#40 天狼フェール
“影狼族”とは。精霊の中に興った獣の姿を持つ一族である。
神界が出来た原初の時代、神が精霊を創ったとき。森の影から生まれ出でた獣たち。光を一切返さない漆黒の毛並みを持つ狼だ。
本質は獣だ。野を駆け、獲物を喰らい群れを作り強いものがそれを率いる。魔術が得意な種族というわけではない。
フェールが“天狼”たる本当の強さは、魔術によるものだけではなかった。
フェールの掌底がエレンの顎を打つ。パワーがある、というよりかは衝撃がそのまま脳天まで響く感じだ。ぐらりと揺らいで、何とか踏み止まったエレンのその足をフェールが払う。
「あっ」
そのまま腹に掌底が一撃。防御の術がない、というより体が思うように動かない。
「ぐえっ……がっ……は……」
内臓を貫かれたような感覚に、エレンは膝をついて吐く。フェールがそれを見下ろしている。……一発殴るどころか、手も足も出ない。
「その程度で“責任を取る”などと言ったのか?」
「…………!」
エレボスとの会話を、リリスが聞いていてフェールに伝えたのだろう。ローフィリアがもしフェールやリリスたちの懸念するものだったとして、その時は、エレン自身が責任を持って始末すると言った。
脚に力を込めて立ち上がる。
「……分かって……る……! 俺は! あんたより弱いし! 全然長く生きてないけど! でも……目の前にあるものを、信じたい……」
「………」
「過去ばかり見るなよ! 目の前のものを見ろ! ローフィリアはあんたが思うような奴じゃない! 話してからでも遅くないだろ! 一度その目でちゃんと見てくれよ!」
「…………そなたが責任を取ると言った。ならばその覚悟を私に見せよ。話はそれからだ」
「……っ」
前へ踏み出す。そのままフェールへ突っ込んだ。顔を狙った右拳。あっさり左腕で受けられる。その反動で右足を軸に左の回し蹴りを放つがフェールはヒラリと後ろへ退がった。一歩深く踏み込み、左拳で追撃する。後ろへ反ったフェールは、そのままエレンの左腕を捕まえる。
「甘いな」
「!」
フェールの左の掌底がエレンの胸を捉える。吹き飛ばされて、木の幹にぶつかる。息が詰まる。浅い呼吸を繰り返した末に、なんとか息を整える。
(くそ……フェールの使う武術、やっぱ受けると変なダメージ食らう……)
単なる打撃ではない。パワーが特段強い訳でもない。膂力だけで言えば、グレンの方が上だろう。だがあぁいうシンプルに衝撃で相手を砕くようなものではない。打たれた部分から、衝撃が真っ直ぐにそのまま伝わり突き抜ける感覚。見えない槍で刺されるようなものだ。体内へのダメージがキツい。
木を支えに、ずるずると立ち上がる。素手ではやはり敵わない。右手でポーチから折り畳んだ棒を出すと展開する。
「ふむ、そちらがその気なら私も使うぞ」
フェールの手にいつもの杖が現れる。あれをフェールが魔術以外にも用いるのをエレンは知っている。
構え、走って突っ込む。両の手を使った上段突き。躱したフェールはそれを杖の柄で受けると滑らせて流し、石突きでエレンの顎を狙う。早い。辛うじて横へ躱し、潜り込むと左手を引き薙ぎ払う。首を取った────と思ったその時、ガキ、とフェールの口が棒を捉える。
「嘘だろっ」
怯んだ。その隙に杖の石突きがエレンの腹を突く。さっきまでの掌底の突きが点になったようなものだ。生温かいものが込み上げて来て、それを吐き出す。地面に広がった血溜まりの中に、エレンはうつ伏せに叩きつけられてそのまま襟を三叉になった杖の先で抑えられる。
「……フェー……ル」
呻くように名前を呼ぶ。動けない。大型の肉食獣の前脚で捉えられている感覚だ。
「身の程を知れ。私に楯突こうなど千年早い。……そこで大人しくしておれ。眠っているうちに始末する」
「! やめ……」
地面から伸びた影が、エレンの体を拘束する。影の支配を取り戻して解こうとするが、ピクリともしない。杖を手にしたフェールが木の下で眠ったままのローフィリアに向かって歩いて行く。
「…………フェール! げほ、待ってくれ! ッ……フェール!」
咳き込みながらも叫ぶ。それしか出来ない。せめて、ローフィリアが目覚めれば。
フェールが杖を仔竜へ向ける。辺りの影が騒めく気配がして、そこでピタリと、フェールは動きを止めて杖を僅かに下ろした。
「……⁈」
する、とエレンの拘束が解ける。フェールは振り向かぬまま、声を発した。
「…………何のつもりだ、リリス」
「! ……え」
エレンは振り向いた。自分のさらに後ろから、リリスが険しい顔をして杖をフェールへ向けている。
「……杖を……降ろして下さい」
そう言うリリスの声は震えていた。フェールはゆっくりと振り向く。
「そなたが忠告したのだぞ」
「分かっています。ですが……やっぱり、いけません。その仔竜は……殺すべきではありません」
「リリー……」
エレンは地面に座り込んだまま、リリスの方を見る。彼女の周りで影が渦巻いているのを感じる。拘束を解いたのは彼女か。フェールと同等か、それ以上の力を感じる。……というか、この気配は。
フェールは一つため息を吐くと、口を開いた。
「……いけませんなリリス様。皇帝陛下の妹君ともあろうお方が、闇竜族を庇おうなどと」
「!」
敬語でのその言葉に、リリスはビクリとする。エレンも驚く。
「…………え……? 妹……?」
「……ご存知だったのですか」
「陛下に妹君がおられることは聞き及んでおりました故。それにその気配、気付くなという方が無理があるかと」
言われてリリスはハッとする。
「……いつからお気付きに?」
「貴女が私どもの前に現れた時から。しかし、皇族としての扱いを望まれぬようでしたので、斯様に」
リリスは杖を下ろす。エレンが驚いた顔をしているのを見て、彼女は苦笑する。
「すみません、隠していて。……訳あって、私は皇族としての振る舞いを許されていなくて。宮廷ではただの兵士に過ぎません。……騙していた訳ではないのです」
「それは……えっと」
騙していると言えば、こちら側の方が重罪だ。そもそもリリスのことを責めるつもりはない。少し驚いただけだ。
────そう言えば、兄がいると言っていた。仲が良くないとも。あれはカオスのことだったのだ。
立てますか、と手を差し出され、エレンはリリスの支えを借りて立ち上がる。────臓器が傷付いていたようだが、段々と痛みが引いている。不死身の体に感謝する。
「……貴女様も相手となると、少々手に余りますな」
「ご冗談を。あなたは私よりずっと強い魔導士です」
「陛下に仕える身で、御身を傷付けるわけには行きますまい。否、反逆者としてなら、彼の方もお許しになりますかな」
「…………天狼フェール。なぜそれほどまでに闇竜族を憎むのですか」
毅然とした態度で、リリスはフェールに問う。狼はぴくりと眉を動かした。
「なぜ。何ゆえかと。リリス様も竜伐に参加されたのなら、既知のことかと存じますが」
「ではなく。……貴方個人の話です。フェール。貴方のそれは、我々精霊の間における竜族への警戒心だけではないでしょう」
フェールの眉間の溝が深くなる。滅多にそんな感情を露わにしないフェールのそんな顔を見ると、エレンはどきりとする。フェールは一つ大きく深呼吸すると、口を開いた。
「…………“竜伐”より以前の話だ。私が初めて人界に降りた時。……初めて憑いた男は、心優しい人間だった」
「!」
ケレンよりずっと前の、フェールの宿主の話。エレンは初めて聞く。
「今でもよく覚えている。ニコは……何でもよく拾う男だった。傷付いた小鳥も、捨てられた仔猫も。山で怪我をした獣を見つけては甲斐甲斐しく世話をし、元気になっては野に返していた」
語るフェールの顔は、遠い過去を懐かしむように穏やかだった。だが、その表情も曇る。
「……ある時、闇竜族の雛を拾った。当時はまだ、人界にも多くの竜がいた。襲われた巣から落ちて、奇跡的に助かったものだったのだろうな。……ニコはそれを連れ帰った。『竜を育ててみたかったんだ』と……眠る雛を嬉しそうに撫でる奴の顔が忘れられぬ」
フェールは目を伏せる。後悔の念が、そこに滲む。
「しばらく、その竜は私たちと共に暮らした。その頃ニコの子らは既に独り立ちしておったし、その妻と共に仔竜の世話をした。……だが、彼らは知らなかったのだ。野に生まれ落ちた竜が、決して人には懐かぬことを」
「…………」
竜についての本を、エレンは読んだことがある。王政時代のセシリアでは、竜を軍事利用しようとした記録があった。成竜を手懐けようとした記録や、雛を誘拐して来て育てようとした記録。しかしそれらは上手く行かなかった。犬や猫とは違い、竜は決して人には懐かなかった。
「ニコが50の時。竜を拾って五年が経った頃。成長した竜が、突然ニコの妻を噛み殺した。…………泣きながら、ニコはそれでも竜を信じた。馬鹿な男だ。そしてニコも噛まれた。怒った私が竜を始末してもなお……死んだ竜と妻に向かって、彼は謝り続けた。…………程なくしてニコも傷が原因で死んだ」
フェールはそして、エレンを見た。
「…………一度神界に戻った私は、二度とこのような事を起こさぬと誓った。彼の一族を守ることを我が身に誓った。主を守れなかった己が身を呪った。片時も放ってはおかぬ。ゆえに、私はニコの子孫に代々憑くことにしたのだ」
「フェール……」
「器に条件などつけておれぬ。ゆえに私は我が力に制約を掛けた上で、人の身に憑いている。その上で宿主にも力の増幅を施し、そして百年の寿命を約束した」
ケレンは、生まれたその時からフェールを宿している。丁度直前に、前の代の宿主が死んだのだろう。親戚のことをエレンは全く知らないが────ともかくケレンは、未熟も未熟な体に強力な精霊を宿した。昔はエレンたちより随分と、影の力が強かった。時には暴走することもあったが、その時は内からちゃんとフェールが抑えてくれた。その体から、フェールはずっとエレンたちを見守って来た。やんちゃで危険ばかり犯す幼子たちを、時に叱責し、時に危険から庇い、そして身を守る術を教えてくれた。
「──────“竜伐”の際。招集を受けてしばし神界へ留まった。そこで目にした闇竜族の暴虐は、人界のものと何ら変わらぬ。思うがままに喰らい、破壊し、目に入るもの全てを害する」
び、とフェールは杖をローフィリアへ向ける。その顔にはもう怒りは篭っておらず、ただ、必死だった。
「エレン殿。そなたの今の行いは、ニコと変わらぬ。私は二度と、同じ事を起こさせる訳にはいかんのだ! ……分かってくれ」
「……分かったよ、あんたが言いたい事は。何でそんなに、ローフィリアを目の敵にするのかも」
エレンはそう言って目を伏せ、でも、と目を上げる。
「でも! それはやっぱり過去の話だ! ローフィリアはその時の竜じゃないし、俺はニコでもないだろ!」
「過去から何も学ばぬのは、愚か者のすることだ!」
埒が明かない。フェールは頑としてローフィリアから杖を退かそうとしない。辺りの影がフェールに集まるのを感じて、エレンは影を通じてローフィリアの元へ行く。身を挺して庇う他に、もう守る術はない。エレンたちを守ることがフェールの使命である以上は、彼にはエレンを過度に害せない。
「……そこを退け」
「嫌だ」
「不死身のそなたごと撃ち抜くことも出来るぞ」
「…………やれるならやってみろよ!」
正直怖い。向こう側で、リリスが杖を持ったままあわあわとしている。フェールの目がキツくなる。その時、エレンは後ろから誰かに肩を持たれた。え、と思った直後、周りを温かさと柔らかさに包まれる。
「……ロー……」
いつから目覚めていたのか。竜化したローフィリアがエレンを覆い隠すように立っている。フェールに威嚇するでもなく、彼はそこにただ立っていた。フェールは驚いたように目を見開く。
「…………何……」
【エレンを傷付けないで。……僕が死んで丸く治るなら、そうする】
「! ……おい、ロー……」
ローフィリアはゆるりと、首をエレンの方に向けた。
【この精霊に伝えて。僕の言ったこと】
「……嫌だ! お前は殺させない!」
「…………エレン殿……そうか、心の力か」
フェールは杖を降ろしている。夜鴉竜は、フェールの方を見た。
【僕はもうここでは暮らせない。でも、外でも暮らせないんでしょ? だったら、エレンの為にここで死ぬ】
「何で! ……何でそこまで」
【大切なものを護りたいなら、命を賭けなさいってお母さんに教わった】
「!」
────ローフィリアの母は、白竜族だったはずだ。白竜族は穏やかな性質の竜だと、エレボスは言っていたと思うが……。
と、その時ローフィリアの黒い翼に混じった白い羽根が徐々に広がっていることにエレンは気が付いた。やがてその翼はほとんど全てが白色に転じた。黒色を僅かに残しながら。
〈僕は闇白竜だ! 護りたいものの為なら、何だってする!〉
「! 言葉が」
「……属性反転……!」
リリスが驚いた様子で言う。その目は何と言うか、興奮に満ちている。
「は、初めて見ました……対極属性の闇と光属性を持つ竜に見られるという……」
「え?」
「他の属性とは違って混ざらないんです、光と闇は。なので……属性の影響の強い竜族にしか見られない現象なんですが、えっと、その」
学術的な現象を目の当たりにしてテンションが上がり、状況が吹っ飛んでいる。ともかく、白くなったローフィリアを見上げ、エレンは言う。
「……つまり、普段は闇属性寄りで今は光属性に寄ってるってこと……?」
〈…………え? あ! あれっ〉
本人も気が付いていなかったのか、自分の翼を見て驚いている。
その様子に一切邪気など感じられない。はたと、エレンはフェールを見る。フェールもすっかり戦意を喪失して────杖を降ろし、仔竜の姿を唖然として眺めていた。
「…………白竜……そうか。護るべきものを護る性質か」
そう呟いたフェールは、左手で顔を覆った。
「フェール……」
「………すまぬ。……少し頭を冷やして来る」
そう言ったフェールは、影の粒子を残してどこかへ行ってしまった。不安気にローフィリアの鼻を撫でていると、リリスが近付いてくる。
「あの、大丈夫ですか……」
「あぁ、俺は平気だよ。こんなの親子喧嘩みたいなもんだし…………まぁ、でもフェールの方が傷付いてるかも」
フェールが消えて行った後を見る。そこにはもう誰もいない。
〈ごめんねエレン、僕のせいで……〉
「いや、ローは悪くないよ。それより、ありがとな」
〈うん……〉
サァ、と白い羽根が黒に戻って行く。こちらが通常状態らしい。
【戻っちゃった】
「綺麗だったよロー。……こっちの姿もかっこよくて好きだけど」
【うん……何だか疲れちゃった】
のす、とローフィリアは座り込む。それを見てエレンは問う。
「竜化、解かないのか?」
【こっちの姿の方が慣れてるからね。……僕の背中で眠る?】
「いいのか?」
【うん。そっちの人も】
ローフィリアはリリスに目を向ける。言葉はリリスには通じていないはずだが、あっ、とリリスは頬を染める。
「えっ、あのっ」
「背中で寝て良いってさ。どうだ、一緒に」
「それはその、とても魅力的な申し出ですけど、その……」
「ローは怒ってないよ。……お前が信じてくれたこと、分かってる」
「……はい。その、ごめんなさい、ローフィリアさん」
【いいんだ。闇竜族はそういうものだって、分かってるから】
俯くリリスの手を、エレンは一つため息を吐いてから取る。
「あっ」
「ほら、こっち」
彼女の手を引いて、ローフィリアの背中に登る。羽毛に覆われたその上で、エレンは笑う。リリスは戸惑いながらも触れた羽毛の手触りを確かめる。
「な」
「……はい。ふかふかですね」
この背に乗せて貰って谷から脱出したわけだが、あの時はリリスは酷く緊張していた。でももう、大丈夫だ。
くるる、とローフィリアが喉を鳴らして頭を下げ、目を瞑る。彼も安心し切っている。
そして二人と一頭は穏やかに、その夜をそこで過ごしたのだった。
#40 END
To be continued...
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