薔花、散る。
1.
千九百六年、イギリスロンドン。
世界を席巻する大英帝国の首都にして、霧の都の異名を持つこの街は、人類の歴史において古くからあった都市の一つである。数々の歴史を目撃してきたこの古都は、魔法界においてもあまたの歴史を見つめ続けてきた、由緒ある土地だ。
なぜならここは、人類最初の魔法使いが誕生したと言われる地。その開闢はもはや遠い歴史であり、真実を知る者は彼の断章を持つ魔法使いのみに限られる。が、その真偽の程はともかく、原初の魔法使いの末裔と言われるテューダー家が根ざしているのはこの地であり、一般的にはロンドンが魔法界にとって最大最古の都であることは変わらない。
そんなロンドンの郊外に、テューダー家が居を構える邸宅がある。イギリス貴族としても王家に仕えるテューダー家ではあるが、邸宅自体の規模は決して大きくなく、全体的に質素な造りとなっている。
その、お世辞にも豪華とはいえない屋敷の二階。無数の薔薇が植わった庭園を見渡せる部屋でこの日、生ける伝説にして世界最高、史上最大の称号を持つ偉大なる大魔法使い、ジェーン・テューダーは、最期の時を迎えようとしていた。
白で統一された寝具に身を横たえる彼女の姿に、往年の覇気はない。そこにいるのは、史上最高の薔薇、クリムゾンオールドローズではなく、ただ死という人生の終焉を迎えた、等身大の老婆だ。それを取り囲んで、近親者が一様に悲しみにくれている。
だが、死に際してもなお、ジェーンに漂う魔力は強い。それは、とてもこれから死に逝く者の規模ではない。その気になれば、今すぐに死を拒むことも、彼女には不可能ではないだろう。
が、それをしないのは、彼女が偏に人として、この世に咲いた一輪の花として、それ以上を望まなかったからに他ならない。
「……みんな……いますか……?」
うわごとのように、ジェーンが声を上げる。それを聞きつけて、周りに立つ関係者の中でも、一際鮮やかな赤い炎をその双眸に宿した金髪の女性が、ベッドにすがりつく。
「ええ、いますよ……みんないます。ここにいますよ、お母様……」
彼女の言葉に、その通りだと他の者が一斉に頷く。それを聞いて、本当かどうか確認しようとしているのか、ジェーンは弱弱しく目を開いた。
そこには、その魔力と共に昔から変わらない炎が、二つ。だがそれは今や、風前の灯でしかない。
「……みんな……私が愛した、私の自慢の家族たち……」
周りにたたずむ愛する人々を、最後の力でもってしっかりと見渡しながら、ジェーンが言う。
その声は小さく、今にも消え入りそうだ。それを聞き逃すまいと、人々はみな、一様にジェーンに近づき耳をそばだてた。
「……今まで……ありがとう、ございます……。みんなが、いて……私は……幸せでした……」
「お母様……」
あの、一番美しい瞳の女性が声を詰まらせる。その赤い炎からは、雫が滴っている。
「私は……この世を去りますが……。……、み、みんな……は……どうか、どうか強く、そして……幸せに……」
「お母様!」
「ジェーン様……」
「うっ、うっ、そんな、そんな……!」
死を完全に受け入れたジェーンの言葉に、周囲から哀しみの声が次々に溢れてくる。だがそれを気にしない様子で――あるいは、もはや気にする余裕すらないのか――、ジェーンは言葉を紡ぐ。
「テューダーのものとして……クリムゾン……オールドローズの血を引くものとして……どうか……みなその誇りを忘れず……大切なものを、見失わないで……」
「……はい……!」
誇りを忘れるな。
それは、この半世紀の間、たった一人で世界の平和を守り続けてきたジェーンだからこそ言えた、どこまでも重く、強いメッセージだった。
テューダーの名は、正義の薔薇を掲げる気高き紋章。クリムゾンオールドローズは、魔法の秩序を守る麗しくも猛々しい炎なのだ。
「……最後に……最期、に……みんなに、お願いが……あります……」
「なんですか? なんですか、言って下さいお母様!」
「……私の……私の葬儀は、執り行わなくて結構です……」
「……え、ええ……!?」
その申し出に、親族一同が色めき立つ。が、それを見透かしていたのだろう、河の渡し賃を支払う間際にありながら、ジェーンはうっすらと、いたずらっぽく笑った。
「と、言いたいですが……きっと無理でしょうね……ですから、行ってください……みんなが望む通りの形で……」
続いて出た言葉に、今度は一同ほっと胸をなでおろした。
「……でも、どうか……弔問客を拒むことだけは……しないでください……。それが人間でなくても……悪魔でも……どんな相手でも……拒まず、すべて……全員を受け入れてください……」
少しだけ、静寂がその場に満ちた。
悪魔すら受け入れろというのは、一般人の弔問も十分にありえるジェーンの葬儀では、受け入れがたいことだからだ。魔法の存在を匂わせるものは、極力秘匿すべきだというのが、通常魔法使いの常識なのだから。
だが、世界一の偉人が望む、最期の時の姿。できればそれを尊重したいというのは、遺族にとって当然の感情でもある。
「……はい……!」
そのしばしの沈黙を破って、あの、一番美しい瞳の女性が頷いた。それに続いて、周囲も頷く。
「……ありがとう、スージー……」
女性――スージーと呼ばれた娘の顔に、満足げな、そう、とても満足した、そして安堵した表情を浮かべて、ジェーンは笑った。
そして。
それで、残っていた力のすべてを使い切ったのか。
その時が、来た。
周囲に集まる人間に、その光景がどう見えたのか。それは、当人ごとに違うだろう。
だが。
だが。
その様子を、テューダー家の庭園、一際大きな樹木の上から見つめていた、彼女には。
極めて長い時間をかけて、一瞬が永遠に感じられるほどゆっくり、ジェーンの身体から力が抜けて、その手が投げ出されたように、見えていた。
やがて、霧の都に濃霧が立ち込め始めた。それは、世界一の花を失ったこの街が、悲しみにくれている姿そのものかもしれない――。
2.
ジェーン・テューダー、享年八十歳。
十八歳でテューダーの当主となってから、およそ六十年の長きに渡って彼女はこの世の怪異と、邪悪と戦い続けてきた。その人生は、世界の秩序を守るために捧げられたと言っても過言ではない。
深きものどもの退治に始まり、カルト教団からのロンドン防衛、悪魔襲来からの地球防衛、ダゴンの撃破など、その業績を上げればきりがない。
中でも最も名高いのは、災厄の魔女がなす大災害の数々を、すべて最小限に押し止めてきたことだ。東洋の小国が生んだこの極悪人を封じ込めることができたのは、何より世界で彼女だけであった。
そんな彼女の死は、魔法界を瞬く間に駆け巡った。ロンドンから遠く地球の反対側に位置する場所の魔法使いにもその報は伝わり、世界中からその死を悼む声がロンドンに届き、世界中からその死を悼む人が、ロンドンに集まった。
近親者のみでひっそりと葬儀を行う習慣が根強いこの国にあって、これは特異なことと言っていいだろう。だがそれは、それだけジェーンという存在が特別であったことの証左でもある。
そして、この場に訪れるものが必ずしも人間とは限らないのも、ジェーンが他よりも抜きん出て偉人と呼ばれるだけの人物であったことを示している。
遺族の予想に反して大規模となったジェーンの葬儀に参列したものの姿は、実に多種多様に及んだ。ジェーン自身が今わの際に、誰も拒むなと残したこともあり、この日テューダーの邸宅は、かつてないほど大勢の種族が集まるサラダボウルと化していた。
『今日と言う今日は……旧き神も、旧き支配者も、そのすべてが憎らしい……』
地球の言語ではない言葉でそう嘆くのは、魔界から地球を狙う悪魔でありながら、その大きすぎる炎に魅せられたもの。
「ああジェーン様、なぜ逝ってしまわれたのですか。ジェーン様、貴女ほどのお方が……」
子供くらいの背丈で、兎の頭を持つ男がむせび泣く。それは、覚醒の世界に焦がれる夢の世界に住まうもの。
「クー……クー……」
柩に群がるのは、白い鳩たち。言葉すら操ることのできぬ自然界に生きるものも、薔薇の死を悼んでいた。
当然ながら、魔法という存在を知らず、また信じていない一般人の参列者達は、こうした常識とは全く違う異常な参列者たちに、非常に驚く。また、恐れる。
だが、言葉はわからずとも、どれほどおぞましい姿のものでも、みな一様にジェーンの死を悲しんでいることは、しばらく見ていれば彼ら一般人にもわかるのだろう。
ジェーンの死、偉大なる指導者を失った悲しみ。それが、まったく接点のないもの同士をつなぎ、一体感すら漂う、奇妙な光景がそこにあった。
そんな、ある意味で平穏な葬儀にどよめきが起こったのは、始まってから二、三時間ほど経った時だった。
テューダー家は元来、通常の魔法使いと同じように特定の信仰対象を持たない。だが、貴族の一員としてイギリスに仕える身でもあるため、表向きはキリスト教徒として通っている。そしてこの時は、対外的な面目のために、牧師が聖書を読み上げていた。
主にどよめいたのは一般人ではなく、魔法使いや悪魔といった、魔法界の住人達だった。テューダーの名を継ぐものたちも例外ではなく、特に喪主であるスージーなどは、血相を変えたほどであった。
彼ら彼女らが驚いた理由。それは、本来ならばここに来てはならないものがやってきたためだった。
それは、周囲の様子を気にする風もなく、ゆっくりと会場に現れた。その全身は、他のどの色をも寄せ付けない純白の衣装で覆われている。形状も、いわゆる西洋のものとは違う。身体全体をしっかりと覆うそれは左前に整えられている、東洋の小国――日本のものだった。たった一つ、髪を結い上げる布だけが、藤の模様に彩られた幽玄な青を放っている。
そう。
平穏を乱した招かれざる弔問客の名は、光藤子。
今は亡きジェーンが、その生涯を通じて戦い続けてきた因縁の相手であり、同時にジェーンが亡くなる二年前、ミクロネシアでの決戦でもって、死に繋がる重大な怪我を負わせた張本人だった。
彼女が持つ二つ名こそ、災厄の魔女。平和と秩序の守人、テューダーにとっては忌むべき存在である。
当然ながら、その来訪はジェーンの娘、スージーの怒りを買うことになる。
「貴女と言う人は……! よくも平気な顔をしてここに来れるわね!?」
「そういきり立つな。故人の前で騒ぐのは礼に反しておるとは思わんか?」
「屁理屈を! 自分がどういう立場にいるのか、ちっともわかっていないのね!」
今にも殴りかかりそうなスージーに対して、藤子はあくまでも冷静だった。いや、その態度はむしろ冷静を通り越して冷徹であり、他人を穿ち見るようなうすぼんやりとした表情は、世間一般に知れ渡る災厄の魔女という二つ名そのものだ。
「では、あくまでお主はわしを拒むのだな」
「当然よ! 本当なら……今この瞬間にでも焼き尽くしてさしあげているところ、お母様の手前我慢しているんだから!」
「そうか」
やはり怒りを隠そうとしないスージーの言葉に、藤子はすっと瞳を細めた。それから、不意ににやりと笑うと、ゆっくり焦らすように背を向ける。
「ではお主は、亡き母ジェーンの遺志を反故にするのだな」
「な……!?」
「ジェーンは今わの際に、言い残したはずじゃ。『悪魔でもどんな相手でも、拒まず受け入れろ』とな。
そしてお主は、それを了解したのではなかったか? なればこそ、今この場にはドール族や夢の住人などがいるのではないか?」
黒い笑みのままの顔を少しだけ、スージーに向ける藤子。ある種の脅迫だった。その姿は、まさに災厄の魔女に相応しい。
「ぐ……っ、な、なぜそれを……!」
「わしを誰だと思うておる」
悔しげに歯噛みするスージーに、また藤子は向き直って笑う。どこまでも腹黒いその笑みは、彼女がいつも見せていたあの笑みだ。
「さあ、どうするジェーンの娘よ。偉大なる母の遺言を無視するか? それとも、この邪悪な災厄の魔女を受け入れるか?」
「く……!」
スージーにとって、それはある意味で究極の選択の一つだった。
世界一の魔法使いと呼ばれた母は、彼女にしてみれば越えようと思っても越えられない偉人であり、その遺志を汲むことは、彼女にできるたった一つの奉公と言ってもいい。
そして今、目の前に立つ災厄の魔女は、その母の花を刈り取った死神。同じ空気を吸うことすらためらわれるほどに、彼女は藤子を憎んでいる。
「……く、し、仕方ありません……」
悔しさを明確ににじませ、それを辛うじて飲み込みながら、スージーはきつく歯を食いしばった。そして、目の前にたたずむ死神を、闇の中に煌く最高の青二つを睨む。
「ただし……葬儀を邪魔するようなことは絶対に許さないわ……! もしそんなことをしたら、……わかるわね……!」
そして捨て台詞も残さずに藤子へ背を向けると、返事も聞かずに席へと戻っていった。
一体どうなることかと、固唾を呑んで見守っていた周囲の視線はスージーのそんな背中を見送ったあと、今度は一斉に藤子へと向けられる。
それを全身で浴びながらも鼻で笑い、こともなげにあしらってみせると藤子は手近な空席に腰を下ろした。
「邪魔などするものか……そんなこと、するはずなかろうて……」
彼女がそう呟いたのを聞いたのは、彼女の近い場所にいた、ごくごく少数だけだった。
そしてその呟きの通り、藤子は何かするでもなく、終始ただ静かに葬儀の列にたたずみ続けていた。それは、最後の別れの時が来ても変わらず、能面を被っているかのごとき白面を、ただまっすぐジェーンの柩へ向けているだけだった。
スージーを初めとした魔法使いたちは、藤子がいつか何かするのではないかと気をもんでいたようだったが、出棺の黒馬車が出発したことで、それは杞憂に終わった。
藤子の弔問以外は遅滞なく進められた葬儀が終わってから、遺族をはじめ一部の参列者達はテューダー家に戻り、日本で言うところの精進落としに入る。
参列していた悪魔たちは、さすがにこれに入るわけにはいかないと、それぞれ別の理由で思ったのだろう。葬儀が終わってすぐに、各々が住まう暗黒へと帰っていった。それは、闇の深淵に咲く花である藤子も変わらない。
表面的には何事もなかったジェーンの葬儀は、そうして静かに幕を閉じた。
3.
その夜。濃い霧が月の光を遮り、周囲は暗闇に覆われていた。時折ひやひやと涙雨すら零れ落ちて、ジェーンが埋葬された共同墓地は、今にもアンデッドが現れそうな雰囲気すら漂っている。
偉大なる実力者が共同墓地に葬られるというのも珍しいかもしれないが、これは彼女の強い希望によるものだった。
特別扱いせず、他と同じように共同墓地へ――。
それは生まれからその死まで、特別であり続けた彼女が最後に望んだ、想いがそこにある。ただ普通でありたい、という想いが。
彼女の墓石もその遺志を反映させてごくごく簡素であり、ただ彼女の名と、生没年が刻まれているだけ。知らない人は、ここに史上最高の魔法使いが眠っているとは夢にも思わないだろう。
そんなジェーンの墓石の前に、こんな外出の憚られる夜にも関わらず、人影が一つ現れた。闇の中青く浮かび上がる二つの瞳が、刻まれた名前を凝視している。
藤子だった。
葬儀で身に着けていた死に装束ではなく、普段通り黒い和装に身を包み、色づいた羽衣をまとっている。
だが、傘もささず、また魔法で遮断もしていない彼女の身体は、霧と雨とで雫が滴っている。濡れそぼった髪や、そこから覗く表情は、幼い容姿に反して妖艶で色っぽい。
藤子はしばらく、そうしてジェーンの墓の前に立ち尽くしていた。だがやがてその場にがくりと両膝をつくと、ジェーンの名前を仰ぎ見る。
「……ジェーン」
そして、今は亡き相手の名を呼ぶ。
「ジェーン……なぜ……なぜ死んだ!」
それは、普段の彼女らしからぬ叫びだった。強い感情の篭った、魂の叫び。葬儀の間、ひたすらにこらえ続けていたのだろう。それはまるで、鉄砲水の如く。
「お主ほどの力があれば……死を拒むことなぞ、容易であったろう……? にもかかわらず、死を……散ることを選びおって……!」
確かに、ジェーンの力があれば、永遠に死なない道を選べただろう。それは、互角の実力を持ち、何十年も戦い続けてきた藤子が一番よく知っている。頂点を極めた魔力があれば、不老不死の術法を完成させることができるはずなのだと。
だが、なぜと問いかけながら、ジェーンが死ぬことを選んだ理由もまた、藤子にはわかっていた。わかっているが、それでも納得できないから。だから、彼女は答えることのない相手に、問い続ける。
「……知っておるよ、わかっておる……。お主は、この世界の秩序を守るため、人であることを……誰よりも人に近しい場所に咲く花たらんとしただけのこと……。人として戦うお主が、人を辞めるわけにはいかぬ……それは、それはわかる……」
そう、不老不死を完成させることは、魔法使いとしての倫理に反することなのだ。平和と秩序のため、そして何より人類のために戦ったジェーンが、あの誇り高いジェーンが、そんな道を選ぶはずはないのだ。
しかし――。
「天命……天寿……言葉はあまたある。じゃが……じゃが、そんなもので片付けとうないのじゃ……お主の死、以上に……わしは、わしはお主と出会うたことが、何より……この世で一番の奇跡と……そう、思っておったから……」
誰にでも、いなくなってほしくない相手はいる。それは、藤子にとっても当てはまるのだ。ただ彼女の場合、その相手がもうこの世にたった一人しかいなかっただけのことで。
「お主と戦い、お主を超えること……。それが……それが、わしの一番の目標になっておったのに……だのに……。
……ミュゼが死に、お主のいなくなったこの世界で、わしは何をすればいい!? わしは、何を守ればいい!?
お主が望んだ世界……お主が理想とした、世界の姿……それはもう、わしには垣間見ることすら……!」
悔しさと哀しさをない交ぜにした複雑な顔に、地球の涙が降りしきる。そのまま、藤子はやるせなさをもてあまして、石畳を殴りつけた。少しだけ、水がはねる音がした。
「ジェーン……お主も、もはや望んだ世界を見ることは、叶わんよな……。魔界の悪魔どもや……旧き支配者どもの手から逃れた、真実平和なこの世界……母なる地球の姿を、お主はもう……」
墓石を見上げる藤子の瞳が、青い瞳が、一際強くゆらいだ。彼女の顔は雨と霧とでぐしゃぐしゃだが、もしかしたら、それ以外のものもあるのかもしれない。
「ジェーン……お主の代わりに、わしが……わしが、この世界を見よう……。お主が望んだ世界に、少しでも近づけるために……じゃから……」
そして、彼女はジェーンの墓石に、少しずつにじりよる。やがて、その墓石に両の手をかけて、揺れる瞳を真っ直ぐ、ジェーンの名に向けた。
「じゃから……お主の、お主のその目をくれぬか……? わしの、一生で一度の……最初で最後の、わがまま……願いじゃ……。どうか、お主のその目を……お主の目が、ほしい……」
当然、返事があるはずもなく――。
『仕方ありませんね……今回だけ、ですからね?』
いや。
「……!?」
あった。
それは空耳でもなんでもなく、確かに直接、藤子の耳朶を打った。信じられない心持で顔を上げた藤子の前には。
「……ジェーン!?」
『はい。どうも、お久しぶりですね』
確かにそこには、死んだはずのジェーンその人がいた。否、いたという表現が正しいのか、それは線引きが難しいところだ。
藤子の目の前に、確かにジェーンはいる。だがその身体は半透明で、後ろの墓石が、さらにその後ろにたたずむ景色が透けて見えてしまっている。
ただ、その眼窩で燃え盛る炎だけがはっきりと浮かび上がっている。今となっては、それは生命力溢れる炎ではなく、墓場でうごめく鬼火、と言ったほうが正しいかもしれないが。
「……そうか、お主……魂魄か」
『いかにも、その通りです。さすが、どうやらまだ心は死んでいないようで、安心しました』
背後の景色をその顔に透かして、ジェーンは穏やかに笑った。
『本当は、これもあまりしたくはなかったのですけどね……ただ、できればこの世を去る前に、貴女には会っておきたかったので』
「……ジェーン……」
『予想通り、貴女は一人で私の墓まで来てくれました。貴女なら、こうすると思っていましたよ』
「……死してなお恐ろしい女じゃな、お主は」
どこまでも穏やかな表情のままのジェーンに対して、藤子が見せた笑みは切なく、そしてはかないものだった。今この瞬間の邂逅が、仮初のものだと理解しているからだ。
人間に限らず、生物には魂がある。高位の魔法使いともなれば、肉体と魂を切り離して別々に動くことも不可能ではない。時に、非生物に魂を宿して自由に動き回るという術も存在する。
ジェーンは死に逝く肉体から、その魂を切り離していたのだ。そして、それを墓石に宿していた。藤子と最後の会話をするために。
だが、藤子は知っている。非生物への憑依は、生物への借体形成とは異なり、長く魂を留められないことを。それは、他に手段がない時に取る非常手段であり、あくまでその場しのぎに過ぎないのだ。
『ふふ、そうですね。私一人が死んだだけで、ここまで取り乱す貴女に比べたら、私は恐ろしい女かもしれません』
「……よしてくれ」
『……そうですね。時間がありません』
ジェーンの言葉に、藤子は顔を背けた。見たくない現実が、そこにある。受け入れたくない現実が、そこに。
『藤子さん……私がこの世で最も敬い、尊んだ、偉大なる魔法使い。……愛していましたよ、貴女のことを。敵として、友として、人として……そして』
もはや生けるものに触れることの出来ない半透明の手が、藤子の頬を撫でる。
藤子としても、触れられている感覚はない。しかしそれでも、彼女はかすかに、己の頬を愛おしそうになでたぬくもりを感じた。
『そして、魔法使いとして。私が、最も愛した人。……あとのことは、頼みましたよ』
「ジェーン!」
そこで、遂に藤子は我慢が出来なくなって、声をあげた。目の前の、もはや見ることしか叶わない相手をつかもうとして、その手が虚空を掠め取った。
「やめて、やめてくれ……言うな、それ以上は、それ以上は言わんでくれ!」
『……藤子さん』
「聞きとうない、聞きとうない! わしは、わしは、……わしは! お主に死んでほしくなどなかった!」
耳をふさいで首を振る藤子の姿に、災厄の魔女として、そして天使が愛でる青き藤としての威厳は欠片もなかった。それは、母親と切り離される子供の姿そのもの。
『藤子さん!』
そして、その姿を見かねたのだろう。ジェーンが表情を厳しく引き締めて、一声言い放った。
彼女にぴしりと名を呼ばれて、藤子は今にも崩れてしまうそうな顔を彼女に向けた。白い宇宙に浮かぶ二つの地球が、溢れんばかりの涙に沈んでいる。
『……聞き分けのない、子供のようなことを言わないでください。貴女は、一体なんですか?
貴女は……シレスティアルウィステリア、この私がたった一人、この世に認めた世界一の魔法使いでしょう』
「…………」
『……大丈夫です。私は、死にませんよ。貴女が私を覚えている限り……私は貴女の心の中に、生き続けます。ですから、ね?』
しゃがみこみ、藤子の青い視線に、自身の赤い視線を重ね合わせて、ジェーンはまた微笑んだ。
『ですから、どうか泣かないでください。笑って、とは言いません。せめて……貴女の美しい瞳を見ながら、逝かせて下さい』
「……ジェーン……」
沈黙の中で、霧が少しずつ遠ざかっていく。雨が、少しずつ遠ざかっていく。煙るロンドンの夜闇に、さやかな月明かりが、雲の切れ間を縫って降り始めた。
「……ジェーン!」
その光に後押しされるようにして、藤子は声を張り上げた。まだ震えの残る、弱弱しい声ではあった。しかし、彼女の身体はしっかりと大地を踏みしめて、目の前の、散った花の痕跡をまっすぐに見つめている。
それを真正面から受け止めたジェーンは、ゆっくりと空へ昇っていく。半透明だった身体の透明度が、少しずつ上がっていく。それは、この地に憑依した彼女の魂が、正真正銘の終わりを迎えていることの証。
「クリムゾンオールドローズ……わしが、この世で唯一認めた、最初で最後の、対等な存在……西と東に咲き競った、赤い薔薇よ。さらばじゃ……さらばじゃ、ジェーン」
『……はい。……さようなら、藤子さん……さようなら……』
やがてジェーンの姿は宵闇に吸い込まれ、最後の最後まで、名残惜しむかのように残っていた二つの赤い炎も、ゆっくりと掻き消えていく。
――藤子さん。これが、最初で最後ですからね……。
炎が消える直前、藤子はジェーンのそんな声を聞いた気がした。だが、彼女が顔を上げた時、そこに残っていたのは、吹きぬける風だけ。
しかし、その瞳は。
夜の空を仰いだ藤子の右目は、宇宙の片隅で生命を宿した、母なる星ではなかった。そこにあったのは、この世の邪悪に挑み、この世の罪悪を浄化する最古の炎。
そう、ジェーンが持っていた、あの燃え盛る薔薇の炎だった。
だが、藤子が自身に起きた変化に気づくことは、なかった。彼女は、しばらくその場に立ち尽くしたまま、かつて愛でた薔薇の花が消えた空を、呆然と眺めていた。
やがて立っている力さえも、彼女の身体から抜ける。ぺたりと、尻餅をつく形でその場にへたり込んだ藤子は、やはり空を見つめ続けたまま。
「……嫌じゃ」
そのままの姿勢で、彼女は震えた声で搾り出す。
「頭では、わかっておる……お主とは、別れねばならぬことは……お主の死が、どこまでも確かな現実であることは、わかっておるのじゃ……じゃが……」
青と赤、相反する二つの瞳から、大粒の涙があふれ出る。少しの間だけ、それは彼女の瞳に留まっていたが、やがて彼女の感情が爆発するのと同時に、一気にこぼれ始めた。
「認めたくないのじゃ! お主が、もはやこの世におらんことを……わしは、わしは認めたくない!」
ぼろぼろ、ぼろぼろと、涙が次々に流れ出る。物心ついてから今まで、ほとんど泣いたことのない彼女にとって涙は、この時のために蓄えられていたのかもしれない。
「ジェーン……ジェーン……! ジェーン、嫌じゃ、ジェーン……うわああああぁぁぁぁー!!」
そして遂に、彼女は声を上げて泣き始めた。もはやここに、災厄の魔女は、シレスティアルウィステリアはいない。
今ここにいるのは、愛した人を亡くした孤独な少女だ。理屈も論理も何もない。哀しみと喪失感に打ちひしがれて、泣くことしかできない、ただの子供。
だから彼女は、泣き続ける。人の目も気にせずに、泣く。
そして――そんな彼女を、ジェーンすら見たことがない泣き姿を見せる彼女を、見つめているものが、一つだけあった。
それは、今まさに散った花が宿していたのと、まったく同じ炎の双眸。暗闇の中でも一際目立つ、生命力と強い意志を燃え滾らせる、正義の薔薇。
泣くことしかできない今の藤子が、それに気づく由はない。だが、彼女を見つめる瞳の持ち主にとって、藤子のこの姿は、強い印象となってその心に刻まれることになる。
藤子を見つめる炎の瞳。その持ち主の名は、ローザ・テューダー。
ジェーンの一番下の孫にして、後にジェーンの再来と呼ばれることになる、今はまだ芽吹いたばかりのクリムゾンオールドローズ、その人である――。
◆ジェーン・テューダー(Jane Thudor)
イギリスヴィクトリア王朝末期の魔法使い。千八百二十六年生まれ、千九百六年没。
イギリス貴族にして世界最古の魔法一族、テューダー家の第十五代当主。十八歳で襲名した。
所有称号は「クリムゾンオールドローズ」および「ユニオンフレイムズ」。
千八百四十六年の、イギリス近海における深きものども掃討を皮切りに無数の功績を挙げており、その数には枚挙に暇がない。
千八百五十七年、初めて災厄の魔女と戦って以降の約五十年間で、都合十一回の死闘を繰り広げ、彼女の目論見を阻止し続けた。
二人の戦いは、その他の邪悪の台頭を抑止し、結果として災厄の魔女以外の事件が起きなくなるという逆説的な平和を実現したため、この時代を二人の名前から第一次薔藤時代と呼ぶ。
その無数の功績、高い指導力、人をひきつけるカリスマ性から、当時においては生きる伝説、現代においても伝説の魔法使いと称され、彼女の名を知らない魔法使いはいない。