1話 今日もきっと痛い目に
わたしは今、命の危機を感じている。横から飛んできた何かが、首の前に深々と壁に刺さっているからだ。
後ろに一歩下がりそれを見る。それは銀色の投げナイフだった。それは形状から見て、あいつが使っているものだ。少しでも早く歩いていたら間違いなく頸動脈に刺さり、鮮血を吹き出しながら命を落としていたことだろう。
なぜこんな状況になったのか。わたしは冷静に考える。
暗殺者か? この城の警備のことを考えればあり得るが、違うだろう。
……よく考えたらわたしを殺そうとする人がいるわけがない。ただ一人を除いて。
考えた時間は一秒も満たなかった。断定できる人物が城内にいるからだ。ではそいつは誰か。そいつは……、
「ジョージ!」
わたしはあいつを呼ぶために声を張り上げた。
「どうなされましたか? 姫様」
わたしの声を聞いた黒ずくめの男がこちらに駆け寄ってきた。
この黒ずくめの男は執事のジョージだ。黒いタキシードを着ており、身長は高く、短い黒髪、顔立ちはかなり整っている。この城の執事であり、わたしが城内で一番嫌いな人物でもある。
「これジョージでしょ!」
「すみません。手が滑ってしまいまして」
そう言いながらジョージは壁に刺さっているナイフの柄に手を取る。ナイフは深く刺さっているはずなのに、ジョージは力を入れたようなそぶりをせず軽やかに抜いて見せた。わたしはそれを見て唖然としてしまった。
ジョージの左手には数本のナイフを重ねて持っている。そして右手にはさっき抜いた一本のナイフを持っている。手に何本かナイフを持っている時点で信憑性を損なう。
「手が滑っただけで急所に当たりそうなところに刺さるわけがないでしょ!」
ジョージに対し声を張り上げた。
ジョージは間違いなくわたしを殺そうとしている。このマルカ王国の姫を。
「はぁ、いつになったらわたしに対して――」
グチグチと言おうとしたのだが、
「そんなことより、早くしないと習い事が……」
わたしの発言を遮られた。
そんなことよりって? なんですって? あなたのせいでこんなことになっているのよ!
そう言おうとしたのだが、ジョージの発言を聞いた瞬間思い出す。
そうだった。習い事があるんだ。
急がなければならないのでそんなことを言う暇がない。時間があまりないのだ。
「説教したいところだけど今は急いでいるからできないの。覚えてなさいよ!」
そうジョージに言い放った。そして即座に全速力で長い廊下を駆ける。あまり走らないわたしからしてみれば本当につらいものである。
こんなことになったのはすべてジョージが悪いのよ!
赤いカーペットが敷かれている長い廊下を走る。走らないと習い事に間に合わない。
今日はわたしの習い事の一つ、新体操だ。昔から習っているので、体は常人と比べると非常に柔らかいはずだ。ちなみに新体操の先生はいつも優しいのだが、遅刻にかなり厳しい人である。一度怒られたことがあり、その先生の表情はまさに鬼の形相であった。
嫌なことを思い出したので、体が少し身震いする。
夢中になって走っていると、突然足に何かが当たった。
「うわっ!」
それに引っ掛かり派手に転ぶ。そのときの感覚は空を飛んでいるようだった。
そうか、ライト兄弟はこの感覚を味わいたかっ――、
「ぐえっ」
体中に衝撃が走った瞬間、わたしの口から高貴という言葉にふさわしくない声が吐き出てしまった。
「い、痛い。……い、いったい何よ」
足元を見ると糸が床を張っていた。その瞬間頭上から、ダンッ、という聞き覚えのない大きな音が耳に響いた。その音のほうに目を向けた。
「ひっ」
短く声を上げてしまった。それと同時に全身が大きく震えた。
そこにはハルバードの斧の刃先が床に突き刺さっていた。それは廊下に何体か飾られてある西洋の鎧が持っていたはずのものだった。
「な、なんで」
わたしは心の底から恐怖を感じた。それはちゃんと西洋の鎧に固定されていて簡単に落ちるはずがない。だけど、このハルバートは間違いなくわたしを殺しにきた。こんなものを仕掛けたのは間違いなく、あいつだ。
「おや、姫様。どうしたのですか? 姫様らしくない」
倒れているわたしの背後から、自分の指を耳の穴に突っ込んで鼓膜を破りたくなるような声が耳に入ってきた。
わたしは体を起こし、その声のほうに振り向く。やはりそこにはジョージがいた。
「……ふっ、まさか一国の姫様であろうお方がたまたまそこに仕掛けられていたブービートラップに引っかかるなんて。boobyです、姫様」
あんなヤツに嘲笑されたことが非常に悔しい。……ん? 今あいつboobyって言った? 確かboobyの意味は……。
脳内にある記憶を探る。そして、boobyという単語に該当する映像、音声を検索する。それに該当する四つの検索結果が出た。一つはさっきジョージに言われた映像と音声。もう一つは八年前、あのときに言われたものだ。その八年前の映像と音声を複合させる。
八年前の映像が流れ始めた。
──八年前。あれはわたしがまだ英会話を習っていたときのことだ。
映像はわたしが見たものを映し出している。それと同様に、音声もわたしが聞いたものだ。
「姫様、英語ができないと今後お困りになられますよ」
目の前にいる髪の長い女性が、そうわたしに言った。その姿は見たことがあった。昔この城にいた英会話の先生だ。
「やだやだ! めんどくさいの!」
わたしはそう叫んでいた。今思い返すと本当にわがままな子供時代だった。
あのときのわたしは英語というものが嫌いだった。もちろん意味がわからないからだ。英語で何か話されても本当に意味がわからないし、Helloだけ覚えていれば問題ないと思っていた。今となってはとても懐かしいものである。
「それでは困ります!」
そう叫んだあと先生は顔に手を当て、呆れたようにため息をついた。
「はぁ……姫様は本当にboobyですね」
先生は確かにそう言った。
「ねぇ、ぶーびーってどういう意味?」
わたしは先生に質問した。そのときのわたしは、boobyの意味は知らなく、聞いたことさえなかった。
先生は目を薄くし、わたしを見ながら恐ろしい文章を放った。
「boobyの意味ですか? そんなこと決まっています。『間抜け』という意味です」
──『間抜け』という意味です。
──『間抜け』という意味です。
その音声の部分だけが頭の中で繰り返し流される。何度も、何度も。
……思い出した。
わたしは息を吸い込み、大声を放つ。
「わたしのことを『間抜け』って言うな! あと、たまたまって言ってるけど、ジョージが仕掛けたんでしょうが!」
「何を言っているのですか? わたしはそんな罠を仕掛けないですよ。ちなみにわたしは姫様のことを控えめに言うと『間抜け』と思ったことがあります」
「なっ」
そう言われた瞬間、わたしの魂がどこかに行ってしまったような感覚になった。こんな人間に言われるとは思わなかったからだ。
わたしはこの感覚を知っている。この感覚は八年前にあったからだ。その一言のせいでわたしは三日三晩部屋から一歩も出ず、食事も水も一切摂らなかった。いや、摂ることができなかったのだ。その一言が、可憐なる花のように儚いわたしの心を打ち砕いたのだ。
「おっと、そろそろ姫様。もう習い事の時間が――」
ジョージはいつの間にか右手に持っていた懐中時計を見ながら、そう呟いた。
その呟きがわたしの魂を元の体に戻した。そしてすぐさま、文句を言いつける。
「あんたのせいでしょうが!」
文句を言いつけることができるのは心が鍛え上げられたからだろう。
わたしは素早く立ち上がり、全力疾走で体操部屋に行くのであった。
わたしとジョージが出会ったのは今から二ヵ月前のことだ。わたしのお父様が直々に連れてきたのが、執事のジョージである。
その前にとある執事がいたのだが、急にいなくなってしまった。今思えばあのときの執事のほうがよかったと思っている。
お父様が言うには、執事学校での成績優秀者だったらしい。それを聞いてわたしは期待をしていた。だが、結果はどうだ。わたしという身分の高い人間に対して無礼なことばかりする。毎日わたしに刃物を向ける、というクソ野郎な執事である。今すぐにでも檻に入れてやりたいところだ。
……あれ? これって執事じゃなくて、暗殺者じゃない?