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枯れずの花  作者: ひさなぽぴー/天野緋真
外伝 星色の瞳のあなたへ
11/16

あなたとの離別れ

 1.


 それから、何度も月が欠けて、満ちました。いつの間にか季節が二回も巡って、また夏が来ています。

 ぼくは成人と認められたことで、本格的に魔法を教わるようになって、農作業でも責任が増えて、毎日が本当にあっと言う間に過ぎていきました。


 酋長は最初、ぼくが藤子さんと結婚したいと申し出た時、とても怒りました。あの温厚な酋長が、信じられないくらいに怒って、すごい剣幕でだめだと怒鳴りました。

 それは当然といえば当然で、藤子さんはあくまで、アウソに力を授けた人と同じ、地球の加護を受けた存在。大地の精霊と等しく接するべき人だったのですから、そんな崇高な方と結婚だなんて、まったくおそれ多いことなのです。


 けれど、そこは藤子さんが押し切りました。今思い返しても、あの時の藤子さんは……その、とても恥ずかしくなるくらい、ぼくのことを好きだと連呼していました。

 あの時は、そんなことを考える余裕なんて、一切なかったんですけど、たまにふと思い出すと、どうしても――。


「どうしたミュゼ、何を苦笑しておる?」

「わっ。な、なんでもないですよ」


 ぼくがそんなことを考えていると、後ろから藤子さんがひょっこりと顔を出しました。


 その姿はあの白と青の服ではなく、ぼくたちと同じ、粗末な貫頭衣だけを着て、完全にアウソになじんでいます。

 頬には、コオテノルの証である黒い直線の化粧が左右に二本ずつ。彼女がぼくと同じ氏族に属していることを、そして、結婚していることを示しています。


「ふうん……まあよいが。お主のことじゃ、よからぬことなぞ思いつきもせぬじゃろうし」

「あはは……」


 隣に立つ藤子さんの顔は、苦笑を続けるぼくの視線より、かなり下にありました。


 二年、という時間の流れはとても大きくて、ぼくは、いつの間にか藤子さんよりも大きくなっていました。声も低くなって、ひげも生えるようになりました。


 でも藤子さんは、いつか歳をとることをやめたと言った通り、まったく見た目が変わりません。

 後ろで縛っていた髪は解いていて、今はまっすぐに腰あたりまで垂れていますが、その美しい黒は、あの時のまま。

 ぼくたちと同じように、毎日太陽の日差しを受けているはずなのに日焼けはまったくなくって、白人とはまた違う、透き通るような白い肌も、あの時のまま。

 そして何より、ぼくを見つめる霊妙な青い瞳。外から見たこの星と、まったく同じ青い瞳も、もちろんあの時のまま。


 色々な経験をしました。二人で一緒に畑を耕して。二人で一緒に草原を越えて。二人で一緒に星を見て。

 色々なことを教わりました。世界のこと。言葉のこと。文字のこと。農耕のこと。魔法のこと。


 藤子さんと過ごす時間はあっという間で、けれど、どれもとても新鮮で、すごく大きな思い出で。

 でも、何があっても、藤子さんのかわいくて、美しい姿は、きっと、これからも変わらないのでしょう。


 ぼくは、幸せでした。もったいないくらいに、幸せでした。

 けれど、わかってもいました。この幸せが、長く続かないことは。


 いつかの明日、ぼくは、藤子さんと別れなければなりません。それは、明日また会おうね、いつかまた会おうねと言い合えるようなものではなく、その時が来たら、もう二度と会えなくなる、そんな別れが来ることは、わかっています。


 だから、幸せの中で、ぼくはずっと、自分に言い聞かせていました。


 ぼくの目の前で、屈託なく笑う藤子さん。彼女がいつ消えてもいいように、できるだけ、心がくじけないように。

 負けるな、と。約束を破っちゃいけない、と。


 藤子さんとの約束は、ぼくにとって、この世界の誰よりも重くて強い約束だから。


 だからぼくは――その時が来ても大丈夫だから、と。どんなことがあっても、いってらっしゃい、って、藤子さんにさよならが言えるように、いつも、いつも、それを心のどこかで考えていて。


 けれど「その時」は、やっぱり急に来るもので。

 ぼくは、結局それを正面から受け止めることなんて、できなかったのです。


 藤子さんの口からそれが告げられたのは、今年の収穫と、収穫祭が終わった日のことでした。

 いつものように星を見るため、ぼくたちは家の屋根に登ろうとしました。いつもなら、二人で並んで、その日のことを話し合いながら、時には肩を抱き合って、のんびりとするのが常でした。


 しかしこの日は、屋根に登ることはありませんでした。外に出て、少しだけ空を見上げた瞬間、藤子さんが動きを止めたのです。

 そのまま藤子さんはしばらく、呆然とした様子で空を見上げていました。


 いつもの藤子さんなら、何があってもどんなことがあっても、絶対に余裕を崩すことなく、笑ってみせるでしょう。

 しかし今日は、違いました。ただただ、ずっと空を見て、硬直していたのです。丸くて大きな目を見開いて、青くてきれいな瞳で、まばたきもせずに、空をずっと見上げていました。


 それを見て、ぼくは悟りました。


 ああ。来ちゃったんだな、って。


「……藤子さん?」


 ぼくが尋ねて、ようやく藤子さんは我に返ったように、ぎこちなくぼくのほうに顔を向けました。

 その表情は、いつものようないじわるな笑顔でもなく、ぼくにだけ見せてくれるかわいい笑顔でもなく、ただ、とても悲しそうな、苦しそうな、ゆがんだ表情でした。


 しばらく、ぼくたちはそうして互いの顔を凝視しました。けれど、少しして、藤子さんがつぶやくようにして、しゃべり始めます。


「……わか、った、な?」


 確認するその言葉の意味は、もちろん、考えるまでもありませんでした。

 ぼくは、ゆっくりとうなずきます。


「……どうやら、時が来てしもうたようじゃ」

「……はい」

「星が……乱れておる。今はまだかすかじゃが……恐らくは、眷属が動いたのであろう……」

「……はい」

「ミュゼ……約束、覚えておるよな……」

「……はい」

「……わしは、行かねばならん」

「……はい」


 わかっています。そんなに何回も確認しなくたって、ちゃんと、覚えています。覚えて、いるんです。


 だから、藤子さん……。


「……お別れ、なんですね……」


 ぼくから、言います。ぼくの言葉に、藤子さんが、一瞬戸惑うような顔を見せて、それから、こくりとうなずきました。


「……わかって、ます。覚悟は、していました。ずっと……ずっと、あの日から……」

「…………」

「だから……止めないです。止められない、です……」


 言いながら、ぼくは藤子さんに背中を向けました。

 ずっと、覚悟していた別れの時。これは、ぼくが乗り越えなきゃいけないこと。


「……お気をつけて」


 だから、ぼくはそれ以上何も言いません。受け入れなきゃいけないことだから。何かを言っても、変わらないから……。


 しばらく、風の音だけが鳴っていました。藤子さんが何かをする気配もありません。ぼくも、ただ何もせず、じっとその場で立ったまま。

 けれど、あまりにもその沈黙が長引くので、だんだんとぼくの覚悟が揺れ始めました。


 決めていたのに。藤子さんを、しっかり見送ろうって、決めていたのに。

 そうしないと、早くそうしないと、ぼくの心が折れてしまうのが、わかっていたから。だからぼくは、できるだけ早く、藤子さんが行けるようにしたのに。


 どうして、最後にこんないじわるをするんですか、藤子さん?


 自分の心の痛みをかきけすように、ぼくは無意識のうちに両の拳を握りしめていました。爪がてのひらにしっかり食い込んで、血がにじむんじゃないかってくらいに、きつく、きつく。


 それでも、何も動きはありません。

 どれだけの時間が経ったのか、もうそれもわからなくなって。本当は、全然経ってないのかもしれないし、すごく長い時間がすぎてしまったのかもしれないし。

 そんなふうに感覚が麻痺してしまって、ぼくが、もう本当に我慢ができなくなって、振り返ろうと思った、その時でした。


 突然、ぼくの背中に、暖かいものがかぶさってきました。

 それはぼくの身体を後ろから抱きしめると、絞り出すような声で、言いました。


「……なぜ、止めてくれん……?」


 藤子さん、でした。


「なぜじゃ……普通、こういう時……こういう時は……!」

「……だって!」


 ふるえる藤子さんの声を遮ったぼくの声も、ふるえていました。


 後ろから手を回してぼくを抱きしめる藤子さんを振り払って、ぼくは改めて藤子さんに向き直ります。


「藤子さん、言ったじゃないですか……! 止めないでくれ、って……それが、それが……ぼくたちの、約束、だったじゃないですか……!」

「……ミュゼ」

「イヤですよ……! ぼく、ぼく……ずっと、藤子さんと一緒にいたい……これで、もう、終わりなんて……イヤで……!」


 ぼくは。


「イヤですよ! だって、ぼく、ぼくは! 藤子さんが、好きで、大好きで、このまま、ずっと二人で一緒に、ずっと!」


 ぼくは、何を。


「死ぬまで……! 一緒にいたい……! 一緒に、ご飯を食べて! 一緒に、畑を耕して! 一緒にっ、星を、見てっ! ずっと、二人で! 笑って、いたい、一緒に、いたい……!」


 ぼくは。


 もう、ぼくは。

 自分を、止められません、でした。


「一緒にいたいですよ! でも、でも、藤子さんは! 世界のために戦う精霊の代理人で! 邪神と戦える、たった一人の人で! ぼくは、足手まといで!」

「……ミュ」

「だから、止めちゃっ、いけない……ダメなのに……なのに、なんで、藤子さんの、ばか、ばか……どうして、言わせようと、するの……! ぼくは、言いたいのに、言いたいのに、言わないように、してるのに、なのに、っ、っ……!」

「わかった、もうよい、もう、しゃべるな!」


 気づけば、ぼくは藤子さんに抱きしめられていて。

 その勢いのまま、ぼくたちは、地面の上に倒れていて。


 目の前が、見えません、でした。真っ暗じゃないけど、見えるけど、これは、きっと、涙で。

 目の前がぐしゃぐしゃで、何も見えなくて、でも、青い光だけが二つ、そこにあるのが見えて。


「……すまぬ。わしが身勝手であった……わしが……」


 耳元に、藤子さんの声が届きます。

 ぼくはもう、何も言えなくて。


 ……我慢。してた。のに。


 こんな日が来る。

 それは、わかってたのに。だから、何があっても、ちゃんと約束通り、藤子さんを、いってらっしゃいって、見送ろうって。


 でも……。


 ぼくは、やっぱり弱虫で、意気地なしで、あの日、藤子さんに助けられたまま、子供のままで。


「……違う」

「…………」

「そんなお主だから……誰よりも優しくて、自分より相手を、傷つけたくない、そんなお主だから、わしは、わしは」

「…………」


 ああ。

 イヤだ。


 藤子さん。


 ぼくは。

 あなたと、別れたく、ありません。


 2.


 気づいた時、ぼくは自分の寝床にいました。

 慌てて身体を起こして周りを見渡せば、すぐそこには藤子さんが座っていて、少し安心したように笑っていました。


 一瞬、さっきのは夢だったのかな、と思いました。

 けれど、藤子さんの顔が、そうではないと言っていました。


 それに気がついて、ぼくはその場でがっくりと肩を落とします。


「……行っちゃう、んです、ね……?」


 そしてそのまま、藤子さんには目も向けないで、ぼそぼそと尋ねます。


「……うむ……」


 当然のように、返事は肯定でした。それを聞いて、ぼくはさらに肩を落とします。


「ミュゼ……」

「……いいん、です……。覚悟は……してた、つもりです、から……」


 それは言った自分でも、とてもそうは思えないくらいの声でした。

 小さくて、全部は届いていないんじゃないか、それくらいの声でした。


「…………」

「…………」


 静かでした。


 さっき、ぼくはかなり大きな声でしゃべってたと思うけど。

 もしかして、あれも近所に聞こえてるかな。


 そんなことを思うと、死ぬほど恥ずかしくなります。


 ぼくは、これからどうすればいいんだろう。藤子さんがいなくなってから、どうすれば。


「……ミュゼ」

「…………」


 どんどん思考が後ろ向きになっていくぼくを呼んで、藤子さんが目の前にひょっこり顔を出します。


 周りに明かりはなくて、夜の闇だけ。けれど、藤子さんの青い瞳だけはその中でも際立って見えました。


「……もう少しだけ」

「……?」

「もう少しだけ……せめて、今夜だけ。……お主のそばに、いてもよいか……?」

「藤子さん……」


 藤子さんは、まったく笑っていませんでした。ただ、ひたすら感情を抑えるように、眉根に力を込めて……。


 ……そっか。


 イヤなのは、ぼくだけじゃないんだ。藤子さんも……まだ、ぼくと一緒にいたいって、そう思ってくれて……。


「……いて、ください。お願いします……」

「……うん」


 ぼくは、思わず藤子さんを抱きしめていました。

 藤子さんの身体はすっぽりとぼくの腕の中に収まってしまって、ぼくには彼女のつむじを見ることができました。


 小さい。ふとそう思ってしまいます。

 ぼくはいつの間に、こんなにも大きくなっていたんだろう。


 初めて会った時、まだ少しだけぼくが大きい程度だったはずなのに。ぼくは、一体いつの間にこんなにか大きくなっていたんだろう。

 自分のこの腕の中に、大好きな人を抱え込めてしまうくらいに……。


「……どうした?」

「いえ……なんでもありません。ただ……」


 でも、どんなに大きくなっても、それは見た目だけで。ぼくは相変わらず無知な子供だし、あまりにも大きな、現実という理不尽に立ち向かう勇気すら、ありません。


 そんなぼくとは逆に、今ここにいる小さな女の子は、大きすぎる邪悪に挑もうとしています。現実を越えた先にある、大きすぎて誰にも見えない何かを手にするために、彼女は。


「……ただ?」


 途中で切ったぼくの言葉の続きを促しながら、藤子さんが顔を近づけてきます。


「……ただ、可愛いな、って」

「……たわけ」


 藤子さんの身体がぴくんとはねたのを感じました。目の前にある白い肌が、少しだけ赤くなったように思えます。


「いいじゃ、ないですか。大好きな奥さんですから……褒めさせてくださいよ。どうせ……誰も聞いてる人なんていないんですし」

「……たわけ」


 同じことを言いながら、藤子さんはぼくに身体をすり寄せます。もう、これ以上はないくらい、ぼくたちは密着しているのですけど。

 それでも、もっと、もっとと言っているように、藤子さんはもどかしそうに、ぼくをぎゅう、と抱きしめます。


「……大きゅうなったな」

「……なっただけ、ですよ」

「いや、なった。なったよ……もう、お主は大人じゃ……賢くなった、強くなった……」

「……くすぐったい、です」

「……それに引き替え、わしは」

「……?」

「……すまんな。このような子供の身体……つまらなんだろう?」

「そんなわけないじゃないですか」


 言いながら、ぼくは藤子さんの頭を静かになでます。


 わかっています。ぼくがそんなことを思っているわけがない、って、藤子さんは絶対わかってる。

 わかってるから、だからこそ、言うんです。


「ぼくが好きなのは、藤子さんです。……藤子さんの、この身体とか顔とか、あと、それに、性格とか、そういうのが、全部好きだから」


 ぼくの、この言葉を聞きたくて、だから藤子さんは言うんです。


「だから、そんなの気にしないでください」

「……うん」


 目が合いました。青い瞳。きれいな目。外から見た、この世界みたいな目。


 この目にもし飲み込まれたら、きっと、とても幸せなんだろうな。

 そんな風に思ってしまうくらいに見とれてしまう、きれいな青。


 そんな宝石を見つめながら、ぼくはさらに言います。


「……でも、困ったなあ」

「? 何がじゃ?」

「だって。藤子さんのこんなきれいな身体、知っちゃったんですよ。ぼく……もう、大人の人は抱けないかもしれないです」


 もちろん、それは冗談なんですけど。


「……馬鹿」


 ぽん、と頭をたたかれました。


「……あはは、痛いですよ」

「嘘を、つくでない」

「ごめんなさい」

「許さぬ」

「ごめんなさい」

「ダメじゃ」

「ごめんなさい」

「イヤじゃ」


 しばらく、そんな子供みたいなやりとりが続きます。


 こんな時間が、ずっと続けばいいのに。

 ふと、そんなことを思ってしまう。


 思ってしまうから、楽しいはずなのに、この時間がとても苦しく思えてしまう……。


「……ミュゼ」

「はい、なんですか?」

「…………」


 もぞもぞ、と、藤子さんが動いています。


「……ここにいますよ。なんでしょう?」

「ミュゼ」

「はい」


 返事をしながら、ぼくは藤子さんに押し倒されました。ぼくの身体の上で、藤子さんがぼくにしがみついています。


 けれど、別に混乱なんてしません。だって、藤子さんがいきなり想像もしてないことをするのは、いつものことですから。それは、ぼくが一番知っています。


「許さぬからな」

「はい。どうすれば、許してくれますか?」

「……抱いてくれ」


 そう言って、藤子さんはもう一度、ぼくの身体を抱きしめました。

 澄んだ声は、少しだけふるえているのがわかりました。そしてそれが怖い、とかではないことも、ぼくにはわかります。


「……最後に、お主を」

「…………」

「この身体に何があろうと……どんなことがあろうと、絶対に忘れぬよう……この身体に、お主のすべてを刻んでおきたい」


 そう言ってぼくを見た、藤子さんの表情は。

 見た目は子供なのに、とても艶やかで、なまめかしいものでした。

 この、まったく違う性質の気配が同居する、藤子さんならではの表情も、これが、最後、なんですね……。


 ぼくは。


 返事の代わりに、藤子さんの唇を奪います。


「……ミュゼ」

「……藤子さん」


 そして、ぼくは横に転がる形で、藤子さんをその場に組み敷きました――。


 3.


 幾度となく、寄せては返す漣のように、この小さな身体を包んだ快感が遠い水平線に去った今。

 わしの思考は痛いくらいに澄み切り、同時に、それが故に痛む胸を押さえつけることしかできなかった。


 胸が痛むは、そこに罹患があるからではない。不老の楔を打ち、死を放棄したこの身体に、医学的な理由による痛みなど、介入することすらあたわぬ。


 ではなぜ、この胸が痛むか。

 答えは至極簡単。今、わしのすぐ目の前で横たわる男の存在が、そうさせるからじゃ。


 暗い。周囲に明かりは一切ない。強いて言うのであれば、立て付けなどほとんど考慮されていない、この家屋の隙間から届く、沈みかけの月光くらいか。

 しかし、その程度の光では、周囲を伺い知ることができるほどにはならない。ただそれでも、そんな光にうっすらと照らされた我が夫の顔は、とても儚く、そして、美しい。少なくとも、わしはそう思う。


 ミュゼ=ク・コオテノル。それが、夫の名前。この男こそ、我が胸の痛みの元凶。


 じゃが、呪いの類を打ち込まれたからではない。そんなことをする男ではない。

 この痛みは、この男を愛しいと思うからこそ、生ずるもの。


 離れたくない、と。

 別れたくない、と。


 わしがそう思えば思うほどに、この胸のうずきは痛みとなり、ずくん、とこの平坦な胸を打つ。


 それは、恋愛と呼ばれる感情のなせる業であった。仏がかつて、愛別離苦と呼んだ苦しみそのものである。


 わしの過去を知る人間はこの地にはおらぬが、故郷と呼べるかの国のものが知れば、何の冗談かと、一笑に伏されるであろう。

 あまたの命を奪い、天災の数々を呼び寄せ、魔法使いたちに恐れられたわし。この身が災厄の魔女と呼ばれて早幾とせ、そんな化け物が、よもや一人の人間に恋い焦がれる時が来るなど、一体誰が予想したであろう。


 それほど、わしが抱いたこの感情は、わしには似つかわしくないものであった。わし自身、今でもそう思う。五十の半ばを過ぎてからの老いらくの初恋なぞ、まったく年甲斐もない。あまりに突拍子もない。


 しかし結局のところ、わしも生まれは人間であった、というだけのことである。

 死を棄て、魔に生きるこの身とて、その心根は変わらず人間であった。それだけのことである。

 寂しかった、という想いは間違いなくあったのであろう。今ならそう断言できる。唯一わしを慕ってくれた妹の死は、わしが思っていた以上に堪えていたのだろう。


 ミュゼの無垢な態度に触れるにつけて、わしは己の心は溶けていった。無心にこのわしを慕うその姿……それが今、わしの目の前で静かに寝息をたてているこの男の、最も気に入った点かもしれぬ。


「……すまぬ」


 ふと、そんな言葉がわしの口をついて出た。隠しきれない本心が、ついこぼれ落ちたのだろうか。


 しかし、そんなつぶやきが、今まで抑えていた気持ちを解き放つのは一瞬であった。

 まこと、堤は蟻の一穴で崩れさるものである。


「すまぬ、ミュゼ……。……あの日、助けることなくわしが素通りしていれば……わしらは今、このような想いをせずにすんだであろうに。…………、……いや」


 そ、っと、ミュゼの頬をなでる。少しだけ、ざらりと髭の感触があった。初めて会うた時は、まだ毛も生えそろっていない子供であったというのに、まこと、時間はあっという間に過ぎていく。


「あれがなければ、この幸せな二年間はなかった……。じゃから……アウソの村に入る口実を得るための、ただの打算でしかなかったあの行為も……あの決断は、間違っていなかったと……そう、思いたい……。わしは、そう思う……」


 幸せ。それは、当人が決めるもの。

 であるから、この二年間を幸せと呼ぶことができるのは、本心からわしがそう思っているからであろう。


 何か、特筆すべきことがあったわけではない。何かあったかと問われれば、特に何も、としか答えられぬ二年間。

 しかし、それは確かに幸せであった。

 己が愛した男の隣で、ただ笑って、共に歩いていられた時間は、異常の中で生き続けてきたわしにとって、何にも代え難い幸せであった。


「わしはな、ミュゼ……お主と共にあることで、生まれて初めて、幸せという感情を得ることができた。そんな実感を得たのは、五十年以上を生きて、初めての経験であった……。

 共に、畑を耕したな。共に、街を見たな。共に、川を泳いだな。共に、星を見たな。他人から見れば、どうということもない経験でしかないやもしれぬ……しかし、それが何より、嬉しかった……」


 言葉が止まらぬ。じきに月も落ち、魔界がすぐ後ろに這い寄ってくるというのに。それでも、まだ。もう少しだけ。


「ミュゼ……? お主はわしにとって……初めての男であった……。お主に出会えて、わしは、女の幸せというものを、知ることができた……」


 脳髄が痺れて、深い思考を失わせる甘美なひととき。身も心も犯す劇薬にも似た、全身の陶酔。それもまた、愛する男とのまぐわいであればこそ。


「……お主が、わしを女にしてくれた。……生むことが、できたらどれほどかよかったであろうが」


 ミュゼと出会うて、わしは初めて不老のこの身を呪った。


 子供の身体のままその楔を打ち込んだわしは、いまだに子をなす力をこの身に持っておらぬ。そして、その力は未来永劫、わしに宿ることはない。


 魔法でどうにかしようとした。しかし、そのような魔法を得るには、わしはその道に――創るということに、不慣れすぎた。わしは、つくづく破壊と殺戮にのみ、傾注していたことを嫌と言うほど思い知らされたのであった。


「結局……間に合わなんだ。……すまぬ」


 無論、このどこまでも温厚な男が、かようなことで怒るはずがない。

 はずがないからこそ……だからこそ、そんな男の嫁として、立つ瀬がなかった。


 家を守るだとか、女は世継ぎを生む責務があるだとか、そんな馬鹿げた故郷の慣習に縛られているつもりはない。

 ただ、そんな優しすぎる男を愛する身である自分が、己の愛する男の子を一人たりとも宿すことができない……それが、どうにも歯がゆくてならなかった。


 それすらも、ミュゼは受け入れてくれるのじゃろうがな。


「ミュゼ……イヤじゃよ……。本音を言えば、イヤじゃ……まだお主と……一緒にいたい……」


 しかし。

 地球断章を、母の記憶をすべて持つものとして、やらねばならぬことがある。この星を侵す異形を討つ。それが我が使命。


 それはもしかすると、出すぎた真似であるやもしれぬ、と思うこともある。

 無数の生命を育む母なる地球にしてみれば、わしのような人間が一人で何かしようとしたところで、詮無きことであるやもしれぬ。


 それでも……わしは何かをせずにはいらぬのであった。

 母を狙う、外宇宙の化け物がうごめいている限り、無意味でもいい、あがかずにはいられぬ。何もせずに母を失うことなぞ、それこそ至上の恥辱である。


 だから、わしは戦う。悪鬼の謗りを受けてもなお、戦う。災厄の魔女と罵られようと、構うものか。

 それが、わしの選んだ道であるから。それが、わしの存在意義であるから……。


「もう……行かねばならん……」


 わしは言いながら、両手で両頬を強くぬぐい取る。手のひらに、黒い化粧がついていた。それは、コオテノルの血族である証。


「……これで、もうわしはアウソの人間ではない……」


 べっとりとついた化粧を、魔法で消し去りながら……消えゆく黒い粒子の先に、ミュゼの頬の化粧を見つめながら、更にひとりごちる。


「……これでもう、お主との思い出を形として残すものはこの腕輪だけじゃな……」


 右の手首で、光という光を飲み込む黒い腕輪が一際存在感を放っている。それは、欧州の風習を真似て互いに交わした腕輪。わしからは白い腕輪を、ミュゼからは黒い腕輪を。

 こやつは逆が良いと言ったが、しかし純粋なミュゼにこそ白は相応しいだろうし、わしのように穢れた外道を歩んできたものにこそ、黒は相応しいじゃろう。


「……これは、これだけは、もらっていくぞ。よいであろう?……のう……」


 無論、この腕輪のように、物として形のあるものがなければ忘れてしまうなどということはありえない。何より先ほど、ミュゼの全てをこの身体に刻んだのだから。

 あの幸せな時間を忘れることなど、出来るはずもない。けれども、共に同じ時間を過ごしたという、確かな証が欲しかったのも事実。


「……ミュゼ」


 彼の顔を見る。まだ少しだけ、あどけなさを残す顔。しかしそれは、確かに成熟した男の顔でもある。

 わしが、好いた顔。凡庸というには整い、美形というにもいささか異なる優しい面持。それでもわしは、そんな顔を、好きになった。


「……ん……」


 その唇に、己の唇をそっと重ねる。

 刹那、世界が音を失い、時間が意味を失ったような錯覚に陥る。この錯覚が、いっそ真実であればよいと思う。


 しかし現実は無情であり、決して容赦がない。

 静かに顔を離して、わしはミュゼから、夫から距離をとる。


 そっと、立ち上がる。背を向ける。


「……この服も、二年ぶりか」


 そして、かつては日常的に羽織っていた装束の袖に、腕を通す。衣擦れの音が、丑三つ時の闇に溶けた。

 左前に整え、袴に足を通す。最後に、青い髪留めで総髪を結い上げれば、わしは災厄の魔女へと――死を呼ぶものへと戻る。


 人間を、社会を、文明を。

 人類が築き上げたすべてを破壊して、奪い尽くして、それを贄として、母なる地球の操を守るもの。


 しかし、愛は知っている。己がそれを踏みにじってきたことも、知っている。これからもそうするであろう、ということも。

 であればこそ、わしに愛を甘受する資格などない。そんな幸せに身を委ねる権利など、わしにはない。


「……ミュゼ……」


 ――最後。

 本当に、これが最後じゃ。


 わしは、わしを慮って寝たふりを続ける男に……夫と呼び、愛を交わした男に振り返る。

 これ以上は、いけない。決意が、鈍る。


「……さらばじゃ、わが夫よ」


 それだけ告げて、わしは一気に屋外まで走り出ると、その勢いのままに、夜の空へと飛び上がる。

 瞬時に紡いだ飛翔の術式に合わせて、青い光の粒子が弾けて散った。その余韻を村に振りまきながら、わしの身体はみるみるうちに雲の上にまで浮上する。


 月が、地平線の彼方に沈んでいた……。


 4.


 藤子さんが口づけをしてきた時、どれほど彼女をそのまま抱き止めたかったことでしょう。そのまま彼女を離さないように、しっかり抱きしめて……それができれば、どれほどよかったでしょう。


 でも、ぼくにそれはできませんでした。してはいけないのです。

 彼女は、こんなところに留まっていていい人ではないのですから。彼女にしかできないことが、たくさんあるのですから。


 それに引き替え、ぼくにできることといえば。

 彼女の決意が揺らいでしまわないように、ただ、床に横たわって、寝たふりをするくらいです。

 いいえ、それすらも藤子さんには恐らく気づかれていたでしょう。

 結局のところ、ぼくが藤子さんにできることなんて、何もないのかもしれません。


 藤子さんは、ぼくが幸せを教えてくれた、と仰いました。


 本当でしょうか?

 ぼくは、本当に藤子さんの心を、慰めることができていたでしょうか?


 ……そんなことを思うのは、ぼくを好きだと言ってくれた藤子さんに、失礼かもしれません。

 だったらせめて、ぼくは誇るべきなのでしょう。大好きな女の子を、幸せにすることができたのだと。男として、これ以上の誇りはないのだ、と……。


 藤子さんが出ていって、どれくらいの時間が経ったでしょうか。

 ぼくは、身体を起こす気力もなく、ただそのまま、そこでぼんやりと天井を見つめていました。


 走馬燈、というものが、藤子さんの故郷にはあるそうです。そして、人間が死ぬ直前に、その明かりのようにそれまでの人生を思い返す、という話を聞いたことがあります。

 それはきっと、今のぼくのことを言うのでしょう。


 本物は、見たことがありません。死にかけているわけでもなければ、今ここで死ぬだけの勇気もありません。

 けれどなんとなく、今ぼくが感じている感覚が、「走馬燈のように思い出が浮かんでは消える」という表現を表しているのだと、直感的に思いました。


 幸せすぎた、二年間。初めて藤子さんに会ったときから、今に至るまでの思い出が、何度も何度も、ぼくの頭の中を通り過ぎていきます。

 そのすべてに、藤子さんがいます。藤子さんしか、いないかもしれません。

 こんなにもぼくの中には藤子さんがいて、藤子さんの存在がどんなにかぼくの中で大きいのか、改めて痛感します。


 本当に、もう二度と会えないのでしょうか。

 化け物と戦ってると言っても、ずっとずっと休みなく戦っているわけではないでしょう。一年くらい、休憩することはできるのではないでしょうか。

 それくらいの時間があれば、またこの村に帰ってくるくらい、できるんじゃないのかな。


 そこまで考えて、でも、それもきっとだめなんだろうな、と、なんとなく思いました。


 ここが藤子さんの帰る場所だと、もし敵に知られてしまったら、どうする?

 そう、思ってしまうのです。


 ……藤子さんは、ぼくやアウソを巻き込みたくない、と二年前に仰いました。彼女が戻ってこないという選択をしたのは、そういうことなのでしょう。いたずら好きで、人をからかうのが好きな藤子さんですが、本当はとても優しい人だから。

 そもそも、ぼくが考えたことの前提である「休憩」は、いつ来るのでしょう。もしそれが、たとえば五十年後だったりしたら?


 ……ぼくはとっくにおじいちゃんでしょうし、もしかしたら、そもそも生きていないかもしれません。

 きっと……それだけの時間があいてしまったら、感じている時間も変わるでしょう。だって藤子さんは、歳をとらないのですから。


 考えれば考えるほど、もう二度と会えないのだという実感が湧いてきます。それはどうにも抑えようがなくて、涙が浮かんでくるのも止められそうにありません。

 どうせ止まらないなら、と、ぼくはそれに身を任せます。涙が、頬を伝わるのがわかりました。思っていたより多い涙に、とりあえず利き手で顔を覆い隠します。そこにあてがわれている白い腕輪の感触が、ぼくの顔に広がりました。


「藤子さん……」


 気づけばぼくは、藤子さんの名前を呼んでいました。


 もう、返事はありません。二度と来ません。それでも、今もどこかを飛んでいるだろう、大好きな女の子のことを、忘れるなんてできるわけがなくて。


「藤子さん……とうこさん……!」


 何度も、何度も彼女の名を呼んで。せめて、心の中でだけでも、彼女と一緒に歩いていたくて。


「……、とう、こさん……」


 ぼくには、藤子さんの隣にずっといる資格はないのです。彼女と同じ道を歩くだけの勇気も、力もありません。

 だから……ぼくにできることは。

 今のぼくにできることは、ただ、彼女の無事を祈ることだけ。


「…………っ。藤子さん……! 行ってらっしゃい……!」


 絞り出したその声は、叫びなんてものではなくて、むしろ声と呼んでいいのかわからないくらい小さいもので。

 当然、藤子さんに届いているはずなんかありません。


 でも、それでも藤子さんに届いてほしいと願いながら、ぼくの気持ちが、藤子さんに届いてほしいと祈りながら。

 ぼくは、言い続けます。


 行ってらっしゃい、藤子さん。

 どうか、お気をつけて。どうか、ご無事で……。


 藤子さん。

 さようなら、ぼくの愛した人。

 暗闇の中でひっそりと咲いている、美しすぎる女の子。寂しそうな青い目がとてもきれいな、女の子。この星と同じ目をした、女の子。


 藤子さん――青い星色の瞳をした、あなたのことが……今までも、そしてこれからも……どんなことが、あっても、ずっと。

 ぼくは、ぼくは、あなたのことが。


 あなたのことが、大好きです――。


◆ミュゼ=ク・コオテノル(Mewws-KU Cohtenor)

アメリカ南部のネイティブアメリカン、アウソ族最後の酋長。生年不明、千八百八十九年没。

アウソ族において農耕を受け持つ、コオテノル氏族出身。

早くから魔法使いとしての頭角を現し、千八百五十八年、コオテノル氏族の族長となる。

それ以前より、白人との協調路線を訴え続けており、族長就任以降はアウソ族と白人との調停役となる。

迫害される側の立場でありながら、魔法を織り交ぜた巧みな交渉を続け、千八百六十四年、アウソ族は法的な平等などを条件に北部と同盟し、南北戦争に参戦。その終結に大きく寄与した。

その交渉手腕は確かであり、合衆国側からはネゴシエイターの名で呼ばれた。

千八百七十一年、ホルスアウソを譲り受け酋長に就任する。以降も融和策を採り続け、結果アウソ族は白人との融合を早期に実現することになる。

千八百八十九年、病没。彼の死後、既に部族としての統率を必要としなくなりつつあったアウソ族は、以降新たな酋長を立てなかったため、歴史上彼が最後の酋長となった。

離婚後最期まで独身だったため、彼の血筋は途絶えてはいるが養子は多く、その中から魔導具ホルスアウソ、白い藤天杖を共に二十一世紀現在まで受け継ぐ血筋が生まれている。

彼の妻が、「災厄の魔女」光藤子であった事実を知る者は、その血筋に限られており、史実において彼の妻が誰であったのかは謎とされている。

「ミュゼ=ク」はアウソ族の言葉で「導く者」を、「コオテノル」はトウモロコシを意味する。

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