カビ臭い女とは婚約できないそうなので、私の酵母も樽も全部持って帰ります
婚約者にカビ臭い女と言われた瞬間、私はまず地下蔵の温度を思い出した。
昨日の夜、北側の通気窓を少しだけ開けた。
今朝は雨が降った。
となると、地下蔵の温度はおそらく半度ほど下がっている。
半度。
人の心なら、誤差かもしれない。
でも酵母には大事件である。
「マリエル・ブランシェット。君との婚約を破棄したい」
婚約者であるルシアン・ヴァロワ様は、たいへん真剣な顔でそう言った。
ここは、ヴァロワ侯爵家の王都屋敷にある小食堂である。
秋の収穫祭を前に、両家で婚礼準備と祭りの出品を確認するための食事会が開かれていた。
私の父であるブランシェット伯爵。
ルシアン様の父君であるヴァロワ侯爵。
それから双方の母。
そして、なぜかルシアン様の隣には、エレーヌ・モントレー男爵令嬢が座っていた。
正式な婚約解消には両家当主の書面が必要だ。
だから今この場で決まるのは、あくまで婚約破棄の申し入れである。
そのくらいは、私にも分かる。
発酵ほどではないが、婚約手続きにも少しは詳しい。
「理由を伺っても?」
父が低い声で問う。
ルシアン様は、待っていたように息を吐いた。
「マリエルは、令嬢らしくありません」
「令嬢らしくない」
「いつも地下蔵にこもっている。ドレスより樽を気にしている。花よりチーズの表面を眺めている」
だいたい合っている。
私は少しだけ頷いた。
チーズの表面は面白い。
白いふわふわした皮が均一に育っていると、本当に嬉しくなる。
花も綺麗だとは思うが、咲いた花はすぐ散る。
チーズは育つ。
そこがいい。
「しかも、彼女の持ち物はいつも妙な匂いがする」
「妙な匂いではありません」
私は思わず口を挟んだ。
「発酵香です」
「そういうところだ!」
ルシアン様が声を強めた。
父がこめかみを押さえた。
母は少しだけ目を伏せている。
たぶん、笑いを堪えている。
「私は、もっと華やかで、花のように香る女性を妻にしたい」
ルシアン様はそう言って、隣のエレーヌ嬢へ目を向けた。
エレーヌ嬢は、白い花を髪に挿し、甘い香水をまとっている。
たしかに花のようだった。
ただ、少し香水が強い。
酵母のそばには近づけたくない。
「マリエル嬢」
エレーヌ嬢が、申し訳なさそうに眉を下げた。
「わたくし、あなたを傷つけるつもりはありませんの。ただ、ルシアン様があまりにお可哀想で」
「お可哀想」
「ええ。婚約者がいつも地下蔵にいらして、樽や壺ばかり相手になさっているなんて」
「壺は大事です」
「ほら、そういうところですわ」
エレーヌ嬢は、困ったように笑った。
「女なら、もっと愛らしくあるべきではありませんか?」
「なるほど」
私は頷いた。
愛らしさ。
それは私に足りないものかもしれない。
白カビの育ち方を見て目を輝かせる女が、一般的に愛らしいかどうかは、たしかに議論が分かれるところだ。
「つまり」
私は確認した。
「ルシアン様は、私との婚約を破棄し、エレーヌ様と新たに婚約したいということですね」
「そうだ」
「分かりました」
私は立ち上がった。
「では、地下蔵へ行ってもよろしいでしょうか」
小食堂が静まり返った。
ルシアン様が眉をひそめる。
「地下蔵?」
「はい」
「今、その話をしているのではない」
「今しかありません」
私は真剣に答えた。
「うちの三代目酵母を起こします。急な移動に弱いので」
「酵母を起こすな!」
「起こさないと運べません」
「運ぶ?」
「はい」
私は頷いた。
「婚約破棄は承りました。ですので、私の酵母も樽も壺も、全部持って帰ります」
「待て」
ルシアン様が立ち上がった。
「なぜそうなる」
「婚約がなくなるので」
「婚約と酵母に何の関係がある!」
「あります」
私ははっきり言った。
「婚礼後にヴァロワ侯爵家の食卓へ出す予定で、私が持ち込んだものですから」
ヴァロワ侯爵家の地下蔵の一角には、私の発酵道具が置いてある。
三代目酵母。
熟成中の山羊チーズ。
蜂蜜酒の小樽。
林檎酢の陶壺。
塩漬けレモンの瓶。
香草を沈めた乳清。
秋の収穫祭へ出す予定の、黒麦パンの仕込み。
どれも、私がブランシェット伯爵家から持ち込んだものだった。
贈与ではない。
嫁入り前の試作と、婚礼準備のための預かり品である。
もちろん、持ち込み時に両家で確認している。
発酵物は家をまたぐとき、温度と責任の所在を明らかにしておかなければならない。
当たり前である。
「それは、うちの収穫祭に出すものだろう」
ルシアン様が言った。
「今年のヴァロワ家の出品に使うと、皆が期待している」
「はい。その予定でした」
「なら置いていけ」
「無理です」
「なぜだ」
「私の子なので」
また小食堂が静まり返った。
「子?」
エレーヌ嬢が引いた声を出した。
「酵母です」
私は説明した。
「祖母から母へ、母から私へ受け継いだ三代目のパン種です。血筋で言えば、ルシアン様との婚約より長い付き合いです」
「比較するな!」
「婚約は二年です。あの子は三十七年です」
「だから比較するなと言っている!」
父がとうとう肩を震わせた。
たぶん笑っている。
でも父は立派な人なので、表面上は咳払いで済ませた。
「マリエル」
母が言った。
「持ち帰るなら、荷車が必要ですよ」
「はい、お母様」
「蜂蜜酒の樽は横にしないように」
「もちろんです」
「チーズの箱は風を当てすぎないように」
「承知しております」
「あなた、北側の通気窓を開けたままでは?」
「閉めてから出ます」
ルシアン様が、信じられないものを見る顔で私たちを見ていた。
無理もない。
母も発酵に理解がある。
というより、祖母が発酵の人だった。
我が家では、婚約者が変わるより酵母が死ぬほうが緊急事態である。
「ブランシェット伯爵」
ヴァロワ侯爵が低い声で言った。
「まずは婚約の話を」
「もちろんです」
父は真面目な顔に戻った。
「ルシアン殿の申し入れは承ります。ただし、こちらに落ち度があるとは認めません」
「それは」
「婚約者の趣味嗜好を侮辱し、別の令嬢を同席させた上で一方的に婚約破棄を申し入れた。そういう扱いになります」
「父上!」
ルシアン様が声を上げる。
ヴァロワ侯爵は息子を鋭く睨んだ。
「黙れ」
「ですが」
「黙れと言った」
その声で、ルシアン様は黙った。
侯爵はまともな人である。
少なくとも、酵母を置いていけと言った息子よりはずっとまともだった。
「婚約解消については、後ほど正式に文書を交わしましょう」
父が言った。
「それとは別に、マリエルが持ち込んだ品は本日中に引き上げます」
「本日中ですか」
「発酵中ですので」
父は真顔で答えた。
ヴァロワ侯爵は、なぜか少し遠い目をした。
「……分かりました」
「ありがとうございます」
私は深く一礼した。
「では失礼します。酵母が生きていますので」
「待て、マリエル!」
ルシアン様が私を呼び止めた。
「君は本当に、婚約破棄されてそれだけなのか」
「それだけではありません」
「なら」
「チーズも心配です」
「そこではない!」
私は少し考えた。
たしかに、婚約破棄された令嬢として、もう少し傷ついた顔をしたほうがいいのかもしれない。
でも今、地下蔵の温度が下がっている。
蜂蜜酒の樽も、今朝から少し音が変わっていた。
恋愛と発酵を同じ秤に乗せてはいけない。
しかし、急ぐべきものは明らかだった。
「ルシアン様」
私は正直に言った。
「悲しくないわけではありません」
「では」
「でも今は、酵母のほうが急ぎです」
「だからそこが嫌なんだ!」
なるほど。
そこが嫌だったのか。
それなら、たぶん本当に婚約解消でよかったのだと思う。
「分かりました」
私は頷いた。
「では、やはり私たちは合いません」
「何?」
「私は、酵母を見捨てる女にはなれませんので」
そう言うと、ルシアン様は完全に黙った。
小食堂の隅で、誰かが小さく咳をした。
声のしたほうを見ると、灰色の外套を着た男性が立っていた。
北方のノルドヴィーク辺境伯、アーヴィン様である。
彼は、ヴァロワ侯爵家と冬の保存食取引をするために、今日の食事会へ同席していた客人だった。
背が高く、無口で、派手さはない。
けれど、目だけは妙に静かだった。
彼は私と目が合うと、短く言った。
「荷車を出そうか」
「え?」
「うちの馬車は揺れが少ない」
「揺れが少ない」
「ああ。樽を横にしなくて済む」
「……分かる方ですか」
「多少は」
私は胸を押さえた。
危ない。
婚約破棄直後の令嬢に、揺れの少ない荷車を提案するのはかなり危ない。
少なくとも私には効く。
「アーヴィン様」
私は真剣に言った。
「樽の移動を軽率に助けると、発酵沼の令嬢に懐かれます」
「それは困るのか」
「たぶん、一般的には困ります」
「私は困らない」
「……そうですか」
「ああ」
ルシアン様が何か言いたげに口を開いた。
しかし、ヴァロワ侯爵が目で止めた。
賢明だと思う。
今は口論より樽である。
地下蔵へ降りると、空気は思った通り少し冷えていた。
石壁。
木棚。
白い布。
陶壺。
樽。
ほのかな酸味。
乳の甘い香り。
蜂蜜酒の丸い気配。
よかった。
まだ大丈夫だ。
三代目酵母の壺を開けると、表面に小さな泡が出ていた。
私は胸をなで下ろす。
「起きています」
「そうか」
隣にいたアーヴィン様が頷いた。
彼は、蔵へ入る前に外套を脱いでいた。
香水もつけていない。
余計な香りがない。
とてもよい。
地下蔵で香水を振りまく人間は信用できない。
「まず酵母を布で包みます」
「温度を保つのか」
「はい」
「樽は最後か」
「ええ。先に壺と瓶を出します。樽は急に動かすと機嫌を損ねますので」
「樽にも機嫌があるのか」
「あります」
「なるほど」
「笑いませんの?」
「北方では、保存食の機嫌を損ねた者から冬に泣く」
「……分かる方ですわ」
私は思わず声を落とした。
この人は危険だ。
非常に危険だ。
顔が良いとか、家格が高いとか、そういう危険ではない。
発酵の優先順位を理解している人間の危険さである。
荷車は本当に揺れが少なかった。
アーヴィン様の従者たちは、樽を横にせず、壺を布で包み、チーズ箱へ風が当たりすぎないよう手早く積んでくれた。
見事だった。
私は少し感動してしまった。
「よい積み方です」
「冬道用だ」
「北方では皆さま、樽にお優しいのですか」
「優しくしないと割れる」
「人間より正直ですものね」
「樽が?」
「はい」
アーヴィン様は少しだけ口元を緩めた。
「あなたは本当に、発酵が好きなのだな」
「はい」
私は即答した。
「腐っているのではなく、育っているのです」
「それは分かる」
「分かりますか」
「ああ」
「では、ルシアン様より分かります」
「比較対象が低い気もするが」
「今は仕方ありません」
私がそう言うと、彼はとうとう小さく笑った。
よい笑い方だった。
樽のそばで大声を出さないところもよい。
その日のうちに、私の酵母と樽と壺はブランシェット伯爵家へ戻った。
婚約破棄された悲しみは、夜になってから少し来た。
ルシアン様と過ごした二年が、何もなかったわけではない。
彼に褒められて嬉しかった日もあった。
いつか一緒に食卓を作れると思っていた。
でも、あの人は私の地下蔵を最後まで見なかった。
私が何を好きで、何を大切にしているのかも、たぶん本当には見ていなかった。
それは悲しい。
ただ、それよりも確かなことがある。
三代目酵母は無事だった。
チーズも崩れていない。
蜂蜜酒の樽も、夜には落ち着いた音に戻った。
よかった。
本当によかった。
私はその夜、酵母の壺を抱いて少しだけ泣いた。
泣いた理由は、婚約者を失ったことか、酵母が無事だったことか、自分でも少し分からなかった。
五日後。
王都貴族街の共同広場で、秋の収穫祭が開かれた。
収穫祭は王宮主催ではない。
貴族街の複数家が共同で開く、季節の出品会である。
各家が菓子、果実酒、保存食、織物、香草などを出し、客人を招く。
去年まで、ヴァロワ侯爵家の卓で評判だったのは、黒麦蜂蜜パンと、山羊チーズと、林檎酢で煮た肉料理だった。
もちろん、私が仕込んだものである。
趣味で。
本当に趣味で。
褒められたいからではない。
ただ、黒麦と蜂蜜の相性が良く、山羊チーズの熟成が面白く、林檎酢の酸味が肉に合ったから、やっただけだ。
好きだからやった。
それだけだった。
今年のヴァロワ侯爵家の卓には、白い花の砂糖菓子が並んでいた。
見た目は美しい。
エレーヌ嬢が選んだものだろう。
白い花びらの形をした砂糖菓子に、金粉が少し散らしてある。
香りも甘い。
ただし、収穫祭で腹を満たすものではない。
そして、卓の端に置かれたパンは、明らかに膨らみが足りなかった。
私は遠目で見て、思わず目を伏せた。
あれは急いだパンだ。
生地がまだ納得していない。
焼く側が悪いわけではない。
ヴァロワ家の料理長は腕のよい人だ。
でも、三十七年ものの酵母は五日では作れない。
熟成は急げない。
人間関係も、たぶん同じである。
「去年の黒麦パンは?」
「ヴァロワ家の山羊チーズはありませんの?」
「あの林檎酢の香りの肉料理を楽しみにしていたのだけれど」
「今年はずいぶん甘いものばかりですのね」
客人たちの声が、少しずつ広がる。
エレーヌ嬢は笑顔を保っていた。
ルシアン様は明らかに焦っている。
ヴァロワ侯爵は無表情だった。
かなり怒っているときの顔である。
少し気の毒になった。
侯爵は悪くない。
息子の見る目と、発酵への敬意が足りなかっただけだ。
いや、それは家としてはかなり問題かもしれない。
一方、ブランシェット伯爵家の卓には、思った以上の人が集まっていた。
父が、せっかく仕込んだものを無駄にするのはもったいないと言い、我が家の卓で出すことを許してくれたのだ。
黒麦蜂蜜パン。
白布に包んだ山羊チーズ。
小さな杯に注いだ林檎酢の薄割り。
蜂蜜酒を煮詰めたソース。
塩漬けレモンと香草の小皿。
派手さはない。
でも、いい香りがする。
育った香りだ。
「マリエル様、このパンはどちらで?」
「ブランシェット家の酵母です」
「まあ、去年ヴァロワ家でいただいた味に似ていますわ」
「同じ酵母ですので」
「同じ?」
「はい。私が連れて帰りました」
「連れて」
客人の夫人が、そこで少し笑った。
私は真面目に頷いた。
「はい。婚約は解消しましたが、酵母は私の子ですので」
「まあ」
「まあまあ」
笑いが広がる。
馬鹿にした笑いではなかった。
少し呆れて、でも面白がっている笑いだ。
それなら構わない。
発酵を笑う人間には二種類いる。
知らないから笑う人。
少し分かるから笑ってしまう人。
後者は見込みがある。
「マリエル」
低い声に振り向くと、ルシアン様が立っていた。
エレーヌ嬢も隣にいる。
彼女は少し苛立った顔をしていた。
「何でしょう」
「話がある」
「今ですか」
「今だ」
「パンが切れそうなので、少しお待ちいただけますか」
「パンより私を優先できないのか」
「できません」
即答だった。
ルシアン様が息を呑む。
周囲の客人たちが、明らかに聞き耳を立てている。
しまった。
もう少し柔らかく言うべきだったかもしれない。
でもパンは本当に切れそうだった。
「マリエル様」
我が家の侍女が、小さく声をかける。
「追加の黒麦パンをお持ちしました」
「ありがとう。厚さは昨日と同じで」
「はい」
「チーズは薄めに。今日は酸味を先に出したいので」
「承知しました」
侍女が手早く動く。
ルシアン様は、その様子を呆然と見ていた。
「君は」
彼は低く言った。
「本当に、私がいなくても平気なのか」
「平気ではありません」
「なら」
「でも今は、パンが出ます」
ルシアン様は、額に手を当てた。
気持ちは分かる。
私も、自分の優先順位が一般的ではないことは知っている。
「ルシアン様」
私はできるだけ丁寧に言った。
「ご用件は何でしょう」
「……レシピを教えてほしい」
「レシピ」
「黒麦パンと、チーズと、林檎酢の肉料理だ」
「なぜですか」
「来客が皆、去年の味を訊く。料理長も困っている」
「料理長様はお悪くありません」
「分かっている。だから、君が教えれば」
「無理です」
「なぜだ」
「レシピだけでは育ちません」
ルシアン様が黙った。
「黒麦パンは、三代目酵母があってこそです。チーズは蔵の湿度と風の通り方で変わります。林檎酢も、ただ酸っぱい液ではありません。時間が作ります」
「それでも、書けば」
「書いても、五日では無理です」
「……」
「発酵は、急に深くなりません」
私は少しだけ息を吸った。
「たぶん、人との関係も」
ルシアン様の顔が歪んだ。
エレーヌ嬢が横から口を挟む。
「でも、マリエル様だって意地悪ではありませんか」
「私が?」
「ええ。持って帰るなんて。ルシアン様が困ると分かっていたのでしょう?」
「分かっていました」
「なら」
「でも、私のものです」
「そんな壺や樽くらい」
「くらい」
思わず繰り返してしまった。
よくない。
今の声は少し低かった。
発酵物を「くらい」と言われると、私は少しだけ心が狭くなる。
「エレーヌ様」
私は言った。
「壺ひとつに、季節が入ります」
「季節?」
「春に花が咲き、夏に果実が太り、秋に潰して、冬に眠らせる。そうして翌年の香りになるのです」
「……」
「樽ひとつに、手間と時間が入ります」
「……」
「それを、くらい、と言われる場所に、私はもう置きません」
エレーヌ嬢は何も言えなかった。
ルシアン様も同じだった。
少し、言いすぎたかもしれない。
でも仕方がない。
婚約者を奪われることより、酵母を雑に扱われることのほうが、私には腹立たしかった。
「マリエル」
ルシアン様が、ようやく言った。
「戻ってきてくれ」
周囲が静まる。
私は手元のパン切り包丁を置いた。
刃物を持ったまま返事をするのはよくない。
「戻るとは、どこへですか」
「私の婚約者に」
「エレーヌ様は?」
「それは……」
「ルシアン様」
私は首を横に振った。
「酸っぱくなった壺へ砂糖を足しても、元の味には戻りません」
「私は壺ではない」
「はい」
「なら」
「でも、たとえです」
「たとえがひどい!」
「発酵のたとえしか出てきませんので」
周囲の誰かが吹き出した。
ルシアン様の顔が赤くなる。
私は少しだけ申し訳なく思った。
ただ、やはり戻る気はなかった。
「謝罪はお受けします」
「なら」
「でも、戻りません」
「なぜだ」
「私は、カビ臭い女なのでしょう?」
ルシアン様が息を呑んだ。
「それは、言いすぎた」
「はい。言いすぎです」
「マリエル」
「でも、言葉は残ります」
私は微笑んだ。
「酵母ほどではありませんが」
「また酵母か」
「はい」
そこで、背後から低い声がした。
「彼女は発酵にうるさいだけだ」
振り向くと、アーヴィン様が立っていた。
手には黒麦パンの皿。
その上に、山羊チーズと塩漬けレモンをきちんとのせている。
組み合わせが分かっている。
かなり危険だ。
「ノルドヴィーク辺境伯」
ルシアン様が硬い声で言った。
「これは私とマリエルの話です」
「婚約は解消手続き中と聞いた」
「それは」
「なら、彼女の卓で彼女のパンを邪魔する理由はない」
「……」
「パンは冷める」
そこだった。
私は思わずアーヴィン様を見た。
この方は、本当に大事なところを分かっている。
「アーヴィン様」
「何だ」
「今のは、とても正しいです」
「そうか」
「はい。パンは冷めます」
「だから食べる」
彼はそう言って、黒麦パンを一口食べた。
少し黙る。
そして、目を細めた。
「北方の燻製肉に合う」
「でしょう?」
「冬越し用の硬いチーズにも合う」
「合います。蜂蜜を少し足しても良いです」
「うちには、乳用の地下蔵がある」
「乳用」
「肉用もある」
「肉用」
「果実酒用もある」
「果実酒用」
「それから、試験用に温度を半度ずつ変えられる小蔵が二つ」
私は皿を落としかけた。
侍女がすばやく受け止めてくれた。
ありがとう。
危なかった。
「アーヴィン様」
「何だ」
「収穫祭の場で婚約破棄直後の令嬢に地下蔵の話をするのは危険です」
「また危険か」
「かなり危険です」
「なぜ」
「効きます」
「そうか」
「はい」
アーヴィン様は少しだけ考えた。
「では、順番を改める」
「順番?」
「ああ。まず、あなたの黒麦パンを正式に買いたい」
「正式に」
「北方の冬市へ出したい。保存食との相性を見たい。もちろん代金は払う」
「代金」
「それから、あなたがよければ、うちの地下蔵を見に来るといい」
「地下蔵を」
「婚約の話は、そのあとで考える」
「順番が悪いです」
「まだ悪いか」
「はい」
私は胸を押さえた。
「地下蔵を先に見せられると、判断が鈍ります」
「では、婚約の話を先にするべきか」
「それも早いです」
「難しいな」
「発酵と同じです。早すぎても遅すぎてもいけません」
「なるほど」
アーヴィン様は真面目に頷いた。
周囲の客人たちは、明らかに面白がっていた。
ルシアン様は完全に黙っている。
エレーヌ嬢は、花の砂糖菓子の前で立ち尽くしていた。
その日の収穫祭で、ブランシェット伯爵家の卓は早々に完売した。
ヴァロワ侯爵家の卓は、見た目こそ美しいままだったが、客足はまばらになった。
後日、ヴァロワ侯爵家から正式な謝罪状が届いた。
婚約解消は、ルシアン様側の一方的な申し入れとして処理。
侮辱と婚礼準備の中断について、違約金も支払われることになった。
ルシアン様はしばらく領地の穀物倉と厨房で、食材の基礎を学ばされるらしい。
それが罰なのか教育なのかは分からない。
ただ、穀物に罪はないので、雑に扱わないでほしいと思った。
エレーヌ嬢は、しばらく社交を控えることになったと聞いた。
彼女が悪女だったかと言われると、少し違う気がする。
彼女はたぶん、花の香りが勝つと思っていただけだ。
ただ、収穫祭で人が求めるのは、花の香りだけではなかった。
それだけのことである。
アーヴィン様との取引は、父の同席のもとで正式に進められた。
北方の冬市へ、ブランシェット家の黒麦パンと山羊チーズを少量出す。
私はその試作責任者になった。
責任者。
よい響きである。
婚約者より、少し発酵に近い。
それから一月後。
私は父母と護衛つきで、ノルドヴィーク辺境伯領を訪れた。
北方の空気は王都より冷たかった。
木々は低く、風は強く、道端の草にも霜が降りている。
でも、屋敷の地下蔵へ案内された瞬間、私は寒さを忘れた。
石壁。
厚い扉。
低い天井。
静かな湿度。
木の棚。
吊るされた燻製肉。
白い布に包まれたチーズ。
琥珀色の果実酒。
温度の違う小部屋。
小さな通気口。
そして、余計な香水のない空気。
いい。
かなりいい。
「危険です」
私は言った。
隣のアーヴィン様が、もう慣れたように頷く。
「帰りたくないのか」
「はい」
「そう言うと思った」
「どうしましょう」
「泊まればいい」
「お父様とお母様の許可が必要です」
「それは取ってある」
「手回しがよろしい」
「樽の移動と客の滞在は、段取りが大事だ」
「本当に危険です」
私はまた胸を押さえた。
この人は、発酵以外の言葉で発酵に寄ってくる。
かなり危険だった。
「マリエル」
アーヴィン様は、乳用地下蔵の前で足を止めた。
「はい」
「私は、あなたが酵母を優先するところを面白いと思っている」
「面白い」
「ああ」
「褒め言葉ですか」
「そのつもりだ」
「なら受け取ります」
「あなたは、カビ臭い女ではない」
「では何でしょう」
「発酵にうるさい女だ」
「正確です」
私は深く頷いた。
「たいへん正確です」
「それから」
「はい」
「私は、そういうあなたと一緒に冬を越してみたい」
地下蔵が静かになった。
もともと静かだったけれど、さらに静かになった気がした。
遠くで水が落ちる音だけがする。
私は、吊るされた燻製肉と、布に包まれたチーズと、目の前の男性を順番に見た。
順番としては、少し失礼かもしれない。
でも、これが私である。
「それは」
私はゆっくり言った。
「求婚でしょうか」
「そうだ」
「地下蔵で?」
「あなたには、ここが一番効くと思った」
「効いています」
「ならよかった」
「よくありません。判断が鈍ります」
「鈍った返事でもいい」
「だめです」
私は首を振った。
「発酵も返事も、急ぎすぎると失敗します」
「では、待つ」
「どれくらい?」
「あなたが納得するまで」
「酵母の様子を見ても?」
「見てからでいい」
「チーズの棚も?」
「見てからでいい」
「果実酒用の小蔵も?」
「もちろん」
「……アーヴィン様」
「何だ」
「かなり本気で危険です」
「それは、いい意味か」
「はい」
アーヴィン様は、少しだけ笑った。
私は深呼吸をした。
地下蔵の空気が胸に入る。
冷たくて、湿っていて、静かで、時間の匂いがした。
たぶん私は、こういう場所で生きていくのが好きだ。
派手な花の香りより、ゆっくり育つものの匂いが好きだ。
それを変だと言わず、むしろ蔵ごと見せてくれる人がいる。
それは、とても大きなことだった。
「お受けします」
私は言った。
「ただし、条件があります」
「聞こう」
「結婚後も三代目酵母は私の管理です」
「もちろん」
「地下蔵の通気口を勝手に閉めないでください」
「相談する」
「チーズの表面を見て笑わないでください」
「笑わない」
「夜中に壺の音を聞きに起きても驚かないでください」
「努力する」
「そこは受け入れてください」
「受け入れる」
「それから」
「まだあるのか」
「はい」
私は真剣に言った。
「私がパンよりあなたを後回しにする日があるかもしれません」
「知っている」
「いいのですか」
「パンは冷める」
だめだった。
私は少し泣きそうになった。
婚約破棄された日には、酵母の壺を抱いて泣いた。
今度は、地下蔵で泣きそうになっている。
でも、ここで泣くと鼻が詰まる。
地下蔵の香りが分からなくなる。
それは困る。
「泣いてもいい」
アーヴィン様が言った。
「でも、鼻が」
「蔵は逃げない」
「……それもそうですね」
「樽も待っている」
「はい」
私は少しだけ笑った。
それから、本当に少しだけ泣いた。
湿った地下蔵の空気の中で、アーヴィン様は何も言わずに待ってくれた。
慰めの言葉はなかった。
代わりに、私の三代目酵母を置くための棚の位置を、あとで一緒に考えてくれた。
たぶん、私にはそちらのほうがずっと嬉しかった。
王都では、今でもときどき私の噂が流れるらしい。
カビ臭いと言われて婚約破棄された令嬢。
婚約破棄の場で酵母を起こしに行った令嬢。
元婚約者より樽を優先した令嬢。
北方辺境伯の地下蔵に釣られた令嬢。
どれも、だいたい合っている。
少しだけ言い方がひどいけれど、間違ってはいない。
だから私は、訂正しない。
ただ、もし誰かがこう言うなら、そこだけは直すつもりだ。
カビ臭い女。
それは違う。
私は、発酵にうるさい女である。
そして近いうちに、発酵にうるさい妻になる予定だ。
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