第十五話 それぞれの実情
グランヴァール王国を進軍中のカルデブルグ軍の陣営では、神妙な面持ちをした顔ぶれのなかに、一人だけ露骨にいら立っている男がいた。
「まったく、何だと言うのだ! 毎晩毎晩我らが寝静まった時に奇襲を仕掛けて、迎撃準備ができたと思ったら、もうそこには敵は一人もおらん! それで再び眠りについたら、今度は逆方向から奇襲が仕掛けられる!」
この男の名は、ガエル=カルデリアだ。カルデリア家の嫡男である。その地位にふさわしく、彼は学問、武術を完全に習得しており、今回もその才能を見込んで、父アダムに大将軍に任じられ、グランヴァール攻略を命じられた。
ガエル自身、今回の戦争は間違いなくカルデブルグ軍の圧勝に終わると信じて止まなかった。しかし、予想外に事態が発生した。そう、クラウドらによる、夜な夜なの奇襲だ。鳴の読み通り、カルデブルグ兵は十分な睡眠を取れないまま進軍することになり、彼らの疲労は最高潮に達していた。兵士たちの目に光はなく、大きな隈ができ、足取りも重くなっていた。それはガエル達指揮官層にも言えることであった。彼らも疲労を回復する暇を与えられず、体調が悪くなり、それに伴い、精神状況も悪化していた。
「これでは我々も含め、カルデブルグ軍の疲労が溜まるばかりです。何か有効な手を打たなければ……」
ガエルに仕える下士官達はまだ冷静な判断力を持っていた。しかしガエルにはその判断力がもはやなかった。ガエルは幼い頃から気性が荒く、些細なことで苛立ち、すぐに怒ってしまうのが玉に瑕であった。今回もガエルは最適な判断を下すことができなくなっていた。
「決まっておろうが! 我が軍は一時目標を変更し、奇襲部隊を追撃する!」
「しかし、そんなことをしては時間が余計にかかってしまいます! これは相手の時間稼ぎとも取れます。ここは耐えることが得策かと」
「此の期に及んで、グランヴァール王国はどのような手を時間を稼いで打つと言うのか? やつらにそんな力も気概も残っておらんわ! まずはしっかりと疲労を取ること! それなしでは
戦争に勝利できん!」
確かに万全の状態で戦争に望むことは重要である。しかし、ガエルは一つの重大な誤りを犯した。グランヴァール王国にはもはやカルデブルグ軍に対抗する気力も力も残っていない? そんなことはない。ガエルはグランヴァール王国を軽視しすぎていた。有能な指揮官が陥りがちなことだ。才能がありすぎるあまり、自分の判断に絶対の自信を持ち、それが正解だと信じてやまない。
ガエルがクラウド達の奇襲部隊の追撃を命じたその瞬間に、クラウドの時間稼ぎの役割は達成された。あとは鳴がヴォーフムに向かうだけだ。
一方王都ヴェルタスでは、負傷した兵士が続々と到着していた。クラウドの任務においては、本格的な戦闘に入る前に撤退するという手法をとっているため、負傷兵は非常に少ないのだが、やはり少しばかりは発生する。完全になくすことは不可能なのだ。そんな負傷兵の治療のために、療養所が設けられて、多くの看護師が負傷兵達の看護に当たっていた。
そんな中に、ソフィアの姿があった。ソフィアは治癒魔術が使える。治癒魔術は攻撃魔術と違って、多くの人々が使える。したがって看護師も治癒魔術を使うことができる。看護師は皆庶民層の人間であるが、ソフィアは負傷兵の看護を買って出た。国王を始め、多くの人々に反対されたが、半ば強引に彼らを振り切って療養所で負傷兵の治療に当たっている。鳴やクラウドが命をかけてグランヴァール王国を守ろうとしている中で、自分だけ王宮でぬくぬくと生活していることが耐えられなかったのだ。何か自分もやるべきだ。そんな思いが、ソフィアを突き動かした。そこで、自身の治癒魔術を生かした行動を取ることにしたのだ。
これにはキャロルも付き従った。主人である鳴のさらに主人に当たる人に働かせて自分は黙って見ていることがキャロルにはできなかった。キャロルは治癒魔術が使えないが、負傷兵の世話を懸命にこなしていた。
「み、水。水をくれ……」
この療養所に収容されている負傷兵は皆重症のものばかりだ。ソフィアの治癒魔術を持ってしても、即座に直すことは不可能だった。それほどひどく傷ついているのだ。
「水ですね!? 今すぐお持ちいたします!」
ソフィアは急いで水をコップに汲みに行く。苦しんでいる負傷兵が少しでも快適に過ごせるようにソフィアは精一杯勤めているつもりだ。ソフィアは療養所を出てすぐのところにある井戸から冷たく清潔な水を汲む。そのまますぐに療養所に戻り、負傷兵の元へ行き、水を飲ませてやる。
「さあ、水ですよ。お飲みください」
ソフィアが手に持つコップを負傷兵の口元へ近づけ、傾けて少しずつ水を口へと流し込む。負傷兵は従容とした様子で水を飲む。コップから水がなくなるとソフィアはコップを負傷兵の口から離した。
「ああ、美味しかった。ありがとうございました。最後に王女様に水を飲ませてもらえるなんて、俺は幸せ者だなぁ……」
「何をおっしゃっているのですか!? あなたは生きなければなりません! あなたのような勇敢な兵士に、グランヴァール王国を守っていただかなくては、この国は滅びてしまいます!」
「王女様は優しいなあ。俺みたいな身分が低くて、文字も読めなくて、仕方なく軍に入った田舎者に、そんな言葉をかけてくれるなんて……。俺はそれだけで十分です。ありがとうござい……」
負傷兵はソフィアへの感謝の言葉を言い終える前に、眠るように息を引き取った。
「死んではいけません! あなたにはまだ役目が!」
ソフィアがいくら呼びかけてもその負傷兵が目を覚ますことはない。そんなことはソフィアにはわかっている。しかし、それと同時にわからなかった。頭ではわかっていても、実感としてわからないのだ。必死にソフィアは負傷兵の体を揺する。もちろんのこと、負傷兵の返事はない。それでもゆすり続ける。ただ生き返ることを望んで。
ソフィアの側に控えるキャロルはその光景をいたたまれない気持ちで傍観していた。人を失うということの悲しみがキャロルにはよくわかった。ソフィアは今、自分が母親を失った時のような気持ちなのだろう。キャロルはソフィアの心中を慮りながら、ソフィアの行動をただただ見つめていた。
そんな状況がしばらく続いた。しかし、いつまでもこのままでいるわけにはいかない。キャロルは意を決してソフィアに進言する。
「ソフィア様、お気持ちをお察ししますが、いつまでもこのままではいけません。他にも助けを求めている負傷兵はたくさんいます。彼らを助けることこそ、今死んでいったこの負傷兵のためではないでしょうか?」
キャロルに諫言されて、ソフィアはしばらくおし黙る。しかし、聡明なソフィアは、すぐにキャロルの発言を受け入れた。
「キャロルのいう通りですね。見苦しいところをお見せして、申し訳ありませんでした。一人でも多くの負傷された兵士の方々の命を救いましょう!」
ソフィアの言葉にその場にいる看護師全員が笑顔で頷く。これで一安心だ。キャロルの危惧は取り払われた。看護師たちは、再びテキパキと実務をこなして行く。戦場でない王都では、別の戦いが繰り広げられていた。
グランヴァール王国とカルデブルグ領を隔てる山脈には、一面の銀世界が広がっていた。普通の大地では太陽の日差しがさんさんと降り注ぎ、暖かな陽気も広がっていたにもかかわらず、この山脈においては、その事実は通用しない。まだ雪が少しちらついており、北から絶えず吹き付ける風が身に沁みる。時折雲の隙間から姿を見せる太陽の光が、極寒の地を行軍する騎兵たちの唯一の救いであった。兵士だけでなく、馬もすこぶる寒そうだ。鼻からは、白い霧のような空気が荒く出ていた。身を騎兵とともに震わせている馬もいる。しかし、そんな厳しい寒さの一方で、その銀世界は、鳴が現世で生きていた頃には見たことのないような美をたたえていた。真っ白な世界。ただただ雪だけで構成された世界。他には何もないのだが、雪だけで、素晴らしい自然美が現れていた。この山脈は厳しくも美しくある自然の全てを体現したかのような場所であった。
鳴らカルデブルグ強襲部隊がこの山脈に入ってからすでに三日が経とうとしていた。今の所、案内人のおかげで特に問題もなく行軍できている。強いていうなら、問題は寒いことぐらいだ。騎兵たちはみな健康で、怪我をした者や、体調を崩した者もいない。全てが順調に進んでいた。天も味方したのだろうか、急な天候の悪化や、雪崩などの自然現象にも見舞われなかった。あまりの順調さに、鳴は一抹の不安を覚える。
「案内人、普段はこんなにも順調にことが進むものなのですか?」
「いや、今回はとても調子がいい。普段ならば、もう少し雪が降って、雪崩も小規模のものは少なからず起こりうる。気味が悪いくらいだ」
案内人とのやり取りの中で、鳴はさらに猜疑心を深める。嫌な予感しかなかった。鳴が表情を曇らせていると、隣にいるアレクセイが声をかける。
「鳴殿、どうかなされましたか?」
「いや、何か嫌な予感がするんです」
「そんなバカな! こんなにもいい天候が続いているのですぞ? これも天が我らに味方している証拠! 何も心配することはございませぬ!」
「そうだといいのですが……」
嬉々として笑うアレクセイがいる一方で、鳴の表情は依然として曇ったままである。やはり鳴の心は晴れない。鳴は案内人に質問をする。
「あとどれくらいで山脈を越えることができますか?」
「今日で山に入って三日だから、あと二日というところだな。何か不都合でもあるのか?」
「いえ、特にありませんが……。ただ妙に嫌な予感がして。何か悪いことが起こりそうな、そんな不安が消えません」
「その不安は当たりそうか?」
案内人が顔を覆うフードから目元だけを覗かせて鳴を凝視して尋ねる。その眼光は鋭かった。この山脈を何度も越えてきた。そんな経験に裏打ちされた鋭利な刃物のような視線が鳴に向けられた。
「ええ、十中八九」
「根拠は?」
「ありません」
鳴もまた鋭い眼光を案内人に向ける。鳴は本気だった。本気で答えたのだ。依然として案内人は鳴の目を見つめている。鳴もそれから目をそらさずに対応した。ほんの2、3秒、二人は見つめあっていた。鋭い目つきが、まるで二人を互いに突き刺すような、そんな対峙であった。
「だったら少し急ぐぞ。あと二日はかかるところだが、急いで明日の夜が明けるまでにはこの山脈を抜けるぞ」
そう言い残すと、そのまま案内人は再び進行方向を向いて進んでいった。これを黙って捨て置くわけにはいかないと思ったのはブレフトだ。ブレフトは知っていた。この山脈を越えることを急いでしまっては、命すら危険にさらしてしまうことを。昔、彼の祖父が言っていたのだ。徒に急いでしまっては、足元にある雪や氷、一瞬の気の迷いが山脈を迷路にしてしまうと、ブレフトは幼い頃から教え込まれていた。そんなブレフトには、この案内人の決定を許すわけにはいかなかった。ブレフトは案内人の元へと馬を走らせる。
「案内人、何を考えているんだ!? この山脈を越えることには様々なリスクがつきまとう。それを急いでしまっては、そのリスクが大きくなるのは言うまでもない! それを一番よくわかっているのは、この山を何度も越えてきたあなたのはずだ! 鳴司令官の一人も死なさないという目的が果たされない可能性だってあるんだ! 私とて部下をこの部隊に何人か持っている。そんな立場にいるものとして、あなたのその判断を許すわけにはいかない!」
ブレフトは真っ向から反抗した。自分の祖父から聞いた話を思い出して、感情が籠るとともに、論理も通った主張をする。案内人はすぐに口を開く。
「お前は何もわかっていない」
「なんだと!?」
あまりに見下した言葉に、ブレフトは思わず憤慨してしまう。
「言葉通りだ。確かにお前の言うことは間違ってはいない」
「だったら、これまで通りの速さでこの山脈を越えて少しでもリスクを……」
「ダメだ」
案内人はブレフトが言葉を言い終える前にブレフトの言葉を遮る発言をする。
「たまにいるんだよ、ああいう奴が」
「ああいう奴?」
「ああ、直感的に物事を見通す奴がな。俺だってこの山脈を越えることを何度も経験してきた。俺が一番この中で、この山脈に精通しているよ。でもな、あいつの目を見ていたら、本当に起こりそうな気がしてきたんだ。あいつは間違っていない。むしろ正しい。あの目は、これから起こることを見通した目だ。間違いなく酷い天災が起こる。それまでにこの山を抜けなければ」
「そんなこと、どうしてあなたにわかるんだ!」
「なんとなくだよ」
「なんとなくだと!? もしもそれでこの部隊が危機に晒されたら、どう責任を取るっていうんだ!?」
「俺の首をやる。命をかけられるよ、あの鳴とかいう奴が言っていることが正しいってことにな。もう満足だろ? わかったらさっさと司令官殿の元に戻りな」
案内人は再び進み出す。その場に取り残されるブレフト。後ろから、進んできた鳴がブレフトに声をかける。
「どうかしましたか、ブレフトさん?」
「いえ、何も……」
そのままブレフトは部隊の後方へ去っていった。ブレフトの中には、鳴に対する不信感が募っていた。もちろんそれは本来なら案内人に向けられるべきものなのだ。しかし、彼をそんなに意固地にさせている鳴に、ブレフトは疑いの目をかけずにはいられなかった。不穏な空気は、部隊の中にも流れていたのだ。