第3話
「きゃっ!」
小さな影がぶつかってきた勢いで、クラウディアの体はぐらりと揺れ、次の瞬間には地面に倒れていた。
「い、いた……」
転んだ衝撃に顔をしかめながら、ふと胸元に目をやると、そこにしがみつくように小さな少女がうずくまっていた。
「ご、ごめんなさい……!」
震える声。
真っ白なドレスに泥がつき、大きな瞳に涙が浮かんでいる。
(……この子、白雪姫にどこか似ている)
クラウディアは息を呑んだ。
少女の髪は淡い金色で、まるで春の陽光をそのまま閉じ込めたようだった。
周囲が静まり返る中、クラウディアはゆっくりと起き上がり、その小さな体をそっと抱き寄せた。
「大丈夫よ。怪我はない?」
少女はきょとんとした顔でクラウディアを見上げる。
その頬に泥がついているのに気づいたクラウディアは、そっと指先でそれを拭いながら、優しく微笑んだ。
「あなたの可愛い顔に泥がついたら、もったいないわ」
その瞬間、少女の表情がぱっと明るくなった。
「……ありがとう、お姉さま!」
「お……姉さま……?」
クラウディアは軽く面食らったが、すぐに苦笑する。
(お義母様と呼ばれることはあっても、お姉さまと呼ばれるのは初めて……まぁ、それでいいわ)
会場のあちこちから、どよめきが起こる。
「あのクラウディアが……子どもを抱きしめた?」
「嘘でしょう……見間違いじゃないの?」
「しかも笑ったわよ、今……!」
騒めく声の中、クラウディアは少女の手を取って立ち上がる。
「さあ、あなたのご両親はどこかしら?」
少女は元気よく答えた。
「わたし、エリナ! エリナ・フォン・グリムベルグ! お父さまは、あそこ!」
その指さした先には、重厚な軍服姿の男がこちらを凝視していた。
クラウディアは内心で、静かにため息をついた。
(……なんだか、面倒なことになりそうね)
◆
数日後、クラウディアのもとに一通の書状が届いた。
差出人は、公爵レオポルト・フォン・グリムベルグ。
『先日は、娘エリナが粗相をいたしましたこと、父としてお詫び申し上げます。本人がどうしても、再びクラウディア嬢にお会いしたいとせがむもので──ご迷惑でなければ、ひとときだけでも、お茶会の席をお設けいただけますと幸いです』
丁寧な筆跡。
だが、文面の端々から滲み出る“父親としての恐縮”が見て取れた。
「……娘にせがまれた、ね」
クラウディアは苦笑しながら、書状を畳んだ。
そして当日、屋敷にはふわふわのドレスに身を包んだエリナが、大きな包みを抱えてやってきた。
「お姉さま! これ、私が作ったの!」
「まぁ……あなたが?」
差し出された包みの中には、いびつな形の焼き菓子が詰められていた。
明らかに手作りのそれは、リンゴの香りを漂わせながらも、どこか不穏な見た目をしていた。
使用人たちが息を呑む中、クラウディアはひとつをつまんで口に運んだ。
「……うぐっ……」
一瞬、表情が引きつった。
(なぜ、リンゴが……こんなにも酸っぱいの……まさか毒? いや、そんなまさか)
周囲の空気が凍りかけたそのとき、クラウディアはゆっくりと目を細めて微笑んだ。
「ふふ……甘ったるいお菓子には、食べ飽きてましたの」
「ほんとっ!? よかったぁぁ!」
エリナはぱあっと顔を輝かせて、クラウディアに抱きついてきた。
「また作ってくるね、お姉さま!」
「……ええ、楽しみにしてるわ」
クラウディアの返事に、使用人たちは静かに騒然とした。
「クラウディア様が……全部食べた……?」
「むしろ褒めた……!」
「奇跡だわ……!」
そんなざわつきを他所に、エリナは無邪気に質問を重ねてくる。
「ねえ、お姉さま、どうしてお口に赤いの塗ってるの?」
「それはね、より美しくなるためよ」
「ふえぇ……! わたしも塗ったらお姉さまみたいになれるかな……?」
「ふふ、それにはまだ十年早いわね」
クラウディアはそう言って、そっとエリナの髪を撫でた。
部屋の隅でメイドたちがそろって震えている。
「ご、ご機嫌……ですね……」
「むしろ私たちの方が緊張するんですが……」
お茶会の席は、予想に反して、あたたかな笑いに包まれていた。
そんな雰囲気の中、扉がノックされる。
「失礼いたします。グリムベルグ公爵閣下がお迎えに参りました」
その声に、クラウディアが振り返るより先に、エリナが椅子から飛び降りた。
「お父さまーっ!」
駆け出していくその勢いのまま、廊下へ飛び出していく。
慌ててクラウディアも立ち上がると、扉の外には軍服姿の男性が静かに立っていた。