第十八話 カルデブルグ占領
『影』がジークフリートにグランヴァール王国の異変を奏上してから二日がたった。カルデブルグは今日も何もなくいつも通りの日々をジークフリートは過ごしていた。いつものように書斎の机に腰掛けて、学問書を読む。それは帝王学、政治学、兵学など多岐にわたっていた。その書物は非常に興味深く面白い。しかし、ジークフリートはより面白い何かを常に求めていた。それは変化だ。このカルデブルグの現状を一変させる何かを求めていたのだ。
「今日も何もなかったか」
もう太陽が山の近くまで下がってきている。今日という1日ももう終わろうとしている。ジークフリートは読んでいた書物をそっと閉じる。その表情を暗かった。何も面白くないと思っているのだろう。ジークフリートがその書物を本棚に戻そうと机を立とうとした瞬間、ジークフリートの部屋に通じる廊下をドタドタと駆け抜ける音がする。滅多にないことなので、ジークフリートは思わず身構えてしまう。ジークフリートは家族全員から疎まれていた。それゆえ彼の元を訪れる者はまずおらず、いるとしたらそれは『影』ぐらいであった。
『影』の者は皆隠密行動のスペシャリストだ。そのため、彼らは常に誰にも気づかれないほどに気配を消して動く。ジークフリートを訪ねる際にも、完全に気配を消している。にもかかわらず、この足音だ。『影』であることには間違いはないが、一体何があったというのか? ジークフリートは妙な胸騒ぎを感じていた。
その数秒後、案の定扉が開く。その扉の開き方も、いつものそっとした開き方ではなくて、大雑把に開かれ、大きな音が立つ。それと同時に部屋に勢いよく『影』が駆け込む。部屋に駆け込んできた『影』は息をハアハアと切らして膝に手をついている。
「『影』ともあろうものがこんなにも騒がしくするとは情けないことだ。一体どうしたんだ?」
ジークフリートは半ば呆れながら『影』に問いかける。従容としているジークフリートに対して、『影』は非常に慌てた様子でいる。『影』の呼吸は未だ激しいままだ。
「とりあえず落ち着け。そんなに息を切らしていては話すことすらできんだろう」
『影』は呼吸を整えてから大きな声を上げる。
「申し上げます! グランヴァール王国の騎兵部隊が山脈を越えてカルデブル領に侵入しました! その数は不明ですが、率いているのは相当の人物と思われます!」
「なんだと!?」
ジークフリートは驚愕する。まさか。自分がありえないと思っていたことが現実になってしまった。不可能だと思ったことを成し遂げてしまう者がいたとは。ジークフリートはカルデブルグ領内が侵されていることよりも、自分の予想が裏切られたことに驚いていた。ジークフリートは口を開けたまま呆然と立ち尽くしていた。
「どうなさいますか、ジークフリート様!」
『影』の大声に、ジークフリートはハッと我に帰る。
「それではすぐに……」
領主アダム=カルデリアに報告して防衛の対策を練るのだ。本来ならそう続けるべきであった。しかしなぜかジークフリートの口からは言葉が出てこない。どうしても言いよどんでしまう。
「どうすれば?」
『影』も何も言わないジークフリートの様子を不審に思っている様子で首をかしげる。
ジークフリートはしばらく考えた。今、敵の侵攻に備えてカルデブルグとグランヴァール王国の通行路に兵力を集中させていたため、ヴォーフムには100程度の警備兵しかいない。敗北は必至だ。ここでアダムに報告したとしても、おそらくカルデリアが破れることには変わりがない。万が一報告して作戦を練り、それが功を奏して攻め寄せているグランヴァール王国軍を撃退してしまったとしたら、またアダムは『永遠の繁栄』などとほざいて、カルデブルグでの苛政を継続してしまう。
ということはこれを好機ととらえることができる。カルデブルグの腐った政治を改めることができるチャンスである。ここはあえて報告せずに、グランヴァール王国軍の侵入を許して敗北を喫すべきだ。おそらくそのままカルデブルグは保護国化されるか、併合される。その時にグランヴァール国王にこの悪政を訴え、アダムら現行の貴族達を全員粛清して善政を敷いてもらえば、カルデブルグはずっと良くなる。誰も苦しむことがない平等社会を形成できる。
「報告するな。その情報は私の元で止める。『影』からの流出も許さない」
「えっ!?」
「案ずるな。全責任は私が負う。お前達に危害は加えない」
「しかし……」
「わかってくれ」
ジークフリートは誰にも報告しないことを決意した。さすがに『影』はその決断に従うことを渋る。ジークフリートの指揮下にあるとはいえども、その決断に従うことはカルデリア家への反逆を示すことになる。アダムに逆らえばどんな恐ろしいことが待っているかもわからない。やはりアダムに報告しよう。そうジークフリートに伝えようとして『影』はジークフリートの目を見た。しかしその目はまっすぐと『影』を見つめており、ぶれることがなかった。『影』はその目からジークフリートの決意のほどを感じざるをえなかった。
「わかりました。『影』の中でこの情報は機密扱いとします」
「そうか! すまない、恩に着る!」
ジークフリートは『影』の快諾に満面の笑みを浮かべて、『影』の手を取り喜ぶ。ひとしきり喜んでから、ジークフリートはカルデブルグを一望できる窓際へと向かい、そこからカルデブルグを見渡す。
「なあ、お前の家族はどこにいる?」
「私の家族ですか?」
「お前以外誰がいるんだよ?」
『影』はジークフリートの言葉が自分に向けられていることに気づいて驚いた。カルデブルグでは、貴族のみしかその人格を認められない。たとえカルデブルグのために働く兵士や官僚であっても、彼らには注意すら向けられない。アダムのせいでカルデブルグはこんなにも腐った領邦となってしまった。そんな事情があるから、『影』は貴族の一人であるジークフリートに注意を向けられて、驚かずにはいられなかった。
「私の家族はヴォーフムからほど近い農村で暮らしていました。春には美しい花が咲き、夏には緑が生い茂って、秋には趣のある紅葉が農村を彩り、冬には雪が一面の銀世界を演出する、そんな美しい農村で私は生まれました。厳しい収奪がありましたが、私たちは皆家族仲良く暮らしていました。それはたいそう幸せだったことです」
『影』は感慨に耽りながら、過去の楽しかった日々を笑顔で語る。しかしジークフリートには気がかりな点が一つあった。
「どうして、過去形なんだ?」
ジークフリートは何の気なしに気になったことを質問しただけに過ぎない。しかしジークフリートは『影』の表情が曇ったのを見逃さなかった。
「一昨年の飢饉で餓死したんです」
『影』は言うことが憚られるようにそっと口にした。
「そうか……」
ジークフリートは全てを察した。その家族に何があったのかを。きっと苦しく、辛かっただろう。しかしジークフリートはそれ以上深くは聞かなかった。いや、聞けなかったのだ。重税に苦しむ農民がいるのに、自分たち貴族はその重税でぬくぬくと暮らしている。そんな自分たちが、彼らの苦境を聞くことが許されるような気がしなかったのだ。
「ジークフリート様は、このカルデブルグを立て直すことをお考えなのでしょう?」
「俺の口からは言えない。想像に任せるよ」
「いいえ、そのお顔にはっきりと書いてありますよ」
「バカなことを言うんじゃない」
考えていることとは逆のことを言ってのけるジークフリートが、なぜだか滑稽に思えて、『影』は笑っている。ジークフリートもそれを見て、なぜだかおかしな風に思えてきて笑ってしまった。
「ジークフリート様、何卒、カルデブルグを変革させてください。もう私の家族のような辛い思いをする者がいなくなるように」
「ああ、尽力しよう」
『影』の真剣な頼みに。ジークフリートは心から頷く。沈みかけている夕日が、カルデブルグを変えるという決断を下したジークフリートを静かに照らしていた。
「さあ皆様方、飲めや歌え! このカルデブルグの永遠の繁栄を、今宵も祝いましょうぞ!」
今夜もカルデブルグの中心ヴォーフムのカルデリア家の邸宅では、貴族を集めて宴会が開かれている。宴会に参加しているものは皆、大騒ぎで楽しんでいる。いつもと違うことといえば、今日はジークフリートが参加をしていないことと警護隊長を兼ねるアダムの次男がいなかったことぐらいだ。しかし、ジークフリートはいつものけもののような扱いを受けていたため、その不在には誰も気づかない。
「本日次男坊は参加しておりませんが、気にせず楽しんでくだされ! 彼には重要な役目がありますゆえ!」
アダムは一応次男がいないことを伝えるが、ジークフリートがいないことには触れなかった。
「しかし、ガエルのやつ、まだグランヴァール王国を陥れることができておらんのか。私の一番優秀な息子であるのに情けない」
アダムは自分の自慢の息子がまだグランヴァール王国で軍事行動を実施しており、王都ヴェルタスに到達できていなことを嘆く。一番才能のある息子だから、かける期待も大きいが、うまく物事を行えていない際に感じる落胆もそれに応じて大きなものとなる。しかし優秀というのはジークフリートを除いての話だ。彼を入れてしまえば、アダムのどの他の息子と比べても、ジークフリートが最も優秀な人材となる。しかしアダムにとってジークフリートは息子ではなく、諜報部隊の指揮官を務める駒でしかなかった。
「今回ガエル様は少し手間取っておられるようですが、グランヴァール王国が滅びるのも時間の問題です。あと二日もすれば、勝利の報告もくるのではありませんか?」
アダムのご機嫌とりに、周囲に控えていた貴族がアダムにおべっかを言う。これにはアダムも機嫌が良くなる。アダムは先ほどの落胆した表情から一転して急に満面の笑みを浮かべた。
「そうお思いになられるか! そうかそうか、そうであろうな!」
何とも気楽な奴らだ。ジークフリートがもしもこの場にいたなら、この光景を見てそう思ったのだろう。自らの身に確実に迫りつつある危機を察知することすらできずに何の悩みもなく騒ぐ貴族たちは、愚か者でしかなかった。
「もうすぐグランヴァール王国も我らの永遠の繁栄に入るのです! 今日はそれの前祝いといきましょう!」
アダムは間抜けな号令をかける。総じて間抜けな貴族たちもそれに呼応して手に持つグラスを上に掲げ、乾杯のそぶりを見せる。
それでは乾杯。アダムがそう言おうとしたまさにその時だった。宴会場の扉が大きな音を立てて開く。そこにはアダムが見たことのない背の低い青年と豪胆な風貌の屈強な戦士が立っていた。後ろには30人ほどの兵士が控えている。突然の出来事にアダムは声を上げる。
「な、何だ貴様らは!?」
「誰だと思う?」
そう言って青年は部屋の中へと入りながら後ろの手に持っていた生首をアダムの元に放り投げる。放り投げられた生首をアダムの足元に転がる。アダムは一瞬それが何なのか理解できなかった。しかし一瞥して1秒も経たないうちにそれが何であるかを認識する。
「ひっ!」
アダムは思わず尻餅をついてしまう。
「俺たちがヴォーフムに侵入した時、その人が率いる警備兵が相手してくれたんだけど、俺たちの相手ではなかったな。そいつ、『我はカルデリア家の次男である!』とか何とか言って、威勢良く俺に襲いかかってきたけど、俺の敵ではなかった。すぐに首を切り落としてやったよ。他の警備兵も同様にな」
自身がしたとても人間業とは思えない一連の所作を青年は飄々とした様子で述べる。アダムは歯をガチガチと鳴らしながら震えていた。
「お前の名は一体何なのだ?」
青年はそのままアダムの元へ近づく。アダムの前に立つと、青年は腰に差していた剣を抜き、剣先をアダムの喉元に突きつける。
「俺の名前は神楽鳴。グランヴァール王国のカルデブルグ強襲部隊臨時司令官だ!」
その掛け声とともに後ろに控えていた兵士たちも一斉に剣を抜き近くにいる貴族に剣を突きつける。貴族たちは皆恐れをなしている。先ほどまでの素晴らしい時間が一瞬にして地獄の風景と変わってしまったのだ。
「わ、私を殺すのか?」
「死にたいのか?」
「い、いやだ、死にたくない!」
「だったらグランヴァール王国に降伏しろ。そして直ちにグランヴァール王国内での軍事行動を停止させるんだ」
「わ、わかった! だから殺さないでくれ!」
「わかったらさっさとカルデブルグ領にその由を伝える命令を出せ! 変な様子を見せたら、その命はないと思え!」
鳴はいつもの様子には似合わない大声をアダムに浴びせる。アダムはすぐに伝令をガエルの元へ向かわせた。カルデブルグにもカルデブルグはグランヴァール王国の支配下に入る由を伝えた。これにより、グランヴァール王国は守られたのだ。後ろから見ていたアレクセイは鳴の偉大な背中を見つめ、そのすごさに感嘆しているばかりであった。
鳴は兵士たちの方を見て、剣を高く掲げる。
「皆さん、我々の勝利です! 勝鬨をあげましょう!」
鳴の合図に呼応して、屈強な男たちの歓喜の声があちこちで広がる。この光景を見て、鳴は少々ホッとしてしまった。気が緩んでしまう。
アレクセイが鳴の近くに寄ってきて、笑顔で語りかける。
「鳴殿、やりましたな! グランヴァール王国を守ることができたのは、鳴殿のおかげでござる!」
「買い被りですよ」
鳴は此の期に及んでも依然として謙遜を続ける。しかしその様子には何やら覇気がない。怪訝に思ったアレクセイが鳴に心配の声をかける。
「鳴殿、顔色が優れないようでござるが、大丈夫でござるか?」
「ええ、大丈……」
鳴は全てを言い終えることができないままその場に崩れ落ちた。アレクセイはとっさの判断で鳴を抱きとめる。
「鳴殿!」
「大丈夫じゃありませんでした……。アレクセイさん、これからの一切の処理をお任せしてもよろしいですか?」
「ああ、お任せくだされ。とにかく今はお休みなされ」
「世話をかけます……」
そう言い残すと、鳴はそのまま深い眠りについた。山脈越えに続くヴォーフム襲撃に際して、鳴は作戦の立案や指揮系統の管理などで、人一倍活動をしていた。その疲れが祟ったのだろう。鳴はぐっすりと眠りについている。
「後のことは私に任せ、しっかりと休み、また元気なお姿を見せてくだされ」
アレクセイはそう言い残して、鳴をカルデリア家邸宅の休憩室へと運んだ。とにかく、鳴の活躍によってグランヴァール王国は救われたのだ。カルデブルグ強襲部隊は皆、その事実に酔いしれている。鳴の掛け声で始まった勝どきは満月が美しく照り映える夜通し続いていた。眠る鳴の表情には心なしか笑みがこぼれていた。