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アストリはその日まで、「男」というものを見たことがなかった。
彼女はうまれた時から「塔」に居た。外に出ることはない。ただ、「塔」に居た。
彼女以外にそこに居るのは、地下に閉じこもった母、身のまわりの世話をしてくれる乳母ふたりだけだ。
母はめったに地下室から出てこない。出てきても、アストリを抱きしめることもなければ、声をかけることもない。アストリは母にとっては「ないもの」だ。
乳母はどちらも、せなかは曲がり、顔は皺だらけ、髪はまっしろで、口をきくことはまれだった。
アストリはただ、生きていた。
なにをしろと云われたことはない。
なにをするなと云われたことはある。
乳母が時折、外へ出るが、アストリは外へ出てはいけない。
露台に出ていいのは三日に一度、それも夜だけで、ひとりで出ることもいけない。
窓を勝手に開けてはいけない。
開いている窓から身をのりだしたり、手を出したりしてはいけない。
地下室へ近寄ってはいけない。屋上へも近寄ってはいけない。
食事を残してはいけない。
それ以外は、アストリは自由だった。彼女が自由という概念を理解しているかどうかは別として。
だが、アストリが十五を迎えたその日、世界はいつものように静かではなかった。
外から音がする。
「塔」の外から音がすること自体は、ないことではない。そういう時は乳母が外に行く。少なくとも乳母の片方が。
そうすると、彼女はなにかしらのものを持って戻ってくるのだった。それは食べものであることがほとんどだったが、アストリ用のあたらしいドレスや下着、靴などであることもあった。
だが、物資が「塔」へもたらされる時の音と、その時アストリに聴こえた音は、異質なものだった。
ひどい熱を出して横になっている時に、胸からする音のような、気色の悪い音だ。それに、油を差していない蝶番がきしむ音のような、とてもいやな音。
アストリはどことない不安を覚えて、窓辺に立った。窓を勝手に開けることは禁じられているが、窓に近付くことは禁じられていない。そして、ここの窓には、小さいけれどまるく穴があいている。
アストリはその、自分の拳程度もない小さな穴を通して、奇妙なものを見た。遥か向こう、雪を戴いた山から、煙があがっている。山が燃えている……?
アストリが視線をさげると、人間らしいものの集団が目にはいった。
そこには大小様々な人間が居た。アストリには理解できないが、男女も老若も、雑多に集まっている。
その人間達が声を出している。ああ、これは、沢山の人間が同時に喋っている声なのか。
アストリが納得したところに、けたたましい音が響いた。
人間達が悲鳴をあげている。
なにか大きなものが人間達のなかへとびこんでいったようだった。
制限された視野に赤がぱっぱっとひろがった。
アストリは急におそろしくなって、後退った。
乳母はいつまで経っても来ない。
アストリは、耳を塞いで寝台へ突っ伏していた。
いつもなら、乳母が来て世話をしてくれている時間だ。
だが、乳母は来ない。
アストリは耳から手をはなした。よかった、と思う。外から、あのおそろしい音は聴こえてこない。
アストリはけれど、別の音を聴いた。
廊下を歩く音だ。
だが乳母とは違う。
乳母のような重くてはっきりしない足取りではない。
アストリは音が途絶えるのに気付き、扉を凝視した。
扉が開く。乳母や、と云おうとして、アストリはかたまった。
扉を開いたのは、アストリが今まで間近で見た誰よりも背の高い人間だった。
黒いマントを羽織って、上等な服を着た男は、アストリを見てにっこり笑った。
アストリは恐怖でかたまっていた。
男はかつかつと音をたててアストリの部屋へ這入ってくると、無遠慮にアストリの手首を掴んだ。