すぐにズルズルとラーメンを吸い込む音が聞こえてきて、俺は溜息をついた。
家事をしない専業主婦は、主婦とは言わない。
こいつはもはや、ただの引き篭りのオバサンだ。
疲れて帰ってきた夫が作ったなけなしのカップ麺を横から勝手に食うとは、どういう神経してんだ!?
働かざる者食うべからずだ、このニートが!
などと、頭の中で言いたい事がリフレインしていたが、俺は必死で飲み込んだ。
言ってしまったら、もう二度とこのテーブルに料理が並ぶ事はないだろう。
図々しいくせに打たれ弱い女なので、ヘタな事を言ったら本当に実家に帰ってしまうかもしれない。
なんだかんだ言っても、俺は妻には何故か頭が上がらないのだ。
「惚れた弱み」なんて言ったら、いい年して柄でもないけど、まあ、そんなとこなんだろう。
ズルズルと音を立てながら一心不乱にラーメンを吸い込んでいた妻は、湯を沸かしてる俺の背中にポツンと言った。
「・・・アクセスが・・・」
「あぁ?何だって?」
「アクセスが伸びないの。ポイントも入れてもらえないし・・・お気に入り登録も全然ないし・・・あたし、ダメなのかなあ?」
「・・・?何の話?」
ハアァ・・・・と大袈裟な溜息をつきながら、妻はパタと箸を置いた。
ハゲタカみたいに鋭かった眼が一転し、雛鳥みたいに弱弱しく俺を見つめている。
「『小説家になろう』で書いてる小説だよ。あたしの中じゃ最高傑作って言ってもいいくらいなのに、全然アクセス増えないんだ。つまんないのかなあ?」
「・・・知らないよ。てか、お気に入りって何?」
妻に紹介したくせに、そのサイトの事を全く知らなかった俺は、どういうシステムで投稿するのかも知らなかった。
そもそも本を読まない俺が、わざわざパソコンやケータイの画面でド素人が書いた小説を読む筈がない。
俺の質問に、妻は悲壮な表情のまま説明を始めた。
「読んでくれた人が気に入ったら、お気に入りに登録できるの。一人登録してくれたら2ポイント入るんだ。評価ポイントもあるの。それが今だに0なの。感想も誰も書いてくれないし、アクセスがないんだよね。ねえ、私の作品ってつまんないのかなあ・・・?」
「読んでないのに俺が分かる訳ないだろ。まず見せてみろよ。俺がログインしてポイント入れまくってやるから」
半分本気で言った俺の一言に、妻は真っ赤になって飛び上がった。
「だっ、だめ!絶対だめ!読んだら許さない!そんなことしたらもう離婚だからね!?」
「り、離婚!?そんなことで?」
「そうよ!プライバシーの侵害よ!慰謝料請求させてもらうからね!」
「慰謝料って・・・それ、俺のセリフだろ!?払って欲しいのはこっちだってんだよ!」
「何であたしが南君にお金払って別れなくちゃいけないのよ!?」
「何でだと?てめー、それ正気で言ってんのか!?てか、いい加減、自分の旦那の事を苗字で呼ぶのは止めろ!俺が南ならあんたも南だろ!?結婚して何年経ってると思ってんだ!?」
「いいじゃん。別れたら南じゃなくなるじゃん。自分だって『あんた』とか『お前』とか、あたしの事名前で呼んでくれた事ないくせに、今更ダーリンとか呼ばれたいわけ?あたしの名前なんか覚えてもないくせに図々しいのよ!」
「ず、図々しい・・・?」
いや、いくらなんでもあんたの名前は覚えてるよ・・・。
その一言が言えないまま、俺は完敗した。
元より口で敵う相手ではない。
妻は呆然としている俺を残して、荒々しく廊下を踏み鳴らしながら部屋に戻って行った。