今日だけ、イギリス風の愚者。
「大事な事は、教えてあげられないのよ」
そう言って美耶子先輩は、練習後の呼吸も整わない体の侭、私の肩を引き寄せた。他に誰もいない道場での事だった。
「そんなの知りたくありません、言わないでください」
まだ道着を脱いだだけ、着替えの途中だ。先輩の腕から逃れようとして、肩に掛かる手を押し退けた。やっぱり、体格の差がどうにもしがたい。先輩は私より15センチも背が高くて、だから力も強い。
「この事はね、一人だけにしか聞かせたくないの」
道場で、下級生の拙い逆突きを、わざと胴に打ち込ませる時の様な。図書室でちょっとだけ難解な本を見つけて、私に読ませようとしてくる時の様な。そういう、相手が喜んだり悩んだりする姿を見る時の、愉快そうな笑みを、先輩は浮かべている。
「じゃあ、今ここで、話してください……着替えはもう少し待ちますから」
「ええ、構わないわ、木葉さん」
やっぱり、先輩は私を放してくれそうにない。体温が近くに有っても、春でも、まだ寒い事は寒かった。
「私にはね、妹がいるの。ちっちゃくて可愛らしくて……でも私は、そんな妹は要らなかった」
「知りませんよ、そんな事。今まで一度も聞いた事無いです」
「そうだったわよね、覚えてる。聞かないでちょうだい――それで、ええと、ええと。ん……妹がいなかったらって、何度も考えたわ。夢も見ない程にぐっすり眠って、お昼寝までしちゃうくらいに。だから、お母様にお願いしたの」
「妹が要らないって、ですか?」
「そうよ、快く引き受けてくれた。一瞬だって迷いもしないで、良いよって言ってくれたの。だって私は、お母様に凄く嫌われてたんですもの」
視界の外から飛んでくる蹴りの度に、下手な攻めを捌いての打ち返しの度に道場に響く様な、鋭く力強い声では無い。楚々たりながら何処か甘い声、先輩が私だけに聞かせてくれる声。空手部に入部して二か月も経った頃には、先輩は私に、この声を向けてくれていた。
「だからね、その後も少しくらいお願いはしたわ。でも、私には妹がいる。嬉しいわよね」
「そうですか? 私には妹はいませんけど、静かで良いですよ?」
「騒がしいのも嫌いよ、活気なんて無い方がいいじゃないの」
斜めに降りてくる、舐めまわす様な視線。いつも先輩は、衣服の下まで見通す様な目で私を見る。着替えの時に顔を合わせれば、視線が胸に留まったままになる事も度々だった。最初は恥ずかしかったけれど、その内に慣れてしまった。
「……私ね、この高校に上がる前から、女の子同士の性愛について考えてたの。女の子は殿方と結ばれる、それは非常識では無いのかって」
「非常識ですか? 愛情なんてまやかしです。制度に従えば、それで間違いは無いんです」
「その時は、そう思えたわね。両親に決められた相手、非の打ちどころもなく礼儀正しい男性、そういう方と結ばれるなんてつまらないわ。私は自分の意思で、自分の選んだ方と交際するべき、とね」
「正しい考え方だと思います。それじゃあどうして、先輩の考え方は?」
「あ、ずるい言い方――じゃなくて……そ、そうよ、貴女のせいじゃない事は確かね」
「ふっふっふ、知恵なんて使わなくても良いんです。話を終わらせましょうか?」
こうやって他愛無い会話をしているだけでも、私の顔は赤くなってしまっている。体温が上がってしまったから、相対的に先輩の体が冷たく感じる。少し、体が震えた。先輩は目ざとくそれを見つけ、今までよりも強く、強く私を抱きしめた。
「入部してきた時の貴女は、まるで妹とは大違いに思えた。可愛くもないし、小さいし、ただの後輩とは思えなかったわ。だから練習の時は、他の誰よりも特別扱いしてあげた」
「はい、先輩は優しかった。私はあんなに先輩が嫌いだったのに、特別扱いですもんね」
「気付いてたのよ、最初から。私は、女の子の事は良く分かっていたの。女の子同士は普通だって思っていたから」
「だからあの時は、あんな風に笑った?」
「面と向かって嫌いって言われたのよ? 私を嫌う女の子がいるなんて、考えもしなかったんだもの。びっくりして笑っちゃった。だから、それからはずっと、貴女を他の子より大事にしようって考えたわ。でも駄目、どうしてもどうしても、気付けば貴女を他の子と同じ様に扱ってしまう。突きも遠慮せず打つようになったわ、場外まで蹴りでふっ飛ばしちゃった事も有ったっけ」
「ありませんでしたね、そんな事。……それで、どうして今日は、こんな時間まで? もうすぐ真夜中じゃないですか」
時計の針は二本とも11を超えたばかりだが、もうすぐ12にまで届いてしまうだろう。寒さには慣れてきた(先輩の腕に暖められた)が、まだ震えが収まらない――いや、寒さのせいではないのかも知れない。
「……だってね、ほら……貴女は何度も何度も、私に嫌いって言ってくれたじゃない。だったら私も、貴女に嫌いって言ってあげなきゃないと思ったのよ。大嫌いよ、木葉さん。妹が居たらこんなだろうって思うくらいに憎たらしくてみっともなくて、世界の誰よりも誰よりも嫌い。女の子同士が普通だと思ってた私が、考えを改めるくらいに大嫌い。死ぬまで嫌いって言い続けても、きっと言い足りないわ」
それは、最悪の告白だった。先輩の体の芯を貫いて、寒気よりも激しく震えを起こしてしまう、呪詛めいた告白。
「先輩……先輩、大っ嫌いです」
「ええ、私も大嫌い――っ、え、きゃ……!?」
先輩は、私の膝の裏に脚を掛け、強く押し倒してきた。受け身は取れたが、体格差のある相手に組み敷かれ、私はまるで動けなくなる。シャツも着ていないから素肌が畳に触れ、ひんやりとした感触を伝えていた。
そのまま、先輩の唇が、私の口を塞ぐ。私からする様な、子供じみたキスではない。触れて直ぐに舌を押し込もうとしてくる、貪欲なディープキスだった。おずおずと口を開いて応えると、長い舌が喉の奥までを犯してしまいそうな程。
いつもそう、暫く私は、先輩の為すがままにされている。だけども直ぐに我慢が利かなくなって、自分から舌を絡めてしまう。そうなればもう、片方が満足するだけでは止まらなくなる。先輩の指がお腹の上を滑り、背中へ。そして、ブラの留め具を外してしまう。
「っはあぁ、ぁ……やめて、もう……」
「分かりました、止めてあげます。もう何もしませんよ」
「……え? ぇ、え、いや、あの……」
「どうしました、先輩? 私は先輩が大嫌いなんですよ?」
「あ……えと、止めて、もうこれ以上しないで……」
胸を隠すものを取られて、私は胸を両手で隠す。先輩の意地悪そうな、そして心底楽しそうな笑顔が、まだ目と鼻の先にある。もう、どちらも引き下がれない。終わりまで、二人が嬌声を揃えて崩れるまで、先輩は止まる筈は無い。
「ああ、先輩、先輩。私は、先輩の事が――」
私の言葉を掻き消す様に、正午を告げる鐘がなる。窓からは相変わらず暖かな日差しが差し込み、先輩を組み敷いていると暑いと感じるくらいだ。
「……あぁもう、先輩可愛い、可愛いなぁもうー!」
「ぅう……恥ずかしい、凄く恥ずかしいわ、木葉さん……」
ちっちゃなちっちゃな先輩は、私の体の下で、目と胸を手で隠している。耳まで真っ赤に染まってしまったその姿は、とても先程まで、私の舌を受け入れて悦んでいたようには思えない。
「だって先輩、可愛過ぎるんですもん。大事な事って言うから、何かと思ったら……あれは殺し文句ですね。先輩、最高のヒットマンになれますよ」
「今、私の方が恥ずかしくて死んじゃいそう。穴が有ったら入りたい……ぅぅぅ」
ただでさえ小柄で幼顔の先輩だというのに、目に羞恥の涙を溢れさせている姿は、本当に子供の様にしか見えない。
そう、先輩は私より背が低いし、先輩に妹なんていない。
先輩は奥手にも程がある良家のご息女で、私が告白した時なんて、目を白黒させて百面相をしていた。
今日は自主練、午前10時で他の部員は帰ってしまった。道場には私と先輩だけで、今は素敵なお昼時。
「大好きですよ、先輩」
「……そういう事言うの、やっぱりずるい。今日の木葉さん、何時もよりずるいわ」
頬を膨らまして不満げな顔をする先輩は、やっぱり子供っぽい。ハムスターの様に膨らんだ頬に指を当てると、濡れた唇から空気が抜けて行く。汗に濡れた私の前髪を、そよそよと先輩の匂いが持ち上げた。
「大好きよ、木葉さん。だから、その……」
「はいはい、分かってますよ」
キスの続きをねだる様に、私の頭を先輩が引き寄せる。初めて、先輩から好きと言われたのだ。もう私が我慢できる理由なんて、どこにも無かった。
4月1日、午前12時5分、本日は晴天なり。今日だけ、イギリス風の愚者。