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桜花、永訣に沈む。

 1.


 千八百四十七年、信濃の国。


 田毎の月を湛えた棚田が見下ろす善光寺平は、そのほぼ中央に存在する。今宵も姨捨山にかかる月は美しく、朧に輝きながら、静かに母なる地球を見つめていた。


 彼の山の、頂上付近。ほぼ月と同じ視線に、黒い影が一つ立っている。それは小さく、地上から空を見上げても肉眼で確認することは難しいだろう。

 よしんば確認することができたとしても、その影が一体何なのかわかるものはいないだろうし、せいぜい何か黒い点があるような、と思うのが関の山だ。


 支えも何もない大空を、大地として仁王立ちに空を見上げるその影は、黒い総髪を青い髪飾りでまとめた小柄な少女だった。

 その双眸は、射干玉の闇にあってなお、色を失うことなく輝く、麗しの青。それはまるで、大宇宙の片隅で一人たたずむ地球のよう。


 そう。


 少女の名は、光藤子。度重なる悪行により、幕府から正式に処刑の宣告をされてなお、一度も捕まることなく現在まで逃げおおせてきた稀代の大犯罪者にして、大魔道士であった。


 彼女に処刑の沙汰が下って、早三十余年。

 世俗における彼女の言説はもはやほとんどないに等しく、光藤子という人物が存在していたということを知るものも、もはやほとんどいない。

 しかし、それでも彼女という存在を知らぬものは、日本の魔法界にはいない。


 この三十余年の間に、彼女が起こした事件は数え切れない。千人、万人もの人々が犠牲になるような大災害は、都合三回。地方での小さなものも含めるならば、もはや本人すらその数など把握していないだろう。


 そして、いつしか彼女は「災厄の魔女」と呼ばれるようになっていた。天に唾し、大地をはばからぬ所業の数々は、まさにその呼び名が相応しい。

 だが、彼女を最も「魔女」たらしめているものはもう一つ、別にあった。


「……む」


 夜の女王が、うす曇の衣を脱いだ。黄金の身体が露となり、同時に無数の星々が夜空に広がる。それは烈風にでもよったのか、まるで鳥の群れが一斉に飛び立つような、ざわめきすら聞こえるほどだった。


「星が、騒々しい……」


 さやかな月明かりを受けてつぶやく藤子の顔は、いつかの夜と変わらない、幼い童のそれだった。

 顔だけではない。純白の死に装束が覆うその身体も、すべてが小さくそしてみずみずしい若さに溢れている。

 それは、明らかに五十の峠を迎えた人間の姿かたちではなかった。


 歳、を取らない。


 それこそ、世の人々が最も恐れ、そしてうらやんだ藤子の特徴であった。


「…………」


 幼いながらも整うその顔を緊張で強張らせながら、彼女は神経を、感覚を研ぎ澄ます。

 しばらく、風が吹き抜ける音だけがわびしく響いていた。だがその中にあって、魔法使いとしてもはや完成に近い力を持つ彼女の感覚が、そのかすかな異常を感じ取った。


「……いかん」


 舌打ちと共にそう漏らすと、彼女は身を翻して一気に大地に駆け下りる。


「やはり、ここ最近の星辰の乱れは前兆か……! 早めに動いて正解じゃったわ……!」


 重力に従う身体が、寒さを残した春の空気を切り裂く。純白の死に装束が、黒い総髪が千々に乱れて舞った。


「まだ……まだ、旧き支配者を相手取るには力が足りぬ。しかし、やれることはやっておかねば!」


 その言葉を最後に、藤子の小さな身体は夜の大地の中に溶け込んで、消えた。その夜、彼女がどこに向かい、何をしたのかを知るものは、本人以外誰もいない。


 2.


 人里から遠く離れた山の奥。人どころか獣すら滅多に立ち入りそうもない場所に、不釣合いな空間ができていた。

 それは、あらゆるものがすっかり消えうせて更地になっているというもので、山にあってはおおよそありえない光景である。

 その形は、空から見れば寸分狂わぬ正確な真円であることがわかるが、この時代にあってそれをなしえることのできるものは、魔法使い以外には鳥しかいない。


 この丸い空間の中央に、藤子はいた。そこに結跏趺坐し、漆黒の装丁の書物――地球断章を前に、何やら一心不乱に不可思議な文言を呟き続けている。その言葉は日本語ではなく、それどころかこの地球上に存在する言語ですらなかった。


 地球断章のページは、誰の手によるわけでもなく、ひとりでに動き続けている。藤子の詠唱に合わせて、勝手に本が次へ次へとページを繰っているのだ。


 大地に根ざす彼女の下には、巨大な陣。欠けたる五芒星が描かれており、その中央に位置する藤子はまさに燃える柱そのもの、この空間自体が、巨大な旧神の印と化していた。

 それが力となり、陣全体に書き込まれた呪文を強化し、かつまた、それを行使せんとする藤子の真言を保護している。わからないものが見ても異様な光景にしか映らないが、見るものが見れば、彼女が巨大な魔法を使おうとしていることは、明々白々だ。


 だが、彼女ほどの魔法使いをもってしても、その魔法を発動させるのは並大抵のものではない。

 この空間が出現したのはまだ夜も明けてまもない早朝。しかし太陽は既に山すそに触れ始めており、傍目にはわからないが、藤子は内心、少し焦り始めていた。


 と。


 一瞬だけ、詠唱の速度が落ちた。来るべき障害の来訪に、気づいてしまったのだ。しかしそれで魔法を途中で切り上げることはしない。してはならないと、わかっているから。


 直後、藤子の背後に位置する木々を掻き分けて、二つの人影が現れた。


「……いた!」

「姉上!」


 それは、どちらも女性だった。


 一人は細くなった白髪を短く切りそろえた老婆、もう一人は桜の縫い取りも鮮やかな着物に身を包んだ、壮年期も終わりを迎えつつある女性。


 二人は巨大な陣の一歩手前まで歩み寄って、藤子の背中に視線を投げかける。しかし、藤子はそれにかまうことなく、呪文を唱え続けるだけ。


「見つけましたよ、藤子殿……また今回は、何をするつもりにございますか」


 ややかすれた声を張り上げて、老婆が言う。


「姉上、もうやめて! これ以上、悪いことはしないで!」


 目じりに涙を浮かべて、女性が言う。


 しかし、それでも藤子は反応しない。反応する余裕がないのだ。

 心の中では、二人に対して言葉を返している。頼むから二人とも、邪魔をしてくれるな、と。


「奥守殿、もはや何を言っても無駄のようです……我々が、なんとかしなければ!」

「でも……でも竜笛さん、…………。……はい……」


 老婆――竜笛の、年老いてなお鋭い眼光に見据えられて、奥守――桜が小さく頷く。


 そして二人は、同時に手で印を組み、また短く鋭く、魔法の言葉を叫んだ。

 空に響いた魔の力は、刃となって藤子を襲う。しかしそれは彼女に届くことなく、その遥か手前で霧散した。


「!?」

「け、結界!」

「なるほど、光家秘伝の結界術……さすが、その実力は相変わらずですか……」


 竜笛が生唾を飲み込みながら、搾り出すように言う。


「まずは結界を解かないと……姉上のところまで行けないです……!」

「解呪を!」


 陣の中央で、二人が結界を解こうと奮闘する姿をちらりと見て、藤子は小さくかぶりを振った。だが、二人がそれに気づくことは、なかった。

 しばらくして、結界が砕けるかすかな音が響く。しかし、それに続いて結界が発動する鋭い音も響いた。


「えっ!?」

「くっ、多重結界……ひ、ふ、み、よ……な、七つ!?」


 ようやく気づいたかと、またしても内心でつぶやき、藤子は瞳を閉じる。


 彼女は、準備万端整えてから動く性質だった。戦いをするのであれば、勝つにこしたことはない。そのために何が必要なのか、それを見極め淡々とこなすべし。

 それが、藤子の持論であり行動理念でもあった。それは兵法に曰く、戦の行方は始まる前に決しているという言葉を体現しているかのように。


 だから、災厄の魔女と呼ばれ、日本中の魔法使いから命を狙われている自分が、こうして大規模な魔法を行おうとするのを邪魔されるのは、想定の範囲内。

 むしろ、予定の内ですらあった。そんな彼女が、それへの備えをしないはずがないのだ。

 だからこそ、結界を張った。七つも重ねて。それだけあれば、時間は十分に稼げる。少なくとも、これだけ強固で多重な結界を即座に破れるものなど、いないと藤子は自負している。


「りゅ、竜笛さん!」

「諦めてはいけません! 彼女を討ち取らなければ、この国に平和は訪れないのです……!」


 二人が四苦八苦しながら、三つ目の結界に取り掛かった時だ。

 太陽は地平線の向こうに沈みきり、昼と夜が混ざり合った黄昏の空の下で、藤子が一際高く吼えた。


「Xi,Zixxxend Qads!」

「!?」


 刹那、その場に敷かれた巨大な陣から、大空目掛けて一条の光が放たれた。それはそのまま地球が抱く大気を貫き、凍える闇を飛び越えて、どこまでも果てのない空間に走り去っていく。

 それに伴って、切り裂かれた音が周囲を律動させて山が、大地が、これから来るべき異変におののいた。


「お、遅かったか……!」

「姉上……」


 竜笛と桜が、じり、と一歩あとずさる。


「……竜笛。それに、桜」


 それに応えるようにして、ゆらり、と藤子は立ち上がった。地球断章が、それに付き従って手の中に滑り込む。


「遠く江戸よりご苦労じゃったな」


 ぎらりと鋭く光る瞳を二人に向けて、藤子が幽霊のように振り返る。青い視線が、まっすぐに二人の身体を貫いた。


「く……藤子殿、一体何をなさりました! これ以上の蛮行は、許しませぬぞ!」

「くくく……蛮行とは異なことを。わしは世界のために動いておるだけじゃ」

「姉上、姉上! もう、もうおやめください……昔の、優しい姉上に戻ってください!」

「下らぬことを申すな、桜。時間は戻らぬ。低きに従う水が如く、我ら人なる身、ただ変貌を遂げ行くのみよ」

「姉上……」


 絶望した黒い顔を涙で歪ませて、桜が呆然と藤子を見つめる。それを嘲笑うかのように、姉は口端を歪ませた。


「五十の大台に乗って、何を抜かす。歳を食い、図体が大きゅうなっても、白痴は相変わらずじゃのう桜!」


 そしてその言葉に、桜はわっと声をあげて泣き始めた。我慢していたものが溢れたのだろう。

 それをかばうようにして一歩前に出て、竜笛が藤子を睨む。


「わしを止めたくば、止めてみればよい。じゃが……もはや我が魔法は成った! 今さら何をしても手遅れよ!」


 藤子がそう言い切るか言い切らないかの瞬間だった。


 空が、揺れた。


 星々がざわめき、雲が飛び散って黒と橙に溶ける。遠く彼方の宇宙の果てで、無数の小惑星がぶつかり砕けて爆発し、深淵なる混沌の果てに、新たな星図が描かれていく。


「な……、な、一体、これは……!」

「ふははははは、見よ、この黄昏の空を! この世界、あまねくわしの思うがままよ!」

「と……藤子殿……! あなたは、異界の闇に呑まれ、人の心を無くされたらしい! もはやあなたを友人とは思わぬ!」

「思わぬのなら、どうする竜笛? わしの首を取るか? 面白い、この場で返り討ちにしてくれよう!」


 変貌する空の下で、母なる星の力をまとった青い花が、一気呵成に光を放った――。


 3.


 勝敗は、ほぼ一瞬のうちに決した。


 竜笛が放った魔の刃は幾重にも空を刻み、破壊の音を伴って山を激震させた。

 しかしそのすべてを真正面から受け止めて、藤子はその数倍にも達しようかという威力の光弾を、豪雨よろしく竜笛に浴びせかける。攻撃後の隙が残る竜笛には、それをいなすだけの余裕がなかった。


 そもそも、勝ち目のない戦だったのだ。日本一の術士との呼び声高かった藤子の実力は、他の追随を許さない。だからこそ、この数十年間彼女は逃げおおせてきたのだ。それはその場にいる全員わかっていたことなのだ。あまつさえ、その実力は地球断章を得たことで、格段に上がっている。


 しかし、それでも竜笛は逃げるわけにはいかなかった。己が信じていた友の変貌を信じられず、それでもいまだ友として、彼女を止めなければならないと心に決めていたから。


 結果はわかりきっている。それでも、小さな波紋でもいい、藤子の心にかすかな波を起こすことができたならと、悲壮な決意を胸に竜笛は戦った。


 が。


 かつて彼女が仕えていたその時よりも、藤子は更なる高みに立っていた。

 ただ純粋に力を得たというだけではない。努力によって研ぎ澄まされた魔法の力は、もはや神すら思わせる。それは恐怖を感じると共に、畏敬の念すら覚えるほどだった。


「くくく……どうした竜笛、その程度ではわしを止めることはできんぞ」


 いつでも魔法を撃てる体勢を維持したまま、藤子が竜笛に一歩、また一歩と歩み寄る。大地に倒れ伏した竜笛には、その姿を悔しげに見つめる以外には何もできなかった。


「あ、姉上……やめて……もうやめて……!」


 桜が、泣きながら藤子の歩みを止めさせようとする。しかし藤子がそれを意に介す様子は、一切なかった。


「とう、こ、殿……!」

「終わりじゃ」


 竜笛がうめく。だが、藤子は止まらない。その全身から、光り輝く青い力をほとばしらせて、彼女は右手を掲げた。すべてを砕く必殺の力が球体の形を取り、敗者を見下す。

 あまりにも無慈悲なその姿に、桜は自失した顔で見つめることしかできない。竜笛も、覚悟を決めて瞳を閉じた。


「――っ!? いかん!」

「え……?」


 しかし、その鉄槌が振り下ろされることはなかった。


 不意に藤子は空へと振り返ると、破壊の力を込めていた青の式を瞬時に書き換え、それを下がり始めた夜の帳に向かって発射したのだ。

 その直前、空からこの世のものとは思えない、おぞましい音が響いてきた。それと同時に、触れるだけで氷像になるかとも思えるほどの冷気が、一気に落ちてくる。藤子の放った青い光は、それらを穿ちながら闇を染め、風を逆へと押し返す。

 一瞬寒さも音も、弱まったかに見えた。だがすぐにより一層勢力を強めて、空を蹂躙し始めた。


「く……っ、術が甘いか! やはりまだ力が足りぬ……!」


 その様を憎憎しげに見つめて、藤子が歯噛みする。それでもそれは、わずかな間だけ。すぐに凄まじい魔力で全身を満たすと、彼女は大空に向かって飛び上がった。


「させぬぞ、この大地を氷で覆わせるわけにはいかぬ!」


 複雑にして奇奇怪怪、従来の魔の知識を大きく逸脱した式が見る見るうちに組み上がり、膨大な魔力が藤子の手の中に集結する。

 その色は、青。だがただの青ではない。闇の中で輝く地球の色、幽玄にして壮麗な青の中の青だ。


 そんな藤子の頭上で、何かがゆらりと蠢いた。どこか戯画じみたおかしさを持つ、人間の顔に見えなくもない、奇怪な姿。人間で言うなら目に当たるであろう場所で、鮮紅色の炎がたぎっている。それは風に乗りて歩むかのようにゆらめきながら、風前の灯火のごとくちろちろと霞がかっていた。


 顔が、吼える。どこか恨めしそうな、それでいて苦しそうな叫び。その叫びが心を砕く邪悪な音となって世界を駆け巡り、極寒の風がごうごうと吹き荒れた。


「失せろ、白き沈黙の邪神よ! この星に、うぬは必要ないッ!」


 掛け声一閃、藤子が帯びた青い力を発射した。

 それは再び闇を青く染めて空を穿ち、風を、闇を一気に宇宙の彼方へと放逐する。


 星が揺れ乱れ、互いに煌いて消え、闇が光を飲み込んで、光が闇を打ち砕き、銀河と銀河が混ざり合って、星図が書き換わっていく。

 それが進むに連れて、風の中の異形の姿がかすんでいく。まるで別の場所にはじき出されるかのように、この世界から消えていく。


 やがて完全に異形が見えなくなった頃、空は元の姿を取り戻し、一番星が瞬いていた。


「……危ういところじゃったわ」


 肩で息をしながら白い呼気をなびかせて、藤子がつぶやいた。彼女はしばらくそこで空を眺めていたが、やがてふと気づいたかのように後ろへと振り返る。

 そこには、凍りついた桜と竜笛の姿があった。それを認めるや否や、藤子は慌てて二人に駆け寄る。


「桜! 竜笛! いかん……喝!」


 藤子が二人に力を送り込むと、やがて二人の身体に赤みが差し、少しずつ力を取り戻していく。


「……大丈夫か、二人とも? すまぬな、彼奴からお主らを守っている余裕がなかった」


 力を送りながら眉をひそめる藤子の顔を、竜笛と桜は信じられないものを見るようにして見つめている。

 やがて、二人が交互に口を開いた。


「藤子殿……」

「姉上……元に……戻ったんだね……?」


 二人のその言葉に、藤子はしまった、という顔をした。

 それからしばらくばつが悪そうに視線をそらしていたが、やがて苦虫を噛み潰したような顔で、首を振る。


「たわけ」


 青い瞳が、二人の顔を交互に見つめる。


「このわしが、たとい原初とはいえただの道具に、心奪われるとでも思うておったのか。わしは、最初から正気じゃよ」

「……では。なぜ……」


 なんとか力を取り戻した竜笛が、のそりと身体を起こしながら言う。

 だがそれに対して、藤子は口を開こうとはしなかった。ただかぶりを振り、どこか諦めたような、物寂しげな笑顔をみせるだけだ。


「……よかった……」


 その姿を見る桜は、つき物がとれたようにおだやかに、安堵の声を出した。それから満足に動かない身体を無理に動かして、藤子にその身を預ける。


「さ、桜? お主、……まさか」

「……姉上……姉上が……元に、……戻って……」


 その姿は、竜笛とは対照的だった。藤子が力を送り続けているにも関わらず、状態は改善されない。それどころか、その身体はどんどん凍り付いていく。薄い氷がその身体を覆い、命を削っていく。


「桜、お主……そこまで神威にあてられたのか!?」

「…………」


 首筋まで氷が張っていく。完全に真っ白になった顔を薄く笑わせて、桜が藤子の瞳に自身の視線を重ねた。


「あね、うえ……」

「大丈夫じゃ桜、この程度、すぐになんとかなる!」


 藤子が力を迸らせる。だが、いくら彼女が癒しの力を、生きる力を分け与えても、桜の身体にはりついた氷は消えない。

 原因は、たった一つ。彼女の心が、魂が、既に凍り付いてしまっているのだ。永遠の冷却を受けてしまったその魂に、もはや逃れられぬ時が迫る。


「……最期に……あえて、よか、った……」

「……駄目じゃ桜、諦めるな! 生を求めよ、魂を燃やせ! 歩む死に飲み込まれるな!」

「さ、桜殿、藤子殿の仰る通りです、諦めてはいけません!」


 叱咤する二人に、桜は静かに首を振った。その瞳が、藤子に語りかける。

 光の名は、自分が背負うには重すぎたと。生きることに、もう疲れたのだと。


 邪神の黒い神威が、そんな彼女の心を砕いていた。


「……馬鹿者! 死んでどうなる、死んだらそれで終わりじゃろう! 諦めるな、諦めてはいかん桜! 何事にも屈せぬ心を持て! 邪神の勢いに呑まれるな!」


 藤子がまくしたてる。だが、そんな姉の言葉も、今の桜には届かない。

「さよう、なら……。桜、は……あ、ねうえ、の……妹……で、……よか、……、…………」

「待て、待て桜! 行くな、まだ行くな! 桜、桜――!!」


 氷が、ついに桜の全身を飲み込んだ。そのまま彼女は、一つの氷像となって藤子の身体に倒れこむ。

 竜笛が、きつく目を閉じてその現実から目をそらした。藤子は、目の前の桜だったものを、点になった瞳で見つめる。


 しばらく、春風だけが静寂の中にゆっくりと吹いていた。


「……竜笛……」


 その静けさを破って、藤子が震えた声でつぶやいた。


「……は、い……」


 応じる竜笛の声も、震えていた。


「桜を、頼む……。わしの庵の裏山に……桜の木がある……。そこに……丁重に弔ってやってくれ……」

「……わかり、ました……」

「わしは、この国を出よう……。上には、重傷を与えた上で国外に払ったとでも伝えておけ」

「藤子殿……あなたは」


 立ち上がる藤子に、竜笛が追いすがろうとする。だがそれを制して、藤子は背を向けた。


「……これから、天災が訪れよう。彼奴を封じ込めるためとはいえ、無理に星辰を動かしたからの。すべてわしの仕業として処理せい。わしは血も涙もない災厄の魔女……そうしておいてくれたほうが、やりやすい」

「ですが、藤子殿」

「竜笛……お主も一度神威に当てられた身、無理をするでないぞ。身体をいとえよ」

「藤子殿!」


 最後に少しだけ身体をひねって、竜笛にその横顔を見せ、名残惜しそうに桜を撫でると、藤子はふわりと空に浮かび上がった。


「さらばじゃ竜笛、桜。もはや二度と会うこともなかろう」

「藤子殿、お待ちください!」


 青い光の粒子を散らしながら、藤子の身体が夜の闇へと溶けていった。


「藤子殿……あなたはやはり、そういう人なのですね……何ゆえ、まず自分を削ろうとなさるのだ……」


 桜の遺体を抱き締めて、竜笛ははらはらと涙を流す。だが、そのまま哀しみに浸っている余裕など、彼女にはなかった。


 それは、無理に動かされた星辰の反動。黄金の女王が見下ろす山を発端にして、信濃の大地が、闇の力の余韻に震えて裂ける。


 後世、善光寺地震と呼ばれる災害の、始まりである――。

光桜ひかり・さくら

江戸時代末期の魔法使い。千七百九十四年生まれ、千八百四十七年没。

「災厄の魔女」光藤子の妹。標花はその名の通り桜。

千八百六年魔法使いとしての家督を継ぎ、同時に江戸城陰陽番に入る。千八百四十年、陰陽番奥守着任。

千八百四十七年、全国で被害を広げていた姉、藤子の討伐に竜笛を伴い向かうも、討死。

歴史上、姉の藤子に殺されたことになっており、藤子自身もそれを否定しないが真実は異なる。

あらゆる意味で藤子に隠れた存在であり、魔法史においても影は薄い。しかし当時の文献の多くに、活動初期の藤子が身を引いたことがある相手は桜だけであることがわかる記述が残っており、藤子にとっては桜が特別な存在であったことがうかがえる。

実際、藤子がその代名詞とする必殺の魔法は、桜の名前がそのまま使用されている。

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