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枯れずの花  作者: ひさなぽぴー/天野緋真
第二次薔藤時代編
14/16

邪神、洋上に覚醒す。

 1.


 千九百二十五年、二月二十五日、イギリスロンドン。

 太陽の沈まぬ国と呼ばれ、世界の盟主であったこの国も、もはや今は昔。先の世界大戦による疲弊はゆっくり、しかし確実にこの国を蝕んでいる。ベルエポックを迎えたこの都市も、完全に復活したとは、まだ言えそうもない。


 そんな古の都に、太陽が沈む。腹を空かせた野良犬の声が響き、労働を終えた人々が家路につく頃合。冬の気配が色濃いが、今日はどうやら、霧が煙ることはなさそうだ。


 そして、魔都として最古の歴史を誇るこの街並みを、屋根伝いに駆け抜ける影があった。


 それは青い光の粒子をなびかせながら、空に駆けている。薔薇色の衣服は夕焼けの空に溶けており、藤色の髪飾りにまとめられたポニーテールが、その名の由来のようにはためいている。


 彼女の名は、光藤子。この星が生んだ最悪にして最強の魔法使いであり、すべてのものから災厄の魔女として恐れられる、青い藤の化身だ。その姿は幼く、時の流れを感じさせない。しかしそれは、ひとえに禁忌とされる術、不老不死によるものだ。

 だがその顔に、普段のような余裕は見られなかった。普段ならば、どんなものを前にしても余裕を崩すことなく、強かに笑って見せる彼女の顔には、珍しく焦りと緊張、それから狼狽の色が見て取れる。


 そんな彼女の足は、郊外のほうへ向いていた。産業革命以後、大英帝国の中心として発展してきたロンドンだが、外縁部にはまだまだ昔の、伝統ある趣を残したものも多い。

 その中の一つ。広くはあるが、決して豪華ではない屋敷の前に降りたって、彼女は深呼吸をする。


 その邸宅は、周囲に美しい薔薇園をたたえていた。通常夏の花である薔薇ではあるが、そこにはいくつもの美しい花弁が咲き誇っている。

 その形は小ぶりではあるが均整の取れたものであり、邸宅の主が持つ紋章と、ほぼ相違ない姿を見せていた。


 そう、この場所こそ、世界に冠たる魔法使いの始祖、テューダーの住処である。その姿は、およそ二十年前にジェーンの葬儀で藤子が訪れた時と、ほとんど変わっていない。ブリタニアよりも長い歴史を持つテューダーにおいて、二十年という時間など、問題ではないのだろう。


 しばらく藤子はそうして、その館を眺めていた。しかし、やがてその身を景色に溶けこませると、さらに気配を断って、静かに中へと入りこんでいく。


 通常ならば、魔法使いの頂点であるテューダー家への侵入は、容易なことではない。仮に忍び込んだとしても、優秀な魔法使いのみで構成される当家の使用人たちに、あっさり見つかってしまうからだ。

 しかしそこは、世界最強と呼ばれ世界一の花と誉めそやされた藤子である。生物としての気配も、魔法についての気配も完全に断ちきり、あっさりと内部への侵入を果たしてしまった。


 彼女は、決して広くはないが、それでも狭くはないテューダーの邸宅を、迷うことなく歩き続ける。その目標は、己と匹敵するほどの力を持つ、もう一つの花。そしてその気配は、遠くからでもよくわかる。


 程なくして、彼女は一つの部屋へとたどり着いた。開け放たれた扉をくぐろうとして、ふとその足を止める。そこに、目指した人が、いた。


 赤く焼けた明かりの差しこむ部屋に、それ以外の光はない。だが、その中で瞑想を続ける女性の姿は、自ら輝いていると錯覚させるほど、美しかった。

 輝ける金髪は短めにまとめられ、純白の服はすべての闇を拒むと同時に、その女性の麗しい身体を強調する。

 そして、藤子は知っている。女性が瞑想を解いて瞳を開けば、誰もが心を奪われるだろう炎がそこにともっていることを。


 女の名は、ローザ・テューダー。イギリスが誇る世界最古にして世界最強の魔法使いであり、旧きより燃え盛る紅薔薇の血を今に受け継ぐものだ。

 その姿は、かつて伝説と呼ばれた祖母ジェーンの生き写しであり、猛けき力も、その言の葉も、ジェーンと戦い続けた藤子ですら錯覚するほど、よく似ていた。


「…………」


 しばらく藤子は、そんなローザの姿を黙って見つめていた。生き物の遺伝子がなす不思議を、改めて感じながら。


 彼女がそうしていると、不意に部屋の扉が閉まり、中へと引きずり込まれた。扉だけではない。窓という窓が一斉に閉まり、更にはカーテンが勝手に引かれ、部屋は一気に暗くなる。

 それだけではない。彼女は、それらに加えて魔法的にもこの部屋が切り離されたのを感じた。どうやら、閉じ込められたらしい。


 のんびりそんなことを考えていると、やはり突然に、暗闇の中に炎が巻き起こった。それは薔薇の形をしており、考えるまでもなく、それがテューダーローズであると藤子にはわかった。


「まさかここに侵入してくるなんて……」


 その明かりにうっすらと照らされたローザの顔が、黒の中に浮かび上がる。


「一体どうしたんですか、藤子さん?」

「おう。久しいな、ローザ」


 彼女に笑って見せる藤子だが、その表情のほとんどは闇に紛れてしまっている。


「貴女はただでさえ、災厄の魔女として追われているのに……奔放な方ね、相変わらず」

「そのわしを、こうして他から見えぬように覆い隠す、お主もお主で大概じゃよ」


 互いに軽口を交わすと、二人はくすくすと笑いあう。それを合図のようにして、闇の中にテューダーローズが、今度はいくつも咲き始めた。炎の薔薇は見る見るうちに部屋を明るく照らし出し、やがて昼間とほとんど変わらない程にまでになる。


「それで? 何かあったのですか?」


 その明るさの中で、緊張を含んだ微笑を見せながらローザが問う。


「さすがに、何かあったことはわかるか」

「簡単なことですよ、ワトソン君。貴女がいきなりここまで単身乗り込んでくるなんて、よほどの理由がないと考えられませんから」

「シャーロックか。最近はもはや世界規模の人気じゃな。まあそれはともかく……」


 少しおどけてみせるローザに、藤子はどこからともなく一枚の紙切れを取り出した。そこには、少なくともヨーロッパ系でも、日本のものでもない文字が所狭しと並んでいる。


「まずはこれを見てくれ」


 その紙は、藤子の一言と共に光の粒子となって弾けた。そして、この部屋の中に散らばって消える。

 すると次の瞬間、部屋の光度が一気に下がり、夜と同じくらいにまで暗くなる。更には、天井に満天の星空が広がった。


「これは……」

「三日前の星辰図じゃ。……動かすぞ」


 言いながら、藤子は呪文を口にする。それに合わせて、手の届く場所で広がる夜空が、ゆっくりと巡り始める。


「…………」

「……二日前じゃ」


 ぐるり、ぐるりと星々が巡る。時折彼らを貫いて、流れ星が横切っていく。


「…………」

「……そして、これが昨日」

「…………」

「……どう思う?」


 再度藤子が言葉を紡げば、星空も動きを止める。それは、ちょうど時間が止まった状態に見える。


「どう……ですか……」


 藤子の言葉を受けて、ローザはあごに手を当てる。どうやら、簡単だよ、と言えるような問いではなかったらしい。


 しばらく、そのまま時が流れた。藤子はローザに対して、答えを急かすことはせず、ただ静かに返事を待っている。


「そうですね……」

「うむ」


 熟考の末、ローザから返ってきた言葉に、藤子は思わず身を乗り出す。


「おうし座の形がおかしいですね……アルデバランやエルトナの位置がばらばらで、まるで星座の形を成していません。

 それにヒヤデス星雲もかなり離れた位置にあって……おまけに、ゾスの明るさが、増していますね。三等星くらいはありそうです」

「うむ」


 そして得られた回答に、満足げに頷く。


「さすが、クリムゾンオールドローズを継ぐもの。期待通りの答えじゃ」

「私を試していらっしゃる……わけではなさそうですね。この星辰の異常はもしや、何かの前触れですか?」

「左様。理解が早くて助かるな。……では改めて、これを見てもらおう」


 言いながら、藤子はもう一枚、紙切れを取り出した。それはやはり、不可思議な文字が刻み込まれ、どこからともなく彼女の手の中に現れる。

 次いで、これまた先ほどと同じく光の粒子にほどけると、そのまま天井へ吸い込まれていった。


 その瞬間、天井に浮かんでいた夜空が、一気に別の様子へと変わる。素人目にはそれほど変化したようには見えないだろうが。


「これは……」

「……およそ九百万年前の星辰図じゃ。どう思う?」

「……昨日の星辰と、ほとんど同じですね。おうし座の形状が、おかしい……それに、ゾスが昨日以上に明るいようですね」

「その通りじゃ」

「……それで、藤子さん? そろそろ真意を教えていただけませんか?」

「よかろう」


 ローザに応じて、藤子は指を鳴らした。すると、それまで部屋全体に広がっていた星辰図が消え、二枚の紙切れとなって彼女の手元に戻ってくる。

 そしてそれと入れ替わりで、彼女はまた別の紙切れを、数枚取り出して呪文を唱えた。


「この星辰図が示すもの……それがこれじゃ!」


 光と消えた紙切れが、先ほどまでの星空と同じように、しかしそれとはまた別のものを、この暗闇に満ちた部屋へ作り上げた。


 それは、どこかの海洋の映像だった。巻きあがる波頭の向こう、暗雲の立ち込める空の下に、奇妙な建物の群れがあった。ユークリッド幾何学を完全に無視した、異常極まりないその光景は、一見すると街のように見えなくもない。


「これは……まさか……」


 それを見た瞬間、それまでとは打って変わって、狼狽しながらローザが藤子へ振り返った。


「左様……ルルイエじゃ」

「と、いうことは……この星辰は……く、クトゥルフの……」

「いかにもその通り。恐らく……近日中に、彼奴が眠りから醒めるじゃろう。その時に、この世界に何が起こるかは想像するまでもない」

「……地獄、ですね」

「うむ。そして此度、それだけでは済まぬ問題がある」

「と言いますと?」


 ローザの問いに、藤子は行動で答えた。再び数枚の紙を取り出して、一斉に空へ投げ放つ。それらは、今までのものと同じく、光になって景色に溶ける。


 すると、暗闇に浮かぶルルイエの映像の上、天井の周辺に星空が連続して浮かび上がった。そのいずれもがほとんど同じ様子であり、少し見た程度では、どこがどう違うのかを探し出すのに一苦労しそうである。しかし、わずかではあるが確かに、それぞれの様子は若干異なっている。


「これは、過去にクトゥルフの眠りが浅くなり、夢が世界に伝播した時の星辰図じゃ。此度と違い……」

「おうし座の形が通常時に近い、ですか?」


 藤子の言葉を先取りして、ローザが緊張に満ちた顔を向けてくる。彼女に頷いて見せて、藤子はさらに言葉を続ける。


「いかにも。しかし今回は、異常なまでにおうし座の形が違う。そしてその位置は、かつてクトゥルフが全盛を誇った時期のものと、ほとんど同じじゃ。つまり……」

『クトゥルフが、復活する』


 二人の言葉が、ハーモニーのごとく重なった。それから二人は、互いの瞳を見つめ合う。


「……由々しき事態ですね」

「左様。

 ……普段旧支配者の属する星辰が動いた時、わしは強引に星辰図を書きかえることでその封印を繋ぎ止めてきた。それらはいずれも復活を遂げるほどのものではなく、今回のように、明確に復活が予想されるような事態はさしものわしも、初めてじゃ。

 そこでローザ……」

「はい」

「お主の力を借りたい。この世界で、わしに並び立つ唯一の魔法使いにして、この世界のすべての魔法使いに対して強い影響力を持つ、お主の力を」


 それは、普段の藤子からは絶対に聞くことのできない言葉だった。

 彼女は通常、誰かの手を借りることをしない。彼女は他人にも己と同じレベルを要求し、それができない人間の助力は、不必要と考えている、典型的な天才だからだ。

 下手な人間の力を借りるより、自分一人で行ったほうが早いし、的確だ。そういう考え方が、彼女の根底にはあった。


 そしてそれは、ローザのほうも承知していたのだろう。藤子の申し出に、彼女は目を丸くして、藤子の顔を見つめてくる。


「……具体的には、どのように?」


 しかし、彼女の切り換えは早かった。すぐに表情を引き締めると、藤子に続きを促す。


「魔法連盟を、動かしたい」


 そして藤子も、即答でもって返した。


「……なるほど。全人類の力を合わせて、撃退しようということですか」

「そうじゃ。そしてすべての魔法使いを動かすことができるのは、お主しかおらぬ。連盟の盟主エゲレスと、その頂点に咲くクリムゾンオールドローズの名において、魔法使いたちを集めてほしい……」


 彼女のその頼みに、もしかすると、ローザの叔母スージーならば、疑心暗鬼に陥ったかもしれない。しかしローザは、彼女の素顔を、その目的を、知っている。手段は違えど、同じ目的を目指すものとして、ローザは力強く、頷いて見せた。


「わかりました、すぐに動きましょう。善は急げと、東洋では言いますものね」

「すまぬ。……それからローザ、頼みついでで悪いのじゃが、連盟への説得は一人で行ってくれぬか?」

「え?……そうですね、あの会場に貴女を連れて行くわけにはいきませんね」

「うむ……大混乱になるじゃろう。その間、わしはセラエノへ行こうと思う」

「セラエノ? 名状しがたき者の力を借りると?」

「誰が旧支配者なんぞの力を借りるか。目的はあくまで大図書館じゃよ。我が地球断章以上の情報があることは間違いないからな」

「なるほど」

「……それでな、これはお主に預けておこうと思う」


 言いながら、藤子は手を開く。そこにはいつの間にか紙切れが十枚ほど現れていた。


「これは……地球断章のページではありませんか」

「うむ。母の記憶が、そのまま記録となっておる……頭の固い連中がいたら、証拠として突きつけてやれ」

「いいのですか? これを解析すれば、貴女の力の根源や、その魔法の性質、式に至るまで特定されかねないんですよ?」

「構わぬ」


 逡巡して見せるローザの手に、断章のページを握らせながら藤子は笑った。そんなことは、些細なことだと言いたげに。


「お主になら、どれだけ解析されようと恨みはせぬ。今更、そんなことを考えるような間柄でもなかろう?」

「……そうですね」


 観念したように笑い返して、ローザはそのページを懐に仕舞い込んだ。

 それを確認した藤子は、一歩後ろに下がるとローザから身体をそらす。右手には、これまたいつの間に展開したのか、藤天杖が握られている。


「では、頼んだぞローザ。此度の戦は、引き分けすら許されぬ。勝たねばならぬ……この星のために」

「はい、重々承知しております。貴女もどうか、お気をつけて」

「うむ。では、また後日会おう!」


 言うや否や、空間が揺らぎ、藤子の姿が歪んで消えた。残されたローザはしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて静かに部屋の封印を解く。


 会話のうちに、太陽は完全に沈みきり、夜が訪れていた。まだかすかに、彼方が明らむ空に浮かぶ黄金の女王が、両端を弓なりに反ってにっと笑った……。


 2.


 三日後の深夜。テムズ川のほとりにそびえたつウェストミンスター宮殿の庶民院議事堂は、熱気に満ちていた。

 普段なら既に誰もいないはずのこの時間帯だが、今は大勢の人にあふれている。その人々も、人種、種族に拘束されることなく、多種多様だ。世界中から人を集めれば、こういう景色が生まれるのだろう。


 藤子とローザが秘密裏に接触したあの日、ローザはすぐに、創設されたばかりのイギリス魔法情報部へ親書を送った。世界に危機ありとするその内容に、世界魔法連盟の議長たる魔法情報部は即座に動いてくれた。

 だが、連盟の議長、そして世界一の花からの呼びかけでも、多忙な各国魔法首脳陣のスケジュールは急に変えられるわけではない。それでも、クリムゾンオールドローズの声が上がったからこそ、彼らはなんとか調整をつけてこの日、三月を目前に控えた深夜に、こうして一堂に会すこととなった。


 世界大戦の反省から創設された世界魔法連盟は、表舞台の世界連盟とは異なり人類共通の敵を持つ。そのため各国は、強い連携と協調性を持って今ここに、創設以来初となる全加盟国参加の会議が開かれたのだった。


 その会場の中央で、各国首脳陣の注目を一斉に浴びながら、ローザは壇上で熱弁を振るっていた。藤子から教えられたこの世界の危機を訴え、全人類の結束を呼びかけている。

 その答弁に、野次が飛ぶことはない。静まり返った議事堂に、彼女の高い声が朗々と響き渡る。


「……クトゥルフが復活するとなれば、同時に彼のカルト信者や、眷属の深きものどもも動き出すでしょう。世界規模で、大異変が起こるのは間違いありません。

 今こそ、地球は危急存亡のときです。我々裏舞台に立つ魔法使いは団結しなければならないのです。クトゥルフ打倒に、力を! 皆さんの力をどうか、お貸し下さい!」


 そう締めくくって、ローザは議場の顔ぶれを静かに見渡す。まずは拍手が巻きあがり、彼女は一応の安堵に胸をなでおろすと、議長を勤める部長の傍らに戻るのであった。


「以上が、クリムゾンオールドローズの提言でありました。まずは現段階で、どうするかを決めたいと思います。クトゥルフ復活に伴う世界規模の異変について、討伐に賛成の諸氏は……」


 クリムゾンオールドローズたるローザの言葉は、絶大な影響力を持っていた。彼女がクトゥルフ復活を口にしたことで、それを疑うものはこの会場には一人もいない。彼女が言うならば、それに間違いはない……誰もがそう思ったのだろう。


 これが仮に、藤子の提言であればこうはいかなかったに違いない。そもそも彼女が発言する機会が訪れない可能性が極めて高く、万が一それができたとしても、災厄の魔女の言葉に耳を貸すものはほとんどいないだろう。


「……全会一致で、クトゥルフ打倒と、それに伴う眷属襲来への防衛に関する行動を開始することと相成りました。

 では続きまして、打倒及び防衛における各国の意見を聞きたいと思います……」

「では僭越ながら、私から」


 最初に挙手を行ったのは、最前列に座る常任理事国の一つ、アメリカの代表だった。ぴしっとしたダークスーツに身を包むその男は見るからに精悍な顔つきであり、魔法使いというよりアスリートといったほうがしっくり来る。


「ことの重大さは緊急を要するが、我が国はインスマスを始め、眷属が動きかねない場所がいくつか存在するため、相当数を自国の防衛に割かねばならぬと考えている。

 だが我々は、人類の自由のためにも戦わねばならぬことも理解している。我々合衆国はこの危機に対し、国内に常駐する十万人の魔法使いと我が国の最強、七曜たるジアースオブリバティも動くことを約束しよう」


 七曜。

 世界魔法連盟の発足時、その常任理事国の最強魔法使いに与えられた称号である。その名の通り七つの国から一人ずつ、七人が選ばれており、彼らこそ世界危機のための切り札、最後の砦である。

 当然ながら、イギリスで最強を誇るローザもそこに名を連ねている。そこでの彼女の称号は、ユニオンフレイムズ。クリムゾンオールドローズを彷彿とさせる火炎の名を冠し、火曜の座を象徴とする。


 なお蛇足だが、この称号は元々イギリスの中でも、スコットランド地方における最強の魔法使いが持っていたものである。

 しかし、世界最強に名を連ねるテューダーの存在を抱えるイギリスにおいてその称号は、ほとんど意味をなさなかった。実際、スコットランドがイングランドに組み込まれた時から、テューダーの世襲になっている。


「日本からは、三千人の精鋭を出すこととします。我々日本としては、先の大戦での損失が多く国内の人数不足が否めず、人を確保できない可能性が高いです。

 また四方を海に囲まれる我が国は、眷属の襲来が最も危ぶまれるであろうとも考えられます。そのため、打倒に向けては最小限の支援とさせていただきたいと……」


 ローザが乾いた喉を潤そうと、グラスの水を傾けながら日本代表の演説を聞いていた時である。

 彼女の持つ鋭い第六感が、不意に世界に満ちた邪悪な気配を感じ取った。それはあまりにも昏く、深く、そして不快。魔法使いとして、高く積み上げられた力がなければ耐え切れないほどの狂気に満ちていた。


 突然のことに思わずローザは立ちあがったが、同じ感覚を味わったのは彼女だけではないようで、この場に居並ぶすべてのものが、信じられないといった面持ちで、あるいはおびえた表情で、近くのものと言葉を交わしていた。

 その様子から、また今し方感じた気配に、そして継続するその気配に、ローザは確信する。遂に、星辰に従ってクトゥルフが、永き死の眠りから目覚めたのだと。


「ほ、報告いたします!」


 どよめく会場に、一人の男がまろびながら駆けこんでできた。顔から滴るほどの冷や汗を流しており、それは顔だけでなく全身からも同じようにあふれているだろう。

 彼は、青い顔を隠すことなく、議場に立つ魔法使いたちの前へとひれ伏した。


「太平洋で海底地震が発生し、直後海底火山の噴火が起きました……その、影響で」


 その先は、言われるまでもなく理解できた。ローザだけではない。その場にいる全員が、である。


『ルルイエが浮上を始めた』


 導き出される結論は一つしかない。誰もが抱いたその結論は、あまりにも非情すぎる現実であった。


『……ザ……。ロー……。ローザ……。ローザ、聞こえるか?』


 騒然とする議場の喧騒の中で、ローザは頭の中に声が響くのを感じた。それは空間に響く音とは異なり、何ものにも遮られることなく彼女の神経を刺激する。テレパシーだ。そしてその声は、聞き覚えのあるものだった。


『藤子さん? どうしました?』


 そう、声の主は藤子その人だった。だが彼女の存在を公の場で明かすわけにはいかない。ローザは場の収集に当たりながらも、テレパシーによる会話を同時に行わざるを得なかった。


『感じたじゃろう、お主なら』

『ええ。ルルイエが浮上を始めた……クトゥルフが、復活してしまう……!』

『うむ。今はまだ浮上の途中ゆえ、しばらく影響はそこまで多くないじゃろう……。ルルイエの浮上も、即座に完了するわけでもない……クトゥルフの墓はルルイエの頂上じゃが、彼奴にとって水は得意なものではない、浮上が終わるまでは動かぬじゃろう』

『タイムリミットはそれまでということですか……厳しいですね』

『……いや。伸ばす。伸ばしてみせる』

『伸ばす……? そんなことが、可能なのですか?』

『……わしを誰だと思うておる?』


 テレパシーの向こう、どこか遠い場所にいるであろう藤子の顔が、ローザには見えた気がした。恐らく彼女は、いつもと同じように、自信に満ちた不敵な笑みを浮かべているだろう。

 そんなことを思ったら、なぜか大丈夫のような気がした。天使が愛でる青き藤ならば、できるに違いない。ローザは、そう思った。それは、世界中の魔法使いが、ローザに期待と信頼を寄せるのと似ていた。


『やってみせるよ。星辰を動かす……無論此度は上手く行かんじゃろう。しかし、彼奴の力を多少なりとも殺ぐことはできるはずじゃ。その間、お主はできる限り早く、動きを進めてくれ』

『わかりました……やってみます。いえ、やってみせます』

『良くぞ言った。それでこそクリムゾンオールドローズよ』


 そこで、テレパシーによる会話の気配は遠のき、藤子の声も聞こえなくなった。

 彼女との約束を胸に、ローザは再び壇上に立つと、高く、強く声を張り上げる。騒がしかった議場は一斉に静まり、視線が彼女に集まった。


 3.


 三月五日。ルルイエが浮上を始めて既に五日が経過しているが、世界は一見平和な様子を維持していた。


 しかし少しずつではあるが確実に、クトゥルフの邪悪な力は世界を蝕み始めている。ローザの耳には、奇妙で不快な夢を毎日見るという話が、いくつも入ってきていた。それは確実に、クトゥルフの力の影響である。


 彼の者の力はまず、子供や芸術家などの、感受性の高いものに訪れる。外道の力を用いる魔法使いも、感受性の高い人間の一種だ。

 既に、クトゥルフ打倒、眷属防衛を謡いながらもその力を受け、立ちあがる気力を無くした魔法使いたちがいることも、彼女の耳には入っている。


 この上で、クトゥルフそのものを見てしまったらどうなってしまうか。それは容易に想像がついた。

 藤子やローザ他、連盟で七曜と呼ばれる高位の魔法使いたちはともかく、経験の浅いものや、力の及ばぬものは、即座にその心を砕かれてしまうに違いない。打倒のためにルルイエに行けるものは、数えるほどしかいないだろう。


 早くなんとかしなければ。

 そんな思いを胸に、大戦の準備を既に整えたローザは、自宅で静かに出陣の時を待っていた。打倒に赴く取り決めを交わしたもの全員が揃う、その時を。


「……来ましたね」


 ローザは、急速に近づいてくる巨大な力を感じてつぶやいた。それは闇の力に満ちたものだが、決してクトゥルフのような歪んだ、狂ったものではない。どこまでもまっすぐな、その青い力をローザはよく知っている。

 力が近づくにつれて、ローザは部屋を周囲から切り離し始めた。扉を閉め、窓を閉め、カーテンを引き、そして魔法による監視すらも遮って、力の主の来訪に備える。


 ほどなくして、たった一つ残された窓から、その少女は現れた。それと同時に、ローザも最後に残していた口を完全に閉ざす。


「……お久しぶりです、藤子さん」

「うむ。見たところ、出陣の準備は整っておるようじゃな」

「貴女も。いつにも増して、鋭く研ぎ澄まされた力を感じますよ」


 ローザに振り返りながら、藤子が笑う。いつものように、自信に満ちた笑顔。その顔に、ローザは少しだけ安堵した。


「まずは、先日お借りした断章をお返しいたします」

「おう。役に立ったようで何よりじゃ」

「おかげさまで」


 微笑みながら、ローザは藤子に椅子を促した。


「いや、いい。すぐに発つゆえ。それより、お主に渡しておきたいものがある」

「私にですか?」

「うむ。ちょいと穴を開けるぞ」


 言いながら、藤子は何もない空間に手を伸ばした。すると、その周辺が急速に歪み、景色が捻じ曲がる。やがてその歪みは空間を破き、穴となった。

 それは、扉や窓の鍵だけでなく、魔法により他から隔絶されたこの部屋では通常できる技ではない。ひとえに最強と言われる藤子だからこそできるのであって、並みの魔法使いでは、こんなことは不可能なのだ。


 そんな空間の裂け目から、藤子は一冊の本を取り出した。サイズも装丁も、決して特異なものではない。どこにでもありそうな、何の変哲もない本である。

 強いて言うならば、表紙にも題目は書かれておらず、本という体裁を取り急ぎ取り繕ったような雰囲気があることくらいか。


 それを藤子から受け取りながら、ローザは首を傾げる。


「……これは?」

「セラエノ大図書館にあった、クトゥルフに関する蔵書から要点だけを書き出したものじゃ。シュリュズベリィが著した『セラエノ断章』や、『ネクロノミコンにおけるクトゥルフ』に載っているものは省いた。地球上では得られぬ情報だけを特化して集めたつもりじゃ」

「……これを、お一人で?」

「ああ。何、大したことはしておらぬ」

「大したこと、しているではありませんか。全部しっかり英語に翻訳されて……」


 ローザがぱらぱらとページをめくれば確かに、そこに羅列されている文字は普段見慣れたアルファベットだった。それも、やはり見慣れた今の英語の表記になっている。


 セラエノと言えば宇宙の大図書館で、そこに収められている蔵書は当然地球の言語ではないものがほとんどだ。それをわずか数日で翻訳したうえで、要点のみを抜き出すという行為は人間業ではない。

 改めてローザは、藤子の実力の高さを実感した。


「それを他の七曜たちにも回してくれ。役に立たぬということはないじゃろう」

「わかりました、確かに受け取りました」

「では……ローザ、後は任せたぞ」

「後は……って、藤子さん?」

「クトゥルフ打倒の烈士が集う中に、わしがいてはばつが悪かろう。わしは現地で集合する」

「ああ……そうですね。それがいいでしょう」

「……まあ場を乱すということもあるが、わしにはまだやらねばならんことがある」

「まだ何か? セラエノから戻ってこられたばかりではないですか」

「うむ……しかしこれはわしにしかできぬことじゃからな。良いか、わしはこれより万仙陣ばんせんじんを敷く」

「万仙陣?」


 藤子の放った言葉に、ローザが首をかしげる。だが聞き覚えがなかったわけではない。むしろ逆でその言葉に聞き覚えがあったからこそ、それを思い出すために思考を巡らせる。

 己の記憶が確かならば、母から受け継いだ己の魔導具、イヴの書に記された祖母の覚書に――。


「万仙陣……確か、光式結界術の最終奥義……でしたか?」

「お、さすがに知っておるか。その通り。

 この結界は、光家に伝わる十一の結界術を、すべて同時に発動させるという、複雑怪奇に入り組んだ最高難度の結界じゃ。

 これが完成すれば、クトゥルフどもの力を大幅に削ることができる上に、我らは母からの力を受取り強化される。この大事に、使わぬ手はないじゃろう?」

「あなたの結界はどれも複雑で難しい魔法のはずですけどね……しかしなるほど、現地集合ですか。先に結界を張っていただけるのですね?」

「いや。結界の範囲はルルイエ周辺だけで留めるつもりはない。この母なる地球すべてを、結界の範囲とする」

「なんですって!?」


 藤子の発言は、普通ならば一笑に付されるものであった。この地球という一つの天体すべてを、一つの結界の中に収めるというのは、どう転んでも正気の沙汰ではない。


 だが藤子は至極まじめな口調であったし、真顔を崩す様子も見られない。そして何より、世界一と称されるその力があれば、不可能ではないという気にもなる。

 そして実際、藤子は自身満々に頷くのであった。


「驚くことでもあるまい。やらねば勝てぬ。それに……」


 藤子に見つめられて、ローザは目をしばたたかせた。その真意が読めず、きょとんとする。


「それに、こうすれば普通の人間も、母の加護を受けることができる。母の加護があれば、ただの人間でも多少はクトゥルフの邪悪な神威に耐えられよう」

「藤子さん……」


 藤子の言葉に、ローザはいかにも意外と言いたそうに目を丸くした。人類の存続など二の次とする藤子らしからぬだと思ったからだ。


「……連盟の連中に、わしの参戦を承諾させるには格好のネタであろう?」

「……ふふ、そうですね。ええ、そうしておきましょう」


 確かに、人類を守る意味もあると言えば、連盟の魔法使いたちも藤子が戦いに加わることを止めはしないだろう。

 しかしローザには、彼女の言い方があまりにも言い訳じみたものに聞こえて、笑いを押し殺すことができなかった。


「なんじゃこやつめ、何がそんなにおかしい」


 そして藤子がそう言って口を尖らすので、ローザは遂に声を挙げて笑ってしまった。すねてみせる藤子の姿がどうにも可愛くて仕方なかったのだ。


「ああもう、わしは行くぞ! よいかローザ、なるべく早く陣を組むつもりじゃが、みなの出陣には間に合わぬ可能性もある。その時は、わしがつくまで死ぬでないぞ! 良いな!」

「ふふ、ええ、もちろん。私が死ぬのは老衰か、貴女の手によってかの、どちらかですから」

「……わかっておればよい。ではルルイエで会おう!」


 それだけ言うと、藤子は空間を引き裂いて、テューダーの邸宅から飛び出していく。そのままどこに向かい、どこを結界の基点とするかは、彼女のみが知る。


 黒い風が、吹いていた。彼方の海からクトゥルフの声が、声なき呼び声が、きな臭い胡乱な風に乗って、イギリスの土を侵し始めていた。

◆プライムローズ(The Prime Rose)

テューダー家が持つ、当家謹製の魔導具。

白銀に輝く細身の刃と、薔薇のような美しい柄を持ち、その周囲は常に陽炎が揺らめいている。

「災厄の魔女」光藤子に対抗するため、伝説の魔法使いジェーン・テューダーが創りあげた当代随一の魔導具であり、原初の魔導具に匹敵する力を秘めるが、神は宿っていない。

テューダー家の人間にのみ扱えるように調整されており、炎の瞳を持たないものには扱えないようになっている。

通常時は、飾り気のない銀色の指輪として存在している。

二十一世紀現在、イヴの書と同じく当代当主アルマが所有する。

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