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1.噂

アナイス·ミュルジェール伯爵令嬢は、自室のベッドの上に腰を下ろすと、レースの手袋を外した。

先ほど婚約者から贈られたルビーの指輪を直に薬指にはめ、手をかざして鳩の血色の貴石とその両側にあしらわれた金剛石(ダイヤモンド)の硬質な輝きにしばし見惚れた。


アナイスは、ようやく自分が結婚するのだという実感が込み上げて来た。


婚約者ジャンルイ·アングラード侯爵令息と三年の交際期間を経て、今夜の夜会の帰りに彼から正式にプロポーズを受けたのだ。


アナイスは交際期間中、周囲から様々なことを言われて来た。

「特別賢くも美しくもない平凡な令嬢のどこが良かったのかしら」「ジャンルイ様ならもっと好条件の令嬢はいくらでもいるのに」「どうして彼女なの?」などと、多くはやっかみ、陰口として、時にはアナイスに聞こえるようにわざと言われてきた。


今夜の夜会でも、黒髪黒目の端正な顔立ちと長身で人目を引くジャンルイとアナイスが一曲目を踊り出した途端にひそひそ話がはじまった。

令嬢達の扇の内で囁かれているのは、大抵はアナイスへの悪意や嫉妬絡みのものだ。


これはいつものことだったが、今夜はなぜか令嬢達だけでなく、令息達までも加わっているようで居心地が悪くてたまらなかった。


令息らに興味本位でチラチラと盗み見られているようで、その品定めのための失礼な視線がどうにも苦痛だった。


ジャンルイとファーストダンスを踊り終え、彼が他の令嬢達と踊るのを見つめている時さえも、不快な視線に晒された。


(これは、なんなのかしら?)


いつにも増して刺さる多くの視線に耐えなければならなかった。


「アナイス、疲れていないか?」


ジャンルイが令嬢達の元から戻って来た。


「少しだけ」


ジャンルイはそんな会場の視線を知ってか知らずか、平然としていた。

これも貴族の嗜みのうちということなのだろうか。


「なんだか今夜は、いつもよりもやけに注目を浴びているような······」

「そうかな?」

「わ、私の気のせいかもしれませんが······」


彼にはこれ以上言ってもわからないと判断したアナイスは口をつぐんだ。


「では、今夜はもう帰ろうか?」

「そうしていただけると助かります」


ジャンルイは誰にでも如才ない人だ。腹に一物あるような相手でも無難に応対し、最後は好感度の高い微笑みで誰でも味方につけてしまうのだ。


これは次期侯爵として有能である証拠だ。それでアナイスという婚約者がいても、令嬢方は群れをなして彼に纏わりつく。


そんなジャンルイに、アナイスは本音が読めない人だなという印象をずっと抱いて来た。

彼の優しい言葉や人好きのする笑顔はすべて本心からのものなのだろうかと。


ジャンルイとは政略結婚だ。

彼は愛が無くても相手を気遣い、思いやりを持って接することができる人だと感じてはいる。

だからきっと、結婚しても穏やかな暮らしは築いて行けるだろう。

でも彼は、いつか本当に愛する人を見つけるような気がする。


私では無い誰かを。


アナイスはジャンルイと互いに愛し合う未来がどうしても想像できなかった。



アナイスはもらったばかりの指輪を箱に戻し、梱包されていた通りにしてから鍵の閉まる抽斗(ひきだし)にしまった。


「ふう······」


小さなため息をついていたところに、夜会から戻った兄のエリックが部屋にやって来た。


「ちょっといいか?」

「どうかなさったのですか」

「お前のあらぬ噂を聞いた」

「えっ?」

「さっきの夜会で噂になっていたぞ」


アナイスは身に覚えがなかった。なかったが何を噂されているのかは気になった。


「どんな噂なのですか?」

「······」


兄エリックは渋面を作り口ごもった。


なかなか言い出さない兄に苛立ったアナイスは語気を強めた。


「お兄様、教えて下さい!」

「気になるか?」

「当たり前です!」


兄エリックは、金髪碧眼の整った顔立ちを一層歪めた。


「お前、まさか浮気はしていないだろうな?」

「は?! 私が浮気を?そんなわけないじゃないですか!」

「噂は、お前の閨ごとに関するものだぞ」

「?!」


アナイスは愕然とした。


「······お前は純潔か?」

「何を言うのですか!?結婚前なのですから当然です」


まさか兄にそんなことを問いただされるなど夢にも思わなかった。尋常ではない事態が起きていることを知って、アナイスは凍りついた。

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