雪山の黙想
険しい山の中、掘っ立て小屋の中である老人がやることもなくむしろの上に座っていた。もはや、今日を過ごすのに必要な支度を済ませてしまったのだ。
ムルイは、もっと遠いところに行きたかったが、彼の体力では人里離れた山奥に行くくらいがせいぜいだった。
獣だけでなく人間も脅威であるこの時代、いつまで生きられるかもわからない。だが、そんなことはもう問題ではない。
ああ、ここでは神々が目の前にいる。
見えるものも、見えないものも含めて、すべてが自分を包みこんでくれる。
彼は静かに、ここまで来るまでの半生を目を閉じながら思い返すことにした。
ムルイとは彼の母語で「家畜の糞尿に残った種」を意味する。
ムルイの部族には、悪霊を避けるためにわざと汚い言葉を子供の名づけに用いることがあったらしい。
そういう名前であることにさほど嫌さは感じなかった。むしろまっとうな意味だったとしたら、思い入れも感じなかったことだろう。
親がこの名前を付けたのは、ごく自然なことだろうと彼は思う。ムルイの親は精霊や神との関係を取り持つために、住民の願いを聞き届けてさまざまなまじないを行っていた。物心つく前からそれを目にする中で、ムルイはおのずから神々を敬う心を身に着けるようになった。
そんなムルイの、信仰心以外の自慢といえば、土器の突起や文様についての詳しい語彙を知っているということだ。かつては、どこにでも壮麗な模様と輪郭の壺や器が棚に並んでいた。
ただ、数十年前から遠国由来の土器――より高温で焼き上げているらしい――が入ってからというもの、この村での土器の技術はやや怪しくなっていた。みな、輸入品を好んで用いるようになったからである。
「最近の若い奴は、土器に関する単語を少ししか知らない。大まかな単語でしか話せない……」と古老がぼやいていたことをよく覚えていた。
彼の家のすぐ近くに土偶の工房があった。土偶は神々を象徴するものであり、水の神をかたどったものもあれば、火の神をかたどったものもある。そしてどれもが祭りや儀式の際に持ち出され、神の力や権威を象徴するものとして丁重に扱われていた。ムルイはその種類も、土偶ごとにどんな名前がついていたかも知っている。
ムルイの知っている世界は広い。
野原を横切る川をさかのぼった先には大地に穿たれたように広がるウルペヤッキ海があり、東から西にかけて覆うカムルスイ山にひそむ鹿や猪についての話を事細かに聞いたものだ。いつも、狩りの季節が終わる時には、力のある男たちが獲物の骨を土に埋める。命を奪うことがどれだけ痛ましいかを思えば、そのままにはしておけないからだ。
ムルイは親の仕事を継いで、村の祭祀を執り行う責めを負わされた。人間がこれからも生きていけるように、動物を悼む祭祀を特に彼は定期的に行わねばならなかった。
ムルイは何人か子供がいたがどれも若死にしてしまった。人間が物心つくまで生きていること自体、殊勝なことだ。
だから彼の村にいる家族で、直接血のつながりのある人間はほとんどいない。
ヤムキは娘同然ともいえる存在だった。だからムルイはヤムキをかわいがった。生まれて六年が経つ頃、ヤムキは村の祭祀を担う人材として選ばれた。
彼らの慣習では、いちど巫女となった者は厳しい戒律を終生守らねばならず、人目を忍んで生きなければならなくなる。
刺青をして、特殊な顔立ちとなり、神々に舞をささげながら。
ムルイは一年に数回しかヤムキと会えないのが心もとなかった。ムルイ自身は村の祭祀に携わる者であるから、ある程度は彼の姿に近づくことが許されたのだ。だが、祭祀に選ばれた者に関しては概して強い戒律が課せられていた。
平和な時代は突如終わりを告げた。
侵入者がやってきたからだ。彼らのことについてムルイはよく知らなかったし、詳しく知ろうとも思わない。ただ一つはっきりとしているのは、彼らがはるか西から、海を越えてやってきたということだ。
もう何十年目も前から彼らのことについては聞かされていたが、まさか自分たちがその襲来を目の当たりにするとは夢にも思わなかった。
侵入者がムルイの村に押し寄せてきたのは単なる気まぐれなどではない。明らかに、ムルイたちの同族が招いたとしか思えなかった。
彼らは剣や弓矢の扱いを心得ており、戦いを事としている。何より粗暴で、同胞同士ですら殺しあっている。
連中は確かに恐ろしいが、利用すればこれほど便利な存在もない。
ムルイには思い当たることがあった。ムルイの村と、隣の村を水源を巡って対立が生じていた。だから、隣の村が無理やりにでもこの問題を解決するために奴らを呼び寄せたのだ。
だが侵入者は欲深く、利用されるだけでは飽き足らず、ついに二つの村を両方とも征服するに至った。
ムルイの同胞は今ではほとんど故郷を離れてしまった。侵入者から逃げるように、東を目指して逃げ散ってしまった。
今では、この地に残るのは、が侵入者の子の妻となった親戚の一人娘ヤムキか、その他数人しかいない。誰もが、故郷に残りたくて残ったというよりは、やむにやまれぬ理由で残らざるを得なかった者たちだ。
彼らの指導者は、『ピコ』『キミ』という称号で呼ばれていた。ムルイにとっては、彼らに関するあらゆる単語が奇異な響きとして聞こえた。
そして最近父親から位を継いだ、若い男が彼らを率いていた。
本名は、ワカタケルといった。ワカタケルはムルイたちとは明確に顔立ちが違い、ほっそりとした頬で、眼窩は細く、より肌の色は薄かった。
侵入者の忌まわしい支配はムルイの信仰にも及んだ。
ひたすらに草木や獣に宿る霊性をもてなし、つつましく暮らしていたムルイのもとに、ある使いが来てこう言った。
この地に、彼らの神々を祭るための神殿を築くので、儀式の案内をしてほしいのだと。ムルイはそれを知って、ひどく恐怖に駆られたものだ。自分たちの信じるこの世界の力や理を、恐れない者がいるとは!
先祖伝来の神々の聖地を、新たに彼らの信仰で満たすつもりなのだろう。そうなると、自分がこれまで信じて疑わずにきた価値観を揺るがされる気がして、ムルイはひどくおののいた。
けれども、もはや誰もそれを邪魔できない。
兵士につれられ、ワカタケルの館の前に来た。
ヤムキのあのほがらかな笑顔をそこからうかがうことは難しかった。
「ご主人様の元に案内いたします」
矢来で囲まれた中にある、横に広がった茅葺の家の前にムルイは案内された。
そして部屋の中心で、わらの上にどっしりと構えた男を見た。
ワカタケルは、まさに彼らの典型的な顔立ちをしていた。
きりっとした目で、細い頬。だがそれに比して肩幅は広く、どっしりと構えている。だが、単に屈強なだけではない。彼の姿勢はやや曲がっており、首元にも歪みが見える。それがまさに、彼が生きてきた道の険しさを無言のうちに伝えていた。そして、髪の毛を両端にたばね、ひもで結っていた。それはムルイが目にしたことのない髪形だった。
ヤムキは深く一礼を捧げた。ヤムキが彼のもとでどんな扱いを受けたかなど、ムルイは想像したくもなかった。
ムルイはヤムキが通訳をするのではないかと思ったが、先に話し出したのは向こうの方だった。
「あなたがここの住人か」
ワカタケルは流暢にムルイの言葉で話した。
「わかるのか?」
「傭兵隊長だからな。お前たちの言葉にはよく精通しているんだ」
ワカタケルは言った。
「俺を憎んでいるか?」
ムルイははぐらかすように、
「ここを捨てねばならなかった人間は、なおさら憎んでいるだろうさ」
ワカタケルはムルイに顔を近づけた。顔立ちも、髪型も全く違うムルイを、異物であるかのように見据え、
「だが、俺たちはもっと憎んでいる。何せ俺たちはずっと昔から、どこにいようがよそ者と扱われて、しいたげられ続けてきたんだ。だから、少しくらい虐げる側に回ってもいいだろう?」
「虐げられ続けてきた……」
「俺たちの先祖はずっと逃げ続けてきたんだよ。この島々にわたるずっと前から、周囲の脅威からこせこせするように逃げ回り続けてきたんだ。そして、とうとう安息の地を見つけた。もう、これ以上逃げることはしたくないんだ。俺たちにだっていつく場所が欲しい」
ムルイには、ワカタケルの言い分がよくわからなかった。
ようやく安住できる場所を得たというのはそちら側の言い分であって、結局ここに元からいる人間があらたに逃げ回る羽目になったではないか。それでは一体、何が変わったといえるのだろう。
「しかしここは、私たちの土地だった場所だ」
「そう、お前たちの土地だ。だから、土地の神と話をして、継承せねばならん」
ムルイは忸怩たる思いだった。彼らは神を汚すようなことを言っている。しかしそれが許されているのは、彼らが勝利したからだ。
神々が我々を見放したのは事実だ。彼らが勝っている以上、確かに神々はかつての住民を見放している。
ならば、彼らに対してこの大地の霊力を譲るのは当然の道理。人間としてはどれだけ悔しくても、神々の望みであるならしかたない。
ムルイとヤムキは儀式を執り行った。それは先祖代々受け継がれてきた神々の祭祀の継承であったが、違うのは、自分たちではない者へ、神々とつながる資格を譲るということだ。これまでは、村の古い世代から新しい世代への継承だった。だが、もうそれは二度とない。
火の前に二人は立った。薬草や動物の体液を混ぜて作られた薬をかぎ、二人の意識は通常とは違う状態になっていた。
ムルイは先祖代々の呪文を唱えた。もはや古い言葉であり、ほとんど意味が分からなかったが、彼の意識はこの時だけ神と同期していた。しかしこの神とつながっている感覚が、この時だけはかつてのような充実感をもたらすことはなかった。
ヤムキが舞を踊った。神々の意思が、これまでとは違う形で下り、二人はその衝撃に身もだえしながら、彼らの意思に全身全霊を傾け続けた。
神々が自分たちの元にいながら、もう私たちに目を向けていない、この変化にムルイはしかし、うなずかざるを得なかった。神を敬う者として、その意思を恨むことははばかられた。
儀式が終わった。もうあたりは夕暮れと闇に染まりつつあった。
ワカタケルの側には小さな少年が伺候していた。元々は捕虜であり、南のヤマトという国からやって来たそうだ。ムルイは彼らの間でも変わらず戦争があることを察した。
「さあ、これで終わりだな?」 ムルイは、彼らに対してへりくだるような態度は一切取らなかった。神々から見放された者が、人間にろくな扱いをされるとは期待しないことだ。
「そう言いたい所だが、まだお前たちに見せたいものがある。私の戦友たちを見てやってくれないか」
ワカタケルは聖地の外れへと彼を案内した。
ワカタケルの父は木立の中で土に帰るのを待っていた。
遺体を埋葬もせず、腐敗したままにしていた。一体、悪霊にとりつかれて暴れだしたらどうするのだろうか?
彼らは遺体を折曲げ、棺に入れて埋葬するとワカタケルは説明した。その遺体はどれも見るからに痛々しく、恐ろしい風貌を放っていた。ムルイにはそれが異様な物に見えた。
「この中には先の戦いでの戦死者がいる。彼らとともに埋葬したいのだよ」
死者の誉れのためだ、とワカタケルは付け加えた。
その時この若い征服者は、弱弱しい顔をしていた。彼もまた、死者の霊を恐れているのだ。
ムルイは彼に、何か共通するものがあるような気がして恐ろしくなった。この男は豺狼そのものだ。側近が、彼に親しみを感じ、陶酔してしまっているのを見ると、なおさら嫌悪感がつのった。
誰もが沈黙していた。きっとそこには自分が殺してきた者たちへの慟哭など混じっていない。
そしてワカタケルが沈黙し、痛切に同胞の死を悼んでいるこの光景にもまた、ムルイは心から同情することなどできなかった。彼らは、敵に対してそのような憐れみを向けることなど一切ないのだから。
一連の儀式が終わると、ワカタケルは再び豪快な人間に戻り、屋敷の庭で焚火をかこみながら仲間たちと酒杯を酌み交わした。ムルイもヤムキも、侵入者の宴をむなしい目で眺めていた。この屈強な男たちの間にとても割って入る度胸などムルイにはなかった。
ムルイはこの隙に、娘に声をかけた。
「ヤムキは、これをおかしいとは思わないのか?」
ヤムキは、まだ冷たい顔をしたままだった。あんな赤ん坊から、これほど険しい顔つきの少女になるとはムルイは信じられなかった。
「神々はいまだに私たちの周りにいるのに、もう私たちに心を向けていない。神々の意思が私たちから去ってしまった。恐ろしいことだ。そして神々は彼らのもとに行ってしまった。こんな恐ろしい奴らのもとに。どうしても理由がわからない」
理由を聞いているわけではなかった。ただ、娘同然の少女に、内面をとにかく漏らさずにはいられなかった。
ヤムキの瞳に、一瞬だけ昔の面影が浮かびそうになった。しかしまばたく前に、また今のヤムキに戻っていた。
「……そうではないのです。彼らは、私たちと違う神々を信仰しているのです」
「違う神?」 ムルイは、思いかけずに尋ねた。
「彼らの神が強いと知った時から、私の心は彼らにひかれてしまいました。もう私は、昔の子供には戻れません……」
ヤムキはこのような表情をする人間ではなかったはずだ。
ムルイは、彼らの野蛮さに汚されたからだとばかり思っていた。しかし、彼の話を聴いたとき、それは違うと思いいたった。
「あのお方は私たちの伝来の儀式を絶やそうとするおつもりなのです。人間に対する哀れみなど少しも催そうとしない」
ヤムキは悲しげに言った。
「彼らがこの大地に持ち込んでから、全てが変わってしまいました。確かにこれまでも争いはありましたが、今はもう、全てが違う。彼らは消し去っているんです」
「彼らは残忍で野蛮な方々です。もう、どれだけの戦争で集落が焼かれたかわかりません。もう、人々は自分たちの神のためなら、相手の神を否定しても構わないと思うようになってしまったのです」
ただならぬ危機感が、女の声には宿っていた。ムルイは、当惑した。
人間というものは、ただ脆く、神にすがらなければ生きていけないだけの弱い存在ではなかったのだろうか。
神に、彼らへの権威を譲るように願っていたと思っていたら、彼らは神々その物を破棄しようとしているのか?
いや、違う。もっと別のことだ。それも、恐ろしい何か。
少女の瞳に、深い闇が落ちた。それをムルイは直視できなかった。
その次の日から、土偶が次々と小屋から運び出され、槌や鑿でたたかれ破壊された。旧来の祭祀に使われていた土器も無事ではすまなかった。
もはや、その像から霊力は消え去ったのだ。祭られる意味を失ったのだから、もはや存在する価値はない。残しておくと、悪霊に憑かれるかもしれない。
聖地だけが、主人を変えてそのまま残された。かつての神々が、恩恵を与える対象を変え、そこにとどまった。
少年がムルイの横に並んだ。
小姓の少年だ。ムルイを見上げ、やはり彼の言葉で――ワカタケルに比べるとそこまで発音は流暢ではなかった――丁寧に答えてくれた。
「悪く思わないでください。僕の集落が襲われた時も、同じことが起きたのです」
「君の名前は?」
「トゥティグモと申します、オビトとも呼ばれていましたが、彼らは私に別の名前を与えました」
少年は、そう多くを語らなかった。しかし、ムルイと同じ感情を覚えていることだけは確かだ。
ムルイは、この先この大地で同じことが繰り返されるのではないかと思い、悪寒が止まらなくなった。カムルスイ山が、以前より険しく見えた。そこは昔から死者の住まう場所だと信じられていたが、あの山の住人もきっと厳しい目つきで生きている人間をにらんでいるに違いない。
なぜ神々が彼らに勝利を与えたのかムルイにはわからなかった。どう見ても彼らは粗野で野蛮でしかなく、到底この大地を明け渡すに足る存在とは見えない。
しかし彼らの神々はどこか遠く、山の向こうにいるらしい、ということだけはわかった。彼らの神々は、ごく身近にいる存在ではない。何より奴らは、神を動かしているようにも思える。原住民が常に、神に動かされる者として自分たちを規定していたのとは対照的だ。しかしそれは彼らが神々を侮っているからではない。神々の力は絶大だ。だからこそ、彼らは彼らを恐れ。何とか取り入って自分たちの意思に沿うように動いてもらおうと必死なのだ。
そして古き神々も彼らを見放し、その神々を語る言葉も絶えてなくなりそうになっている。
自分たちの世界を説明する言葉がなくなるということは、この世界が自分たちのものではなくなるということだ。神々の加護が、今度こそ本当に消えるということだ。
そしてムルイは、気づいたのだ。この世界には、神々の対立が存在すると。神々とは絶対的なものではないと。
それが恐ろしくて、ムルイは逃げた。ヤムキにも、別れの言葉は言えなかった。
今、ムルイはヨゴの雪山の中にいる。
険しく、命の保証はないところだ。だが邪魔する人間もいない。
熊や鹿の声を聴きながら、ムルイは何かの霊感を受けた。
神々は無数に存在する。たとえ数柱の神に拒まれようと、後ろを向けばまだ見ぬ神々がいる。
だが、そこに来客が現れた。より遠くへと逃げ出した者たちが、ここまで戻ってきたのだ。
彼らは懇願するようにいった。
「僕たちのところに来てくださいませんか。僕たちにはムルイおじさんの力が必要なんです。祖先の祭祀を続け、神々に私たちの存在を許してもらわなければ……」
ムルイは、そう多くのことを彼らに聞こうとはしなかった。きっと語るのも嫌なはずだから。
ヤムキのあの顔を思い出せば、ろくなことではないのは確実だ。
「いいさ。もう私はここにいることにする。この世界は神々の世界だ。たとえ目の前の神々に嫌われても、別の神々にすがればいいだけのことだ」
「しかし、それでは!」
「神は変わらないさ。人だけが変わる」
ムルイの心は変わらなかった。結局一行はそこからすごすごと立ち去る他はなかった。
彼は、同胞の後姿を、完全に消え去るまでずっと後ろから見守っていた。本当は、ついていきたかったのだ。彼らのことを見放したくなどなかった。
ムルイは、自分の同胞の間にもいずれ侵入者の悪習が広まり、不毛な流血が起きることを危惧していた。
ゆえに、人々と交わることを避け、たとえ顔を向けてくれなくとも、そこにいてはくれる神々と向き合うことを選んだのだ。そしてそのためには、結局人との交わりを捨てる他はなかった。




