薔花(そうか)、聳え咲く。
1.
千八百五十七年、アメリカユタ準州。
あまたの生命を生み出し、何億年もの間それを見守り続けてきた母なる地球だが、そんな彼女にも見守れぬ場所がある。ここには、そんな場所の一つがある。
水も、草も、すべてが根ざさぬ枯れた大地。それは、生命を育むには足りえない砂漠であり荒野だ。
それでも人は、そんな場所にすら住もうとする。この土地も、何者をも寄せ付けぬ厳しい環境でありながら、モルモン教徒の開拓が進んでいた。
そんな黒い風の吹きすさぶ明け方の荒野の只中に、二つの人影があった。
方や元の姿が何か、想像することすら難しいほどボロボロになった服を纏い、大地に倒れ伏し。方や純白の死に装束を纏い、相手を一方的に見下ろしている。
前者は恰幅のいい男性だが、状態が状態だけに威厳というものは欠片も見当たらない。後者は、黒い総髪を風になびかせる、小さな女の子。
そう――彼女の名は、光藤子。日本生まれの災厄の魔女にして、今や世界にその悪名をとどろかせる闇世界の住人だ。
ここ十年ほどはあまり活動しておらず、彼女が人々の耳目を集めるような大規模な事件を起こしたという話はない。
しかし、それでも各所ではそれなりの災害や事件を散発的に引き起こしてきており、もはや彼女を知らぬ魔法人はどの国にもいないだろう。
「己の身の程が、わかったか?」
「あ……う、ば……か、な……こんな……こんな人間が……いるなんて……」
信じられないものを見るようにして、男がよろめきながら身を起こす。その様を、凍りつく白面を笑いに歪ませる藤子が見下している。
「大海を知らず、まして空の高さをも知らぬ井の中の蛙め。お主にこれは、あまりにも分不相応じゃ」
その顔を保ったまま、藤子は男が後生大事そうに抱えていた本を奪い取った。その装丁は金。表紙も裏表紙も、ひいては中のページすら黄金で彩られている。
「や……やめろお! そそ、それは、神の――」
その瞬間、男は一気に取り乱した様子で、藤子にすがりついてきた。それを軽く蹴飛ばしてあしらうと、藤子は鼻で笑う。
「神の? はっ、勘違いも甚だしい。これは闇の者が記した、外道の書。耶蘇教の名を騙る悪意の塊に過ぎんわ」
そうして、その分厚いページを一つ、二つめくる。その中に記された文字は古く、用いる人間など今の世の中には存在しない。
「さながら偽典……聖書などとはかけ離れたもの。こんなものを、世の中に残しておくわけにはいかぬ」
藤子のその言葉に、男は大きく目を見開いた。嫌な予感しか感じ取れなかったのだろう、蹴飛ばされたまま転がっていた再び身を起こすと、藤子の前に進み出て土下座する。
「頼む、返してくれ! それは」
「断る」
だが、男の申し出は即座に却下された。そのまま、ありえないものを見るような顔で上を見た男は、続いて絶望的な光景を目撃することになる。
「何、他の者には天使に返した、とでも言っておけ。格好はつくじゃろう?」
「や、や、やめ、やめろ……やめろおおぉぉぉー!!」
男が見つめるその前で、藤子が持つその手の中で、現代の言語に訳してモルモンの書、と刻み込まれた黄金の書は、消えた。
燃えるでも、風化するでもなく、初めからその存在がなかったかのように、じくじくと景色に侵食されるようにして、消えた。
「あ……あ……ああ、ああああ……!」
そうして完全にものが消えた瞬間、男は心をなくしたらしい。そのまま頭を抱えて、もはや言葉ですらない音を叫びながら、ふらふらと荒野の中に消えていった。
その姿を見送って、藤子は男が消えたほうとは反対の方向に身体を向ける。
「……ふん。ろくに力を持たぬくせに、また大掛かりな儀式をするものじゃ」
一歩、二歩と歩み出て、大空を仰ぐ。そこには、金色の光で描かれた巨大な魔法陣があった。
「魔法の産物たる支配者、ガダモンか。害なき相手に害なさぬ故か、こやつを呼ばんとしたのは……? なるほど、国と直接事を構えるには、都合は良いやもしれんが」
藤子が手をかざす。地球色の青があふれ出て、無数の光が飛び散った。それはまるで金を飲み込むようにして、魔法陣を変えていく。魔法の、上書き。
「く……、いかんな……」
だが、それを操る藤子は、奥歯を噛み締めて表情を崩していた。
「ここ十年……基礎的な修練すら怠ったのは我ながら失敗じゃったな……。それだけ……それだけ堪えたのじゃろうが、な……」
まだ太陽の昇りきらぬ空を見つめる青い双眸が、哀しみに揺れる。目の前で凍り付いていく妹の姿が、いまだに彼女の心に重い枷を繋いでいた。
そしてその手前で陽炎となって揺らめく、想い人。その姿を振り切って、彼女は魔法を行使し続ける。
やがて、金を奪い取り、全体の比率を増した青が白み始めた空で輝き始める。このままいけば、いずれその魔法陣は青一色に染まるだろう。
「ただ消し去るだけではしこりが残る……やはり、少し星辰を動かさねばなるまい」
すまぬ母よ、と付け加えて、藤子がその全身から青い魔力をほとばしらせた。
2.
魔法陣が青く染まりつつある中で、藤子はその存在に気づいて思わず後ろを振り返った。
朝日に照らされた大塩湖が輝き始める時間、それは太陽と共に歩み寄ってきた。巨大な力の波動、動物すらその気配に逃げ出す暗澹とした闇の鼓動が、ずくりずくりと大地を律動させて、やってくる。
その波紋はいとも容易く光の結界を打ち崩し、少しずつ、確実に藤子の元に向かいつつあった。
「なんじゃ、この気配は……」
六十年以上を生きた藤子ですら、いまだかつて感じたことのない高みの力に、生唾を飲み込んだ。
「悪魔ですら、これほどの力を発することなど、稀じゃと言うに……何者じゃ、一体何が」
また、結界が砕けて飛び散った。日本の魔法を司った陰陽番の人間が、二人がかりで解除できなかった強固な結界が、ろくな抵抗も見せずに消えていく。一つ、また一つ。時計の針が時を刻むように、のっぺりとした一定の間隔で。
体感したことのない事態に、初めて藤子の魔法の行使が乱れる。青に食われていた金が、少しだけそれを押し返した。空に再び、金色が増していく。
「……い、いかん、気を散らしておる場合ではないッ。押し返される!」
藤子が再度念じれば、また逆に青が金を侵し始める。だが、それと同時に、またしても結界が消し飛んだ。
「……! 駄目じゃ間に合わぬ……せめて旧き支配者の影響力だけでも除いておかねば!」
その速度に、当初思い描いていた通りに進めるのを彼女は諦めた。
金を食べていた青が空ににじみ、また盛り返そうと蠢いていた金も、虚空に溶けて消えていく。それは、完全なる解呪を意味している。
だが、それではこの地に呼び込まれた邪悪な力を打ち消すことはできない。魔法の効果は打ち消せても、魔法が招いた結果を打ち消すことはできないのだ。それは、死んだ命が戻ってこないことと同じ。
結界がまた飛び、その力が、気配が、一気に近づいた。大きな魔力に触発されて、荒野の空気がざわめきはじめる。
何もないのに、世界が張り詰めている。風もないのに、空気が揺れる音が響く。砂が、石が、まるで磁力に反発するかのように、かすかに揺れ動く。
そうして魔法陣が空に掻き消えた時。太陽を背負って、開拓の街よりやってきたものが、いつの間にか藤子の後ろにいた。黄金の後光に照らされて、死んだ大地をしっかりと踏みしめて。
「そこまでです」
凛として高く、彼の者は告げた。決して大きく叫んだわけでもないのに、その声は強く周囲に響き、藤子の耳朶を打った。
声に応じる形で、藤子はゆらりと振り返る。何ももったいぶったわけではない。あまりにも大きな力に、振り返るのを躊躇したのだ。
多くの魔法使いを震撼させる藤子にすら、それほどの思いを抱かせる者。彼の者に、大塩湖を背にして藤子は向かい合った。
そこにいたのは、肩までで切りそろえられた金髪をたたえた、美しい女性だった。薄い白肌がまとう服は黒で、その白さが際立っている。
しかし、その黒はドレスという分野には納まるかもしれないが、この時代という分野には納まりそうもない。装飾性が低く行動性が重視されているその服は、むしろ幻想という世界にこそ相応しい。
だが、藤子の注意を最も引いたのは、そこではない。彼女の視線は、女性の頭部、正確には二つの瞳に向けられていた。
女性の眼窩には、赤く煌く炎があった。人類が、その文明の始まりから用いてきた原初の発明品の一つにして、その文明の歩みを照らし続けてきた炎。それは、宇宙に浮かぶ地球にも似て、母の温かさをたたえた焔色だった。
しばらく、二人はそうして見詰め合っていた。互いの姿に見惚れてではない。互いの力に、驚いて、だ。
恐らく女性のほうも、藤子と似たような感想を抱いたのだろう。実際、空よりも海よりも青い幻想をその目に宿し、天高く膨大な魔力をほとばしらせる藤子の姿は、女性の鑑写しのようだ。
「……ここで、何を」
先に口を開いたのは、女性のほうだった。言葉を一つ一つ選ぶ、慎重な気配がそこにはあった。
「何を、していました? 闇そのものの力を……深い、黒い力を感じます……」
対する藤子も、少しだけ間を置いてから、同じように一句一句を丁寧に紡ぐ。
「それに答える義務は、生憎と、持ち合わせておらんのう」
また、少しの沈黙。今度も、それを破ったのは金髪の女性。
「質問を、変えましょうか」
そこで一旦区切り、女性は大きく息をする。
「……貴女は、一体何者ですか?」
それは、おおまかな範囲を提示し、相手の出方を伺うものだった。
だが、それにわざわざ正直に答えるほど、藤子はまっすぐではない。そうしたやり取りは、慣れている。見た目に反して、彼女の実年齢は六十を超えるのだから。
「相手に素性を尋ねるならば、まず己から名乗るが礼儀ではないか、英国淑女よ?」
藤子の回答に、女性はカッと目を見開いた。そしてしばし、言葉を失う。交わした会話の中で、女性の言葉が英国の英語であることを見抜いた藤子に、驚愕したのだ。
女性が藤子に対して言葉を発したのは、ごくわずかだ。それも、すべてが短いただの問い。
その中から、藤子は彼女のしゃべりの中に紛れた、かすかな特徴をしっかりとつかんでいた。そのことが、女性を心底驚かせたのである。
藤子が言語に堪能なのは、単に彼女があらゆる知識に精通する魔法使いだからというだけではない。
確かに魔法使いは、古今東西の言語を身に着けることが必須とされる。だが藤子は、この星の知識が網羅された黒い書を持つ。それが持つ深き力は、彼女に「地球上の古今東西すべての言語を自由に操る」能力を与えているのだ。
しかし、そんな飛びぬけた力でさえも、原初の魔導具が持つ能力の一つに過ぎない。
「……そうですね。まずは、私から」
静けさに満ちた朝の荒野に、大地の息吹が吹きすさんだ。それが終わるのを待って、女性が言葉を続ける。
「私の名前は、ジェーン・テューダー。遠く大西洋の向こう、ブリタニアの地より、共和国政府の要請を受けて参りました」
今度は、藤子が言葉を失う番だった。なぜならば、女性が口にしたその名が、とてつもなく重いものだったから。その名は、魔法使いであれば誰もが知っているほど知られた名前。
「ジェーン……テューダー、じゃと……!? ならば、まさかお主が、歴史に名高きクリムゾンオールドローズか!?」
「おや。東洋ではあまり魔法史は発達していないと聞いていましたが……。いかにも、私がクリムゾンオールドローズを受け継ぐ者です」
「……道理で。大地がざわついておるわけじゃな。なるほど、これが最古の魔法使い、テューダーか……旧き神が如き無双の力を感じるわ……」
顔に不敵な笑みを浮かべる藤子だが、それは実のところ虚勢に過ぎない。相手の正体がわかったからこそ、余計周囲に満ちる力の大きさが浮き彫りになっており、その巨大な力が周囲のすべてを圧倒していた。
そして、藤子は見抜いていた。その力が、もしかすると自分を上回るかもしれないということを。だからこそ、いかにも余裕がある風を装ったのだ。
テューダー。
イングランドの歴史において、その名が表舞台に上がったことが一度だけ、ある。百年戦争の後、薔薇戦争を経て生まれた王朝を支配したのが、他でもないテューダーだ。
しかし、今ジェーンと名乗った女性が用いたテューダーは、そのテューダーとは来歴の異なる、別の名である。
それは、現生人類史上、最初に生まれた魔法使いを始祖とする。それは、現生人類史上、最初に魔界の異形と戦った正義の使徒を始祖とする。
そう、このテューダーは魔法世界の根源に立つもの。すべての魔法使いは、テューダーから始まったと言っても過言ではない。
そしてクリムゾンオールドローズとは、歴代のテューダー家当主が用いてきた称号、二つ名である。
それはまさに、世界最強の魔法使いが持つべき称号。旧きより燃え盛る赤い薔薇は、この世の悪を許さぬ、絶対的な正義の象徴だ。
「私は、名乗りました。次はそちらの番ですよ、大和撫子さん?」
藤子の言葉をあえて真似て返してきたジェーンの態度に、藤子は彼女の底知れぬ強さを感じた。ただ挑発に乗るだけではなく、それにかぶせて仕返してきたところは、己に自信があるか、よほどの馬鹿でなければできぬ芸当だ。
だが、ここでなめられるわけにはいかない。藤子にも、藤子なりに長い外道を歩いてきた自負がある。イギリス以上に長い歴史を持つ国で、誰よりも素晴らしいとたたえられた己の力量にも、絶対の自信があった。
だから、臆することなく彼女は笑う。神をも見下さんとする歪んだ笑みを湛えて、彼女は言い放った。
「わしの名は、光藤子。……名前で言うより、『災厄の魔女』と名乗ったほうが、通りは良いか?」
そして、それはジェーンを威嚇するには十分だった。
「災厄の魔女……!? まさか、こんな子供が……。……いや、人は見かけによらない……じっくり見ればなるほど、これが史上最悪と名高い魔法使いとわかる……旧き支配者のような昏い力を感じます……!」
「ほう、どうやらわしもまんざらではないようじゃな。名が知られるというのはなんとも心地よい」
くくく、と笑う藤子の正面で、ジェーンが静かに身構えた。
「貴女が災厄の魔女だというのなら……これ以上の問答は不要です。魔法世界の秩序を守るものとして、これ以上貴女の悪行を見過ごすわけにはいきません」
それまであまり表情というものを表に出していなかったジェーンが、その顔に怒りにも似た鋭い感情を浮かばせた。
その姿に、藤子はけらけらと笑いを上げる。
「秩序を守る? はっ、さすがエゲレス冗談の国じゃな、笑わせてくれるわ。お主が秩序とかいう不確かなものを守るために用いている、その力はなんじゃ? わしと同じ闇の力、外道の術法じゃろうが!」
「……っ、減らず口を!」
「所詮お主も、わしと同じ穴の狢よ! じゃがお主が立ちはだかるなら遠慮はせぬ、星の裁きを下してくれよう!」
「やれるものならッ!」
その瞬間、藤子は青い魔力を、ジェーンは赤い魔力を身に纏った。それはどちらも並大抵の規模ではなく、ただの魔法使いが瞬時に出せるような代物ではない。
それは、世界を敵に回さんとする魔女と、世界の頂点に立つ魔女だからこそなしえるものだった。
そして、その大きすぎる力に、大地が震えた。渇き切った大地にひびが入り、死の香りを芳醇に湛えた黒い風は烈風となって荒野を切り刻む。魔法の力を持たぬものがここにいたなら、恐らく一分も待たずに気を失うだろう。
「疾!」
先に動いたのは、藤子のほうだ。練り上げられた力が編み出した式は、あらゆるものを打ち砕く純粋な破壊力を得て、無数の矢となって荒野の空を埋め尽くす。
対するジェーンは、それを目の当たりにしても慌てない。紡ごうとしていた魔法式を、瞬時に攻撃から解呪へと切り替える。
「Si!」
そうして、藤子から僅かに遅れてジェーンが魔法を発動させる。手刀を横一文字に引いた空間から、光があふれ出て、空を満たした。
そのまま光に触れた矢は、弾けるようにして消滅していく。シャボン玉が割れるような音がかすかに、そして連続で荒野に満ちる。
「何っ!?」
魔の矢群が掻き消えた空を思わず見上げて、藤子は声を上げた。風が、吹き抜ける。
かつて、彼女の放った攻撃が意味を成さずに終わったことは一度もなかった。それだけ、彼女が唱える式は複雑で強固なものであり、それの前では生半可な結界などないも同然だったからだ。
それは、藤子自身が一番わかっており、だからこそ彼女は己の力に絶対の自信を持っていた。
ところが、今。彼女の攻撃は、そのすべてを無に帰された。防がれたのではない。打ち消されたのだ。
それは、彼女が放った魔法の構造や質量が、瞬時のうちに悟られたことを意味している。それは、藤子にとって大きな衝撃だった。
魔法使いの戦いにおいて最も重要なことは、相手の魔法の筋目を推し量ることである。なぜならば、その魔法の構造、仕組みが理解できれば、おのずとそれに対抗する手段が見えてくるからだ。
とはいえ、だからといって実際に戦闘中の刹那に解呪を行えるものは少ない。そのため、大半の魔法使いはその魔法を見ながら、効果的な戦い方を模索することになる。
つまり、戦いの場で魔法が解かれることなど、よほど力のあるものが敵でなければありえないことなのだ。
「……ふっ、やるな。さすがはクリムゾンオールドローズ」
改めてジェーンに向き直って、藤子は笑った。日本一の魔法使いが放った攻撃の、一切を打ち消してしまった赤い巨大花は、それに応じるようにして、不敵な笑みを浮かべる。
魔法を戦闘中に解かれるなど、藤子にとっては初めての経験だった。今までそれをする側だった彼女にしてみれば、その精神的打撃の大きさはよくわかっているつもりだったが、いざやられてみると、とてつもない衝撃だった。
強い。
彼女は、心の中でつぶやいた。純粋に、それ以外の感想が浮かばなかった。
「Own!」
藤子が次の手を模索する中、今度はジェーンが魔法を放った。今度こそそれは攻撃の式をなしており、紡がれた言の葉は大地も、風も、そのすべてを焼き尽くす紅蓮の炎となって、空に大輪の花を咲かせる。
それは、薔薇の形をしていた。朝の空を赤々と照らしながら、その逆巻く花弁が藤子を灰にせんと迫る。
「破!」
だが藤子も負けてはいない。うろたえることなく右手を天にかざすと、彼女を起点にして輝ける撫子色の桜吹雪が絢爛に巻き起こった。
散る美しさに彩られた大和の花を、沈まぬ太陽に照らされる西洋の花が飲み込もうとする。しかし、そのいかにも大きな火炎の花は、舞い上がる小さな光の花一つ一つに切り裂かれ、消え去っていく。
やがて、桜の舞い散る儚い音も、かすかに荒野に溶けて消えた。
「ディスペル……っ!」
ジェーンが歯噛みしながら、一歩あとずさった。それを見て、藤子はしたり顔で構えなおす。
悔しそうなジェーンの表情から、彼女も藤子と同じく、自身の魔法を打ち消された経験がなかったのだろう、と藤子は推測した。ついほんの少し前に、自分が受けた衝撃と、同じ衝撃が彼女にもあるはずだ、とも。
そうして、次なる一手を考える。
単に魔法を放つだけでは、双方相手に魔法をぶつけることすら叶わない。ならば、取れる手段は二つ。
解析も解呪も間に合わぬほど複雑な魔法を使うか、あるいはそれが間に合わないほどの至近距離で使うか。
だが、前者を選べば、当然そのために魔力を練り上げる時間がかかってしまう。それは、相手に攻撃の機会を与えることに他ならない。
となれば。
「鋭!」
その全身を青い魔力で満たして、藤子は大地を蹴った。強化された脚力によって、荒野の地面に穴が開く。
彼女はそのまま右と左、両の手に力を集中させて、まっすぐにジェーンに飛びかかった。
「Ha!」
ジェーンも同じように両手に魔力をほとばしらせて、真正面から藤子を迎え撃つ。二人とも、達した結論は同じだった。
青く輝く藤子の右拳が、ジェーンの顔へ一直線に飛び込んでいく。それを、赤く輝くジェーンの左手がいなすと、今度は仕返しとばかりに赤い右手が、藤子の腹へと向かった。
そうしてのびてくる右手の手首を、すんでのところで青い左手が握って食い止める。そうして、次の瞬間そこから爆発が巻き起こった。
「ちっ、お見通しか!」
「当たり前です」
余裕ある態度を崩すことなく、言葉の途中でジェーンが藤子に迫る。すぐ目の前で爆発に巻き込まれたはずだが、彼女は無傷。
一瞬のうちに防御魔法を発動させ、身を守ったのだ。その素早く的確な動きに、藤子は内心舌を巻いた。
薔薇型の炎が次々に咲いていく。それは、空気をも燃やす勢いで咲き誇る。太陽にも匹敵する温度に達する拳が、火炎花を背負いながら、藤子の小さな身体を穿たんと突っ込んでくる。
だが、猛然と燃え盛る拳がぶつかる寸前、藤子の身体は橙色に輝く百合の花に包まれた。それは炎を受けて砕け散ったが、同時に橙色の花弁は炎から熱の一切を奪い、その一瞬の隙を縫って藤子の右手が、風の刃をまとってジェーンの拳を打ち砕いた。
「く、……、う……ッ!」
だが、全身を走る痛みに表情をゆがめながらも、ジェーンは攻撃の手を緩めなかった。そのまま切り裂かれた手から雷がほとばしり、藤子の身体をからめとる。
「な――!?」
そうしてジェーンは藤子を引き寄せると、赤い衝撃をまとった左の掌底で、自由が利かない藤子の身体を穿つ。肉を切らせて骨を絶つの言葉通り、ひるむことなく繰り出されたジェーンの反撃に、彼女は目を見開いた。
直前、辛うじて雷の網から逃れた藤子だったが一歩遅く、攻撃をかわしきれずに左腕を盾とした。
風になびく白装束がちぎれとぶのと共に、骨が砕ける音が鳴り響き、攻撃の勢いに押し出されて、彼女の身体は荒野の崖に激突した。
その衝撃は凄まじく、崖の一部は崩れ落ち、藤子めがけて降り注いで、彼女を瓦礫の中へと閉じ込めてしまった。
「……ふ、ふふふ……やるのう……」
がらがらと、己を埋め立てた瓦礫を押し出して立ち上がりながら、藤子は笑う。青い粒子の光をまといながら、彼女は左腕をぐるぐると回した。
「……っ、リジェネレーション……さすが災厄の魔女、あらゆる魔法に通じていらっしゃるようですね」
そんなことを言うジェーンの右腕も、もはや傷一つなく乙女の柔肌を取り戻していた。
怪我の、魔法による一瞬の治療。実力ある魔法使い同士の戦いは、時にこうしたやりとりによって長引く。
「お主こそな。……瘟!」
「Yoo!」
藤子が桜吹雪を巻き起こし、ジェーンが薔薇吹雪を巻き起こす。
朝の空を埋め尽くす二つの花吹雪は、火花を散らし、魔法の力を散らしながらぶつかり合う。その下で、二人の魔法使いは真っ向からぶつかり合った。
母なる水を人類の炎が気化し。大地に芽吹く草木がそれを呑み。空を切り裂く風がそれを倒し。天を貫く雷がそれを散らす。
互いの一撃一撃が、相手の攻撃を穿ちながら放たれる。それは、己の肉体を省みない、反撃に次ぐ反撃の応酬だ。
血が空を走り、大地を染める。たわみ、きしみ、砕ける彼女たちの肉体は、しかし次の瞬間にまた元の姿を取り戻し、再び相手の身体を貫く。
飛び散る血は、もはや霧となって立ち込めている。しぶきが、二人の間から消えることはなかった。
「……災厄の魔女、これだけの力を持ちながら、どうして貴女は暗黒面に生きるのです?」
不意に攻撃の手を休めて、ジェーンが問いかけてきた。その声は荒い呼吸を合間に挟んだもので、彼女が疲弊していることは誰の目にも明らかだった。
「……どうして、じゃと?」
それに応じる形で、藤子も動きを止める。彼女もやはり息が乱れており、こちらもまた、相応の疲労を負っていることが見て取れる。
いかに頂点に立つ魔法使いであっても、何度死んでも足りぬほどの連続した損傷は、やはり凄まじい負担になることがわかるだろう。
「やはり笑わせてくれるのう、英国淑女。ただ持っているだけの力に、何の意味がある? そんなものは、持つだけ無駄じゃろう!」
「同じ振るうなら、どうして正しい方向に使えないのです? 貴女ほどの力があれば……その力があれば、闇に蠢くものどもを一掃することも、容易いでしょう!」
「ああ容易い。いとも簡単じゃ! じゃが、それでどうなる? 所詮この世界は魔界の下層に位置する脆弱な場所、安息などは存在せぬのじゃよ!」
言いながら、藤子は次なる攻撃の準備を整える。それは、ジェーンも同じだ。
藤子にはわかっている。この、一見すると正義と悪の意見のぶつけ合いに、思想的な争いという意味が一切ないということを。このわずかな言葉のやり取りは、互いに魔力を練り上げるための時間稼ぎにすぎないのだ。
そして、こうして無理に言葉を交わしてまで時間を作らなければならないほど、互いが疲弊していることも、藤子にはわかっている。
次に放つ攻撃が、次に来るであろう攻撃が、恐らく今までで最も威力の高いものだろう、ということも。
「それは『諦め』です! 人類は決して弱くなどない! その力の源は、諦めないこと! 信じ続けること! 心の強さこそ、人類の最大の武器なのです!」
「ならば打ち砕いてみせよクリムゾンオールドローズ! その最大の武器でもって、このわしを打ち砕いてみよ!」
「言われるまでもなく!」
ジェーンの足元に、巨大な真紅の魔法陣が浮き上がった。人類の言語で彩られたそれは、壮麗な光をほとばしらせて、彼女の身体を赤く染め上げる。その姿は、まさに旧きより燃え盛る赤い薔薇。
「大地に閉ざされし内臓にたぎる炎よ! 人の罪を問え――!」
対する藤子も、両手を合わせて二つの小さな手のひらをジェーンに向ける。そこを中心にして、彼女は魔法陣に包まれる。それは、幽玄な青い光を放っている。
「七つの扉に渦なす生命の光よ! 力の塔の天にその手を掲げ、星の裁きを!」
二つの花が魔法を放つのは、同時だった。
方や、三千世界のあまねく炎を越える、天地創造の炎。
方や、虚栄の闇を照らし真実を顕す、地母神の息吹。
二つの極大魔法がぶつかり合い、せめぎあい、拮抗した力は途切れることなく、世界を揺らし続ける。
だが、始まりがあれば終わりがある。ぶつかり合っていた魔法は、やがて力を失い、少しずつその姿を消していく。
しかし一瞬、ほんの一瞬だけ、炎が出遅れた。
ごくごく僅かな時間だけ、炎が青い光を貫いた。それは、いかに緻密に時を刻める時計があったとしても、刻むことのできないほど僅かな時間だ。それでも、相手を焼き尽くすには、それだけあれば神の炎にとっては十分すぎた。
「莫迦な――!」
炎に巻かれた藤子の声が、轟音によってかき消される。攻撃に精力を傾けていた藤子は、それを防ぐことができず、灼熱に飲み込まれた。
やがて炎も姿を消した時、そこに藤子の姿はなかった。それを見止めて、ジェーンががくりと片膝をつく。
「……や、やった……の……?」
そしてつぶやく。しかし、すぐに表情を引き締めると、彼女は再び立ち上がった。周囲に立ち込める魔力に、容易ならざるものを感じ取ったのだ。
直後、藤子の声がどこからともなく響いてきた。
『さすが……さすがはクリムゾンオールドローズと言ったところか……』
「……災厄の魔女! 姿を見せなさい!」
『いやはや、まったく油断したわい。目的の達成も阻まれてしまったことだし、此度はわしの負けじゃ』
負け。そう告げられたことに対して、ジェーンは喜ぶそぶりも見せず、むしろ逆に失望した様子で顔を伏せた。
『じゃがわしは死なぬ。次にわしに会うその時が……お主の最期じゃ! 首を洗って待っておれ!』
そうして、その言葉を最後に藤子の気配はその場から遠ざかっていく。
「……! お待ちなさい! 貴女は、結局ここで何を!……お待ちなさい、逃げるのですか災厄の魔女!」
早々と気配を消した藤子に、ジェーンが叫ぶ。叫ぶが、返事はもはやない。
しばらく静寂という返答の中で立ち尽くしていた彼女だったが、やがてゆっくりと、空を仰ぐ形で背中から大地に倒れこんだ。
「……負けですって……? それは、……それは……私のほうですよ……!」
太陽が、輝いていた。
「……負けるものですか……。次こそは、必ず……!」
そうして、クリムゾンオールドローズ――旧きより燃え盛る赤い薔薇は嬉しそうに……そう、なぜか嬉しそうに、本当に嬉しそうに、笑った。
3.
陽光を浴びて白銀の光を放つ大塩湖のほとりを、藤子は飛んでいた。
塩の大地をすれすれに、青い粒子をなびかせて風を切る彼女の姿は、まるで破れた布ずきんのようにぼろぼろだ。あの真っ白だった死に装束も、そのほとんどが黒くただれて灰になりながら、虚空に散って消えていく。
また、彼女自身息も絶え絶えであり、なびく光の粒子も、普段と比べると途切れ途切れ、覇気が全くない。空を翔けてはいるものの、その軌道はふらふらと左右にぶれており、とても正常な状態ではない。
と。
「ぬわっ!」
不意に光を失って、藤子の身体は大地に落ちた。それでも前進する勢いだけは止まらず、しばらくそのまま大地を削る形で塩の中を転げる。
「ぐ……う、うう……! くそ……っ、わしが、こんな目に……!」
ようやく勢いが死ぬと、彼女はよろよろと身体を起こし、力を振り絞って少しだけ前へ這い出る。が、すぐに力を失って、塩の中に身体を投げ出した。
しばらく、彼女はそのままでいた。凄まじい魔法戦の余韻が、風に乗ってここまで飛んでくる。
純白の塩の中で、彼女は一つ、たった一つのことに打ちのめされていた。
負けた。
それだけが、彼女の頭の中で何度も響き、繰り返しその心を揺さぶっていた。
彼女、光藤子は、かつて日本という国で、最も力を持った魔法使いと呼ばれていた。いや、恐らく今でも、彼女は彼の国の誰にも負けぬだろうと自負している。
それだけの自信が彼女にはあったし、事実、それを周囲に納得させるだけの実力も、あった。
そう、彼女は今の今まで、自分と拮抗した力の持ち主、あるいは自分を上回る実力の持ち主と、出会ったことがなかった。それはすなわち、彼女が今まで、負けたことがなかったことを意味している。
誰と戦っても、どんな相手が現れても、彼女はそのすべてに勝ち続けてきた。活動の場を世界に移しても、それは変わらなかった。
いつしか彼女は、自分こそ世界で一番優れた魔法使いである、と心のどこかで思うようになっていた。それは、彼女もうっすらと自覚していた。
だから今、あの金髪と、炎の瞳が麗しい年下の女に、なす術はあれども打ち倒すことができなかったことが、何よりも悔しかった。
確かに自分は死んでいないし、再起不能に陥ったわけでもない。少し休めば、元通り戦えるだろう。
それでも、相手を負かすことができなかったこと。己の目的を阻まれたこと。それは彼女にしてみれば、決して勝利ではない。勝利でなければ、それは敗北だ。
「……ぷはあっ!」
頭の中で渦巻く鬱憤を、吹き飛ばすようにして藤子は顔を上げた。そのままの勢いで、ごろりと仰向けに寝転がる。塩の結晶が、幼くも年月重ねたその顔に、点々とついていた。
太陽が、そんな藤子の顔を微笑みながら見つめている。それはまるで、我が子の微笑ましいいたずらを見守る父親のよう。
そして藤子は、そんな父親から気恥ずかしげに顔を背ける娘のように、汚れた片腕でその光を遮った。右腕にあてがわれた漆黒の腕輪が、陽光を嫌ってか、それを反射する。
「……ふ。ふふ……ふふふ、はははははは!」
そして、笑う。
「ミュゼ……どうやらわしも、井の中の蛙であったようじゃ。世界は、広い……とてつもなく広いなあ。右を見ても左を見ても、何もかもがわしの知らぬことばかりじゃ……」
はは、と渇いた笑いを顔に湛えながら、それでも彼女の青い瞳が、空を仰ぐことはない。
「……じゃが、空の高さは知っておるぞ……空の青さも……」
瞳を閉じて、細く小さな腕を目の上に乗せて、藤子は息を大きく吸い込んだ。
「……ジェーン……テューダー」
そして、あの美しくも強い、大きな魔法使いの名をつぶやく。その脳裏には、彼女の姿だけがくっきりと浮かび、いつまでも残っていた。
テューダーの名を受け継ぎ、クリムゾンオールドローズの称号を持つジェーンは、原初の魔導具を持つ魔法使いの一人だ。
彼女が持つであろう魔導具の名に至っては、地球という星の歴史が漏らすことなく記された藤子の魔導具、地球断章にも記されている。
だが、ジェーンは今回、それを用いなかった。藤子も。
それはお互いに、自分の魔法をこれ以上解析されるわけにはいかないと警戒したからに他ならない。
魔導具は、魔法使いにとって力の源泉。魔法使いの魔法は、本人の個性と共に、魔導具の性質にも大きく左右される。強大な力を持つ原初の魔導具は、なおさらその魔法使いの魔法の性質を決定付ける。
だからこそ、手にせずとも魔法を扱えるようになる原初の魔導具は、できれば用いずに済まさなければならない。原初の魔導具を用いれば、それだけ己の魔法の本質をさらすこととなり、魔法を解析されるリスクを負うことになる。まして、相手が瞬時に魔法の構造を見抜くような凄腕であれば、その危険は否応にも高まる。
どうせ原初の魔導具を使うならば、もっと緊迫した場面、どうしても退くことのできない、がけっぷちの状態で。
それが、原初の魔導具を持つ使い手に共通した見解なのだ。そう、原初の魔導具は伝家の宝刀。容易に抜くことの許されない、切り札なのである。
「ジェーン。ジェーン・テューダー」
再度、藤子はジェーンの名を呼んだ。その名は、空に消える。だが、藤子の中で、彼女の映像が消えることはない。
「……お主のその名と顔は、忘れぬぞ! 未来永劫、わしのこの魂に刻み込んで!」
そして、叫んだ。腕をずらして、ようやく彼女は太陽に面と向かう。
「待っておれジェーン・テューダー、クリムゾンオールドローズよ! 次は負けぬからな!」
それを太陽に向かって誓うと、彼女は笑った。嬉しそうに……そう、どこかの赤い薔薇と同じように、なぜか、本当に嬉しそうに。
それは、後に第一次薔藤時代と呼ばれることになる一時代の始まり。薔薇と藤の花が互いに競い合い、奇妙な平和と秩序が確立された時代は、こうして始まったのである。
◆竜笛
江戸時代末期の魔法使い。千七百七十九年生まれ、千八百四十八年没。
竜笛はコードネームであり、本名は雅。
日本四魔貴族の一つ祠堂院家の、分家筋にあたる甲州祠堂院家出身。
陰陽番として江戸城へ登ったのは千七百九十九年であり、キャリアでいうと「災厄の魔女」藤子は同期に当たる。
魔法使いとしての実力は高いが、自他共に人の上に立つ器ではないと言わしめる人材であり、藤子以降、複数人の奥守に側仕えとして付き従った。
千八百四十七年、全国で被害を広げていた藤子の討伐に信州へ赴く。奥守桜を失うが、同時に藤子にも相応の打撃を与えて国外に打ち払った。
しかし竜笛自身も消耗が激しく、討伐から帰還してすぐに寝たきりとなり、翌年帰らぬ人となった。
彼女の勝利は譲られたものというのが真相ではあるが、日本の魔法史においては災厄の魔女を倒した英雄として、教科書にも載る偉大な魔法使いである。