ねぼけちゃん
「お、おまえ今日いなか路線ったい。今日は起きれんさっかな、ねぼけちゃん。」
市内循環バスの事業所内で担当ダイヤ表を見ていた先輩がにこにこしながら俺の顔を覗く。
「どがんですかね。最近急に寒くなってきたけん難しかかもしれんですばい。」
俺は九州の田舎で市内循環バスの運転手として働いてる。働き始めて今年で31年目になる。もう50過ぎになるがこの職場ではまだ若手扱いだ。若い連中は進学や就職のタイミングで都会へ出ていくし、山に箱罠を置けば翌日イノシシがかかっているようなド田舎では、それも仕方ないのかもしれない。
今日の担当は山中路線。運転手の間では“いなか路線”と呼ばれている。名前の通り山間部を走るルートで、あまりにも山奥を通るせいか、うちの会社のGoogleマップには「拉致されてるのかと思うほど山奥でしたが、ただ田舎を走っているだけでした」と書かれた口コミが残っている。俺たちは腹を抱えて笑ったが、確かに言い得て妙だ。
山中路線は一日に五本しか走らないが、買い物や通院に使うお年寄りの大切な足だ。そんななか、三年ほど前から毎日この路線を利用する中学生の女の子がいる。髪をひとつに結んだ真面目そうな子で、運転手の間では“ねぼけちゃん”と呼ばれている。
理由は単純で——朝がとことん弱いのだ。
その子の家とバス停は30秒ほどでかなり近い。なぜ運転手の俺がその子の家を知っているかというと、毎朝玄関からバス停まで全力疾走してくるからだ。バスに乗り始めた当初は時間通りにバス停に立っていたが、ねぼけちゃんが中学に入学して日を重ねるごとに慌ててバス停まで走ってくる日が増えた。時には、走るバスに向かって大きく手を振り、「わたし乗ります!!」とアピールしてくる。それに気づいた運転手たちは慌ててバスを停める。すると小さな肩を上下にさせて「お、おはよ...ございます.......」と言いながらバスに乗り込んでくる。その光景があまりにも可笑しく、普段お年寄りを乗せることが多い運転手にとっては印象に残るのだ。おそらくその子は朝が弱いためバタバタ乗ってくるのだろうという俺たち運転手の勝手な想像から"ねぼけちゃん"と呼ばれている。
運転手たちも鬼ではない。ねぼけちゃんが姿を見せない日は、バスを少し減速させて玄関から飛び出してくるのを待つ。ひどい日は、バス停でしばらく待ってあげる運転手もいる。七時台の便は利用客がほとんどいないため、もはや“ねぼけちゃん専用便”と化していた。
しかしそこまでしても、ねぼけちゃんの朝の弱さに敵わない日もある。そんな日は、なんとねぼけちゃん母が登場。エプロン姿で玄関から出てきたのち、申し訳なさそうに頭の上で大きなばってんをつくるのだ。つまり「本日うちのねぼけは寝坊したためバスには乗りません。」という意味だ。まさかの母登場に運転手たちはさらに盛り上がった。「いやぁねぼけ母の出てくるっとはさすがに想像しとらんやったばい」「おいはまだねぼけ母見とらんっちゃけど!」。そんなこんなでねぼけちゃんは運転手たちの仕事をささやかながら彩っていた。
そんなねぼけちゃんだが、今日は珍しくバス停に立っていた。やるじゃないかとと思いながらバスのドアを開けると「おはようございます。」と澄ました顔で乗車してくる。普段は息を切らしながら乗ってくるのに、今日は何事もない表情で乗ってくるあたりが微笑ましい。俺も何事もなかったようにバスを走り進める。ねぼけちゃんはいつも通り外を見ては眠そうにしていた。そうしてるうちにねぼけちゃんの降りるバス停に着き、バスを降り学校へ向かっていった。
その後、俺はいつも通り仕事をこなした。残るは山中路線最後の運行となる18時台のダイヤ。ねぼけちゃんはいつも学校終わりにこの時間のバスに乗ってくる。今日もいつも通りバスに乗ってきた。帰りはさすがに全力疾走してくることはない。今日はねぼけちゃんのほかにも買い物帰りのおばあちゃんが1人乗ってきた。ここ数日で寒くなってきたこともあり、おばあちゃんは10月末にしてすでにマフラーを巻いている。山中路線のような山間部の田舎の夜はかなり冷えるため、防寒するに越したことはない。車内の暖房もオンにする。
「さむーなってきましたけん暖房ばすこし強めに入れとるです。もし暑すぎるごたーでしたら言ってくんしゃいね。」
紫のマフラーを首に巻いたおばあちゃんが、はーいと返事してくれる。いつも通りの平穏な運行である。
おばあちゃんが降り、車内が静かになった頃だった。
ガタン。
振り返ると、ねぼけちゃんが窓に頭をぶつけている。どうやら眠っていたらしく、その衝撃で起きたようだ。そして同時に、俺は気づいた——ねぼけちゃんの降りるバス停を通り過ぎていた。
「あんたまだ乗っとったとねぇ!!あんたの家通り過ぎてしまったたい!ごめんねぇ、おじさん気づかんやったばい!」
ねぼけちゃんの顔を見ると寝過ごしたことに気づき、困惑と焦りの表情を浮かべている。ねぼけちゃんの家からはだいぶ遠くまで来てしまっていたこともあり、今にも泣きだしそうだ。
「どがんしゅうか...あんたの家通り過ぎてしまったね......家の人に連絡取れるね?」
不安そうな表情のねぼけちゃんが首を横に振る。
「そがんねぇ...今からこのバスであんたの家まで送ってあげられれば良かっちゃけど、路線バスやけんそがんもいかんさねぇ。もしかしたらバスに乗る人のおるかもしれんけんねぇ。」
ねぼけちゃんの顔がどんどん曇っていく。ここは九州の田舎。家は50mほどの間隔でまばらに建っており、みんな基本的に車で移動するため歩道もない。加えて道路のすぐ横は山である。夜19時に差し掛かり辺りも真っ暗だ。初めて山中路線を経験した乗客が”拉致される"かと思ったほどの田舎である。いくら地元とはいってもねぼけちゃんが不安になる気持ちに無理はないだろう。
「そいぎんたぁね、おじちゃんバス終点まで行ってさ、仕事終わってからあんたば家まで送るけん。そいでも良かかね?」
ねぼけちゃんの顔が一瞬明るくなる。しかし再び眉間にしわが寄る。
「......良かとですか?」
「良かさぁ、おじちゃんが家まで送ってあげるけん安心しんしゃい。大丈夫やけん。」
そう伝えると、ねぼけちゃんは安心したような申し訳なさそうな何とも言えぬ表情で
「ありがとうございます。」
と言った。これまでバスの運転手と乗客として顔を合わせてきたといってもよく知らないおじさんの車に乗るのも不安だろう。しかしこんな夜に放置することもできないしなぁと思い、とりあえずバスを走らせる。
最終停留所を通り過ぎて車庫まで着くとバスのエンジンをきる。ねぼけちゃんは暗くなる車内に戸惑っているようだ。
「あんた一旦バスからでらんね、そいでバスの前で5分くらい待っとってくれんね?おんちゃんは仕事ば終わらせてこんばいかんけんさ。バスのカギ返したり、、いろいろあるったい。」
ねぼけちゃんは申し訳なさそうにうなずく。俺は足早に事業所内へ向かった。
そういえば、ねぼけちゃんと挨拶以外で話したのは初めてだったなぁと思いながら、急いで業務の手続きを終わらせ制服を脱ぐ。すると、朝話しかけてきた先輩が近づいてくる。
「ねぼけちゃん送るったいねぇ、おまえお人よしやなぁ、優しかけん見習わんばいかんなぁおいも」
どうやらねぼけちゃんと話して事情を聞いたらしい。たしかに普段車庫にいるはずのないねぼけちゃんがいると目について話しかけるか。
「いやぁ困っとらしたけんねぇ、そいぎお疲れ様でした。」
と一言伝え、事業所を後にする。
急いで戻ると、ねぼけちゃんは不安そうにバスの横でじっと立っていた。
「そいぎ行こか。おいの車、ちょっと狭かばってん、乗りんしゃい。」
俺のワゴンRの前まで連れていき乗るように促すとねぼけちゃんはおずおずと後部座席に乗り込んだ。俺も乗りこんで車のエンジンと暖房をつける。田舎の夜は寒く、車内にも冷たい空気が流れている。緊張しているねぼけちゃんと、どう間を埋めようかと考えていたところ——
「あっ!」
ねぼけちゃんが声をあげた。
「どがんかしたね?」
「お母さんの車きた、、!!お母さん迎えに来らした!」
ちょうど車庫にブルーのコンパクトカーが入ってきていた。運転手はいつも頭の上で大きなばってんをつくるねぼけ母だった。
話を聞くと、いつも帰ってくる時間に娘が帰らず、寝過ごしたと直感したらしい。そこでバスのルートをすべて辿って停留所を回り、それでも見つからずに車庫まで来たという。
「いやぁお気遣いいただいてありがとうございました。優しかおんちゃんで良かったねぇ。」
ねぼけ母は目を細め、ねぼけちゃんははにかんだ笑顔を見せる。母親が来たことで、ようやく安心したのだろう。
「お母さんが迎えに来てくれて本当に良かったですばい。次からはちゃんと起きとかんばいかんねぇ。」
そう伝えると、二人は車で帰っていった。
車に戻ると、さっきまで冷たかった車内がすっかり暖かくなっていた。俺も家へ帰るとするか。
翌日、いなか路線を担当した運転手から聞いた。
「ねぼけちゃん、今日も玄関から全力疾走で飛び出してきたばい。」
昨日の出来事もどこ吹く風。思わず笑ってしまった。
——やっぱり、ねぼけちゃんはねぼけちゃんだった。




