第一話
第一話
「あー、うー」
己の口から漏れ出た、ひどく間抜けで、意味を持たない濁音……という名の、赤ちゃんとしての演技。本当は、ちゃんと喋れるんだけれど、年相応の対応をしてるわけだ。我ながら、良い出来でちゅね(キリッ)。
視界はというと、まだ、うまく焦点が合わない。網膜に映り込むのは、純白の天井と、そこを規則正しく這うように動く魔導空調システムの淡い光の帯だ。
ひんやりとした処刑台の感触も、カブトムシのモノマネをしているエリーゼの影も(似たようなことをしている変人はいるが(笑))、焦げた血の匂いも、ここにはない。
「あー、テレビでもみじ饅頭やってる。懐かしいわねえ……」
重苦しい俺の思考と慣れない赤ちゃんプレイをぶち壊してくれたのは、ひどく間の抜けた、しかしどこか甘ったるい声だった。つまり、赤ちゃんプレイにも勝る、狂気ってやつだ。
ーー新手か。
俺は、おぎゃおぎゃおぎゃばぶばぶばぶおぎゃおぎゃおぎゃというモールス信号に似たナニカを口ずさむ。モールス信号はもちろん、この日本に来てから、テレビで学んだことだ。
そして、それと同時に、心の中でふつふつと燃え上がる対抗心を燃やす。
そんな俺の高度な赤ちゃんプレイに対して、声の主は、更に高度な母ちゃんプレイの使い手だ。
彼女は、俺が赤ちゃんプレイをすると、俺の真似とか言いながら、同じように『おぎゃあ!』という甲高い奇声を上げながら、リビングを寝転がり続ける。きっと、あれは素だろう。いつものことだ。
そして、我が家では、その現象を利用して、母さんの腹にクイックルワイパーを巻いて、転がらせることで、リビングのゴミを掃除できるという画期的な作戦を、よく実行している。発案者は、父さんだ。
改めて、紹介しよう。ソファで寝転がってポテトチップスを齧っている、俺のこの世界での母親、桜子だ。
彼女の周囲には、無意識に漏れ出た規格外の魔力がオーロラのように揺らめき、空間をわずかに歪ませている。
「お母さんね、幼稚園の時にテレビでこの『もみじ饅頭』の特集を見てね、すっごく美味しそうって思ったのよ。だからお外に出て、庭に落ちてたカピカピに枯れたもみじの葉っぱを拾って、そのまま口に入れてむしゃむしゃ食べたのよねぇ」
「……」
「パリパリしててね、土と虫の味がして。あぁ、これが秋の訪れと人生の渋みなんだなって、幼心に絶望の味を知ったわ……」
「ただの落ち葉だよ!! それただのゴミ拾って食べてる奇行児だからね!?」
キッチンから、エプロン姿の父・ノイマンがフライパンを持ったまま飛んできた。
彼はこの魔法至上主義の現代において、一切の魔法が使えない数少ない「完全無魔力者」だ。だが、この家の実権と、崩壊しかかっている常識という名のストッパーは、間違いなく彼がたった一人で握っている。
「あら、そんなに怒らないでよダーリン。お腹空いたわ。あ、こんなところに板チョコがあるじゃない」
母はふわりと指先を動かした。すると、空気が捻じ曲がり、テーブルの向こう側にあった分厚い封筒が瞬時に彼女の手元に転移する。
それは、父が今日銀行から下ろしてきたばかりの、六万円の札束だった。
母は、何の躊躇いもなく、その札束の角にガブリと噛み付いた。
「んんっ……カカオ100%かしら? 全然甘くないし、すごくパサパサしてるわ。それに、なんだか偉そうなヒゲのおじさんの味がする……」
「それは家賃と生活費だぁあああ!! 吐き出せ! ペッてしろペッて!! なんで最強の魔女が、札束とビターチョコの区別もつかないんだよ!」
父が半狂乱になって母の口から札束を引き抜こうとする。母は「えー、でも食物繊維たっぷりよ?」などとわけのわからない供述をしながら抵抗している。
俺は、ベビーサークルの中から、よだれを垂らしながらその喜劇を眺めていた。
『――続いてのニュースです。現在、国家を挙げて開発が進められている統合魔導AIですが、専門家の予測によりますと、今後10年以内で自律的な論理拡張、いわゆるシンギュラリティに到達する可能性が……』
誰も聞いていないテレビから、キャスターの無機質な声が流れる。
『AI』。そして『論理拡張』。
その単語を耳にした瞬間、俺の脳裏に、すべてを焼き尽くしたあの巨大なキノコ雲の映像がフラッシュバックした。
前世の記憶。そして、幼馴染で恋仲だった『エリーゼ』をこの手で殺さなければならないという決意。
あの悲劇の元凶となったシステムが、この平和な世界にも確実に産声を上げようとしている。
俺は、小さな積み木を、指が白くなるほど強く握りしめた。
狂っていて、呆れるほど平和で、眩しすぎる日常。
俺の血にまみれた過去とは正反対のこのトチ狂った両親の笑顔だけは、10年後の破滅から、俺が絶対に守り抜いてみせる。




