第十六話 山越えにて
鳴の指示で、部隊は進軍を加速した。急激な進軍速度の加速は部隊内部に不満をもたらした。あまりにも急激な変化に部隊の騎兵はついてこれなかったのだ。それもその通りだろう、ただでさえ厳しい環境にいて、普通の速度で進軍していても非常に苦しいのだ。それで速度を上げたのだから、苦しさもそれに伴い増加した。この苦境に不平を漏らす騎兵も多々いた。
「ったく、あの青二才司令官は一体何を考えているんだ?」
「こんな無理な進軍では必ず負傷者や体調不良者も出てしまう」
「速く進軍してヴォーフムを陥れなければならないのはわかるが、俺たちのことも少しは考えて欲しいぜ」
もはや部隊は一枚岩ではなくなりつつあった。初めこそグランヴァール王国を守るために団結していたこの部隊であったが、さすがに鳴の無理な進軍がたたって綻びが生じ始めていた。
「おいそこ! ごちゃごちゃ言っている暇があったらさっさと行け!」
部隊後方からマックスが声を荒げる。マックスは部隊の後方から統制する役割を与えられていた。隣にはブレフトもいる。彼もまたマックスと同じ役割を与えられていた。先ほど、前方にいたのは、鳴に部隊の現状報告をしていたからだ。その時に、運悪くといっていいのだろうか、たまたま鳴と案内人とのやりとりを耳にしてしまったのだ。
ブレフトはマックスの隣で納得できないというような表情を浮かべている。それにマックスが気づいた。
「おい、ブレフト。一体どうしてそんな不機嫌そうな表情をしているんだ?」
「いや、なんでもない」
「なんでもないことないだろう? お前の表情を見ていればわかるよ。何が不満なんだ?」
ブレフトはマックスの質問に黙ったままでいる。こんなにも重要な役割を任せられている自分が、鳴に反抗することは、部隊を二分する可能性もはらんでいることも、ブレフトはわかっていた。安易に自分の意見を言うべきではないと考えたのだ。ブレフトはジレンマに陥っていた。
「自分の意見ははっきり言うべきだ。そんな曖昧な態度は、誤解を招いて、かえって問題をややこしくしてしまうだけだ」
マックスはブレフトが自身の思いを述べることを求める。ブレフトは意を決して重い口を開いた。
「鳴司令官が何を考えているのかがわからん」
「どういう意味だ?」
「急激に進軍速度を上げたのは知っているよな? その理由が何か知っているか?」
「いや、俺は命令しか聞いていないから、わからないな」
「鳴司令官が、『何かよくないことが起こりそうだから、速く山脈を抜けるべきだ』とか言いだして、下された命令がこれだ。そんな『かもしれない』で俺たちや騎兵達は今辛い思いをしているんだよ」
「そうだったのか……」
マックスは上空を見上げ、しばらく何も言わなかった。マックスが見上げた空は雲ひとつない青空でこれから天候が悪化するなどの大災害が起こる兆候は全く感じられなかった。マックスとしても鳴の命令には若干不服な感じはした。しかし、マックスはブレフトをなだめる。
「ブレフト、確かにお前の気持ちもわかる。この山越えは非常に危険なのだから、進軍速度を上げてしまっては多くの危機が現出してしまう。でもな、山に入る前夜の作戦会議での鳴司令官の手腕を見ただろう? 安全に山脈を越えるために案内人を用意しておき、一人の騎兵も死なせないと豪語していたじゃないか。だから、今回も信じてみてもいいんじゃないのか?」
マックスの説得は非常に的を射たものであった。これまでの鳴の力量から、今からの鳴の行動も信頼できるというものであった。ブレフトは未だに不満そうな表情を浮かべている。
「まあこれから起こることが全てを証明してくれるさ」
マックスの気の抜けた発言にブレフトは怒りの表情を表す。
「お前は悔しくないのか?」
「何がだ?」
「俺たちの仲間が死んでしまうかもしれないことがだよ! 俺たちはいつも一緒に訓練をして、飯を食べて、戦ってきたんだ! そんな絆がある仲間を危機に晒すような作戦には俺は納得できない!」
ブレフトが感情論を持ち出した。これはタチが悪い。感情論を論理で打ち破ることは難しい。それは非論理的だとして退けることはあまりにも無情だし、感情論で反論してしまえば、感情論同士の水掛け論に堕してしまう。しかしマックスは冷静であった。
「俺たちの目的はなんだ?」
「そんなものは決まっている。グランヴァール王国を守ることだ」
マックスの質問にブレフトが胸を張って答える。今更何を言いたいのだと言いたげな様子だ。
「そのために命を賭けるのは当然のことではないのか? そして俺たちは司令官にはどんな時でも従うべきではないのか?」
ブレフトがハッと気づいたような表情を浮かべる。とても大切なことを忘れていたと痛感した。自分は甘いことばかり言っていた。誰も死なせない。鳴の言葉を神格化しすぎていた。しかしそれは理想に過ぎない。戦争が起こり、騎兵全員が死ぬ恐れがあるのは当然だ。そのような状況下で、司令官が一人でも多くの兵士を生きて故郷に返そうとして、考えうる限りの最善の策をとったにもかかわらず、自分は大義名分を忘れて命の大切さばかりを強調し、鳴に非難を浴びせていた。ブレフトはそんな自身の行動を深く恥じた。
「お前のいう通りだ。すまなかった」
しばらくしてからブレフトがマックスに謝罪の弁を述べる。
「別に謝ることじゃないだろう。お前はお前の信念を貫いただけだ。何、もしも鳴司令官が予期しているような大災害が起こらなくて、従軍の加速で騎兵達に被害が出たら、鳴司令官を殴っちまえばいいんだよ」
「ははっ、そうだな。ぶん殴ってやるぜ」
マックスの巧みな弁舌により、ブレフトの不満は解消された。二人がそうこう話しているうちに山脈の一番の難所、『雪崩岳』を部隊は完全に通過していた。最後尾のブレフトとマックスが通過して数分が経過していた。二人は依然として笑いながら談笑している。そんな朗らかな空気の中、『雪崩岳』の山頂部で、何かが爆発したような音が鳴り響いた。
「ドォォォォォォン」
この音に思わずマックスもブレフトも目を見開いて驚いてしまう。音のした方角を見てみると、『雪崩岳』の山頂付近から始まる、巨大な雪崩が発生していたのだ。崩れ落ちる雪はまるで空からとてつもない速さで大地へと下ってくる白銀の龍のようであった。雪崩は瞬く間に先ほどまで部隊が進んでいた部分を飲み込む。
マックスとブレフトは目を合わせる。もしもあの速度のままで行軍していたら。考えただけでもゾッとした。おそらく全滅だっただろう。
「嘘だろ……。 まさか本当に起こっちまうなんて……」
ブレフトが驚きのあまり開いた口をずっと開けたまま呆然と立っている。
「だ、だから言ったろ? 鳴司令官は全部わかっていたんだよ」
俺の言った通りだ、と言いたげなセリフを吐くマックス。しかしその口調は動揺を隠しきれていなかった。まさか本当に起こるなんて。鳴はここまで見越していたのだろうか。もしそうだとして、いったいどのようにして見越したのだろうか。まさか未来を予知できるのだろうか。そんな普通なら考えないようなことをひたすら考えてマックスの脳内は混乱していた。
「ぶん殴れなくなっちまったな……」
ブレフトは冗談交じりにマックスに話しかける。しかしそれはもはや冗談には聞こえない。鳴が成し遂げたことが常軌を逸していたため、ブレフトはおちゃらけた物言いができなくなっている。仮におちゃらけた風に言えたとしても、それは冗談として受け入れられなかっただろう。二人は鳴をすごいと思った。陳腐な表現であるが、そうとしか言いようがなかった。それどころか、鳴に畏敬の念すら覚えていた。しかしそれは畏怖に限りなく近いものであった。二人は鳴の凌駕する才覚に恐れをなしていた。
同じ様子を部隊の最前部でも観測されていた。鳴は黙って雪崩れの様子を見つめていた。マックスやブレフトも驚いていたが、一番驚いていたのは鳴だ。自分はもしものことが起こった時の安全確保のために行軍を早めただけなのに。まさか本当にこのように甚大な被害をもたらしうる現象が起こるなどとは思いもよらなかった。立ち尽くしている鳴に、案内人が後ろから話しかける。
「まさか本当に起こっちまうなんてな。司令官殿、あんたは預言者か? それとも未来でも見えたりすんのか?」
案内人も半ば信じられないという表情で鳴を茶化した。鳴は案内人に対応する余裕もなく、依然として立ち尽くしていた。鳴の後続の騎兵達も呆然として雪崩を見つめていた。そんな中で騎兵達も口々に騒ぎ立てる。
「あの雪崩、普通に進んでいたら確実に巻き込まれていたな……」
「ああ、絶対死んでいたな」
「まさか司令官はこれを見越して進軍を早めたのか?」
兵士の中にも動揺が広がる。騎兵達がざわめき立てている中、隣からアレクセイも割り入ってくる。
「鳴殿、これは運は我らに味方しておりますぞ」
運は自分たちに味方している。なんともにわかには信じがたい話だ。だいたい運などというものは程度問題に過ぎない。ある出来事を誰かが運が絡んでいると考えればそれは運になるし、考えなければただの事実に堕する。自然科学が発達した世界で生きていた鳴にとってはそうとしか考えられず、運などという非科学的な存在は信じたくなかった。
しかし、今までの状況を見ていると、これは運の賜物としか考えられなくもなかった。普通なら、あの局面で雪崩が起きるなどとは分からずに普通に進んでいただろう。しかし鳴が何か嫌な予感がするという表情を浮かべていたこと、その表情に気づいて案内人が鳴に質問をしたこと、協議の結果、進軍を早めることに決まったこと、その質問をたまたま報告に来たブレフトが聞いたこと、不満に思ったブレフトがすぐに部隊最後尾に戻り、マックスとともに殿を務めたこと。そんなあらゆる出来事が絡み合って雪崩を回避するという結果に至ったのだ。偶然の一致、と言ってしまえばそれまでだが、この中には運という非科学的なものでしか説明できないような何かがあるような気も、鳴は鋭く感じていた。鳴は、運の存在を信じてみたくなった。
「そうですね。運は我々に味方しているようです」
鳴は不敵な笑みを浮かべながら騎兵達の方を見なおる。騎兵達の間には、動揺が広がり続けていた。これ以上の動揺の拡大は部隊に悪影響をもたらしうる。鳴はこの動揺に収拾をつける必要があると感じた。鳴は大きく息を吸い込む。
「皆さん! 天命は我らに味方しております! 何も恐れるものはありません! このまま進軍を続けて、全員生きて山脈を越え、ヴォーフムを陥れましょう!」
鳴の大号令に、初めはぽかんとしていた兵士たちも次第に気分を高揚させた。一人が鳴の号令に呼応して雄叫びをあげると、一人、また一人と同様に雄叫びをあげ始めた。10秒も経たないうちに部隊全体は激しい興奮状態に入った。その興奮は消極的なものではない。肯定的なものだ。鳴は部隊が一つになった瞬間を何やら感動の面持ちで見つめていた。容姿も考え方も違う騎兵達が、母国防衛という一つの目標に向かって一丸となって突き進む。そんな姿に、鳴は美しさすら感じていた。この瞬間、鳴は今回の作戦の成功を確信した。