二花、母に寄りて咲き誇れり。
1.
千九百二十五年、三月二十三日南太平洋上、南緯四十七度九分、西経百二十六度四十三分。
滅多に船も通らない絶海のはずのその場所に、それはあった。
あらゆる幾何学を否定した奇怪な外観に支配された、旧き支配者の居城ルルイエ。海底地震からおよそ一ヶ月、もはや完全に浮上を終え、その全容が明らかになっている。
その周辺に、ルルイエを守る形で巨大な化け物が二匹いた。化け物というには、いささか人間に近い形態を持ってはいるが、その表面は鱗で覆われ、忌まわしい深海の腐臭を漂わせている。
父なるダゴン、母なるハイドラ。深きものどもの頂点にして、死せる夢に沈んでいたクトゥルフに仕える神官だ。
そして更に、それらがルルイエを守る形で立ちはだかるのと同じように、それらの周囲には、無数の深きものどもを始めとする、邪神に魂を売り渡した眷属たちがひしめいている。
その光景を遠巻きに眺めながら、その女性は険しい表情を崩すことなく腕を組んだ。
きな臭い気配に満ちたこの場所にそぐわないほど、まばゆく輝く太陽に照らされた彼女の髪は、美しい金。それを戴く瞳は赤々と燃え盛り、炎となって人類の行くべき道を照らしている。
彼女の名は、ローザ・テューダー。若くして最高の花の呼び声高く、世界一の魔法使いと誰もが認める実力者だ。
打倒クトゥルフを掲げ、ローザを中心にまとまったはずの魔法使いたちだったが、しかし今、この魔法戦艦ノーデンスで彼女と肩を並べている人間はほんの数人でしかなかった。
戦闘員として従軍したものすべてを計算に加えれば数百人にまで増えるが、それでもその数は、当初予定していた人数の数百分の一でしかない。
面子の選出に手間取ったということもあるが、それ以上に、イギリスや日本、アメリカといった、大規模、もしくは精鋭の動員を計画していた各国に、先制攻撃を仕掛けられたことが大きく響いている。
およそ一週間の防衛戦で、戦死者もしくは負傷者は相当数に昇り、まさに出鼻をくじかれた形だった。
しかしこうなることは、想定の範囲内ではあった。ルルイエが浮上し、クトゥルフも目覚めてしまっているのだから。
そう、クトゥルフの目覚めが全世界に与える影響は、あまりにも大きすぎた。たとえそれが、わずか一ヶ月であっても。
その間、地球全土に結界を張ると言って飛び出した、宿敵にして親友からの音沙汰はなかった。
彼女は彼女なりに苦労しているのだろうと、ローザは解釈していたが、それでも遅れたとはいえルルイエ出陣まで一切連絡がないのは、少々気になるところだ。
「クリムゾンオールドローズ様! どうやら連中、こちらに気付いた模様です!」
そんな中、軍服に身を包んだ男がやってきて報告した。言われた通り、海の向こうからやってくる大きな波しぶきが見て取れる。
それに頷いて同意すると、ローザは無言のまま、右手を高く掲げる。すると、その手先から炎の花弁の薔薇が咲き誇り、大空へと舞いあがった。テューダーローズである。
その瞬間、ノーデンス内が一気に喧騒に満たされた。遂に来た、戦いの時。各国の魔法使いたちが、一斉に甲板へと集まり、ローザら七曜の前に整列する。
居並ぶ魔法使い立ちの面持ちをざっと眺めると、その顔立ちは実に多種多様だ。まさに、世界中から選りすぐられた面子であるということがわかる光景といえる。
「……遂に来ました」
彼らを前に、ローザは静かに口を開く。後ろから迫る波しぶきに対して、甲板上は水を打ったような静けさに満ちている。その中で、彼女の声が凛と響き渡った。
「目指す敵はただ一つ……と、言いたいところですが、そう簡単にはいかせてもらえないようです。しかしこれは想定通り……」
言いながら、ローザは魔法使いたちに背を向ける。同時に、剣の魔導具プライムローズを瞬時に抜き放つと、迫っていた波に向けて、横一文字に振り払う。
すると、その軌跡から一気に閃光がほとばしり、巨大な刃となって波を切り裂いた。
それによって波が弾け、海水が舞いあがる中、多数の深きものどもが、文字通り海の藻屑となって波間に沈んでいく。
「……クトゥルフはまだ出てくる気配がありませんが、ダゴン、ハイドラを討てばやがて顔を出すでしょう。それまで……どうか、皆さんの力をお貸し下さい」
きびすを返し、再度魔法使いたちに向かい合うと、ローザは手にした白銀の切っ先を、大空目掛けて振りかざした。
「いざ! 母なる星、地球のために!」
その声を受けて、それまで静かだった甲板から、一斉に鬨の声が上がった。それは、誰にとっても、負けられない戦いであることの証左とも言える。
母なる星、地球のために。この言葉を、まさか自分が言うことになろうとは。ローザはそう思わずにはいられなかった。
普段ならばそれを言うべき人物はまだ、ここには来ない。いつ来るのかも、不明だ。
それでもなおローザは、一抹の不安を覚えながらもプライムローズを閃かせる。
そして先陣を切って空へと舞い上がった。それを追って、各国の魔法使いたちが次々に飛び出していく。太平洋の海は、こうして戦場と化した――。
2.
激闘、数時間。戦いは、人類優勢で進んでいた。
特にローザを始めとする七曜たちの活躍はめざましく、向かうところ敵なしの状態であった。
しかし、これで済むとは誰も思っていない。未だクトゥルフは現れず、ダゴンとハイドラすらろくに動きを見せていないのだ。相手側が本気を出していないのは、明白だった。
そしてそれは、ほどなくして証明されることになる。
いあ、の掛け声と、ふんぐるいで始まる狂った祝詞に応える形で、ルルイエの頂上に邪悪な物質が現れ始めた。何が顕現するかは、もはや考えるまでもない。
クトゥルフ――この地球に巣食った、旧支配者の一柱。
やがて、何も存在していなかった空間で、零が一になった。その瞬間、周囲一帯に、黒い風が猛烈な勢いで吹き荒れる。
その邪悪な神威を受けて、まずダゴン、ハイドラら眷属が歓喜の声を上げる。それに少し遅れて、魔法使いたちが悲鳴を上げた。
その喧騒のさなか、ローザは彼方に見えるルルイエに、巨大な異形が降り立ったのを、確かに見とめた。
蛸に見えなくもない頭らしき部分は、烏賊を想起させる触手に覆われ、手足には鋼鉄をも切り裂きそうな鋭い鉤爪。全身はぬらぬらと気味悪い粘液で不気味にてかり、その背中からはこうもりのものに似た、翼が生えている。
その姿は、ローザが持つ魔導具、イヴの書に記されたものと一致し、またかつて、藤子から借り受けた地球の記憶に記されていたものとも、一致していた。
遂に来てしまった。想像を遥かに超える強大さ、邪悪さに、ローザは思わず叫ぶ。
「皆さん、来ます! クトゥルフと戦える自信のない方は、すぐノーデンスへ退却してください! 誰もそれを蔑んだりしません……命を大事になさってください!」
だが、それはほとんど意味を成さなかった。大半は、逃げるまでもなく昏い神威に当てられて身動きが取れなくなり、そこを眷属どもに突かれて海の中へ消えていく。なんとかノーデンスに向かって逃げることができたものは、わずかだった。
「ローザ殿!」
「クリムゾンオールドローズ!」
いまだ戦う意志に満ちた七曜たちが、ローザの元に集結する。いずれも比類なき力を持ち、神体召喚が可能な実力者ばかりだ。
彼らに頷いて見せて、ローザはその手に一冊の本を取る。それは、一抱えもある巨大なもので、漆黒よりも玄い装丁は、見る角度によって様々な色に輝いている。そしてその中央には、薔薇によく似た不思議な紋章。
これこそ、テューダー家が代々受け継いできた、現世人類最古の魔導具、イヴの書だ。その力は他の追随を許さず、また、テューダー以外のものに扱われることを、決して許さない。
何より、歴代のクリムゾンオールドローズたちが脈々と受け継ぎ、加筆を続けてきたこの書が宿す力は、文字通り比類なき最強の魔導具と言っても、誰も否定しないだろう。
それを見て、残る七曜全員が各々魔導具を手に取った。いずれも、各国に謂れのある強大な力を持つものであり、例外なく神を宿している。
そう、神。邪神に挑めるのは、神に限られる。同じ土俵に立つには、人の身を捨てなければならないのだ。降臨すべきは、魔法使い最大の魔法、神体だ。
全員が魔導具を構え、神を降ろそうとした刹那。その場にいた全員が、クトゥルフにも似た、巨大な力の接近を感じて彼方の大空へ目を向けた。
それを感じたのはクトゥルフたちも同じだったようで、それらもまた、ローザたちと同じ方向へ向き直っている。
「な、なんだこれは!?」
「まさか、他にも旧支配者が!?」
色めき立つ仲間を尻目に、ローザは安堵の表情を浮かべていた。なぜなら、その力はとても親しみのあるもので、その力ほど、安心して背中を預けられるものなどなかったからだ。
やがて水平線の彼方から、青い光をまとった少女が現れた。薔薇色の和装からのぞく脚はみずみずしく、また後ろでまとめられた艶やかな黒髪は、どこまでも美しい。
そして、一際目を引く二色の瞳。宇宙の片隅で生命を育む星と同じ、青い左目。人々の行く先を照らし、共に咲く炎と同じ、赤い右目。
少女の名は、光藤子。ローザと共に並び立つもう一つの花にして、もう一人の最強である。
彼女の姿を見とめたダゴンが、それまでとは打って変わって、猛烈な勢いで突っ込んできた。その様子は、何かを慌てて阻止しようとする様とよく似ている。
だが、それと同時にローザも飛び出していた。イヴの書の表紙が陽光のきらめきを反射させて周囲に振りまき、彼女は火炎の矛をダゴン目掛けて投げつける。
轟音と共にきのこ雲が巻き起こった。すさまじい衝撃が、見えない威力となって海面をたたきつける。その彼方に、ダゴンが落水した。
「見事な援護じゃ、ローザ!」
藤子が、嬉しそうに声を張り上げた。そして、彼女はさらに言葉を続ける。
「完成じゃ――万仙陣、発動!」
掛け声一閃、藤子が青い光をほとばしらせた。その瞬間、大海原に巨大な図形が浮かび上がる。
いや、それは海だけではなかった。もし今、宇宙から地球を見ることができるものがいたのなら、その人物は、地球という天体が一つの魔法陣に包まれた光景を見ることができるはずだ。
そう、地球をすべて結界にするという当初の宣言通り、藤子は己の魔法を地球を対象に発動させたのだ。
「遅いですよ、藤子さん」
「悪かったな。道中何度も妨害されてのう」
にや、と不敵に笑って見せて、藤子はローザの肩を叩いた。
「よく持ちこたえてくれた。さすがはクリムゾンオールドローズ、わしの終生の宿敵じゃ。もちろん、七曜の連中もな」
「貴女にみっともないところを見せるわけにはいきませんからね。それより、藤子さん」
「ああ、わかっておる」
つかの間の会話を交わしながらも、ローザは既に、全身に力がみなぎるのを感じていた。
藤子が組み上げた万仙陣の一要素、母なる地球の力を借り受ける地烈陣によるものだ。
「ろ、ローザ殿、その少女は、まさかとは、思いますが……」
七曜の一人が怪訝な顔を隠そうともせずに、尋ねてきた。突然現れた藤子に、疑念を抱いているのだろう。それは仕方がない。だが、今はそんなことを問答している場合ではない。
「わしのことなぞどうでもよい。今し方、この地球全体に結界を張った。これで、わしら魔法使いだけでなく、一般人も母なる地球の加護を受けられる」
「い、一般人も……!? と、というより、地球全体に結界とは……い、一体……」
「どうでもよかろう、今は戦う時ぞ。……七曜よ、お主らはダゴンとハイドラ、眷属らを討て。クトゥルフは、わしら二人でなんとかする」
その自信満々な態度に、七曜たちがどよめいた。だが返事を待たず、藤子は邪神たちに身体を向ける。と同時に、ローザもそれに続く。
「……そういうことです。皆さん、勝手を言って申し訳ありませんが、ここはお任せ下さい」
「参るぞローザ、クリムゾンオールドローズ!」
「はい藤子さん、シレスティアルウィステリア!」
言うや否や、藤子は青く輝く地球が描かれた巨大な本を手に取った。黄金に輝く補星を伴い、暗黒の宇宙に静かに浮かぶ母なる地球。
その記憶そのものを宿し、その力そのものを体現した原初の魔導具、地球断章……その原本である。
それを見た七曜たちが絶句する。たった一冊しか現存しないと言われるその書物を持つ人物といえば、一人しかいないことは、彼らどころか世界中の魔法使いが知っていることだ。そしてその人物こそ、災厄の魔女光藤子。
そんな世界の敵であるはずの彼女が、今までずっと戦い続けてきたクリムゾンオールドローズと並んで魔導具を構えている。二人の本当の関係性を知らないものには、それが極めて重大な異変として映るのだ。
だが、当の二人にとってそんなことはどうでもいいことだ。今、魔法使いたちの頂点で咲き誇る世界最強たる彼女たちのなすべきことは、ただ一つ。
魔導具を構えた二人が、声高らかに神の御名を宣言する――。
――栄光の炎冠! 人魔の頂、断罪の炎、全ての神を産みし神
――栄光の炎冠! 導となりし花一輪、薔薇が照らすは深き闇、全ての闇をも払う焔――!
久遠の果てまで至りて、我が身は御身と一つになる――
貴殿、母なる大地――出でまし給え
――偉大なる星母!
それぞれの聖句がほとばしり、二柱の神が地球の大地に光臨した。この星に巣食う邪悪を駆逐する、そのために――。
3.
それから、どれだけの時間が経っただろう。
海の彼方では、七曜たちがダゴンとハイドラを相手に死闘を演じ、辛うじて勝利を収めていた。
一方ルルイエのすぐ近くでは、未だ決着がつくことはなく、途切れることのない魔法の詠唱が続いている。
しかし今、二柱の神に挟まれた異形――クトゥルフの肉体は傷つき、たわみ、崩れ、消滅しようとしていた。それは、大いなる邪神が、小かな人類に屈しようとしていることを意味している。
旧き支配者の周りに、彼の者を見上げるようにして空を踏みしめている二柱の神。
それすなわち、栄光の炎冠。人類の魔法使い、その始まりの象徴である薔薇を冠に戴く、麗しくも雄々しい純白の女神。ローザ・テューダーが駆る、全ての魔法使いを生んだ始まりの薔薇。
そしてすなわち、偉大なる星母。闇の中で輝く孤高の青き星が、四十六億年の長きに渡って育んだ全ての要素を体現する、生命力溢れる半生半機の女神。光藤子が駆る、母なる大地、地球の化身。
偉大なる星母が、藤子が、雄たけぶ。
「今少しじゃ! 力を隕石に!」
「いいですとも!」
藤子の声に応じて、栄光の炎冠が、ローザが動いた。そのまま等間隔に異形を囲むと、彼らは同時に不可思議な文言を唱え始めた。
それに呼応するように、二柱の女神に、神々しい光の粒子が満ちていく。それは赤であり青であり紫であり、また緑でもあり黄でもあった。
「GHOOOOUUUURYYYYY!」
突如、クトゥルフが意味不明な叫びを放った。その声はあまりにも大きく、空気を引き裂き海原がちぎれ飛ぶ。
「ひるむでないぞ! 死んでも力を放て!」
「く……相変わらず無茶を言いますね!」
「! あれは……」
やがて破壊力を伴う音は空間をも切り裂いた。断裂した空間の彼方から、巨大な、地平線の彼方に隠れそうもないほど巨大な、扉のようなものが現れる。
だがそれは扉というにはあまりにも生々しく、てらてらと不気味に光る表面はまたどくどくと脈打ち、今にも何かが生まれ出そうな母胎にも見える。
「まさか……窮極の門!?」
「ぬう、彼奴め、魔界に逃げるつもりじゃな!? そうはさせぬぞ! ローザ!」
「心得ています!」
再度藤子が吼え、ローザが応じる。そんな彼女たちを尻目に、異形は海水を滴らせながら、緩やかに空へと浮かび上がった。それにあわせて、扉が不快極まる音と共に開いていく。
「行くぞ!」
「ええ!」
巨大な異形が、それよりもさらに巨大な門へと飛び込もうとしたその瞬間、女神たちが同時に魔の力を行使した。外なる力がほとばしり、青い地球の大空を貫く。
そして刹那、その彼方が煌き、無数の光が降り注いだ。それは隕石のようだが、そのような生易しいものではない。純然たる破壊力に加えて、さらに物も魂も、すべてを穿つ力を備えている。そしてそれは、一つも漏らすことなく異形の肉体を撃ち抜いた。
「RUCHHHYUUUUIIIEEEEE!」
「やった!?」
異形の肉体が、崩れていく。光の粒子となっていく。旧き支配者が、堕ちる――。
「――逃さぬ!」
朽ち果てながらもなお門をくぐろうとする異形を追って、偉大なる星母が空を蹴った。
「藤子さん!? 無茶ですわ! それ以上は――」
栄光の炎冠の制止も聞かず、偉大なる星母が両手に翠緑の光を宿して異形迫り、その力を開放した。
「星の裁きを! 我らが母の、青き裁きを!」
七色の霊妙なる輝きを放つ、一条の光線。それは光線と言うより、巨大な津波のようであった。周囲すべてを巻き込んで、周囲すべてを震撼させて、それは異形を貫いた。
断末魔の悲鳴が耳を劈く。不快極まるその音だが、今は、今だけは、その音にたとえようのない達成感を覚える藤子だった。
最後の声が、叫びが消える。それと同じように、巨大で、不気味で、不快な肉体も、消える。光となり、そして、闇へと却っていった――。
「…………。……よし! これで、これで地球が彼奴の恐怖にさらされることはあるまい! のう、ローザ!」
闇の中、偉大なる星母が振り返る。しかし、そこに見知った太平洋の光景はなく。
「藤子さん!」
ただぽっかりと空いた、四角い空白の中から名を叫ぶ栄光の炎冠が、遠ざかっていく。
そして同じく遠ざかる偉大なる星母の姿が、周囲の闇が濃くなっていくにつれて、その姿が、ゆっくりと崩れていく。ゆっくりと崩れていく。
「……ふっ、そうか。もう戻れぬか」
しかし、それでもなお悲観する気配など微塵も見せず、彼女がぽつりと、ひとりごちた。
門が、閉じる。
「それもよかろう。ローザ! ……さらばじゃ。息災でな」
その声が、彼女が呼んだ相手に届いたかは定かではない。それを確かめる術も、彼女は持ち合わせていない。
やがて偉大なる星母は静かに、完全にその姿を失い、そこから藤子が現れる。
「……窮極の門、か」
見えることのない彼方へ目を向けて、彼女がひとりごちた。
「彼方に見えるも、此方に見えるも、すべてはわしか。一は全、全は一なれば……。よかろう」
そのまま彼女は、どこまでも続く闇の彼方へと歩き始める。
「行けるところまで行こうではないか。勝ち負けなぞ関係なく、ただ己の限界を目指して」
当然、そのつぶやきを耳にするものなどいない。どこにもいない。
だがその中にあってなお、赤と青の瞳は輝きを失うことなく、煌いている。
赤は炎。赤は薔薇。全ての闇を照らす、希望の灯火。
青は星。青は藤。闇の中でも屈さぬ、母なる大地。
その光が導く先に何があるのか。それは、誰にもわからない。そう、誰にも――。
◆ローザ・テューダー(Rosa Tudor)
イギリス、ウィンザー朝の魔法使い。
生きる伝説と称された魔法使い、ジェーンの孫。千八百九十七年生まれ、千九百八十六年没。
イギリス貴族にして世界最古の魔法一族、テューダー家の第十七代当主。十八歳で襲名した。
所有称号は「クリムゾンオールドローズ」、「ユニオンフレイムズ」、「リバースレジェンド」。
千九百十四年、叔母スージーの戦死により、急きょテューダー家当主を襲名。
翌年、ドイツの戦いにおいて「災厄の魔女」を破り、一躍世界のその名をとどろかせた。
その後も「災厄の魔女」と二度戦い、勝利こそしなかったが敗北はなく、祖母ジェーンが体現した、逆説的平和を再度実現して見せ、第二次薔藤時代を築く。
千九百二十五年、クトゥルフ復活を受け、自ら総大将としてルルイエ遠征を決行。七曜らとともにこれを下す。
この際、彼女と「災厄の魔女」光藤子が共闘したという話が一部の間で語られているが、表向きはただの噂とされている。
この年以降「災厄の魔女」が行方不明となり、第二次薔藤時代は終わりを告げる。
その後、第二次大戦下を魔法使いとして戦い抜き、ドイツのイギリス本土空襲を退けるなどの成果を上げている。
二次大戦終結後は、魔法連盟の総長に就任。世界の裏側から、世界平和のためにその魔法をふるい続けた。
千九百七十五年、「災厄の魔女」が消息を絶って半世紀を迎えたことから、「災厄の魔女」の死亡宣言を採択。それと同時に、家督を娘に譲り引退。
しかし千九百八十六年、再度姿を現した「災厄の魔女」を止めるため、単身ソビエト連邦へ出征。歴史上「チェルノブイリのラグナロク」と呼ばれる戦いにて、戦死。享年八十九。
その功績、実力、カリスマ性はまさに祖母ジェーンの再来であり、生き写しとまで言われるほどの容姿から、生まれ変わりとも称される。
「災厄の魔女」が消息を絶って以降の半世紀、地球の平和を守っていたのはまさに彼女であり、人類の行く先を照らす薔薇の炎そのものを体現した人生だった。




