第2話
春の祝祭が始まり、社交界はきらびやかな活気に包まれていた。
だが、その中心に立たされるクラウディア・エーベルシュタインの心は、氷のように冷たかった。
「相変わらず美しいこと。まるで人形のようね」
「でも、笑った顔を見たことがあるかしら?」
「媚びを売るような素振りをし始めたって、今さら遅いわよ」
貴族令嬢たちの囁き声は、どこにいても聞こえてくる。いや、聞こえなくても視線が語っていた。
──ああ、これは、かつての私だ。
誰かの靴を、ドレスの裾を、髪型の乱れを、値踏みして見下していた。
今は、それを自分がされている側。
(人の視線が、こんなにも刺さるものだったなんて……)
夜会の場でも、変わろうとした。
微笑み、礼儀を尽くし、心から挨拶した。
けれど、返ってくるのは冷たい視線と軽薄な作り笑い。
「ねえ、見た? あれで“変わった”つもりらしいわよ」
「この前まで高慢だったくせに、今さら好かれたいの? 可哀想」
空気が重い。
立っているだけで、息苦しい。
だが、それでも彼女は微笑みを崩さなかった。
(……そう。これが、今の私の立場)
怒りが、込み上げる。
だが、それ以上に胸に広がったのは、凍てついたような理解だった。
(また私は──誰かを見下し、今、見下される側になった)
彼女は背筋を伸ばし、その場を静かにあとにする。
微笑みは消え、足取りはゆるやかで、どこまでも孤独だった。
屋敷に戻ったクラウディアは、まっすぐ自室へと向かった。
「お帰りなさいませ、お嬢──」
出迎えようとしたマティルダの言葉を、手を挙げて静かに制する。
「……ごめんなさい。今日は、少しひとりでいたいの」
それだけ言って、背を向けた彼女に、マティルダは深く何も問わず、ただ一礼して見送った。
部屋に戻ると、クラウディアは重く扉を閉めた。
そしてゆっくりとドレスのボタンを外し、化粧を落とし、身軽になった身体を椅子へと沈める。
──鏡の前。
そこに映るのは、淡く紅を引いた瞼、紅潮した頬、けれどどこか張り詰めた笑顔の名残り。
「……手遅れだったというの? また、私……駄目だったの?」
つぶやく声が、震えていた。
気づけば頬を伝う涙が、静かに膝に落ちる。
「それでも……まだ、変わりたいのに」
顔を覆って、声を上げて泣いた。
夜の静寂に、嗚咽だけが微かに響いた。
──あの夜、焼け焦げた鉄の靴の中で願ったこと。
“もう一度やり直せるのなら、今度は違う生き方をしたい”
それは、ただの希望だった。
でも、今は違う。
鏡の中の自分を、もう一度見つめる。
「私は……私を、まだ赦せない。でも、それでも──」
少しだけ、唇を噛みしめる。
「それでも私は、誰かを愛せる人になりたい」
その言葉が、部屋の空気にゆっくりと染み込んでいく。
翌朝。
クラウディアは鏡の前に立ち、目元の腫れを隠すようにそっと化粧を施す。
リサが部屋に入ってきたとき、彼女はすでに椅子に座り、髪をきちんと結い終えていた。
「……おはようございます」
クラウディアは、微笑んでいた。
その笑顔は、どこかぎこちなく、それでも確かな強さを宿していた。
◇
「お嬢さま、たまには人前にお姿をお見せになってはいかがです?」
そうマティルダに勧められたのは、前日のことだった。
「この機会に、あなたがどれだけお変わりになったかを少しずつでも皆様に……」
確かに、隠れてばかりでは何も変わらない。
──だからこそ、クラウディアは出向いた。
あくまで“視察”という名目で、無理をしてまで表に出てきたわけではない。そんな言い訳を胸に抱きながら、彼女は貴族主催の慈善市へと足を運んだ。
慈善市とは、貴族たちが庶民のために資金を募り、品物を出品して販売する社交と奉仕が入り混じった催しである。
出品されるのは使用しなくなった小物や布製品、本など様々で、貴族たちの“人柄”や“育ち”が問われる場としても知られていた。
春の陽差しがやわらかく降り注ぐ広場。
絹のテントが揺れ、香り立つ焼き菓子と音楽が空気を彩っている。
深紅のドレスに身を包み、人々の間を歩くクラウディアは、ひとつの屋台の前に足を止めた。
そこでは、平民の夫婦が手作りの布人形を並べて売っていた。妻と見られる女性が懸命に声を張り上げている。
「これ、ウチの子たちが作ったんです! 一つ一つ違う表情なんですよ!」
「まあ……よくできているわね」
クラウディアはしゃがみこみ、丁寧に一つの人形を手に取った。
「この子、少しだけ怒っている顔ね。でも、それも可愛いわ」
夫婦は揃ってぽかんとクラウディアを見上げ、やがて安堵の笑顔を浮かべた。
そのやりとりを見ていた貴族たちが、遠巻きに囁く声を潜めないまま広げていく。
「見て、平民と話してるわよ」
「昔は使用人ですら突き飛ばしていたのに」
「今さら慈善だなんて、何のつもりかしら」
そんな声が、あちこちから聞こえてくる。
(……慣れたわ。今さら傷つきはしない)
心の中で言い聞かせ、クラウディアはそっと会場を抜けようと踵を返した——そのときだった。