7
「陛下」は遠くへ行った。
アストリは屋上から遠くを見ている。
「遠く?」
「他国です。侵攻に」
「しんこう」
「攻めいって、帝国の領土にしてしまうんですよ」
「そう……」
アストリは彼を見る。
彼もアストリを見る。
「あの山、燃えてたの」
アストリは山を指さす。
「陛下が来た日」
「ああ……あの辺りで戦闘がありました。まだ、あなたの国の軍が、抵抗していたので」
ユルリッシュは下を指さす。
あの日、雪に赤が飛び散っていた。
「ここに、逃げ込もうとした者らが居たんです。ご存じでしたか?」
アストリは頭を振る。
ユルリッシュは微笑んでいる。
「可愛らしいですね。あなたとあなたの母君を閉じこめておいて、いざとなったら自分達がそこに逃げようというのだから」
なにが可愛いのかは、アストリはわからなかった。
ユルリッシュが居なくなった。
侍女達は言葉が通じないから、ユルリッシュが居ないのがどうしてなのか、訊くこともできない。
アストリは不安だった。
「陛下」が戻ってきて、ユルリッシュも一緒だった。
「陛下」は機嫌がよかった。
大きく勝ったのだそうだ。また、国がひとつ手にはいった。あたらしい妻をとったと云っていた。ユルリッシュのおかげだと。彼の策がよかった、と。
ユルリッシュが居たから、アストリはほっとした。
ユルリッシュが自分を見て、喜んだように見えた。
アストリはその晩、とてもこわい思いをした。
ユルリッシュも一緒だった。
「殿下?」
ユルリッシュの声でアストリは目を覚ました。
彼のつめたい手がアストリの手を掴んでいる。
「陛下」が居なかった。
ユルリッシュはアストリの手を掴んで、ひっぱっている。ろうそくの火が揺れている。
「起きてください。さあ、はやく」
アストリは痛む体を起こした。ユルリッシュが靴をはかせてくれる。彼は傍らのマントを、重たい生地のマントをとりあげて、アストリにはおらせた。フードをかぶせられる。
ユルリッシュに促されるまま、アストリは寝台を降りた。下着しか身につけていなかったが、マントがあるので寒くはない。
ユルリッシュは燭台を持って、アストリの手をひいて歩き出した。「ユルリッシュ?」
「大丈夫ですから」
ユルリッシュがそう云うと、なにも心配はないような気がする。
ふたりは歩いて、「塔」を出た。
兵達はそれを咎めたり、停めたりしない。
ユルリッシュはあたたかそうなマントを羽織って、立派な剣を腰につけていた。マントが不自然にふくらんでいる。せなかになにか背負っているのだ。
アストリは自分とさほどかわらない、華奢な彼を、見る。アストリが少し遅れているので、彼の後ろ姿しか見えない。
「ユルリッシュ。どこへ、行くの」
「どこへでも」
アストリはあしをはやめる。
そうするとユルリッシュもあしをはやめる。
「陛下は?」
「大丈夫です」ユルリッシュは楽しそうに云う。「代価は払いました」
ふたりは長く歩いた。
ろうそくはなくなった。
日が昇ってきた。
ふたりは小川のほとりに居た。
歩きすぎて熱くなった足を、並んで水にひたしている。
「最後だからと、陛下はあんなふうなことをおっしゃっただけで、根っから悪いかたではないんですよ。誤解しないでください」
ユルリッシュは顔に布をまいていた。背負っていたのは布の包みで、それは今、傍らに投げ出されている。中身は食糧や、「お金」だそうだ。それがどんなものなのか、アストリにはわからない。
まばらに白い目がアストリを見ている。
「戦果を上げたらなんでもほしいものをくださると、約束がありました。約束を違えるかたではありません」
「ユルリッシュ、右目はどうしたの」
「自分は殿下をほしがりました。とんでもない不敬です。しかし、陛下は心がひろい。情け深くも、殿下をくださいました」
「ユルリッシュ」
「自分の身分はそのままです」
ユルリッシュはアストリの頬へ触れる。亢奮気味に喋っている。
「それどころか、先立つものが必要だろうと、金貨やなにかまで。それに、このような素晴らしい剣を賜りました。殿下をまもるのに必要であろうと」
「そんな……」
「これは、陛下のしるしがはいったもの。帝国領土内ならば自分達の安全は保証されているようなものです」
ふたりは小川を離れ、歩いた。ユルリッシュは包みを背負っていて、アストリは溶けたろうそくがひっついた燭台を持っていた。
アストリには剣の価値はわからない。ただ、それがなにをひきかえに得たものかはよくわかった。