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馬車の行く先

誤字報告ありがとうございます!

ありがたく訂正いたしました




「フェリーネ様、とてもお疲れになったことでございましょう……。お屋敷に戻ったら、お好きな林檎の紅茶をご用意いたします」

「ありがとう、アマリア。でも、後少しだけここに座っていてもいいかしら……。突然のことで胸が速く打っているの。これが治まったら、馬車まで歩いていけると思うから」





フェリーネは学園の予備室の硬い椅子に座ったまま、ぼんやり外を見ていた。

婚約者であるヴェッセル・ハーゼルゼット公爵令息から、婚約破棄を言い渡されたところだった。

フェリーネを呼び出したヴェッセルは、スザンナ・ベイエル男爵令嬢と共にフェリーネを待ち構えていた。


『フェリーネとの婚約を破棄すると決めた。君とは違い、朗らかで愛らしいスザンナと、この先の人生を歩いていきたいんだ。フェリーネとは、派閥の異なる公爵家同士の手を結ばせるという、王命による愛の無い婚約だ。我がハーゼルゼット公爵家と君のクラーセン公爵家が、何か別の形で手を結べるよう、これから尽力するつもりだから、それで理解してほしい』


自分の言葉に酔っているようなヴェッセルに、フェリーネは溜息を呑み込み過ぎて言葉が上手く出てこなかった。

ようやく『承知いたしました。後のことは父に任せることになるかと思います』と言うと、ヴェッセルは黙って頷いた。

隣のスザンナがフェリーネに、邪気を含んだ微笑みを見せる。

ヴェッセルがこういう顔を見逃してしまうほど、見たいものしか見えない状態にあることを残念に感じた。


二人が予備室を出て行くと、部屋の外で待っていたアマリアが一人ですぐに入ってきた。

同級生でもありフェリーネの侍女でもあるアマリアは、フェリーネの父クラーセン公爵の従兄弟の娘で、学園在籍中はクラーセン公爵家に住まいフェリーネの傍に仕えている。

窓の外をぼんやり見ているフェリーネに、『失礼します』と小声で言ってから、アマリアは入口近くの席に腰を下ろした。

それが許されるくらいに、フェリーネとアマリアの間には信頼と友情があった。





フェリーネに婚約破棄を告げたヴェッセルは、予備室を出てひと気のない廊下をスザンナと歩きながら、ふと足を止めた。


「……フェリーネは泣くことはおろか、動じることさえなかったな」

「悔しさのあまり、今頃になって泣いているかもしれないですね」

「ちょっと戻って様子を窺ってみるか」


ヴェッセルは、いつも取り澄ましたフェリーネに好意を持っていなかった。

ヴェッセルの父が束ねるハーゼルゼット公爵家一門と対立している、クラーセン公爵家の娘がフェリーネだ。

第一王子を擁するクラーセン公爵家に対し、ハーゼルゼット公爵家は第二王子を推していた。

王の寵愛を受ける側室が産んだ第二王子を王太子の座に着けるべく、ヴェッセルの父は派閥の貴族を集めて動いている。

側室はハーゼルゼット公爵家一門の出身だった。


だが、肝心の国王に第二王子を王太子とする意思が感じられず、ハーゼルゼット公爵家は水面下で動きながら歯痒い思いをしていたところ、その国王によってクラーセン公爵家との縁談が持ち込まれてしまった。

国王は二つの公爵家が対立しているのを良しとせず、王家としては正妃が生み年長である第一王子を立太子させる心積もりだとその場で初めて告げた。

クラーセン公爵家とハーゼルゼット公爵家、互いに手を取り合って第一王子を支えるようにという意味合いの、王命での婚約だった。


ヴェッセルは自分の意の外側で結ばれた婚約に、不満しかなかった。

自分の人生が、盤上の一つの駒ほどに軽いと突き付けられたと感じた。

そんな時、婚約者フェリーネと何もかもが違う、素直で愛らしいスザンナと出会い恋に落ち、ヴェッセルは心が躍動する喜びを得たのだった。


予備室の中にフェリーネはまだ居るようで、中から話し声が聞こえる。

いつも一緒にいるアマリアという同級生に泣きついているのかと、ヴェッセルは耳をそばだてた。





「……あのお二人は幸せになるでしょうか」

「それは無理というものよ。ひと月ももたないわ」

「ひと月……」

「恋とは、鍋から注いだばかりのスープのようなものではないかしら。ヴェッセル様と男爵令嬢が味わっていた熱々のスープは、私というスパイスがあったから美味しかったの。婚約者を裏切っている背徳感、公爵令嬢の婚約者を奪っている勝利感、そんなスパイスを振りかけたスープも、それが無くなった今日からは、ただのお湯よ」

「ただのお湯、ですか」


フェリーネはそこで言葉を切り、深い溜息をついた。

ヴェッセルがあまりにも愚か過ぎたことが、フェリーネの胸を塞いでいた。

フェリーネは、たとえ王命に逆らえずに結ばれた婚約でも、少しずつ互いのひととなりを知るうちに歩み寄れると思っていた。

歩み寄り、寄り添い、穏やかな関係性が構築できればと、未来を明るい色で思い描いていたのだ。

だがそれは、婚約が結ばれて最初に向かい合った席で真っ黒に塗り潰された。

ヴェッセルの目に敵愾心が宿っているように見えた。

いつか倒してやろう、そう思われている相手に自分だけが歩み寄っても近づくことにはならない。

それでも、いつも『ここからどうしていくべきか、自分ができることは何か』と考えていた。

『ご一緒にお茶をいかがですか』『ランチタイムをご一緒しませんか』と話し掛けても、いつも取りつく島もなかった。

彼の友人に声を掛けても、気の毒と迷惑を混ぜたような顔で『お力にはなれません』と言われるばかりだった。

ヴェッセルは断崖の絶壁のようで、足掛かりになるようなものは悲しいほどに何も見つけられなかった。

そんなヴェッセルがいつしか男爵令嬢を傍に置くようになり、それを隠そうともしないことでフェリーネは見切りをつけた。


「ええ、ただのお湯よ、アマリア。あの二人が真実と思い込んだ愛のスープは、私という存在が無ければすぐに冷めて、何の味もしないただのお湯になるわ」


そして『ただのお湯』の状態ですら、保っていられなくなる。

誰かをスパイスにして味わうスープの行く末は、いつも一つだ。





廊下で息を殺してフェリーネの声を拾っていたヴェッセルは、『フェリーネというスパイスが二人のスープから消えればただのお湯』という言葉に頭を殴られたような衝撃があった。

確かに、フェリーネの目から逃げるようにスザンナと暗がりで微笑みを交わしあった最初の時ほど、この頃は心が躍らなくなっている。


フェリーネではなくこの婚約を結んだ父への罪悪感、こんなことをしていてはいけないという背徳感、それらがスザンナとの時間を特別なもののように感じさせていただけというのか……?

だが、それだけでは決してないのだと、ヴェッセルは強く思い直す。

二人のスープは冷めもしないし味がなくなりもしない。

あれはフェリーネがくだらないプライドで包んで投げた、負け惜しみの言葉に過ぎないのだ。





「ヴェッセル様が言った『朗らかで愛らしいスザンナ』というのは、私と比べていないと存在していられないの。比べる対象が消えたら、この貴族社会で『朗らかで愛らしい』という魅力は、いつまでヴェッセル様の中で価値を保てるかしら」

「そうですね、単体で見たら大したことがなかったというのは、よくありますね」

「あの男爵令嬢は、ヴェッセル様の中から消えたはずの私と比べ続けられるわ。ハーゼルゼット公爵夫妻は、私を押しのけてその椅子に座った男爵令嬢に温かい目を向けるかしら」


伯爵家の娘であるアマリアから見ても、スザンナ・ベイエル男爵令嬢は貴族らしからぬ令嬢という印象でしかない。

婚約者の居る公爵家の嫡男に擦り寄ったスザンナが、何を意図しているのか。

ハーゼルゼット公爵家一門の令息たちはもちろん、別段関係の無い令息や令嬢たちも困惑した目を向けているのをアマリアも感じていた。

その困惑の目は、当然ヴェッセルにも向けられていたのに、彼は気づいていないようだった。



「公爵家の娘の私と男爵令嬢が比べられるのよ? どんなに頑張っても残念な者を見る目を感じるでしょう。それをヴェッセル様に訴えたところで『でもフェリーネを追いやって俺の隣を望んだのは君だろう? 彼女ができていたことを君もやるしかないじゃないか』なんて言われてしまうのよ。男爵令嬢が公爵令嬢に成り代わろうとしても、これまで生きてきた土壌が違うのだから付け焼刃ではどうにもならないわ。男爵令嬢は、ヴェッセル様のことを冷たいと感じ、こんなはずじゃなかったと思うのよ。婚約者がいてそれを解消する前に他で愛を囁く男など、誠実でも優しくもないと気づくのは、取り返しがつかなくなってからなのよね」


「そうですよね、他に愛する人ができてしまったのなら、まずは婚約を解消するなりして身綺麗になってから次に行くのが誠実というものです」


「でもまあ、どっちもどっちね。この世には、婚約者以外に愛を囁かない男と囁ける不誠実な男の二種類しかいないわ。自分が選んだ相手が後者だったとしても、いつだって選んだ責任は自分にあるだけ。それにこの世には、婚約者のいる男に近づかない女と、婚約者がいても自分の魅力で奪ってやるわと近づく不誠実な女の二種類しかいない。どちらも不誠実な側なのだから、似たりよったりの相手に文句を言うのはおかしいわよね。まあ、あの男爵令嬢は、ヴェッセル様のいないところで、『爵位で愛は買えなかったわね、お気の毒さま』と私に言ったくらいの強さがあるもの、ヴェッセル様の不誠実さも呑み込んでいけるわね」




スザンナはフェリーネの話を聞いて、頭が真っ白になった。

自分を選んでくれたヴェッセルが、不誠実で冷たい……?

今夜、ヴェッセルがハーゼルゼット公爵夫妻にスザンナを紹介してくれることになっていた。

公爵夫妻に会うのに相応しいドレスが無いとヴェッセルにおもねるように言ったのに、いつもどおりの君でいいんだと言われてしまった。

婚約が正式に決まれば、ハーゼルゼット公爵家の御用達ドレスメーカーで素晴らしいドレスを誂えようと言ってくれたけれど……少しがっかりしてしまったのもスザンナにとっては事実だった。

フェリーネが言ったように、ハーゼルゼット公爵夫妻は、スザンナとフェリーネを比べるだろうと、水が高いところから低い所へ落ちるように納得してしまう。

嫡男が王命の婚約を切り捨ててまで手にいれようとしている令嬢は、果たして公爵家に相応しいだろうかと……。

きっと何をしても『これだから男爵令嬢は』と言われる未来が見える。


どこを比べても、すべてが完成されているようなフェリーネにスザンナが勝っている点はない。

フェリーネは未来の公爵夫人となる教育も終わらせていたと聞いた。

あれだけ優秀なフェリーネが婚約から一年かけて得た教育を、平凡な成績で特に勉学が好きでもないスザンナならいったい何年掛かるのか。

そしてずっとあの完璧なフェリーネと比べられていく……。

何より、スザンナがそれによって落ち込んでいる時にヴェッセルが優しい言葉をくれるとは、フェリーネの話を聞いてしまったスザンナには思えなくなっていた。





「フェリーネ様、どうかなさいましたか?」


「ううん……。二人の愛がどうとか比べられることがどうとか言ったけれど、もうそんな次元の話ではないかもしれないと思い直したの。……少し胸が苦しいわ」


「あのお二人は、もってひと月と先ほどおっしゃいましたよね。もっと早くに別れてしまいそうなのですか?」


「もってひと月というのは……二人の命のことになりそうだと思い直したの。ここを出てヴェッセル様がハーゼルゼット公爵家に帰ったら、地獄が待っているわ。嫡男がクラーセン公爵家との婚約を勝手に破棄したと知ったヴェッセル様の御父上は、怒りに任せて彼を殴りつけるでしょう。でも、それは終わりの始まりに過ぎない……。王命を蔑ろにしたということも大変なことだけれど、ハーゼルゼット公爵閣下は第二王子殿下を支えてこられたお方よ? そんな公爵家の嫡男が王命を蔑ろにしたと耳にした第二王子殿下はどうするかしら。第一王子殿下を出し抜ける日が、そのせいで遠くなったと思われるかもしれないわ」


「そうですね、第二王子殿下は苛烈なお方と小耳に挟んだことがあります……」


「いずれにせよハーゼルゼット公爵家はただでは済まない。ヴェッセル様と公爵閣下の命を差し出して済めば良いほう、下手をすればハーゼルゼット公爵家そのものが消えてなくなるかもしれないわ。陛下がお沙汰を出すのではなく、第二王子殿下によって秘密裡に消されてしまう可能性もあるもの。ひと月はヴェッセル様のお命もあるかと思ったけれど、もっと早く何かが起こるかもしれないわよね……それに……私とヴェッセル様の婚約を契機に、他にも第一王子派と第二王子派の家同士の婚約がいくつも結ばれているわ。彼らはどうなってしまうのかしら……もしも婚約を解消せざるをえないとなった時、すでに良い関係を築いていた者たちの恨みも、ヴェッセル様が一身に受けることになる……」





ヴェッセルは危うく声を上げてしまいそうになった。

自分の婚約破棄のせいで、ハーゼルゼット公爵家が消える……?

そんな馬鹿なことがあるものかと否定したいのに、この婚約が王命によるものだということはこの瞬間まで頭の片隅にもなかった。

ただただ駒のように扱われていることが面白くなく、婚約相手であるフェリーネもその片棒を担いでいると思っていた。

王命を軽く扱ったなどと陛下の耳に入れば、父が推している第二王子殿下はどうなる……。

自分に瑕疵をつけたと、第二王子殿下の怒りがハーゼルゼット公爵家に向けられでもしたら……。



フェリーネに、婚約破棄を撤回すればどうにかなるだろうか。

婚約破棄という言葉は、まだこの予備室に閉じ込められたままだ。

外に滲み出す前に、回収、撤回してしまえばいいのではないか。

そう思うと、もはやスザンナの存在が色褪せ始めている。

ハーゼルゼット公爵家の存亡がかかっているのだから仕方がない。

ドアに手を掛けようとしたとき、耳を疑うようなフェリーネの言葉が聞こえた。



「ねえアマリア、私の思い違いでなければ、あなたと一緒にドアの外に居た護衛騎士は、ヴェッセル様が『婚約を破棄すると決めた』と言った瞬間に、廊下を蹴って消えたわよね?」


「はい。彼は『後を頼む』とだけ言って、靴音を響かせないようにしながらもあり得ない速さで出て行きました。おそらくフェリーネ様の迎えの馬車から馬を抜き、クラーセン公爵家に向かって駆けて行ったと思います。今頃は公爵閣下のお耳に婚約破棄が伝わっていることでしょう」


フェリーネの護衛もまた、生徒としてフェリーネの近くにいつも居た。

さすがに学園の中で帯剣はできないが、体術であっけなく相手の背中を床に叩きつける。

訓練で倒された者が、あっと思う間もなく衝撃と共に空が見えたという。


「では、そろそろ帰ってもよい頃かしら」

「はい。代わりの馬で戻ってきた護衛が、そろそろこちらに着く頃と思いますわ」

「彼は良い仕事をしたわね。お父様が褒美を与えるでしょうけど、私からも何か贈りたいわ」

「あ、向こう側のドアの前に護衛が到着したようです。フェリーネ様、どうぞ私に続いてくださいませ」

「もうここを出るのね……。そうそう、もちろんアマリアにも褒美は考えているわ。ボンネフェルト商会で、お揃いのリボンを買うのはどうかしら」

「それ、フェリーネ様がリボンを買おうと思っていらしただけですね。さあ、こちらから出ましょう」


フェリーネは立ち上がると、フェリーネなりのヴェッセルへの想いを、小さく丸めて机に置いた。


第二王子は、公爵家の嫡男の失敗を寛大な心で受け止めるかもしれない。

ヴェッセルはハーゼルゼット公爵家を継げないかもしれないが、ベイエル男爵家に婿として迎えられるかもしれない。

もしくは平民になるなどして、愛を貫けるかもしれない未来もまだ残されている。

父に相談した時、あらゆる可能性があるだろうとしか言われなかった。

父自身がどうするつもりなのか、尋ねても曖昧にしか答えてもらえなかった。


フェリーネの胸に悲しみはあっても、憎しみはない。

ただ、元来のヴェッセルは決して愚かな人間ではなかったのに、恋とはここまで物事を順序だてて考えられなくなるほどの感情だと知ってしまった。


恋とは何と恐ろしいものだろう……。

自分にそれを御せるものなのだろうか。

フェリーネはまだ『恋』という気持ちを知らなかった。

ただ、知る前に恐ろしさを実感できたことは、良いことだと捉えている。


フェリーネは先ほど机に置いた小さく丸めた何かの想いが、ここの空気を吸って間違っても恋などになってしまわないように、壊すつもりでパン!と机を叩いた。

これでもうおしまい。

さようなら、ヴェッセル様。

そしてフェリーネはアマリアの背中を追いかけて、明るい外に出て行った。



フェリーネがこのドアから出てきたら、ヴェッセルは床に額を擦りつけて謝罪して、婚約破棄を取り消そうと思っていた。

だが予備室の中は、パンという乾いた音を最後に静かになってしまった。

ヴェッセルの頭の中であの音が変に響き、何度も再生される。

頭を掻きむしっても、あの音は消えなかった。




初めてスザンナを王都の外れのレストランハウス『ラヴィン亭』に誘っていた日、学園を出ようとするところで珍しくフェリーネから声を掛けられた。

『ヴェッセル様、どうしてもお話ししたいことがございます。この後、お時間いただけませんか』と言われたが、予約をしているラヴィン亭に先に行かせたスザンナを待たせるわけにはいかず『俺に話すことはない』と断った。

フェリーネは絶望的な顔をチラと見せたので、ヴェッセルはどこか満足した気持ちになって、軽い足取りでラヴィン亭に向かった。


『ラヴィン亭』は食事を出す小さな宿で、何か月も滞在する画家も居れば、三時間で帰っていく世間から身を隠す恋人たちも訪れる場所だ。

その日初めてスザンナと甘い時間を過ごしたが、今となるとフェリーネは行先もスザンナのこともすべて把握していたのではないかと思えてきた。


フェリーネはあの日俺が、戻ることのできない愚行への歩みを止めてくれようとしたのではないか……。

もしもあの時、フェリーネと話していたら、あるいはこんなことにはなっていなかったのではないか……。


ヴェッセルは、もう何もかもが手遅れであることをようやく受け入れようとしていた。

スザンナもまた、ベイエル男爵家に帰ったところで地獄が待っていると理解していた。

二人はどちらからともなく手を伸ばし、抱きしめ合った。

その抱擁は恋人同士の甘いものなどではなく、喩えるなら凍土の洞窟で暖を取るためだけの、見知らぬ者同士の抱擁のようだった。

真実の愛のスープは『ただのお湯』になるどころか、もはや凍りついてしまっていた。





のろのろと歩いて外へ出たヴェッセルとスザンナは、ハーゼルゼット公爵家の紋章の入った豪奢な馬車に辿り着いた。

馭者が場違いなほど明るく手を挙げる。


「ヴェッセル坊ちゃま、お帰りなさいませ。私事なのですが屋敷を出る直前に、朝に産気づいた妻が無事に女の子を産んだと知らせを受けまして、ここまで空を飛ぶような気持ちでやって参りました。あ、こんな話、申し訳ありませんです……つい嬉しくて……」


「……いや、赤子の無事の誕生おめでとう」


「あ、ありがとうございます!」


馭者は顔をくしゃくしゃにして、喜びを隠しきれずに笑顔になっていた。

赤子が生まれるとは、こんなにも父親を幸せな顏にすることなのだと、初めて知った。

ヴェッセルはこれから父の元に帰り、かつてこんな笑顔を見せたかもしれない父の、怒りに歪んだ顔を見なければならない。

それとも息子の途方もない愚かさに、哀しみに暮れた顔をするだろうか。


「そうだ、これを持って今日はこのまま自分の家に戻るといい。お祝いの気持ちだ。僕は他の馬車で帰るから心配は要らない」


ヴェッセルはそう言いながら、ダイヤの埋め込まれた時計を外して馭者に手渡した。

いつだったか、父から贈られた時計だった。

赤子は眩しいくらいの未来を持っているのだと、胸が何かで圧し潰されそうな感覚に陥り思わずシャツの胸元を掴んだ。


「いいか、ハーゼルゼット公爵家に今日は戻るな。馬車は後で誰かが回収に行く。その時計を金に換えて、頑張った奥方と赤子に何か買ってやるといい。どうか、奥方を……大事にしてやってくれ」


「こんな高価な物はいただけません! ヴェッセル坊ちゃま!!」


押し返そうとする馭者の肩を、ヴェッセルは少し強く押した。


「いいから急いでおまえは自分の家に帰るんだ! 馬車を飛ばして奥方と赤子のところへ早く!」


ヴェッセルに追い立てられるように馭者席に乗り込み、馭者は何度も振り返りながら馬車を出した。

馭者が泣きそうな顔をしていたので、かろうじてヴェッセルは涙を呑み込んだ。





「……スザンナ、男爵家の馬車はいつもどうしている?」

「迎えの時間から二十分過ぎると馬車は空のまま帰ることになっているの。私は……誰かに送ってもらうこともよくあったから……たぶん今日はもう戻っているわ」

「それなら辻馬車を拾おう」

「ええ、ヴェッセル様」

「行先は、いったんはハーゼルゼット公爵家だが……その先は……」

「私、ヴェッセル様と一緒にどこへでも行きます。さっきの馭者の人、赤ちゃん生まれて良かったですね」

「……ああ、そうだな……赤子はいい、その手に未来を握りしめているのだからな……スザンナ、すまない……すまない、俺はあらゆる人を……不幸の淵に叩き落した……」

「ヴェッセル様だけが悪いんじゃないんです。私も一緒に、あの方をスパイスにしてしまったスープを飲んだのです」



スザンナの顔は、いろいろな物が抜け落ちたようだった。

メイドが干してそろそろ取り込まれる頃の白いクロスのような、汚れも湿り気もすべてが風に消えていったような、そんな顏に見えた。


頭から離れないのはフェリーネの微笑みだった。

その微笑みに心を動かされたこともあったのに、どういうわけかそれを何かに負けたように捉えてしまい、その愚かさで自分の未来を粉々にした。

自分の未来だけではなく、ハーゼルゼット公爵家に関わるあらゆる人のこれまでの努力も、これからの栄光も……。

その大きすぎる罪を償う時間すら、ヴェッセルには与えられない。



辻馬車が所定の位置に停まり、ヴェッセルたちは乗り込んだ。

ゆっくりと馬が歩度を進めていく。

ヴェッセルは、馬車が昨日へ向かって走ってくれればいいのにと、口の中でそっと呟いた。





おわり


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