2話 なかなか覚悟は決められない
待ち遠しかった夜になって、わたしは自分の部屋の窓から顔を出している。
幾千もの星が黒い空にぽつぽつと光っていた。髪をなびくそよ風が、心の邪気と道路に落ちている黒く取れにくくなってしまったガムのように脳内にべっとりと貼りついたジョージの顔を追い払ってくれる。
そう、これはわたしの習慣の一つ。天気の良い日はこうしている。星が出ているとなおのことこうしている。こうしていると心と体が落ち着くからだ。
わたしは夜空に輝く星々を見ながら、ふとこんなことを思った。
もしかしたらもうすぐ死ぬかもしれない。今のうちに遺書でも書いたほうがいいか。
すぐ実行に移す。窓とカーテンをしっかりと閉めて指差し確認をしたあと、足早に机に向かった。机の引き出しからペンと紙と便箋を取り出す。
今のうちに書いておかないと殺されたとき本当に困る!
わたしは椅子に座り机の上に紙を置き、ペンを使って遺書を書き始めた。
殺したのは執事のジョージと書いておこう。そしてあいつの言動や行動もきっちり書いておこう。それとお父様や使用人たちのお礼も書いておこう。あ、マリアのことも忘れていた。……うん、ばっちり! 完璧な遺書ができた!
遺書を目の前に広げた瞬間、
「何をしているのですか?」
「……そ、その声は」
わたしの背後から聞き覚えのある、この宇宙から存在ごと消えてほしい人の声が聞こえた。
気配を感じることはできなかった。背後からは物音一つ聞こえなかったからだ。いったい、どうやって……。
後方に振り向く。そこにはやはり黒いタキシードを着るヤツがいた。
「ジョージ!」
わたしの声が部屋中に響く。
「何を書いて……、ほう、遺書ですか。……わたしは見てはいけないところを見てしまったようですね。……え? わたしが姫様を殺す?」
しまった、見られた! これじゃあもう遺書は使えないじゃないの!
わたしは急いで遺書を懐に詰めた。これ以上見られるのはまずい。恥ずかしい文を書いてしまったからだ。
「……大丈夫です。わたしは姫様をコロサナイ」
ジョージは狂気染みた微笑みを見せた。
後半怖かったんですけど……。
「ダメよ、信用できないわ。ジョージは絶対にわたしを殺そうとしているもの」
冷静を装いながら言った。
「ほう、それはいつの話でしょうか」
こいつ、とぼけてやがる。今朝のことを忘れてしまったのか?
「今朝よ! なんで覚えてないの!」
ジョージに怒鳴り散らした。
「あぁ、あのとき。……あのときは手が滑って」
ジョージはなぜか微笑んだ。その憎たらしい笑みが気色悪くて本当に苛立つ。
「言い訳は無用! 明日にでもこの事をお父様に言いつけて、檻に入れてやる!」
「お好きにどうぞ」
ジョージは胸を張っていた。
何その自信は。檻の中に入れられてもいいの? あー、イラつく!
わたしは椅子から立ち上がり、ジョージの前に瞬時に移動した。遺書を見られた以上消えてもらうしかない。
「お望み通り言ってやる! さぁ、早く部屋から出てって!」
わたしは右手を握り締め、本気でジョージに殴りかかる。このパンチはジョージを抹殺するために考え、世界中の格闘術を参考にし、二ヵ月間毎日欠かさず今は亡き数多くのサンドバックを殴りに殴って習得したパンチだ。これが当たれば間違いなく吹っ飛ぶ。大丈夫だ。お父様により威力はわかっている。間違いなく吹っ飛ぶ! 絶対に!
「畏まりました」
ジョージはわたしの入魂の一撃を軽やかに避けてから軽くお辞儀をし、わたしの部屋から目にも止まらぬ速さで去って行った。
わたしは苛立ちと共に思いっきり壁を殴った。壁が響いたと同時に少しへこんだ。
わたしの怒りと憎悪はこんなものではない。この感情は消えたりしない。ジョージを抹殺するまでは。
「……絶対に入れてやる」
✚✚✚✚✚
次の日の朝、わたしはいつもお父様がいる広い部屋に来た。この部屋はお父様が特別豪華な椅子に座ったり、お客様を迎えたりするためにとても高い金を払い、人々が時間と体力と労力を削りに削って造られた部屋だ。お父様が座る席の横には誰も座らない豪華な椅子があり、それは元々お母様が座っていた椅子である。他には体がかなり痩せているダイジン(何者かは不明)というわたしをよく睨む人が付き添いでいるが、今のわたしには全く関係のない人だ。
お父様を見ると、腕を固定している包帯が目に飛び込んだ。
そういえば最近お父様が体中に包帯を巻いているがどうしたんだろうか。……ああ、そうか。きっとお父様はあの長い階段から落ちてしまったんだ。……いや、今そんなこと考えている暇はない。お父様にはわたしの訴えを聞いてもらわないといけないのだ。
「お父様! あの執事は何ですか! もう我慢できません!」
ドシドシと足音を立てながら、お父様に近づく。
「うえぇ! ななななんでここにいるんだ?」
お父様が間抜けな声を出しながらビクリと体を跳ねたあと、すぐにわたしに顔を向けた。
「ジョージですよ! あの執事を今すぐに檻に入れてください!」
お父様は落ち着きを取り戻し、
「……あ、あぁ、あの執事か。それは無理だ。それで、なんで辞めさせたいんだ?」
なるほど。ジョージを辞めさせる気はないのか。
「あの執事。わたしを殺そうとしているのですよ! 投げナイフをわたしに投げるわ、わたしにブービートラップを仕掛けるわ、いつもいつも恐怖心に駆られながらこの城で暮らしているのですよ!」
こう言えばお父様にもジョージの悪事がわかるだろう。さようならジョージ。今日があなたの退職日よ。
「そうか。災難だなぁ」
ダメだ。辞めさせる気はないみたい!
「でもそんなことはできないんだ」
「はぁ?」
なぜ? わたしの命が危ないんだよ? お父様はわたしの命をどう思っているの?
「『はぁ?』って言われてもなぁ。できないものはできないんだ。ちょっと待っていてくれ」
そう言ってお父様は、椅子の横にある棚の引き出しを開け、丸めてある紙を取り出した。
「こういうことだ」
お父様はその紙をバッと広げ、わたしはお父様にさらに近寄りその紙を見た。
その紙には長々と難しい文章が書かれていた。じっくり読むとそれは誓約書であった。キッチリとお父様のサインも書かれている。内容を簡単にすると、
『
・ジョージの契約を一年間切ってはいけないよ。
・その代わり姫様の件はキッチリとやっておくから。
・月給二倍にして。
・姫様の件は他言しないでね。
・ジョージが書く誓約書等の書類には絶対にサインしてね
』
という感じだ。
「…………」
なんということでしょう。あと半年以上もあの執事と一緒にいないといけないだなんて。お父様はどれだけこいつを雇いたかったの? っていうかこれ誓約書じゃない。しかもほとんどわがままじゃないですか。
「何でこんなヤツを雇ったの! しかも誓約書にサインなんかして!」
「しょうがないじゃないか。見返りが大きいんだから」
「見返りって何よ!」
「誓約書に言っちゃいけないって書いてあるから無理」
お父様はそっぽを向きながら言った。
クソ、なんて野郎だ。わざわざこんなことまで書くなんて。どれだけわたしに知られたくない見返りなの!
「ふんっ、もういいわ!」
わたしはそこから走って自分の部屋に戻った。
お父様をどれだけ説得しても無駄だと思ったわたしは、あることを決める。
そう、それは、ジョージを本気で仕留めること。
殺られる前に殺る。なんでこんな当たり前なことを考えなかったのか。
わたしは膝を床につけ、指を交差させた両手を胸に当て、天を仰いだ。
お母様、わたしを見守っていてください。ジョージを……いや、あのクソ野郎を必ず肉塊にシテヤルカラ。