大輪、ここに開花せり。
1.
千八百四年、江戸。
化政の賑わいを目前に控え、高い生活水準を備えた街。世界でも類を見ない百万都市だが、そんな江戸でも、空を埋め尽くすような巨大建造物は、一つを除いてまだ存在しない。
その唯一の例外は、江戸の街から空を見上げれば、対面することができる。空に向かってそびえるその城こそ、天下の徳川家が君臨する江戸城である。
その深部、男子禁制の空間と世間に知られる大奥を頭上に見上げる小さな館に、その少女はいた。
「奥守殿、お上よりの沙汰にございまする」
雅楽模様も華やかな絵羽模様をまとった女性が、頭を下げる。その先には、物憂げな瞳を所在なさげに上へ向ける少女。少女はそんな瞳はそのままに、首だけを動かして女性へ目を向けた。
「何事ぞ」
「は。先日よりお越しになっていた遠野藩の夕姫様が、このたびお国に帰られることに相成りましてございます。
それに際しまして、御年寄、早池峰様より直々に、姫君の道中守護をせよ、とのお達しにございます」
頭を下げたままそう述べた女性に対して、一段上に座る少女は、終始つまらなさそうにそれを聞いていた。聞き終わった後も特に口を開くこともなく、不機嫌な表情を隠そうともしない。
返事を待ちわびたのだろう、女性がちらりと顔を上げた、その時だ。
「ああぁぁー、もう! 面倒じゃ。すこぶる面倒じゃ! わしは行かぬぞ、行きとうない!」
少女は不意に表情を崩すと、べたりと仰向けに転がり、ばたばたと足を激しく動かした。大仰で身体に合わない寸法の純白の衣が、ばさりばさりと空を切る。
「……と、申されましても」
「行かぬ! 行かぬと決めたら行かぬのじゃ! かような奥州の片田舎になぞ、行きとうない!」
しまいには、泣き声を上げながらその場を転げまわる始末だ。頭を下げていた女性も、これはたまらぬとばかりに一歩進み出る。
「奥守殿、これはお上の決めたことにござりまする! 我ら陰陽番、将軍家に仕える身ではありませぬか!」
「……そうは言うがな、竜笛。どうせこたびの沙汰、早池峰の婆が己のみで決めたことに、相違あるまい?」
ぴしりと言われた少女はまたしても不意に動きを止めると、今度は先程のように暗い瞳を宿した身体をむくりと引き起こした。その様は、直前までの泣きわめく姿とはまるで正反対だ。
「……わたくしからは、なんとも」
「いや、相違ない。あの婆、同郷の夕をいたく気に入っておった。なればこそ、分不相応にも獣道しか知らぬような、田舎の姫を奥の奥まで招きいれたのじゃろうて。
あまつさえ、このわしに向かって守れ? まったくふざけた話じゃ、身の程を知れというものよ」
「……奥守殿、いくらなんでもそれは暴言にございましょう。早池峰様も夕姫様も、お怒りになられますぞ。第一、夕姫は江戸育ちにございますれば」
「そんなことはどうでもよい。向こうから近づかなくなれば儲けものじゃ」
けらけらと笑う少女に、竜笛は渋面を浮かべる。傍若無人なこの振る舞いには、彼女でなくとも誰もがそうするだろう。
「……して」
「え、はっ、はい?」
またしても少女は、不意に笑うのをやめて、鋭いまなざしを竜笛に向けた。突然のことに思わず顔を上げた竜笛は、そのまなざしを正面から受け止めることになる。
いや、受け止められなかった。
彼女たちがその存在すら知らぬはずの、深宇宙の闇を濃く塗り固めたような、空虚な黒い瞳。それでいて、彼女たちがその存在すら信じぬ、常世の浄土を純粋に凝縮したような、豊潤な黒い瞳。
それを見るのと同時に、竜笛は瞬く間に飲み込まれていた。
「して、竜笛よ。夕の出立はいつじゃ」
「……は、はっ!」
嗜めるように言われて、ようやく竜笛は立ち直った。そのまま再度、深々と頭を下げる。
「み、三日後、朝日と共に発たれる手はずとなっております!」
「左様か」
竜笛の言葉を受けて、少女が立ち上がった。巫女装束を髣髴とさせる服が、衣擦れと共に大きく揺れる。
上から下まで白一色で固められたそのいでたちは、左前に整えられていた。それがめでたい婚前の衣装などではなく、別れ際の死に装束であることは疑う余地もない。
「……奥守殿」
「出立は五日後にせよと、早池峰に伝えい。それが受け入れられぬのなら、腰抜けの田舎侍のみで帰れ、ともな」
「は……ははっ!」
これ以上下げられぬのは明白だったが、それでも竜笛はなおも畳に額をこすりつけるようにして、頭を下げ続けた。
いかに人を馬鹿にしようとも。いかに無理難題を押し付けようと。いかに気まぐれに振舞われようと。
それでもなお、竜笛にとってこの白装束の少女は、頭を下げるに値するのだった。何よりも、大きすぎる力のための苦悩を、傍で見続けてきたが故に。
「供はお主一人だけでよい」
「は、喜んでお供いたしまする」
「せっかくじゃ。わしを排斥せんとする老害どもには、鬼がおらぬ間の洗濯をさせてやろうかのう」
くくく、と、その小さな身体に似つかわしくない邪悪な笑みを湛えて、少女は一つ二つ頷いた。それに合わせて、この時代では珍しい形に纏められた彼女の後ろ髪が、ふわりと揺れる。それはまるで、馬が尾を遊ばせている様のようだ。
それは、天才と呼ばれながらも後に災厄の魔女と謗られ、世界全土を敵に回すことになる最強の魔法使い、光藤子十一歳の秋のことであった。
2.
江戸城陰陽番とは、史書にその名を残さぬ歴史の裏舞台に立つ役職である。
所属するものたちは例外なく、人にあらざる不可思議な力を持ち、江戸城を呪いや怨念などから守る任を負っていた。彼らは陰陽師と呼ばれ、人々からは恐れられ、あるいは敬われてきた。
その中にあって、光藤子という人物は極めて異例の存在として魔法史に記されている。
彼女は、わずか六歳という若さで陰陽番の頭、奥守となった。
元々光家は天皇家に端を発し、戦乱の世にあっては大権現家康に従い、その天下取りに功績のあった由緒正しい陰陽師の一族である。
その歴史の中にあって彼女は、誰よりも強大な力を秘めていた。異例とも言える年少者の抜擢は、その力を誰もが認めていたからに他ならない。
力だけではない。その歳にまるで似つかわしくない落ち着きと、古今あらゆる知識を即座に修めた彼女は、おおよそ子供と呼ぶには相応しくなかった。人々はそんな彼女を、時に安倍晴明の生まれ変わり、日ノ本の麒麟児と呼んだ。
しかしその有り余る力は、やがて彼女の人格形勢に強い影響を与えていた。
「奥守殿、のんきに菓子を食べている場合ではありませぬ! 我らは夕姫の守護、かような暇はありませぬぞ!」
大名行列をつまらなさそうに眺めながら団子を頬張る藤子に対して、竜笛が声を上げる。それから彼女は、人目を忍ぶ立場を思い出したのか、周りを気にしながら藤子を見やった。
「良いではないか……この腐りきった太平の世の中、わざわざ大事を起こすような莫迦はおるまいて」
ごくし、と団子を飲み込み藤子が笑う。
戦もなく、諸外国からの圧力もまだほとんどなかったこの時代を、「腐りきった」と表現できる人間は、なかなかいないだろう。
けれども、役人の腐敗や貧富の格差の拡大など、社会的な問題を多く抱えていることは紛れもない事実であり、竜笛はそれを真っ向から否定することができなかった。
「しかし、任を疎かにすることは正しき道にもとりますぞ!」
「正しき道、のう……それは一体誰が正しいと定めたのじゃ?」
団子を食べ終えて、藤子が串で竜笛を指す。その問いに、竜笛は口をつぐんだ。
「正しいことなど、この世には何一つない。正しさなどという言葉ほど、曖昧模糊としたものもない。
究極、そんなものは戦をするための口実、他者を迫害する口実に過ぎぬよ」
「…………」
「わしは己の正しさを追い求める身なれば。お上がどうの、大名がどうのという些末な事にかかずらうつもりはない」
「奥守殿……」
「さて、わしらもそろそろ参ろうか。店主、金じゃ。釣りはいらぬ」
茶をすすって小判を店の奥に放り投げると、藤子が立ち上がった。
その態度は横柄で、店主の男は土間に転がった小判を拾いに、慌てて店の奥からまろび出てくる。
あまりにも他を凌駕する圧倒的な力は、藤子を、全てを見下す不遜な少女として育て上げた。
将軍家に対する忠誠など、欠片もない。自らの信じる道のみを是とし、己の思う道と異なるものであれば、たとえ将軍直々の言葉であろうと、一切を拒否した。
だがいくら彼女が出る杭になろうと、周りには彼女を押し戻すだけの力を持つものは一人もいなかった。
陰陽師……魔法使いにとっては、実力こそが全て。だからこそ、余計に彼女は止まることなく突き進んできた。悪循環そのものである。
結果、今の陰陽番は藤子に従うことを良しとしないものの集まりとなってしまった。彼女らはみな、大奥や老中といった世俗勢力と結びつき、何かあれば藤子を引きずり下ろそうと躍起になっている。
「……行列も行ったな。では、次の宿場まで先回りと参ろう」
「……奥守殿」
「ん?」
伸びをしながら歩き出そうとしたところを呼び止められて、藤子は竜笛に振り返った。
竜笛は、まだ控えたままで藤子を見上げていた。その顔には、不安や怒り、悲しみといった様々な感情が同居する、複雑な表情を浮かべている。
その竜笛が、言う。
「……何故、そこまで仰られるのですか。周囲からいかように見られているか、知らぬわけでもありますまいに……。
……竜笛は、ただ不安にございます。心配なのでございます。あなたがいつの日か、不逞の輩に殺されてしまわないかと……」
その言葉に、藤子は少し面食らった。かすかな傷もない碁石のような瞳が、竜笛の顔を見つめている。そのまましばらく、二人は見つめ合っていた。
竜笛は、数多いる陰陽番の人間で唯一、藤子に忠誠を尽くす存在だった。周りを顧みることなく、傍若無人にふるまって見せる藤子を時にはいさめ、時にはその心中を慮り、他者との折衝に心を砕いた。
どうして彼女がそうまでするのか、何が彼女をそうまでさせるのか、藤子ははっきりとは把握していない。
けれども、藤子の本性を知りながらもそれを頭ごなしに否定しない彼女の存在は、藤子にとって大きいものであることは否定できぬ事実である。
「……無用な心配じゃ」
しかしそれでも、そんな竜笛に全面的に身を預けられるほど、藤子はまだ達観できていない。
いかに天才と呼ばれようと、いかに圧倒的な実力があろうと、彼女は所詮子供であり、周りへの強い反発心を抱いているのだから。
一方的に会話をそこで切った藤子は、そのまま光の粒子を纏ってふわりと空に浮かび上がる。
「……置いてゆくぞ、竜笛」
「あ……お待ちください!」
空に駆け上がった藤子を追いかけて、竜笛も慌てて風を受けて飛翔する。それを見た茶屋の店主が、腰を抜かしてしりもちを着いた。
3.
夜。
夕姫の一行に先んじて旅籠にたどり着いた藤子たちは、近場にあると言われた温泉を楽しんでいた。川辺にできたそれは天然の岩風呂であり、せせらぎと共に漂う白い湯気の中に、月が朧に浮かんでいる。
「良い湯ですね」
「うむ、悪くない」
自然そのものの湯船で、生まれたままの姿で向かい合う二人は、対照的だった。
髷こそ解いてはいるが、濡れないように髪をまとめ上げている竜笛に対して、藤子は完全に髪を解き、腰まではあるだろうそれを湯船に浮かべてしまっている。
そして普段、衣服を纏うに際して隠れてはいるが、竜笛の体つきは豊満であり、標準的な女性よりも大振りな乳房は、恐らく男から好奇の視線を集めるだろう。
しかし藤子はまだ齢十一、その身体に明確なふくらみはなく、子供の体系と言ってなんら差し支えない。
互いのそんな身体を見て、思うところがあったのだろう。竜笛がふと、問いかけた。
「奥守殿は、おいくつになられましたか?」
「ん? 十三じゃ。それがどうかしたか?」
数え年。
「いえ……まだお若いな、と思いまして。もはや延びる余地のないわたくしめには、羨ましゅうございます」
「何をたわけたことを」
竜笛の言葉に、藤子は笑った。普段彼女がしているような、黒い笑い方ではない。それは、その年齢の少女らしい、屈託のない笑みだった。
「術者の世界に、歳は関係ないぞ。常に上を向き修行を重ねておれば、術の力は磨かれ続けるのじゃ」
「しかし奥守殿は、日ごろからお歳を召された方々を忌避していらっしゃいましょう? いずれわたくしも、遠ざけられる日が来るのではないかと思うと……」
「莫迦者、あやつらは単純に修行不足だからじゃ。向上心が足りておらぬ、根性なしどもじゃ。お主は違う、お主を邪険になどするものか」
言いながら、藤子は竜笛の身体にしなだれかかる。その仕草は、母親に甘える子供そのものだ。
「いえ、わたくしは」
だが静かに首を振る竜笛に、藤子は首を傾げる。
「下手にへりくだる必要はないぞ、竜笛。お主は誰よりも研鑽を積んでおる。その実力は、今の陰陽番ではもっとも高いはずじゃ。それはわしが認める、わしが保証する」
「一番は、あなた様にございましょう」
「それはその通りじゃがの」
間髪いれずに応えた藤子に、竜笛はくすりと笑う。自信たっぷりな藤子の言葉が、いかにも彼女らしかった。
「しかし、お主がわしに次ぐ実力者であることは間違いない。なればこそ、わしはこうしてお主を信じ、裸の付き合いを許しておる」
「もったいのうございます」
「顔が赤いぞ、竜笛。のぼせたか?」
「ち、違います。もう、そうしたところはとても十三の娘とは思えませんよ、奥守殿!」
「くく、悪かったの、耳年増で」
「そうは言うておりませぬ」
「いいや言うておった。顔に書いてある。この顔に書いてある」
「きゃ、奥守殿、戯れはおやめくださいませ」
「やめぬ、やめぬ」
ぐりぐりと竜笛の頬をいじりまわして、藤子が笑う。しかし竜笛は抵抗しない。それが彼女なりの不器用な愛情表現であると、わかっているからだ。
だからこそ、彼女が不意に動きをとめたとき、竜笛は思わず目を丸くした。しかし、すぐにその理由を察して身体を起こす。
「竜笛」
「はい、わたくしも感じました」
「うむ、妖気じゃ。それもかなり近い」
「こんなところに物の怪とは、面妖な」
先程までとは打って変わって鋭い表情を浮かべ、藤子が湯船から上がる。火照って赤みを増した幼い肢体が、薄い月明かりの下、露となる。
「……川の対岸じゃな。あの松林の中と見た」
「いかがいたしますか、奥守殿?」
やはり湯船から上がりながら、竜笛は手ぬぐいを藤子に手渡す。
「行く」
「……でしょうね」
受け取った手ぬぐいで簡単に身体を拭くと、藤子は無造作に髪を後ろでまとめる。それからやはり竜笛から浴衣を受け取ると、手早くまとって彼女に得意げな笑みを向けた。
「たまには身体を動かさねば、なまってしまうからの」
「だと思いました。……なれば、わたくしめもお供いたしましょう」
いつの間にか、竜笛も浴衣を身に着けていた。藤子と同じ模様の浴衣だが、彼女が着るとどうにも小さく見えてしまう。寸法は、こちらのほうが大きいはずなのだが。
「供を許す。行くぞ竜笛!」
「は!」
それと同時に、二人は地面を蹴って川に突っ込んだ。
普通なら当然、そのまま川の中に沈んでいってしまうはずだ。しかし二人はというと、水に入っていくことなく、逆に確かな足場の上を行くようにして、川面を真っ直ぐに横切っていく。
そうして川から上がると、ためらうこともなくそのまま松林へと突っ込んだ。
これも普通ならば、眼前に迫る無数の木々に少しは走る速度を落とすものであるが、こうした超人的な行動は、やはり彼女たちが陰陽師……魔法使いであるからに他ならない。
「! 奥守殿、あれは!?」
そんな二人の前に、非現実的な魔法の輝きが現れた。その向こうには、二つの人影。
片方は地面に横たわり、もう片方はそれを見下している。藤子には、それが相手を介抱しようとしているようには見えなかった。
その様子を見とめるや否や、彼女は前に向かって右手を突き出した。白い光が掌からあふれ、それは八卦図を描いてまっすぐ二つの影を捉えた。
「そこまでじゃ!」
そして藤子は、その二つの存在の間に割り込む。
彼女が横たわるほうをかばうようにして対面したのは、人ではなかった。
なるほど、確かに遠目には人のような輪郭に見える。しかし近づいてみれば、その身体は表面が泡立ち、得体の知れない気体がぼこぼこと漏れ出ている。脚部は膝が前ではなく後ろに曲がる逆関節で、人間で言う顔に当たるだろう場所には、何もない。
「……随分と奇怪なのっぺらぼうですね」
「まったくじゃ。……そちらの御仁は無事か?」
「わかりません。……大丈夫ですか?」
一方で、藤子が背後にかばうのは、紛れもなく人であった。
しかし、高い鼻に色素の薄い肌、そして何より金髪と碧眼は、日本人のそれとは明らかに異なる。辛うじて、男であることは間違いないだろう。
そして実際、竜笛に尋ねられた彼は、二人が耳にしたことのない言葉を発したのだった。
『あ……貴女たちは……』
「えっ? な、なんですって?」
「竜笛、ひとまずそやつを任せた!」
「あっ、はい!」
竜笛が返事をするのと、藤子が化け物から攻撃を受けるのは、同時だった。おぞましい見た目からは想像もできない、素早い動きだった。そして、強い。あまりの威力に、ただ殴られただけにも関わらず、浴衣の袖が破れて飛び散った。
「奥守殿!」
「構わぬ。この程度、大した怪我ではない!」
そして、にも関わらず、藤子自身に目立った外傷はなかった。打撃を受けた様子すらない。直前に、魔法により防御を行ったのだろう。
そのまま破れた袖を引きちぎりながら、彼女は一声高く吼えた。夜の松林に、魔力を帯びた真言が響き渡る。
刹那、その場を取り巻くように描かれていた八卦図が、一気に輝きを増した。激しい光に、化け物がたまらず距離を取る。
「破っ!」
それを逃すまいと、続けて藤子が右手を突き出す。その小さな掌から、今度は光り輝く魔法の砲弾が飛び出した。その数、七。いずれも迷うことなく異形を追い、そしてその身を打ち据える。まるで、光そのものが意思を持っているかのように。
「や、やりましたか?」
藤子の攻撃が終わってから、異形が飛び出してくる気配がなかった。竜笛が、周囲に警戒の目を向けながら問いかける。
「……いや、妖気は残っておる。恐らく機をうかがっておるのじゃろう。それより、そちらの御仁は?」
「あ、はい……一応、怪我は治療したのですが……」
「……むう、これは」
地面に横たわる男の身体は、その場に居合わせた藤子ら二人よりも格段に大きい。しかし、その大きな身体は今、二人にはとてもしぼんで感じられた。
全身を彩るのは、真っ黒に汚れきった血だ。だが恐らく、それは返り血ではなく、彼自身の血なのだろう。
そして何より目を引くのは、その身体に刻み込まれた不可思議な紋様。妖しく輝くそれは、まるで拍動のようにゆるやかに、はっきりと、明滅していた。
その紋様が明滅するのにしたがって、男の身体に少しずつ、しかし確実に傷が生まれ、血が噴出す。わずかの間に、周囲の土が染まってしまうほどに。
「……何かの呪いじゃな。これではどうにもならぬ」
「呪いなら、解く方法があるはずですが……!」
「このような呪いの式は見たことがない。恐らく、魔界の術式が用いられているのじゃろう……解呪するには時間が足りぬ」
「く……っ、このまま黙って指をくわえてみているなど……!」
竜笛が悔しそうに歯噛みした。藤子も、珍しく深刻な表情を浮かべている。
その時、男が震える手を伸ばした。藁をも掴もうとする溺者は、このように手を出すかもしれない。藤子はその手を握り、通じぬであろうと確信しながらも、男に声をかける。
「安心せい、化け物は追い払った。いかがした? 何が言いたい?」
『私は……も、もう……駄目だ……。ど、どうか、これを……受け、継いで……』
やはりそれは、彼女たちには理解できない異国の言語だった。わかるものが聞けば、それがロシア語だとわかっただろうが。
そんな言葉と共に、男は一つ、紙切れを差し出した。
だから藤子は、それを手にした。そこに何かが、互いに何らかの気持ちの整理をつけさせるような、何かがあると無意識のうちに思いながら。渡されたものを思わず受け取ってしまった、本当にただそれだけだった。
そして。
「ぬお……っ!?」
「な、なんです、この光は!?」
藤子が紙切れを手にした刹那。紙切れから、瞳を焼き尽くすほどまばゆい、蒼々たる光が一斉にあふれ出た。やがてそれだけに留まらず、その紙切れが、一気にはじけ飛ぶ。
と同時に、木立から先程の異形が飛び出してきた。まるで、何かをやめさせようとするかのように、叫びながら。しかしそれよりも早く魔法の波動が迸り、異形の身体を弾き飛ばす。
『……これ、は……化け物なんかに……渡してはいけない……どう、か、……どうか、守って、くだ……さい……』
今や、無数の紙が空を舞っていた。紙と紙がぶつかる音を、本を繰るような音を周囲に響かせながら、それは一点、藤子の掌目掛けて次々と集まっていく。
それはやがて、一冊の巨大で分厚い本の姿を取り、そして。
『こ、この……「地球断章」を……』
激しい響きの中で、藤子は確かに、男のそのつぶやきを耳にした。
直後、彼女は巨大な丸い蒼に、飲み込まれる。そこに何らかの力が働いたのだろう、再度迫ってきていた異形の身体が、拒まれたかのように、はね飛んだ。
一方、球体の表面にはこの世のものともあの世のものともつかぬ様々な文字が、表面に現れては消え、消えては浮かび、浮かんではまた沈みが繰り返されているだけで、傷がついた様子は見られない。
「お、奥守殿! 藤子殿ォォーッ!!」
あっという間の出来事に、竜笛は悲壮な表情を隠そうともせず、目の前にたたずむ蒼玉に手を伸ばす。
しかしその手が、呼んだものに届くことはなく、代わりに返ってくるのは、赤ん坊の産声にも似た、音楽とも取れる複数の音階のみ。
それが一体どれほど続いたのか、当事者たちにも定かではない。まるで一瞬のようで、しかし永遠のようでもあった時間が過ぎ去った時、夜の女王を頭上に戴いて、藤子が立っていた。確かに大地を踏みしめて、巨大な漆黒の本を手にして。
先程とは打って変わり、周囲には静謐な空気が満ちていた。儀式が行われた直後の聖堂は、こうした雰囲気になるかもしれない。
だが、耳が痛くなるほどの静寂は、永遠には続かない。
闇を切り裂いて、異形が勢いよく藤子に飛びかかる。しかし、異形の腕が彼女に届くことは、なかった。
竜笛が、あっと言う間もなかった。一瞬、まさに一つ瞬くその間の、出来事。
藤子が何かをつぶやくと同時に、化け物の身体がふくらみ、たわんで、破裂した。そして、何も存在していなかったかのごとく、虚空に掻き消えていく。
「……と、藤子、殿……?」
何が起きたのか、完全には理解できていない竜笛が、へたり込みながら目の前の藤子を見上げる。
「……ああ……」
ぜいぜいと荒い息をつきながら、彼女は、藤子は、静かに笑った。それは今までと変わらぬ黒い笑みだが、明らかに疲労の色が見て取れる。
「……理解した。これを手にして、すべて理解した……」
「ど、どういうこと……って、きゃああ!? こ、これは一体!?」
竜笛が一歩飛びのいた。そこには、先程までそこにいたはずの男が、今にも風化しそうな白骨と化していた。
「この男は」
うろたえる竜笛の背をぽんと叩いて、藤子が呼吸を整える。
「初めからこうなる定めだったのじゃ……」
「……と、と言いますと……?」
「魔法……術を行使するに、我ら術士は法具を用いる……。中でも、神をも宿すものは神器と呼ばれるが……こやつは、望まずしてそれを手にしてしまったのじゃ……」
「じ、神器……無双の力と引き換えに、身も心も燃やし尽くす、あの……」
「うむ。……神器に生命力をすべて吸い尽くされたのじゃよ……」
白骨の元にしゃがみこんで、藤子はその中の一つを手に取った。がさりとかすかな音を立てて、それは風の中に消えていった。
「……分不相応な力を持ったせいで、あの物の怪を初め、あらゆる敵に狙われておったようじゃ……。まったく、不幸なことじゃが……」
「……し、しかしその神器は? まさか、……!? お、奥守殿、その目は一体いかがなさいました!?」
「目? 目が、いかがした?」
首を傾げながら、竜笛を見上げる藤子。
その瞳は、かつて竜笛が何度も飲み込まれ、その一部となるような快感を味わった、あの深宇宙の黒色ではなかった。
そこにあったのは、二つの青い瞳。それは、今はまだ彼女たちが知らぬ、暗黒の空間にぽつりと浮かぶ、母なる青い星のように穏やかで暖かい、幽玄なる青だった。
「そうか……目の色が」
「い、一体何が、起きたと言うのです?」
「……受け継いだ」
「え……?」
「彼奴が持ち、すべての不幸を招いた彼奴の神器を、受け継いだ」
言いながら、藤子は抱えていた、分厚く巨大な本を竜笛に見せる。
その装丁は、磨き上げられた黒曜石よりも黒く、また漆黒よりも玄い物体でなされていた。光沢をも放つ不可思議な装丁に描かれているのは、藤子の新しい瞳とまったく同じ姿の、青い球体。その傍らには、黄金の小さな珠が付き従っている。
「こうして持っているだけで、身体がどんどん重くなる……さすが神器じゃ、わしの想像を遥かに超えておるよ……」
「え、……ええええぇぇぇ!?」
夜のしじまを切り裂いて、竜笛の声がとどろいた。
今この時、藤子が受け継いだ黒い本。これこそ、後に彼女の代名詞となる原初の魔導具、「地球断章」そのものであった――。
◆地球断章
その序文によれば、成立はおよそ四十億年前、イスの偉大なる種族による。
特殊な鉱石のようなもので装丁されており、表紙には書名はなく、代わりに地球と月が描かれている。
本の形態を取っているがその情報量は無限大であり、所有者が得たいと思う項目が、開いた箇所に出現する魔導書。
その中身は、地球断章成立以降地球という天体が経験したことすべてが記録されており、時代が下ってもなお、現在進行形で新しい情報が登録されている。
成立過程から、ナコト写本の原本と起源を同じくするとされ、現代に至るまで、人類、人外あらゆる言語で写本や断片が書き取られてきた。
重版はされておらず、初版も一桁ほどしかされていないようで、現存する原本は一冊のみである。
神を宿す原初の魔導具でもあり、所有者は無双の力と、地球の加護を得る。
現在は災厄の魔女、光藤子が所有するが、彼女以前の所有者についての記録は世界のどこにもなく、今に至るまで一体どれだけの存在が、どれくらいの期間所有したかは謎に包まれている。