牧場(まきば)の赤頭巾ちゃん (赤頭巾ちゃんのパロディー)
ビュービューと風が吹きつけています。丘のむこう、遥か遠くの岩山を越えた風は、空の青さとは裏腹に刺すように強く、凍える冷気を叩きつけては通り過ぎてゆくのです。
あたり一面、立ち枯れた牧草が風になぎ倒され、まだ地面には芽吹きの気配すらありません。あちこちで土埃が小さな渦となって駆け巡っていました。
なだらかな斜面を赤いシミがヒョコヒョコと動いています。
こんな寒い時刻に外を出歩くなど、まだ考えられない冬の牧場です。新鮮な牧草がないので羊を連れてくる牧童などいるはずないし、赤い羊など見たことがありません。
赤いシミはやがて人の姿になりました。何かを見つけたのか、急に身を屈めたり、そうかと思えばぴょんと跳ねたりしながら牧場を横切って、まだ雪の残る森へ姿を消しました。
赤い影、それは鮮やかなマントを着た少女です。ローズピンクのマントに、真紅のバラをおもわせる風避け頭巾。よくなめされた黒皮ブーツを履いています。
大きめのバスケットはさほど重くないのでしょうか肘にかけたままですが、風でナプキンが飛ばないよう、自由になる手でしきりと押さえていました。
アォーーォーーーー
オォーーォーーーー
森の入り口ですでに遠吠えが聞こえていました。風にのってようやく耳に届く程度だったので少女は気にも留めていなかったのですが、奥へ進むにつれ遠吠えは確実に近付いています。
アォーーォーーーー
オォーーォーーーー
「……いやだなぁ、見つかったかな」
少女が舌打ちしそうになった時、それまでの遠吠えに覆い被さるように、唸りを伴う遠吼えが響いてきました。
アォーーォーーーー
オォーーォーーーー
オゥーォーーーーーーーーオォーーーー
それを聞いたとたんに少女は道を外れ、急いで斜面をよじ登りました。道は大きく迂回して森の反対奥を通り、そして斜面の上につながっているのです。それに、少女の行く先はもっと奥の奥です。あんな腹に響くような遠吠えは初めてですし、声の様子からとても強そうな感じでした。ですから、一秒でも早くお婆さんの小屋へ逃げ込みたかったのです。
幸いなことに、遠吠えはそれ以来ピタリと止んでしまいました。
少女はたえず周囲を気にしながら歩いています。何かに怯えるというよりは、まるで目が見えていないかのように。
ちょっとした石ころに躓くし、目前に近付いた枯れ枝に擦りそうになって、かろうじてかわす按配です。
まだ若いのだから将来が心配ですが、連夜の猛勉強が少女自身を痛めつけていたのです。
時折顔に手をやっているのは、きっと何か見やすくする方法があるからに違いありません。
森の奥深くにある丸木小屋にお婆さんは住んでいます。
もう一年以上前のことです。誰も近寄らない森の奥にエレーネの父親は小屋を建てました。期することがあったのでしょう。こじんまりしていますが快適に暮せるよう、丁寧に作りました。そしてある日、父親はお婆さんを背負って小屋へつれて行き、置き去りにしてしまいました。それは、一定の歳になった老人を山奥に置き去りにするという土地の風習に逆らえなかったからです。
お婆さんはすでに覚悟をしていたので、帰りしぶる父親にきつい言葉をかけて追い返しました。その本心がわかっているだけに父親はたまりません。振り向き、振り向き家路についた父親は、いつまでも手をふる仏様のような姿を忘れることができません。家へ帰っても、仕事をする気力を失くしたまま泣き暮しているのです。
ドイツでもこのような哀しい歴史が刻まれているのですね。
さて、お婆さんの小屋は、この地方には珍しい高床式です。壁面は丸木そのもので、皮を剥いではいませんが、組み合わせといい完璧な校倉造り。まるで正倉院のようです。一点だけ違うことは、湿気対策よりも寒さ対策が重視されていることです。そのために丸太の隙間にはぎっしりと苔が詰め込んでありました。
それにしても、そそり立つ巨木の根元に残った雪の下からチョロチョロと水が流れ出して道を伝い、一部だけ切り開かれた茂みはすっかり枯れたままなので、小屋の桧皮葺や壁のこげ茶をのみこんでいます。国は違えど、侘びを感じさせる佇まいです。
床下にも木組みが床全体を囲っていて、一箇所に焚き口が切られていました。
そこで薪を燃すと床全体がポカポカします。村人はまるで鶏に温められるように思いました。いつの頃からか、鶏になぞらえて『オンドリ』と呼んで重宝しています。
そこで一日中薪を燃やしているのですが、今日の煙突は一筋も煙を吐いていません。
少女はいぶかしげに眉をひそめました。
「お婆さん、火が消えてるわよ。寒くないの? もしかして具合でも悪いの?」
入り口を開けるなり、少女は心配そうに声をかけました。まるで珠を転がすような清々しい声です。
暖炉では薪がチロチロとやわらかい炎を揺らし、そのすぐ脇にしつらえたベッドにはお婆さんが背を向けて丸まっているようです。
やはり室内は暖かです。少女はミトンとマントを脱いで手に持ったままテーブルを探しました。
「おや、赤頭巾ちゃんかい? もうそんな時間かい?」
ベッドの中からくぐもった声がしました。しかし、お婆さんの声にしてはあまりにガラガラ声です。
「やだぁ、エレーネよぅ、赤頭巾じゃないわよ。遅くなってごめんね、ごはんだよ」
少女は、お婆さんが冗談を言っているものとばかり思いました。そんなことより、テーブルを探さないとバスケットもマントも置けません。
「それにしてもお婆さん、声がおかしいよ。風邪でもひいたの?」
足探りでようやく見つけたテーブルに、持ってきた料理を並べました。
魔法瓶に入った熱いスープ。メインは鶏の丸焼き。デザートにチョコレート。そして、野菜とチーズを挟んだ丸パンで、隙間だらけのテーブルが埋まります。
「ああ、昨夜は暑くてねぇ、火を落として寝たらこんどは寒くて……。朝になったらこんな声になってたんだよ」
少女の名はエレーネ・デートリッヒ。青く透き通った瞳と、陽の光を弾き返すような金色の髪をして、薄紅をひいたような、切れ長……じゃなくて、吊っても結んでもいない、愛くるしい唇。ひとたび発すれば、天使のようなハスキーソプラノでつむぐバッハのカンタータの見事なこと。十六歳にしては育ちすぎた感がある肢体は、いつもディアンドルに包まれています。
今日は、帰り道にぺーターの部屋で密会の約束ができていたから、特に可愛いのを選んで着てきました。なぜかといえば、ペーターにチョコレートを渡すため。そう、今日はセント・バレンタインデーなのです。
愛しいペーターとの逢瀬を夢見ていたのに牧場で眼鏡を落としてしまい、探している最中に踏んでしまったのでした。これではペーターの顔をはっきり見ることができません。必要以上に間近でなければ顔すら見ることもできない……、案外計画的なのかもしれません。
「お婆さん、悪いけどさぁ、今日はペーターと約束があるんだぁ。あまり時間がないから早く食べてくれないかなぁ」
エレーネは、ペーターとの逢瀬を待ちきれないのです。まだ陽が傾くには間があります。それに、今日は特別な日だから少し遅めの帰宅でもかまいません。たっぷりご休憩時間はあるので、今日こそはと密めた決意で顔が強張っていました。
スープ皿とスプーンを手渡したエレーネは、お婆さんの手が大きくて毛むくじゃらなのに気付きました。
「お婆さん、急に手が大きくなったのね。どこかで挟んだの? なにこの毛! 無駄毛はエチケットの第一歩だって教えてくれたのはお婆さんじゃない。だからゆうべも剃り直したのに……」
突然頬を朱に染めたエレーネは、なぜかドギマギしながらスカートをおさえました。
お婆さんは、その分厚い肉球のためにスプーンを使えません。かといって、一息に飲み干すには少しばかり熱いようです。きっと猫舌なのでしょう。
「薪をね……、くべようとしたら太いのが落ちてきて……、痛かったよぅ」
なんだかだと言い訳をしながら時間をかせいだお婆さんは、両手でスープ皿を挟むと一息に流し込んでしまいました。
まだ熱かったのか、目をむいて口をふさぎ、陰で舌を激しく振るわせています。
「今日はねぇ、鶏の丸焼きだよ。美味しい塩味がついてるからね」
エレーネは、鶏の丸焼きを無造作にむしり、お婆さんに手渡しました。
「鶏かい? ……それは美味しそうだね」
一瞬だけ嫌そうな素振りをみせましたが、お婆さんはそれを一口で食べてしまいました。
鶏は水っぽいから美味しくありません。ですが、次から次にエレーネが差し出す肉を、骨もろともバリバリムシャムシャ食べてしまいました。
バキッ、ムシャムシャ……
それは小気味のよい音をたて、驚くほどの健啖ぶりです。
「ハイッ、デザート」
チョコレートを受け取ったはいいのですが、お婆さんは食べるのをためらっています。
「どうかした? お婆さんの大好物じゃないの。早く食べないと溶けちゃうわよ」
しきりと促され、しかたなくチョコレートを食べてしまいました。
「今日は全部食べたわね。こんなには食べなくてもいいけど、せめてスープくらいは全部飲んでよね。じゃないと、肝硬変が末期なんでしょ? 狂牛病の症状も酷くなるばかりなんだから……。そうそう、エボラ出血熱の検査どうだった? やっぱり陽性なんでしょう? よりにもよって酷い病気ばかり……。ほんと、可哀そう……」
エレーネは、大粒の涙をこぼして両手で顔を覆いました。指の間からすすり泣きがもれてきます。そして、すすり泣きは嗚咽となり、肩をふるわせたとおもえば、よよと泣き崩れてしまいました。
エレーネが言い終ったとき、お婆さんはお腹につくくらいに顎を外していました。
「赤頭巾ちゃん、ちょっと顔を見せておくれ。近頃目が悪くなったから見辛くて……」
お婆さんに促されたエレーネは、涙を拭きふき立ち上がってベッドの近くに進み出ました。
ローズピンクのマントの下は、若者が好む丈の短いディアンドルで、エレーネのそれは股下五センチほどの長さしかありません。ペチコートのようにウエストを締め上げるので、しっかりと張った腰と胸を特に強調するデザインです。毛先が刺さるだけで割れてしまう、風船のような胸元にはらり。混じりっけのない金髪のツインテールが羨ましくも被さっていました。膝頭を覆うほど長いブーツは、高めのピンヒール。やはり生粋のドイツ娘は、完璧なのです!
手の届くところに立ったエレーネの細い肩を、お婆さんは鷲掴みました。
「おい、オイ、オイッ! オイって呼んでるだろうが!」
突然窓を震わすほどの怒号が湧き上りました。
驚いたエレーネが周囲を見回すと、ボーっと滲んだ視線の先に、大きく舌を垂らした狼が不安そうにエレーネを見つめています。
「だれ?」
「狼だよ、お・お・か・み! フルーベっていえば、ここいらじゃ顔なんだ! 覚えとけ、ど素人の小娘が!」
狼が人間の言葉を話したのです。
ピンと尖った大きな耳、仁王様のような目、鋭く突き出た鼻先には立派な関羽ヒゲがぞろり。ほかの狼にはない大臼歯や、出し入れ自在の血ィ吸い歯。水泳選手のような優美さを具えた太い首は虎と見まごうばかりの巨体に支えられているくせに、なぜかクマモンのペンダント。熊でさえ一撃で昏倒させる前足、十頭もの羊を楽々跳び越す脚力を発揮する強靭な後足の間には、ズデーンとした鉄ダルマがぶら下がり、太く長い尻尾の毛は天然パーマがかかっています。
狩人でさえ恐ろしくて気絶するような黒狼なのです。
「狼? ……じゃあ、お婆さんは?」
お婆さんだとばかり思っていたのが正体を顕しました。でもエレーネにははっきり見えません。ぼんやりとしたフルーベを見ただけです。ですがエレーネは、もうその時すぐにお婆さんのたどった運命を悟っていたのです。あまりに間近だったので、かかってしまった唾に眉をひそめながら、エレーネは、言わずもがなの質問をしたのでした。
「可哀そうに……」
エレーネの大きな瞳から真珠のような涙がはらりとこぼれました。
「おい、さっきの話だけどなぁ、ありゃあ本当か?」
フルーベはすぐにでもお婆さんを吐き出そうと口に指を突っ込んでみましたが、咽喉の奥になにか刺さったようで、咽喉までしか戻ってきません。それどころか、唾を飲み込むことすら厄介になっています。
「末期の肝硬変だってこと? もう黄疸が酷くなってたよ。でもね、狂牛病のことなら大丈夫。ベッドから降りられないから転ぶ心配ないし、エボラ出血熱は勝負が早いらしいから……。どっちにしても長くは……ねっ、そういうことなのよ。……それがどうかしたの?」
「どうって……。気楽なことを言いやがって、伝染するんだろ? どれもこれも命に関わる病気だろ?」
威勢がよかったフルーベの声に震えが混じっています。
「そりゃあ間違いなく、ううん、絶対に伝染するけど……。だから?」
それとは逆に、エレーネの肩の震えが徐々に大きくなってきました。どう見ても泣いているのではなく、笑っているような震え方をしています。
「どうしよう……。知らないから食っちゃった……。クチャクチャ噛んだぞ、ムニュって中身が出たぞ。……あぁ、どうしよう……」
フルーベは、もうエレーネを食べようという欲望をきれいさっぱり失くしていました。
身にまとうものを一枚づつ剥ぎ、悲鳴をあげて逃げ惑う少女を一呑みにしようか。それとも手足から順番に食べようか。やっぱり舐めまわしてからだよな、などと考えていたことなど、すっかり頭に残っていません。
「……まぁ、あれよねぇ。三方一両損っていうの? 大岡越前が言ったんだっけ? ……うん、きっとそうよ」
笑いをかみ殺したエレーネは、腕を組んで一人頷きました。我ながら素晴しい喩えだと思ったようです。
「バカッ! どうしてそうなるんだよ!」
「だって、……お婆さんは食べられて損。あんたは知らずに食べて大損。小遣いもらえなくなった私は丸損。ねっ、みんな平等に損してるじゃない」
理路整然と説明できたことにエレーネはご満悦で、可愛い小鼻をひくつかせています。
「バッ、バカッ! まだ死にたくないんだよ。まだ生きていたい。子供だって持ちたい……。俺、そのぅ、まだ……したことないし……。なあ、薬はないのか?」
「ふぅむ。それだけ元気なら見込みはあるかな……」
フルーベは頑丈そうです。だとしたら、外国から伝わる特効薬が効くかもしれません。
「なんとか助けてくれよ。何でもするからよぅ」
フルーべは、泣き落としの一手で渋るエレーネに特効薬を飲ませてくれるよう頼み込み、充実したエレーネの尻を背に、半ば陶然として牧場を疾駆しました。もちろん、薬のお礼にペーターの小屋へ送り届ける約束もさせられました。
さすがはフルーべです。背中に乗せたエレーネの体重などものともせず、エレーネがトボトボ歩いた距離を、一陣の風となって駆け抜けてしまったのです。
「ほら、ネクタルよ。ちょっとクセがあるけど、馴れたらなんでもないわ」
エレーネがよこしたのは、トローッとした水薬です。鼻が敏感な狼にとって、それはフナ寿司をはるかに凌ぐ汚臭でした。が、その粘り具合や色からしてきっと効能があるように思えます。
「ネクタル? それって、もしかして遠いギリシャの……」
「あら、狼のくせに物識りね。そうよ、オリュンポスの神々が飲んだ唯一の栄養剤、スッポンドリンク。世界中どこ探しても売ってないものよ」
スッポンドリンクは、別の効能を期待して飲むのでしょうが、エレーネにはそんな知識がありません。ひとつ間違うと、いけない狼に変身する危険があるのに。
「なんでそんなものがあるんだ? 神様しか知らないんだろ?」
「遠い親戚なのよ! いちいちうるさいんだから……。嫌なの?」
「……ひとつだけ答えろ。なんでババァに飲ませなかったんだ? 治るんだろ?」
狼とはいえ、さすがにフルーべは冷静です。首のクマモンは伊達に提げているのではないようで、エレーネの矛盾を鋭く突きました。
「飲ませたよ、だから二十年も生きられたんだよ。元々からだの弱い人だったから効き目が弱かったそうだけど、それでも二十年もったんだよ。あんたなんか、病気にならなくても二十年生きられる? 信用できないなら飲まなくていいよ」
「……二十年……、そんなに長生きした奴はいないな……。よし、飲むぞ」
病魔に冒されたババァでさえ二十年生きながらえたのなら、熊にだって負けない体力のある自分なら、牛より大きな狼になって森林に君臨できるかもしれません。
「森林に君臨……、しんりん に くんりん。一字違い……」
フルーべは甘い幻想にひたり、矢も盾もたまらず飲むことにしました。
口に流し込んだとたんにフルーベは激しくむせました。あやうくふき出してしまうのを手で押え、目玉を開ききったまま飲み込みました。
蛇口を全開にした勢いで舌の根元から唾が噴き上がってきます。
限界まで開いた瞳孔が一瞬にすぼまり、針で突いたほどに縮んでしまいました。咽喉の奥にもぐりこんだ舌が、力を失ったままダラリと顎から垂れてきてようやく、ジワジワと光を受け入れ始めたのです。
良薬口に苦しとはいいますが、口に酢っぱしとは初めての体験でした。
「これで半日の効果があるはずだから」
エレーネは片頬を吊り上げて、ゾッとするほど冷たく笑いました。
「……たった? おいっ! たった半日しか効かないのか? 騙したのか!」
激しくフルーベが詰め寄りましたが、言いたい放題にさせていたエレーネは、乗馬用の鞭で机を激しく叩きました。
「あぁ? 誰にもの言ってるの? まぁだ立場を理解できないの? べぇつに無理して飲んでもらわなくてもいいんだよ……。ついでに教えてあげるけどさぁ、初めにお前が飲んだのはネギをたっぷり散らしたオニオンスープだよ、おいしかっただろ?」
少なくともフレンドリーな対応をしていたエレーネが、ぞっとするほど冷たい眼差しを向けています。まさに、『君子豹変ス』の見本のようです。
「ウゲッ……」
フルーベが青ざめて咽喉と口を押さえました。
「鶏の骨、針みたいに割れるんだよねぇ。……もうブスブス刺さってるんじゃないの? たっぷりニンニクきかした出汁醤油味、精力つくわよ。とどめはチョコレート。お前は運がいいよ、今日はバレンタインデーだから、念入りに作った私の手作りだったんだよ。カカオたっぷりのチロルのチョコさ。……お前はバカだよ。食い意地が張ってるからこうなったんだよ。……いいんだよ、こっちは手間が省けてさぁ……。さっ、どこへでも行っておくれ。……出てけ。……出てけって言ってんだろう!」
「……」
しきりと咽喉の奥に指をつっこんで吐き出そうとしたのにそれもかなわず、苦虫を噛み潰したかのような顔になったフルーベは、わずかに尻尾を下げただけで微動だにできません。
「はぁ? ウジウジすんじゃねぇよ! どぅすんだよ! はっきりしろよ!」
乗馬鞭を弓のようにしならせていたエレーネが、ヤンキーも真っ青になるような叱声をとばしました。
「ヒッ……」
「鬱陶しいなぁ……、グズは嫌いだよ!」
ビュッと鞭が唸りをあげます。同時にピシーンと小気味良い音がしました。
「ヒャイン……」
エレーネが狼の尻に思い切り一鞭当てると、太い尻尾を股に挟んでしまいました。
フルーベは、エレーネの啖呵にひとたまりもなく屈服し、おずおずと仰向けになってしまったのです。
やがて春になりました。牧草の芽吹きを待って羊の放牧が始まりました。
この一週間というもの、カレンダーに付けられた印の意味がわからず悩んでいたフルーベですが、自分に与えられた使命は間違いなく理解しています。とてつもなく賢いのです。
フルーベは、若い狼に噛み付いては感染させ、せっせと群れを大きくしていました。
隣村の、持ち主の印がある羊ならいくらでも狩ることを許されています。つまり、治療だけでなく、食料調達までもエレーネに支配されているのです。
今年は狼に食われる羊はありません。何も知らないペーターはのんびりしていました。しかし奇妙なことに、日を追うごとに羊が増えていることに気付いていました。いくらエレーネのことしか頭にないペーターでも、一晩で五十頭も百頭も増えるのだから気味が悪い。それも、どう調べても持ち主のわからない羊ばかりなのです。
増えすぎた羊を売った金で牧場を増やし、やがてぺーターはエレーネを手玉にとってマキバ王となりましたが、それには二年の時が必要でした。
その期間はまた、フルーベの群れが多くの子供を産み、頼もしい働き手に成長させるのにどうしても必要な期間でもありました。
そして、不思議にも群れの中でボス争いがおきません。それと、朝夕きまって遠吠えの大合唱が湧き上がるのです。それも、興奮の絶頂のような勢いです。蝉の大合唱どころではなく、狼しぐれという言葉さえうまれそうでした。
そのわけは、エレーネが飲ませる薬にあります。業病に効く特効薬、実はただの黒酢なのです。しかし、それを飲みたいがために狼はエレーネに服従を誓いました。
唯々諾々なのです。
まれにですが、酢を入れた壷の下にビニールの小袋が散乱していることがあります。
きっとエレーネが目を離したすきに風に散ったのでしょう。ちゃんと始末しておかないと警察の目は節穴ではないのに、若い娘は大胆なのか阿呆なのか……。でも、壁にむかってブツブツ呟き続ける狼などいませんよ、絶対に安全安心な赤い缶に入った旨味の元なのですから。
お婆さんが食われたことはウヤムヤかって?
医療費や葬儀費用を考えたら、誰も口を開くわけがありません。保険屋などは羊盗難保険の加入が急増してホクホクしています。だから、チャック! なのです。
それとは別に、悪行が問題にならぬようエレーネなりに悪知恵を働かせています。
年末の一晩だけ、エレーネはフルーべ一家を引き連れてパレードをします。
フルーべは、特に念入り磨きあげたペンダントかけ、得意顔をして先頭でソリを曳きます。ソリの上には、仁王立ちになったエレーネが大きな袋からプレゼントを取り出しては子供たちにプレゼント。ソリに括りつけた鈴がシャンシャンシャンシャン、それは華やかな行進です。
外国にも真似をする興行主がいますが、あちらはトナカイ、こちらは狼の集団です。四の五の言いたてれば喰われてしまうのだから腰が退けています。出会いがしらに遭遇してもスゴスゴ逃げてゆきます。
一度だけ威勢の良いトナカイがイチャモンをつけてきました。しかし、脅すつもりで繰り出したフルーべの軽い張り手で、無残にも鼻の皮がズリ剥けてしまいました。それからというもの、赤っ鼻のトナカイと笑い者になっているのです。
興行主にしたところが、赤い帽子と服はエレーネを真似たものですし、長いヒゲはフルーべの関羽ヒゲの真似です。ましてや、ヒゲに隠れたアゴは、殴られた痣が残っているのですから剃ることもできません。
唯一の強みとでもいいましょうか、逃げ回ることで空を飛ぶ能力を獲得しました。でも裏を返せば、地面を走る度胸がないとこを公言しているようなものです。
つい話が横道にそれました。ヘタレのことはお忘れください。
広場の真ん中では、恒例となった餅撒きをします。小餅、飴玉、袋菓子。それに、千代紙でつくったおひねりを群集にむかって撒くのですから、特に子供と老人が熱狂しました。
まるでドイツ版紀伊国屋文左衛門です。
特に頼まれれば部屋に忍び込み、枕元にプレゼントを置くことさえします。ただし、外国人のように煙突から忍び込む愚はしません。だって、引き込みがいるのですから苦もなく侵入できるのですし、焼け死ぬとか、白玉のように美しい下着を汚す危険もありません。ペーターは、特殊な汚れは非常に喜びますが、そういう汚れをとても嫌うのです。
とにかく、そのボランティア精神を絶賛した議会は、狼にも戸籍を与えることを満場一致で決めました。健康保険に失業保険、労災保険の適用も許され、生活保護受給権も与えられました。村人と狼が立ち話をする光景すら珍しくなくなりつつあるのです。
エレーネの効かせた悪知恵が思いもよらぬ結果を招いて、人類史上初であるメルヘンの村を誕生させる原動力となったのです。
フルーベ一家で『お嬢』と恐れられるエレーネは、今日も極端に短いディアンドルを身にまとい、巨大な狼にまたがって羊を浚いに行きます。
フルーベはエレーネの尻を心地よく背に感じながら、胸の弾力をも独り占めしたくて全力で走ります。クマモンが激しく躍ります。エレーネもまた、フルーベのチクチクする毛ざわりが忘れられません。黒酢に混ぜる白い粉のように、求めてやまぬ肌触りでした。
「お嬢、俺が……、俺がどれだけお前を愛してるか」
「まぁたかいな! どぉの口が言うんや? ほんま辛気臭い、黙って走り! ビシッ!」
「酷い! ひどすぎるー。ぅぅぅ……」
フルーべが涙声で訴えても、エレーネはごちゃ混ぜの関西弁で全否定してしまいます。するとフルーべは、嗚咽を漏らしながらも爆走します。ペーターさえ亡き者にしてしまえば、エレーネを自分のものにできると信じて。
赤いマントと頭巾のエレーネは、さながらホウキにまたがり天翔る魔女です。その魔女の行く先々で、フルーべの慟哭が長い長い、ながぁーーい余韻を残すのでした。
暗雲渦巻く、赤頭巾ちゃん立身出世物語。
哀感あふれる狼の遠泣きにのせて、これにてめでたくお開きとさせていただきます。
めでたし、めでたし。
関係者の皆さんがご協力くださったことで、芸術性をさらに増すことができました。
作家生命を棒に振る献身的使命感に、深い感謝の念を禁じえません。
本当にありがとうございました。
ドイツ 性格俳優 ゲルト・フルーべさん、
目指せ! ポエムドール……、金○マ賞!
マグロさん、クマモンが言ったそうです。
「俺……、知ぃーらない」
ちょっと、二人ともどこ行くの? 見捨てないでぇ、お ね が い……