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枯れずの花  作者: ひさなぽぴー/天野緋真
外伝 星色の瞳のあなたへ
10/16

あなたとの日々

 1.


 数日が経ちました。藤子さんは、酋長たっての願いで、村の戦士の人たちに、魔法の手ほどきを授けることになっていました。


 酋長は、アウソ族が心配なのだと思います。ぼくもそうです。

 最近、白人の人たちのやることがどんどん激しくなってきています。藤子さんが言うには、なんでも「インディアン移住法」という、法律? というものが白人の人たちにはあって、ぼくたちをここから追い出そうとしているらしいのです。

 実際、周りからは多くの部族がいなくなっています。ぼくが生まれる前はもっと、大勢の人が住んでいて、頻繁に交流があったらしいのですが。


 ぼくたちアウソ族は、酋長をはじめ魔法使いの人たちがいるので、なんとかなっています。けれど、これ以上ひどくなったら、どうなるかわかりません。

 そんな中で、藤子さんという魔法の達人が現れたのです。彼女から教えてもらえれば、もっとみんなの魔法が上達する……そうすれば、なすすべなく住処を追われることもなくなる……酋長は、そう考えているみたいです。


 ……あ、ぼくの推測じゃなくて、藤子さんの推測なんですけどね。


 ともあれ、藤子さんは今、村の人たちに魔法を教えています。が、彼女の教え方はとても厳しいようです。ぼくはまだ成人と認められていないので、魔法に関することには触れさせてもらえませんが、聞こえてくる藤子さんの怒声から、そうとしか思えません。


 そんなある日のこと。ぼくはいつものように、藤子さんのための夕食を持って、彼女が寝泊りする家を尋ねました。

 ところが、何度声をかけても彼女からの返事はありません。ぼくが不審に思っていると、突然上から声が降ってきました。


「おうミュゼ、いつもすまんな」


 予想していなかったほうからの声に、ぼくは思わずそちらを見ます。そこには、屋根からひょっこり顔を出す、藤子さんの姿がありました。


「え……っ、な、なんでそんなところに……!?」

「まあ色々とな」


 驚くぼくのすぐ横に飛び降りて、彼女はにやっと笑います。いたずらっ子みたいなその笑顔を、最近ぼくはよく見ます。この笑顔が一番彼女らしい、と思います。

 だって、こんなに楽しそうに笑うんですもの。ぼくは、彼女のこの笑顔が大好きになっていました。


「いや、指導が長引いてすまんかった。お主には冷や飯を運ばせることになってしまったな」

「え、いいんですよ。ぼく、こういうの嫌いじゃないですし……」


 辺りは、既にほとんど暗くなっています。太陽の姿は見えません。かすかに残る光だけが、空を少しだけ赤く染めています。


「……でも、屋根の上で何をなさってたんですか?」

「ああ、星読みの準備をしながら、ちと魔導具をな」

「ほしよみ?」


 ええと、どういうことでしょう。ぼくにはよくわかりません。

 星、といえば夜空に輝くあの光でしょうけど、読む、という言葉が……というより、本というものが、……というより、そもそも文字がないぼくたちの村で、その言葉は理解しにくいものです。

 ぼくは藤子さんからいろいろ教わってはいますが、まだ文字に関してはさっぱりなのです。


 そんなぼくの気持ちを知っているのかいないのか、藤子さんはにやっと笑って、それからこともなげに言います。


「言葉通りじゃよ。……お主も見るか?」

「えっ。……い、いいんですか?」

「無論じゃ。別に隠し立てすることでもない」

「じゃ、じゃあ、お願いします……」

「わかった。……ほれ、行くぞ」

「行くって……わっ、わああっ!?」


 次の瞬間、ぼくは藤子さんに手を引っ張られて、そのまま空に舞いあがっていました。あまりの出来事に、思わず手にしていた食事を落としてしまいます。ところが、それすらも途中で落ちるのが止まり、反対方向にひとりでに動きます。

 やがて屋根の上にぼくたちがつくと、それも静かにぼくたちの隣に降りました。


「と、飛んで……」

「ああ。……ん? そう驚くようなことか?」

「び、びっくりしますよ、普通!」

「魔法が当たり前の村に住んでおいて何を」


 まだ動悸が止まらないぼくにくすくすと笑って、藤子さんは屋根の上に座りました。屋根に人が座れるようなしっかりとした足場なんてないと思っていましたが、よく見ればそこには板が何枚も並んでいて、ぼくたちを支えています。いつの間に……。


「それは……?」


 座りながら、藤子さんがそばにあった何かを手に取ります。それに目を向けて、ぼくは思わず聞きました。


「うむ、魔導具じゃ。あまりにも質が悪かったものじゃから、つい改良したくなってな」

「あ、あはは、なるほど……」


 それは、やじりでした。とはいっても普通のものではなく、魔法の力を持っているものです。


 この村には、酋長が持つホルスアウソというすごい魔導具がありますが、それ以外の人が持っているのは、いいものから悪いものまで様々と聞いています。中には、本当に粗悪なものも結構あるようで、これはそういうものなのでしょう。

 確かに、藤子さんの地球断章や、酋長のホルスアウソに比べれば、威圧感、というか、すごみがまったく感じられません。


「魔法を扱うにおいて、本人の資質はもちろん最重要じゃが、手にする魔導具でも結構重要でな」

「はい」

「いかにわしといえども、こんなものを渡されては唖然とするしかない。わしの国には『弘法筆を選ばず』という、達人は道具の善し悪しに関係なく良い仕事をする、という意味の言葉があるが、いかにその道の達人であっても、使えぬものは使えぬのが現実よ」


 そうでしょうね。確かに腕のたつ人は、悪い道具を使っても成果を出します。けれど、道具がよければよりその確率は上がるでしょうし、逆なら下がるでしょう。


「でも、魔導具なんて、そんな改良とか、できるものなんですか?」

「当たり前じゃろう。お主とて、農具の手入れや調整ができぬわけではあるまい?」

「あ、そっか……」

「仕事道具と思えばこそ、自然とそういう技術も身につくものよ。逆にいえば、己の道具のことも分からぬような奴に、達人となる資格はない」


 手厳しいです。でも、その通りだとも思います。


「……こんなものかのう」

「完成ですか?」

「うむ。だいぶ質が上がったな」


 言いながら、藤子さんはそのやじりを空にかざしました。光はもうほとんどないですが、なんだか喜んでいるように光っている、そんな感じに見えました。


「どれ、試してみてくれんか」


 ところがそう言うと、彼女はそのやじりをぼくに投げてよこしました。慌ててぼくはそれをつかみます。


「えっ、ぼくがですか!?」

「うむ。恐らくお主ならば、特に何もなくともできるはずじゃ」

「で……っ、でも、ぼくまだ大人に……」

「ミュゼ」


 言いかけるぼくに、今度は藤子さん、人差し指をぼくの口にあてがいました。何も言うな、ということでしょうか。


「この間も言うたであろう。掟は破るためにある、とな」

「い、いや、それは……」

「大体、お主は既に大きな掟破りをしておる。今更それが一つ増えたところで、痛くもかゆくもなかろ。のう?」

「…………」


 それを言われてしまうと返す言葉がないんですが……少なくとも、まったく痛くないというわけではない、かと……。


「ほれ、何かやって見せてくれ。思いつかんならお題をやろう。雷、どうじゃこれで?」

「うー……」


 彼女が、ぜがひでもぼくに魔法を使わせる気のようです。こうなったら、彼女は自分の意見を絶対に曲げないでしょう。仕方ありません。


「雷って言ったって……ぼく、訓練してないんですからそんな簡単には……」


 できるわけがない、と言おうと思った瞬間でした。


 開いたぼくの手から、青白い閃光が鋭い音と共に発射されました。そしてそれはそのまま、まっすぐ藤子さんに……。

 飛んでいきましたが、別に何もありませんでした。彼女が軽く手を振っただけで、あっさりとその光は消えてしまったのです。


 予想に反して雷が出たこと、それが藤子さんに当たりそうになったこと、いろいろなことが一気に起こって、ぼくはびっくりするしかありません。


「おいおい、いきなり攻撃してくるとはやってくれるのう」

「ちが……っ、違いますよ! そんなこと、するわけないじゃないですか!」


 そして藤子さんの言葉に、ぼくは全力で手と首を振ります。


「ははははは、わかっておる、お主はそんなことをする男ではない。軽い冗談じゃ、許せ」

「もう……!」


 藤子さんは、なんだかんだでいじわるです。いや、別に本気で困るようなことはしないんですけど……。


「しかしやはり、お主は術がうまいな。よい器じゃ」

「……はあ……」


 そうなんでしょうか。だといいんですけど。


「……が、やはり使い手以前に、これが根本的に粗悪品じゃな。よほどできの悪いやつが作ったらしい」

「そういうところにも、向いてるとかあるんですね」

「まあな。逆に、アウソの祖となった男は恵まれておったな。ホルスアウソ……あれは相当の能力がなければ造れぬ優秀な魔導具じゃ」

「やっぱり、すごいものなんですね」

「ああ。かつてこの世界で隆盛を誇った文明、地域というものは、得てしてそうした強力な魔導具により発展した。外なる力に頼るのはこの星の生命としては癪じゃが、魔導具がなければ人類は、今でも洞穴で暮らしておったやもしれぬ」

「気の遠くなる話ですね……」

「うむ……まあ過去の話をいくらしたところで、どうしようもない話じゃ。今、わしらはこうして存在して、生きておる。それでよい」

「はい」


 興味深い話ではありますが、あんまり深く考えたところでどうにもならない話題でもあります。もし、と仮定して考えることは楽しいかもしれませんが。


「さて、そろそろ始めるとするかな」


 言いながら、藤子さんは地球断章を手に取りました。いつものように、最初からそこにあったように。


 先日聞いたのですが、この間のようにたくさんの紙切れを飛ばしたりして大げさに見せる出し方は、相手に見得を切る時しかしないそうです。普段はこのように、そのまますぐに手にするということです。


「ほしよみ、ですか?」

「うむ」


 気がつけば、太陽はもうすっかり地面の下で、その光もほとんど感じられなくなっていました。空を見上げてみれば、既に一番星、二番星と、続々と星が輝き始めています。


 藤子さんも、その空を眺めています。眺めながら何を考えているのかはわかりませんが、じっくりと眺めているところを見る限り、これは彼女にとって重要なことなのでしょう。

 ぼくはしばらく、彼女に従って空を眺めていましたが、所詮知識がありませんので、すぐに手持無沙汰になってしまいました。そこで、お邪魔かなとは思いましたが、彼女に質問をします。


「あの、どうして星を見るんですか?」

「どうして、か。ふむ……理由はいくつかあるが……」


 質問に答えながらも、藤子さんは星を見続けています。やはり、それだけ大事なことなのでしょう。


「一番の理由は、敵の動きを事前に察知するためじゃな」

「え……敵、ですか?」

「うむ、左様」


 敵とはまた、穏やかではありません。彼女は、そんなに戦わなければいけない相手がいるのでしょうか。というより、星を見ることが、どうして敵の動きとつながるのでしょう。

 色々な疑問が浮かんで、ぼくはうーん、と首をひねります。


「わしは、この星を蝕む外なる神とその眷属どもを相手に戦っておるのじゃが」

「……え?」

「そやつらは、星辰が適切な位置になければ動くことができない、という制限を受けておる。逆に言えば、星辰が正しければ地球は甚大な被害を被ることになる。それをあらかじめ知るために、わしは星を読むのじゃ」

「……えーっと、んっと……」


 続いた言葉でも、わからないことがいっぱい出てきました。何から聞けばいいのか、その順序にも迷うほどです。


「あの、せいしん、ってなんですか?」

「ふむ……。お主、星の位置が日々移り変わっておるのは知っておるか?」

「あ、はい、それはわかります。夏と冬じゃ、見える星が違いますよね」

「うむ。そういう星の位置関係、見える星の状態などのことを、星辰という。この並びや光りの強さ、位置が一定の状態だと、わしの敵は動き出すのじゃ」

「は、はあ……」

「そして、その星辰の状態を、絵に写し取ったものを星辰図という。たとえばこれが昨日の星辰図じゃが……」


 言いながら、藤子さんは手元の地球断章をぼくに見える位置に持ってきました。そして、その中の一枚をぼくに見せます。


「……えっと」


 その中に描かれていたのは、絵でした。

 絵……です。それはわかるんですが、あいにくとこれを読み解くには、専門の知識が必要そうです。ぼくには、丸や線が雑多に描かれているようにしか見えません。


 そんなぼくの顔を見て、藤子さんはくすくすと笑いました。


「ははは、まあわからんじゃろうな。わからんでもよい。この書には、かつて邪神が闊歩していた時代の星辰図もあってな。毎日星を眺め、そうした過去の記録と照らし合わせることで、わしは敵の動きをうかがっておるのじゃよ」


 ううん……これを毎日、ですか……ぼくにはとてもできそうにないです。


 それにしても、冬ならともかく夏は夜が短いです。一日につきどれくらいしているのかはわかりませんが、こんなことを毎日やっていたら、藤子さんの身体がもたないんじゃないでしょうか。


「毎日ずっとやっていたら、疲れませんか?」

「そうでもない。わしはそういう、健康に関するものとは縁を切っておるからな」

「縁って……そんな、大げさな。無理はしないでくださいよ?」

「いや、別に冗談でもなんでもない」

「え?」

「わしは自らの魔法により、老いることも死ぬこともを放棄しておる。いわゆる不老不死の存在じゃ。どれだけ時間を経ようが、わしは永劫この姿を保つ」


 その言葉にぼくは、表情をこわばらせて藤子さんの横顔を凝視しました。

 不老不死って……要するに、あれですよね。年を取らなくて、若いままっていう……あの……。


「ん。これ、そう化け物を見るような目で見るでない」

「え、や、違いますよ、そういうわけじゃ……」

「あーあ、傷つくのう」


 そう言うと、藤子さんはめそめそと泣いたふりを始めました。

 藤子さんは、人をからかうのが好きな人です。それはここ数日の間でよくわかっています。ですから、これもきっと泣いたふりなのでしょう。

 けれど、もし本当に泣いていて、彼女の心を傷つけてしまっていたとしたら、それはとても心苦しいことです。


 一応、ぼくの中の冷静な部分は、これは泣いたふりで、ぼくはからかわれているんだ、と言っています。けれど、もし本当に泣いていたら、と思うぼくもいて……結局、ぼくは藤子さんにすがりつくように声をかけていました。


「ち、違いますって、本当にそんなんじゃないです! だ、だってぼく、ぼくは……」

「だって、なんじゃ?」

「はわあっ!?」


 そして気がつけば、ぼくの目の前にはにやにやと笑う藤子さんがいました。思わず、ぼくはのけぞって屋根から落ちそうになりました。が、そこはすぐに藤子さんがぼくの身体を引き寄せてくれたので、なんとか落ちずに済みます。

 自分の足場を確保して、改めて藤子さんに目を向ければ、青い瞳が楽しそうにぼくを見つめていました。ああ、やっぱりぼくはからかわれていたようです。わかっていました、わかっていましたとも。


「もう、藤子さんってば……!」

「はははは、軽い冗談じゃ、許せ」

「もう……」


 とはいえ、ぼくは別に本気で怒っているわけではありません。むしろ、これくらいなら構わないと思っています。

 別に、からかわれたいというわけではなくて……ぼくはただ、こうやって少しでも多く、藤子さんと一緒にいて、彼女の顔を見ていたいだけ、彼女の声を聞いていたいだけなのです。


「……じゃあ、その、藤子さん」

「うん?」

「あの……失礼だとは思うんですけど、その……藤子さんって、おいくつ……ですか……?」


 彼女の顔を見ていて、思いました。年を取らない、ということは、見た目通りではないことは間違いないでしょう。

 見た目だけでいうなら、彼女はぼくよりも年下にしか見えないと思います。けれど、彼女と会話していればわかりますが、彼女はとても博識で、とても落ち着いていて、子供らしいところはありません。


 失礼だとは思いました。けれど、好奇心が勝ってしまったのです。


「歳か……」


 そうつぶやくと、藤子さんはあごに手を当てて考え込みました。

 ええと……きっと年上だろうとは思っていましたけど、そんなに長生きしていらっしゃるんでしょうか。


「……何せ数えておっても無駄なことじゃからのう。正確には覚えておらんが……確か、五十の半ばくらいではなかったかな……」

「え……えええぇぇぇ!?」


 びっくりしました。それはもう、心底驚きました。ぼくは思わずしりもちをついてしまいます。


「ご、ごごご、ごじゅうなかば、って、それ、酋長よりも年上じゃないですか……!」

「ほう、あやつ年下じゃったか。人は見かけによらぬのう」


 そ、それをご自分で言うんですか。自分で不老不死、って言ったじゃないですか……。


「まあそういうわけじゃよ。わしは死なぬ。お主らの考え方では不自然極まりない不道徳なものやもしれんが……万や億の単位で生きる邪神どもと渡り合う以上、死ぬわけにはいかんのでな」

「……藤子さん……」


 ……そっか。そういうことなんだ。


 藤子さんは、この世界を守るために、わざと死なないことにしたんですね。相手がどれだけ恐ろしい存在なのか、ぼくにはわかりません。わかりませんけれど、彼女がここまで言うということは、とても強いのでしょう。


 藤子さんが差し出した手を取って、ぼくは立ち上がります。その際にすぐ近くを通り過ぎた彼女の顔は、固い決意が見て取れました。貫こうという、表れなのでしょう。


「……あの」

「ん?」

「……もしかして、こないだ言ってた、『目的のために手段は選ばない』っていうお話。あれの目的、って」


 返事はありませんでした。けれど、それはなんとなく、当たっているから黙っているような気がします。


「……そうじゃよ」


 そしてそれは、正解でした。


「……わしは、邪悪なるものを追い払うために、災害を起こす」


 もう一度空を見上げる藤子さん。今度は、もうぼくのほうには振り向いてくれませんでした。青い視線をまっすぐ、夜空の星座に向けたままです。


「邪神どもが現れれば、人はもっと死ぬ。環境も破壊される。世界規模でな。それに比べれば……たかが人間の一人や二人、安いものではないか」


 藤子さんの言葉は、とてつもなく重いものでした。

 たくさんの人を守るために、それよりは少ない人を殺してもいい、なんて……とても、正しいことには思えません。

 でも、間違っているようにも思えませんでした。それよりももっともっと、この大地に生きている生き物みんなが辛い目に合うのに比べれば……とも、思えて。


 そっか。だから藤子さんは、「災厄の魔女」なんだ。


 この間は、そんなの嘘でしょ、とぼくは言いました。けれど今の話を聞くと、とてもそうは言えません。藤子さんは真剣な表情を変えないし、その声もどこか普段より低く聞こえます。

 でも……それでもぼくには、藤子さんが本当に悪い人には思えません。だって、化け物と戦っているんですよ。きっと、その方法が、ちょっと激しいだけで……。


「…………」

「…………」


 それからしばらく、ぼくたちは何もしゃべりませんでした。ぼくなんかが軽々しく口をはさめない、とても越えられない壁があるような気がしてしまって。だから、ぼくはそれ以上は何も言えず、ただ彼女の隣で、星を眺めることしかできませんでした。


 静かに、時間が流れていました。空気は重いけど……それでも、こうして二人で並んだままでいられれば、どれだけいいでしょう。

 けれどぼくは、藤子さんの隣にいることが許されるような力は、持っていません。ぼくでは藤子さんとは……悲しいほどに、釣り合わないみたいです。


 ぼくはそんなことを考えながら、ずきずきと痛む心をなんとかなだめながら、空で輝く七つ星を見つめていました。


 2.


「た、大変だ!」

「父さん? どうしたの?」


 それから数日後、ぼくはいつものように藤子さんの魔法指導に付き人――正確には違いますけど――として付き従っていました。

 そこに、父さんが血相を変えて飛び込んできたのだから驚きました。驚いたのはぼくだけではなく、その場にいたほとんどの人が目を向けてきます。


「何事ですか?」

「は……、白人の一団が、村に……! 奴ら武装していました、襲ってきます……!」

「ええっ!?」

「な、なんですって!?」


 父さんの言葉に、今度はその場にいた全員が、間違いなくそちらを向きました。これは、由々しき事態です。


「酋長!」

「やりましょう!」

「目に物を見せてやりましょう!」

「……仕方ありませんね」


 この事態を受けて、普段はあまり戦いたがらない酋長も頷きました。


 最近はあまりありませんでしたが、白人の人たちは、時折こうして強引にでもぼくたちをここから追い払おうとします。武装している、ということは相手も本気なのでしょう。

 にわかに村がざわついています。これ以上、好きにされるわけにはいかない、自分たちの生活を守らなければならない。そんな決意がありました。


「いや、やめておけ。行かぬほうがいい」


 ところがたった一人、それに異を唱えました。戦いの空気にあって、みんなを制する凛とした声――藤子さんです。


「どういうことですか!?」

「このまま黙って死ねと言うんですか!?」


 当然ながら、藤子さんに何人かが食ってかかります。けれど、藤子さんはそんな人たちを無視すると、まっすぐに酋長へ声をかけます。


「タムルワ、お主ならわかるじゃろう。一つだけ一際目立つ、魔法の力が」

「…………。はい」


 藤子さんの言葉に、酋長が頷きます。

 魔法の力……魔法使いがいる、ということでしょうか。


「負けることはないじゃろうよ。以前に比べると、お主らの力は格段に上がった。じゃが、決して無事では済むまいよ。それくらいには、まだお主らは未熟じゃ」

「だからといって、戦わないわけにはいかない!」

「そうだそうだ!」

「話は最後まで聞け、莫迦者どもが」


 飛んでくる野次にぴしりと言い放つと、藤子さんは鋭い目で周りを見渡します。すると、すぐに水を打ったように静かになりました。藤子さんがそれだけ恐れられているという証拠でしょう。


「わしが出る」


 そしてそう言いながら、藤子さんはすっく、と立ち上がりました。純白と群青の巫女装束――そういう衣装なのだと教わりました――から、かすかに衣擦れの音が鳴りました。


「え……っ、し、しかしあなたはあくまで客人であって……」

「気にするでない。一宿一飯の恩義……というには滞在が長いが。まあ、少しばかり礼をさせてくれ。誰一人、犠牲を出すことなく終わらせてやる」

「ですが……」


 その時です。空の向こうから、雄叫びが聞こえてきました。どうやら、敵がすぐそこにまで来ているようです。


 それを悟ったのでしょう、酋長は少し諦めたような顔をすると、それから申し訳なさそうに藤子さんに頭を下げました。


「……お願いいたします」

「任せておけ。タムルワ、村は任せたぞ。恐らく備える必要はないと思うが!」


 言うや否や、藤子さんは青い光を振りまきながら、空へと飛びあがりました。そして、ある高さまでたどり着くと、今度は空を蹴るようにして方向を変えて、一気に雄叫びが迫ってくる方向へと飛んで行きました。周囲には、振りまかれたかすかな光だけが残ります。


「……わたくしたちも、できる限りのことをしましょう」


 藤子さんの姿が見えなくなったのを確認して、酋長が言います。周囲に控えるみんなの顔を見渡します。


「ウオル=ク(※戦士の意)のものは、周囲の守りを固めてください。それ以外のものは、女、子供の避難をお願いします」

「はいっ!」


 酋長の言葉を受けて、全員がそれぞれの役目を全うするために一斉に散りました。ほどなくして、広場にぼくと酋長だけが残ります。


 ええと……ぼくは……。


「ミュゼ=ク、あなたはこのままここにいなさい」

「あ……は、はい」


 そうですね。ぼくが何かをしようと思っても、できることなんてありません。誰かの邪魔にしかならないでしょうし、このままここでおとなしくしているのがいいのでしょう。とりあえずすることもないので、ぼくはその場に座り込みます。


 藤子さんは……大丈夫、でしょう。彼女がどれほどの力を持っているかは、十分にわかっています。ぼくに心配されるほど、彼女は弱くないはずです。それでも、心配は心配ですけど。


 やがて、ウオル=クの人たちに連れられて何人もの人が広場に避難してきました。その中に、見知った顔を見つけてぼくは手を振ります


「あ、ミュゼ! 大変なことになってきたな」

「ホントにね」


 サイユに苦笑して見せながら、ぼくは小さくため息をつきます。そんなぼくの隣に、サイユが座りました。


「……あれ? 藤子さんは?」

「藤子さんなら……」


 敵を倒しに行ったよ、と言おうとした時でした。


 藤子さんが向かっていったほうから、轟音を響かせて雷が「空に向かって」落ちました。あまりの音に、その場にいた全員が思わず耳をふさぎます。


「な……なんだ今の!?」

「……たぶん藤子さんだよ。あそこにいるんだ」

「はあ!?」


 今度は、巨大な竜巻が巻き起こりました。遠目ではありますが、その中に何人かの人影が巻き込まれて空に飛んで行っているのが見えます。


「あの人、一人で戦ってるんだ」

「……ホントかよ……」

「うん」

「だ、大丈夫なのか? あの人、確かにすっげえ強いと思うけど……」


 その言葉を遮るようにして、今度は光り輝く巨大な弾がいくつも降り注いできました。先ほどの雷とはまた違う音が轟いて、それから悲鳴のような声がここまで届きます。


「……えっと、なんていうか、大丈夫そう、だな……」

「だと思うよ……。それに、藤子さん言ってたよ。ぼくたちが備える必要はたぶんない、って」

「わあ」

「だから心配ないよ。藤子さんなら、絶対なんとかしてくれる」


 そう、藤子さんなら、絶対なんとかしてくれます。なぜなら、彼女は自分が言ったことは必ずやり遂げる人だから。

 それでぼくは何度もからかわれたりしたわけですが、こういう時でも、彼女は一度口にしたことを翻すような人ではないはずです。


 そんなことを考えていると、先ほどから騒がしかった彼方のほうで、耳をつんざく嫌な音と共に、赤い光の筋がいくつも空に向かって伸びました。


「あ、藤子さんだ!」

「えっ!?」


 誰かの声につられて空を見上げてみれば、その光は何かを追いかけていて、そしてそれは紛れもなく藤子さんでした。


 藤子さんはその赤い光をすんでのところで回避しながら、ぐんぐん高いところに上っていきます。そして、そんな彼女を追いかける影が一つ。あれが、敵の魔法使いでしょうか。

 空の高いところで、藤子さんが振り返りざまに青い光を放ちます。それは最初に彼女に出会った時に使った弾と同じように見え、それらは迫る赤い光を一つ、また一つと消滅させていきました。


 そんな彼女に、敵が一気に迫ります。その手には長い得物を持っていて、藤子さんめがけて振りかざしました。

 しかし、藤子さんは慌てません。その攻撃を軽くいなすと、そのまま反撃と言わんばかりに手のひらで相手の身体を打ち据えました。その瞬間、空に青い光があふれ、そして相手は勢いよく弾き飛ばされました。


「……っ、こっちに落ちてくる!」


 誰かが叫び声にも似た声で言います。藤子さんから攻撃を受けたその相手は、村のすぐ近くにまで落下してきます。そして、地面に激突したのでしょう。大きな音が聞こえてきました。


 それを受けて、酋長がホルスアウソを掲げました。その瞬間、広場が青い光で包まれます。結界が張られたようです。


「きゃあああー!」


 しかし、それとほぼ同時に、音の聞こえてきたほうから悲鳴が聞こえてきました。


「!?」


 その声に、広場は騒然となります。当然と言えば当然です。

 何人かが、声のしたほうを見に行こうとしますが、酋長がそれを制止します。そして、代わりに魔法の使える人間を向かわせようとした時。


「しゅ、酋長、あれ……!」


 ぼくたちの前に、人影が現れました。


 それは男性で、肌が白い――藤子さんの白い肌とは明らかに種類の違う白さ――ところを見ると、白人なのは間違いないでしょう。服はぼろぼろ、髪もぼさぼさで、身体のあちこちから血が滴り落ちています。

 そしてその人は、剣を持っていました。片腕くらいの長さでしょうか。その剣は、一人の女の人の首に当てられていました。


 その様子に、広場にいた人たちのどよめきは頂点に達します。酋長が、ホルスアウソを握りながらそちらに向き直ります。

 男性を追いかける形で、何人かの仲間がやってきました。全員が頬に青い化粧の線があり、すなわち村の守りを固めていたウオル=クの人たちです。

 しかし、どれだけ強い人であってもこうして人質を取られてしまっては、手も足も出ません。


『結界……ハハァ、なるほど。この村では魔法が使われているのデスね……よくわかりました』


 男性が、何かをしゃべります。


『道理で、移住を進めようとしても上手くいかないわけデス。三十年近くも、よくもまあ……』


 独り言……でしょうか。ただ、何分言葉が違うので、ぼくたちには何を言っているのかまるでわかりません。


「見たな」


 緊張が辺りに溢れる中、そんな声と共に藤子さんが空から現れました。そのまま彼女は、男の人が行くのを遮る形で向かい合います。

 青い光をきらめかせて静かに舞い降りてきたその姿は、天女を思わせます。艶のある黒い髪が、しゃなりと鳴ったような気がしました。


『来ましたね。しかし無駄デスよ! この女の命がどうなってもいいんデスか?』


 現れた藤子さんに、しかし男性は誇るようにして人質の女性をこれみよがしに見せつけます。何を言っているのかはわかりませんが、この発言だけはなんとなく内容が想像できました。


 しかし、藤子さんはそんなことはどうでもいいことだ、と言いたげに冷たく言い放ちます。


「この村の秘密を知られた以上、お主を生かして帰すわけにはいかんな」

『お黙りなさい! いいですか、人質デスよ? 一宿一飯の恩義があるんでしょう、殺してしまいマスよ?』

「ああ、殺したければさっさと殺せ」

『えっ』

「えっ!?」


 そうして、藤子さんは人質がいるにも関わらず、突き放すように言いました。当たり前ですが、これには敵の男性だけでなく、この場にいる全員が驚愕の表情を浮かべます。


『ちょ……えっ? ひ、人質デスよ!?』

「そんなことはわかっておる。やるならさっさとやれ。盾がなくなってやりやすくなる」


 そんな物騒なことを言いながら、藤子さんは一歩踏み出します。その全身からは青い光。


 ああ……ぼくにはわかります。この声の感じ、本気の声です。彼女は本気で、殺すなら早く殺してしまえと思っているはずです。


 これには周りからの抗議の声が巻き起こります。やめろの大合唱。当然です。誰も犠牲を出さないと言ったのに、この仕打ちはあんまりです。


 しかし、この後藤子さんがどうするかも、ぼくはわかります。彼女なら、間違いなくこういう周りの声を黙殺するはずです。周りがどう言おうと、自分が正しいと思ったことは貫く。それが彼女という人です。


『ほ、本当にやりマスよ!? この村に恩があるなら、死人を出すようなことをするのは、おかしいじゃないデスか!?』

「知るか」


 ほら。相変わらず、藤子さんの声はとても冷たくて、刃物のように切ることができそうなくらいです。


 一歩。また、一歩。藤子さんは確実に、男性との距離を詰めていきます。

 それに合わせて、周りからの怒号も大きくなります。


 藤子さん……ダメだよ、そんなことしたら藤子さん、この村にいられなくなる……!


「藤子さん、やめてください!」


 思わず、ぼくも叫んでいました。しかし、彼女はそれでも動きを止めることなく、さらに前へと進みます。


「ほれ、どうした? やるなら早くやってみよ。ん……? やれんのか? さあ!」

『アッー!』


 悲鳴にも似た声を上げて、男性が剣を動かそうとした、その瞬間。

 それまで、少しずつ歩み寄っていた藤子さんが急に動きました。その全身から青い矢のようなものが飛び出し、ぐるりと円を描くようにして男性の背中を打ちました。

 それと同時に藤子さんは一気に駆け出し、人質の女性を保護しながら右手を開いて男性の顔をわしづかみにします。

 ぐるん、と、男性の身体が回転しました。そして、鈍い音と共に、頭が地面にめり込みます。


 それらが、一瞬のうちに起きました。男の人が人質の首を切ることができないくらいの、短すぎる時間の出来事です。


「…………」

「…………」

「…………」


 誰もが、何が起きたのかわからずただ黙ります。たった一人を除いて。


「たわけめが。まるで交渉の体をなしておらんわ。やるなら、もっと死ぬ気でやれ」


 ……その言葉、男性の耳に届いているんでしょうか。ぐったりとしている様子からいって察するに、よくても気絶しているのでは……。


「おいお主ら、こやつを頼む」

「あ、は、はい」


 ぐったりとしている人質を示して、藤子さんは誰にともなく言います。それを受けて、周りを取り囲んでいた一人が走りよって保護しました。

 どうやら恐怖のあまり気絶してしまっているようで、人質だった女性はぐったりしたままその人に抱えられて、広場に運ばれました。


 その一方で、藤子さんは倒れている男性に手を向けていました。

 ぼくが何をしているのかと考える間もなく、その手から青い光が溢れ、男性を包み込みます。そしてその光が収まった時、そこには、男性の姿は影も形もありませんでした。


「と、藤子さん!? え、あの、こ、殺してしまったんですか?」

「先ほどの一撃で既に死んでおるよ。今のは、死体を消しただけじゃ」


 冷たい表情のまま戻ってきた藤子さんに、ぼくは思わず詰め寄ります。しかしその返事は、表情と同じで冷たいものでした。


「な、何も殺さなくっても……!」

「それは無理じゃな。この村の秘密を見られた以上、生かして帰すわけにはいかぬ。帰せば、お主らを迫害することで拡大を続けるこの国の政府が、アウソの真実を知ることになる。そうなれば、国軍が押し寄せるぞ。本気の軍隊がな」

「で、でも……!」

「良いではないか。約束通り、死人を出すことなく村は守った」

「…………」


 言いたいことは、わかりました。村を守るためには、仕方ないということなのでしょう。

 それでも納得できなくて、ぼくは藤子さんの顔を見つめました。けれど何かを言うことは、できませんでした。納得はできないけれど、でも、藤子さんの言うことが間違っているとも思えないのです。

 それに……どんなにぼくがぐるぐる考えても、藤子さんはそれよりも早く、的確なことを言うでしょう。ぼくでは、藤子さんの意見を変えることは、……できないのです。


 そんなぼくの顔を、藤子さんはじっと見つめ返してきました。そこには、やはり感情のこもらない、ぼんやりとした白い顔だけがあります。


「……お主は、優しすぎる」


 けれど、そう言った瞬間だけ、藤子さんの顔が、どこか寂しそうに歪んだ、ように見えました。

 それは本当に一瞬で、もしかしたらぼくの見間違いかもしれないのですが、見間違いとも思えなくて……でも、何を言えばいいのかもわからなくて、ぼくは結局黙ったまま。


「いや、それでこそお主なのじゃがな。……よい、理解してもらう必要はない。してもらおうとも思わぬ。ただ、憎んでくれればそれでよい」


 そしてそれだけ言うと、藤子さんはふい、とぼくの隣を通り過ぎて、酋長のほうへ行ってしまいました。


「あ、と、藤子さん……」


 ぼくは追いかけようとしましたが、なぜか足が動きませんでした。

 一瞬だけ見た、藤子さんの恐ろしい一面が、ぼくの脳裏から離れません。これが、災厄の魔女なのでしょうか。これが、藤子さんの本性なのでしょうか。


 ぼくはうつむいて、藤子さんの最後の言葉を頭の中で繰り返します。


 違うって、信じたい……そうじゃないんだ、って……。

 ねえ、どういうことですか、藤子さん……?


 3.


 そして、夜が明けた。明けたとは言っても、まだ太陽はかすかに頭を出す程度で、周囲は少し薄暗い。

 じゃが、この村の朝は早い。明かりを持たず、太陽と共に暮らすものにとって、夜明けは目覚めと同義だからじゃ。


 かくいうわしも、朝は早い。既に起き、活動を始めている。


 朝にすることは、行水である。他のものがどうかは知らぬ。じゃが、わしはどうも昔から身体を清めぬことには気が済まぬ性質であった。最低でも二日に一度は、身体を清めておきたい。

 なるべくであれば湯がよいが、それができぬ環境で無理に湯浴みをしようとは思わぬ。軽くでよいのじゃ。ただ、多少なりとも一日の穢れを洗えればそれでよい。


 こういう時は、魔法を使うに限る。些細なことではあるが、面倒ごとを回避できるということも、魔法という技術の利点といえる。

 ついでに言えば鏡もないので、それも魔法でなんとかしながら、わしは自らの髪を結うこととなる。


 身支度が整えば、そろそろミュゼが朝食を持って現れる頃合じゃ。

 最初は単に偶然で、何度か支度中にあやつが来たこともあったが、今はそれでは後々面倒なので、なるべく来る前に終わらせるように少し早く行動をするようになった。


 今日の飯は何かと考えるが、元々食事の選択肢の少ない環境であるからして、さほど普段と変わらぬものが出てくるのじゃろう。宿を借りておいてそんなことを言うのは贅沢がすぎるがな。

 とはいえ、食事に関してはどうこう言わぬ。死を拒んだこの身にあって餓死は縁遠い言葉であるし、味覚でいっても別段嫌いというわけでもない。


 外を見る。太陽が徐々に姿を現し、そのまばゆい光をこの大地に注ぎ始めていた。


「……遅いな」


 わしは首をかしげた。普段であれば、ミュゼは既に来ておってよい。あやつは時間には正確だし、遅れてくるということはないと思うのじゃが。


 それからもうしばし待ってはみたが、ミュゼがやってくる気配はなかった。これはさすがにおかしいと思い、もしや何かあったのかと思った時、ようやく扉が叩かれた。

 その音を聞くや否や、わしは返事もせずに戸口に駆け寄ると、勢いよく開け放つ。


「遅いではないか! 一体何をしておったのじゃ」

「わあっ!」

「……む?」


 わしは、驚かそうと思ってこうした。それは成功した。確かに成功した。

 じゃが、そこにいたのはミュゼではなかった。


「あああ、あの、遅れてしまってごめんなさい!」


 そう言って頭を下げたのは、少女だった。年の頃は、見たところミュゼと同じか少し下といったところか。頬に線と走る化粧は青で、ウオル=クのものであることが見て取れる。

 わしはその姿をじろりと眺めながら、ともあれその女を中へ招き入れることにした。


「まあとにかく入れ。話はそれからじゃ」

「は、はい」

「……それで?」


 わしは普段飯の時に座る場所であぐらをかくと、いつもであればミュゼが座るところにその女を座らせる。


「ミュゼはどうした?」

「はい、えと、彼は藤子さんの世話役から外れたんです」

「……何?」


 それは、まったく寝耳に水であった。わしは思わず身を乗り出す。


「どういうことじゃ? 何かしでかしたのか?」

「いえ、知りません。聞いてないです。ただ、朝になって急に代わりをやれと言われて……」

「…………」


 解せぬ。何故変わる必要があるのか、まったくわしには理解しかねた。これは早急に、タムルワを問いたださねばなるまい。


「あ、でも、なんだか彼、自分から下りたっていう風に聞きましたけど」

「何じゃと?」


 その言葉は、もっと解せなかった。というより、まったく信じられぬ話であった。


 ミュゼは、わしに惚れておる。五十年以上を生きて、様々な人間を見てきたからわかる。

 あやつがわしを見る時、あやつの視線は常にわしの顔に釘付けだし、わしがどれほど無下に扱おうとも、まったくそれには動じない。それどころか、それすらも嬉しいと言わんばかりに笑うのだ。

 そんなミュゼが、自らわしの世話役を下りるなどと言い出すはずがない。人間は、そうした感情の元にある時、理不尽かつ強烈な頑固さ発揮するものじゃ。


 あるいは、そうか。昨日のやり方がまずかったか。あれで愛想を尽かされたか。

 ……一抹のさみしさを覚えたが、それならばそれでよしとしよう。どのみちわしは修羅の道をゆくもの、人に好かれる資格などない。


 ともあれ、真偽のほどは知っておきたい。わしは無言で立ち上がると、そのまままっすぐタムルワの家へと向かう。


「あ、あのっ!? 朝ごはんは……」

「いらぬ」

「えー、あ、ちょ、待ってくださいよー!」


 後ろから何やらやかましいのがついてくる。まったく鬱陶しい。


「お主はこのままここにおれ。邪魔じゃ」

「えー!?」


 さすがに、この村におけるわしの立場はかなり高い。それだけ言えば、ついてくるものなどいない。改めて、わしはタムルワの元を目指した。

 ふん、あんな小娘にわしの世話役が務まるものか。


「邪魔するぞ」


 わしは、中にいる人間の意向なぞ無視して、戸を開け放った。


「おや、藤子さん。おはようございます。どうかなさいましたか?」

「聞きたいことがある」


 そして、うろたえることなく静かに問うてきたタムルワに言う。そのまま目の前に、どっかと座る。


「なんでしょう?」

「ミュゼはどうした。なぜ、あやつの役を解いた?」

「その件ですか」


 わかっていたと言いたげに、タムルワは頷く。


「彼は、しばらくこの村を離れることになったのです。急なことでしたので、あなたに伝える時間がありませんでした。その点は申し訳ないと思っております」

「村を……? どういうことじゃ。まさかとは思うが」

「いいえ、決して追い出したなどと、そんなことはありません。彼の意向です」

「何故じゃ。なぜ、ミュゼがこの村を出て行かねばならん?」

「成人の儀を行うためです」

「……何?」


 それは、またしてもわしが予想していなかった答えであった。

 成人……確かこの村では、猛獣を討つことを成人の証としているとミュゼからは聞いているが。


「今朝早く、彼は成人の儀を受けたいと申し出てきました。ですから、彼は魔導具を手に出立したのです。そのために、あなたの世話役が急に変わることになったのですよ」

「……解せぬな。魚を獲ることすら嫌がる温厚なあやつが、ただ大人になるためという理由だけで獣を殺さねばならん儀式に、進んで行くはずがない」


 それ以上に言いようがなかった。何よりも命が失われることを拒むあの男が、そんなことをしたいと言うようには思えぬ。そんな光景は、想像もできなんだ。


「それはわたくしも同感です。なぜと問いましたが、答えてはくれませんでした。……ですから、わかっていることは、彼が突然そうすると言い出したことだけです」

「…………」


 タムルワの口調は静かだが決して揺らぎはなく、どこにもほころびは感じられなかった。嘘をついているわけではないと見て良いじゃろう。


「もし彼が無事にことを成し戻ってくれば、どの道彼はあなたの世話役から外れます。客人の世話は、子供の仕事ですからね」

「む」


 そういえば、そんなことも聞いたことがあるような気がする。ミュゼの奴め、そこまで考えての行動なのじゃろうか。


「まあ、成否に関わらず、わたくしは彼の任は近いうちに解こうと思っていました。あなたに関わることで、あまりにも彼が魔法の知識を蓄えすぎているようでしたから」

「……それのどこが悪い。むしろ、そうした知識は早いうちに仕込まねばならぬ。自我を完全に獲得し、強い自己主張が身につく歳になってからでは、痛い目を見ることになるぞ」

「あまりに若いうちにそうした力を手にしては、その使い方がわからずに、大変なことになってしまいかねませんから」

「一理ある。じゃがそれは、使い方を誤ればどうなるかを、まず最初に教えることで回避できるであろう。わざわざ習得を遅らせる理由には弱いぞ」

「掟ですから」

「……くだらぬ」


 掟。そんなもの、くそくらえじゃ。古より守り継がれてきたという掟が、一体なんだと言うのじゃ。

 それが定められた理由を、誰かが知っているというのか。それが定められた時の状況が、今と同じだとでも言うのか。


 掟は破るためにある。常に新しき視点に立ち、今行われていることが本当に意味のあることなのか、正しいことなのかと疑う姿勢こそ肝要。その上でその掟が正しいと判断できれば、それは無論守らねばならんじゃろう。

 だが、ただ昔から伝わっているから、というだけの理由で守り抜くような掟なぞ、なくなってしまえばいい。そんなものは、悪しき習慣に過ぎぬ。


「そんな掟はわしが認めぬ。成否がどうあろうと、あやつが拒否せぬ限りわしの世話役はミュゼじゃ。あやつ以外にそれが勤まるものなぞおらぬ」

「……なぜですか?」


 わしの言葉に、タムルワは大層驚いた顔をした。かっと見開かれた瞳が、顔中に刻まれた時の傷跡を押しのける。


 何故、じゃと?

 そんなことは決まっておろう。ミュゼでなければならんからだ。

 ミュゼが近くにいてもらわねば……。


 …………。


 わしは、そこまで考えて口を閉ざした。その様子を、タムルワが怪訝な顔で覗き込んでくる。


「……藤子、さん?」


 何故、じゃろうか。

 何故、ミュゼが近くにいてもらわねばならんのだ。わしは、その理屈の欠片もない己の結論に、我がことながら首を傾げた。


 あやつとなら、会話が弾むから? あながち間違いではないじゃろう。じゃが、一番の理由ではないとも思う。

 ならば、単に年下をからかうのが楽しいからであろうか? これもそう的を外しているわけでもないと思う。しかし、理由としては弱い気がした。


 では、一体何事じゃろうか。

 ここまでタムルワにかみついてまで、そうまでして、何故わしは、ミュゼを望む。


 ……望む?


 ああ、なるほど。


 そうか。


「……何故なら」

「……はい?」


 我ながら、人のことを笑えぬほど鈍いな。こんな簡単な答えにたどり着くまで、何故こうも時間がかかったのやら。

 簡単なことではないか。ミュゼが近くにいなければならん理由。それは……。


「至極個人的な理由じゃ。あやつにそばにいてほしい。それだけじゃ」

「な……」


 わしの言葉に、タムルワは言葉を失った。地球断章を見せた時と同じか、あるいはそれ以上に驚愕しているようであった。

 じゃが、わしはこやつにそれ以上言うことはなかった。そのまま立ち上がってきびすを返すと、その場を後にする。


 外に出てみれば、既に太陽はすっかり高くなり始めていた。あの太陽の下のどこかに、ミュゼもおるのじゃろう。


 どうやら、わしはミュゼのことを好いておるらしい。そうでなければ、今のわしの行動は説明がつかぬ。

 人間はとうに辞めたつもりであったが、どうやらまだ、わしはしっかり人間らしい。感情一つで、理論的なことをすべて却下できるくらいには。


 あやつのどこが、そうも気に入っているのであろうか。はっきり言って未熟者、魔法使いとしても、素質はあっても完成されているわけではない。わしにとって、近くに置いておく利点など、何もないはずなのに。一体、何がそこまでわしの気を引くのか。

 ……これが、恋は盲目ということなのであろうか。とはいえ、いずれにしても。


「……まずいことになった」


 彼方に浮かぶ太陽を眺めながら、わしはひとりごちた。

 女子おなごの魅力の欠片もない、平坦な我が胸を撫でながら、先のことに思いを馳せる。しくん、と胸がかすかにうずいた。


「実にまずい」


 母なる地球に危機あらば、断章の持ち主として、地球の力を借りるものとして、わしは黙っているわけにはいかぬ。そうなれば、この村を出て行かねばならぬ。

 それが、この身に不老の楔を打ち込んでまで戦うことを選んだ我が人生であり、そうすることこそわしの存在意義でもある。

 じゃが、わしは仮宿のつもりであったこの村に……ただ、己の力と同じ魔力が漂う原因を調べるつもりであったこの村に、尋常ではない感情を持っていることに気がついてしまった。


 思えば初日、星の泉に眠っていた断章の欠片を回収しなかった時に、この気持ちに気づくべきであった。普段のわしであれば、あそこで欠片を回収して、そのままとんずらしていたであろうに。

 しかしわしは、そうはしなかった。つまりはあの時、既にわしの中には、傍らに寄り添っていた小さな男に対する、そうした感情が生まれつつあったのかもしれぬ。そのような感情なぞ、戦う上ではまるで不要であるというのに。


 そもそも、いくらわしが魔法の力を極めようと、所詮は人の身の戯れ事に過ぎぬ。邪神の前では、わし一人が突き進むこともままならぬ。そのような場で誰かを守るような力なぞ、当然わしは持ち合わせておらぬ。

 であれば……我が修羅の道に、同行者を望むことはできぬ。望んでは、ならぬのだ。


 できるじゃろうか。もし今、たとえば今夜にでも星辰が乱れたら、わしは誰にも告げずこの村を出て行けるじゃろうか。


 ……できぬやもしれぬ。できぬ自信がある。


「……ミュゼ……」


 空に向かって、思わずわしはミュゼの名を呼ぶ。もちろん、返事などあるはずもない――。


 4.


「おおーい、ミュゼー!」

「はあーい!」


 ようやく姿が見えた村の入り口で、夕日を背にしたウオル=クの番人さんが手を振っているのが見えました。それに返す形で、ぼくも手を振ります。


 村に戻るのは二日ぶりくらい、でしょうか。それくらいしか離れていなかったのに、なんだかとても村の景色が懐かしく感じます。

 自然と、村に向かうぼくの足取りも早くなり、少しずつ慣れ親しんだ光景が近づいてきます。


 けれど、そこでぼくはちょっとだけ足をとめて、後ろに振り返るのでした。


「……なんて言われるかなあ……」


 ぼくが振り返ったそこには、一頭の雄のピューマ。体つきは立派で、しっかりとした大人の個体だと思います。

 そんな猛獣が、ぼくのすぐ後ろにぴったりとくっついてきています。そして彼は、振り向いたぼくの顔を見て、小さく首を傾げてみせるのでした。

 その顔はさながら、どうしたの? 行かないの? と話しかけてくるよう。ぼくは、彼にうなずいて見せて、改めて前を向きます。


 ……二日前の朝、酋長に成人の儀式を受けたいと言って村を飛び出したとき、まさかこんなことになるなんて、夢にも思っていませんでした。

 猛獣を……ピューマを倒さなければ、成人とは認められない。それが、ぼくの村の掟です。


 ぼくは、ただ大人になるためっていうだけの理由で、罪もない動物を殺してしまうのには、とても、とても大きな抵抗がありました。

 けれど……けれど、どうしてもやりたいことがあったから。だから、ぼくは意を決して、儀礼を受けることにしたのです。


 ですが、結局ぼくは、殺すことなんてできませんでした。


 道具はありました。酋長から受け取った魔導具はしっかりとした出来でしたし、藤子さんがほめてくれるように、どうやらぼくは、魔法の才能があるみたいでした。

 それでもやっぱり、意味もなく動物を殺すことができなかったのです。


 その結果が、これです。


「ぐるうん」


 すぐ後ろにいた彼が、甘えたような声をあげながらぼくの隣に並びました。それを受けて、ぼくも彼の頭をそっとなでます。


 結局、ぼくは彼を殺せませんでした。魔法を使おうとして、でも、やっぱり躊躇してしまったのです。

 そして――どこをどう間違えたのか、ご覧の通り、なつかれてしまったのでした。


 殺したくなかったぼくにしてみれば、これでよかったのかもしれないと、そう思うことはできます。ですが……こうして彼は、ぼくについてきてしまうのです。

 何度か、帰るように言ってみたのですが、よほどぼくを気に入ってくれたのか、彼は昨夜も、その前の晩も、ぼくのすぐそばにい続けました。今も。


 成人の儀式でピューマ退治に行ったのに、そのピューマを懐かせて帰ってきた、なんて……村の人たちが見たらなんて言うでしょう。

 ぼくは、どんどん近づいてくる村の景色を前に、小さくため息をつきます。

 どんな言い訳が一番効果的なのか……ぼくの頭の中には、それだけでいっぱいでした。


「……ミュゼ=ク・コオテノル、ただいま戻りました」


 考えても仕方ないことで、ぼくは特に考えもまとまらないまま、入り口にたどり着いてしまいました。ここまで来てしまったらもうどうしようもなく、とにかくぼくは、帰ってきたことを番人の人に告げます。

 そんなぼくの隣で、ピューマがぐるう、と小さくうめきました。


「……よくぞ戻った……ええと……」


 ぼくを迎え入れながら、その人はちらちらと、傍らのピューマの様子をうかがっています。

 当然といえば当然で、むしろいきなり攻撃されなかっただけ、ましなのかもしれません。


「……その、ピューマはどうしたのかね」


 ああ、聞かれてしまいました。できればこの質問は、酋長にお会いするまで聞かれたくなかったのに。

 でも、聞かれてしまえば仕方ありません。


「えっと……その、実は……こう、なんて言いますか……」


 ぼくはしどろもどろ、言葉に詰まりながら、今まで考えていた言い訳のいくつかを一斉に頭の中から引っ張り出しました。その中から、これならと思えるものを口にします。


「み、見ての、通りと言いますか……その……て、手懐けてみました……、と、いうか……」


 嘘は、言ってないと思います。たぶん……。

 ぼくのその言葉に、番人さんはなるほど、という感じでうなずいています。うまくいったかな……。


 ぼくが不安で胸をどきどきさせていると、やがて遠くの方から、一人の女の子が飛んでくるのが見えました。

 その子は文字通り空を飛んでいて、青い光を散らしながら、一直線にぼくのほうまで向かってきます。

 そして、ぼくはその女の子――藤子さんの、吸い込まれそうなくらいにきれいな、青い瞳と目が合いました。


「――ミュゼ! 無事であったか!」


 ぼくの元まで飛んできてまず最初に、藤子さんはぼくの肩をたたきながら、ぼくの全身をじっくりと観察しました。

 そしてぼくが答える間もなく、ぼくの身体に異常がないことを知って、小さくため息をつきます。


「……よかった、けがもなさそうじゃな」

「え、と、は、はい」

「まったく心配させおって! 急にいなくなったから、何事かと思うたではないか!」

「あ、えっと……あはは……ごめんなさい」


 今度は少し怒ったような様子で、藤子さんはぼくの肩をたたきます。その勢いはさっきよりも強くて、ぼくは思わず身をよじりました。


「ご、ごめんなさい……悪かったです、ホント、あの、と、藤子さん、痛い……」

「馬鹿者」


 ぼくの抗議を受けて、ようやく藤子さんはたたくのをやめました。すると今度は、一言それだけ言って。


「……無事で、よかった。本当に」


 そして、今度は安心したように、本当にほっとしたような、長いため息をしながら、ほほえみました。

 直前までとは全然違う様子に……というか、普段の彼女がする、あのいじわるな笑顔とはまったく違う、優しい雰囲気に、ぼくは顔が熱くなるのを感じました。


 いつもの笑顔も好きだけど。

 こういう、普通の女の子みたいな表情の藤子さんを見るのは初めてで、新鮮で、あと、とにかく何より、二日ぶりに見る彼女がとてもかわいくて……。


「……時にミュゼ、このピューマはいかがしたのじゃ?」


 ぼくが胸の高鳴りを抑えようと必死に胸を押さえつけていると、藤子さんが目を丸くして、ぼくの後ろを見て言いました。

 そちらに目を向けていれば、あのピューマがおとなしくその場に座って、ぼくらの様子を見ています。


「え、えーっとですね……」

「よく戻りました、ミュゼ=ク」


 ぼくがなりゆきを説明しようと思った矢先、酋長がやってきて、言いました。

 酋長の声に、ぼくは反射的にその場で膝をつきます。


「……あ、あの、ぼく……」

「まずは何より、あなたが無事に戻ってきてくれたことを、嬉しく思います」


 穏やかな表情を浮かべる酋長の顔が、なんだか逆に怖く感じました。

 こういう、普段怒りそうもない人ほど、何かあった時は怖いものです。このあと、一体どんな風に怒られるのかを想像して、ぼくは背筋が凍るのを感じました。


「……それで、いかがでしたか?」


 すぐには答えられませんでした。

 酋長は、ホルスアウソを持つとても立派な魔法使い。嘘を言えば、すぐに見破られてしまうでしょう。先ほど、番人さんに言ったことが通じるかどうか。通じなかったら、一体どうなるか。


 そんなことをごくごく短い間に考えながらも、冷や汗が止まりません。


「え、っと! ごめんなさい!」


 あれこれ考えて、ぼくは、結局ありのままを言うことにしました。言いながら、頭を下げます。


「……ピューマを倒そうとはしたんです。したんです! でも……やっぱりできませんでした! ぼく……ぼく、やっぱり、何もしてない動物を殺すなんてできません!」


 頭を下げたまま、ぼくはとにかく思っていることを言います。

 下げた視界の中で、酋長の足がまったく動かないのが妙に不安を駆り立てて、ぼくはまくしたてるように続けます。


「だから……この子の前でずっと悩みました!……そしたら、そんなことしてたら、仲良くなっちゃって……別れられなくなって! 追い返そうとはしたんですけど、でも、この子村までついてきちゃって……!」

「なるほど、だいたいわかりました」


 ぼくの言葉を遮って、酋長が言いました。ぼくは、すがるようにして、目の前の酋長を仰ぎます。

 酋長の表情は、とても穏やかでした。ほほえんですらいるようです。


 その隣で、藤子さんが酋長の様子をにらむようにうかがっていました。


「ミュゼ=ク・コオテノル」

「……っ、はは、はいっ」


 名前を呼ばれて、ぼくはもう一度頭を下げます。

 ああ、どうなるんだろう。村から、追い出されたりとかしちゃうのかな……。


「見事です」

「…………」


 ……?


 あれ?


 今、ひょっとして、ぼく、ほめられた……?


「あなたを、成人として認めます」

「……ふへ……」


 まったく予想していなかったその言葉に、ぼくは素っ頓狂な声を上げながら、また酋長の顔を見上げました。

 先ほどと変わらず、ほほえんだままの酋長がそこにいました。


 ぼくの考えていることがわかっているのかいないのか、酋長はゆっくり、ぼくの前にしゃがみました。同じ高さにまで、そして近くまで酋長の顔が来て、ぼくは再び緊張します。


「よくやってくれましたね」

「え、え、えっ?」


 言葉の意味がわからなくて、ぼくはとにかく、わからないことをだけを必死に伝えます。


「ピューマを倒せ……わたくしが、そんなことを少しでも申しましたか? わたくしは、あなたのなすべきことをなせ、と申し上げたはずですよ」

「へ……」

「実は困っていたのです。最近の若者は、成人の儀礼となると、みなピューマを狩ってきます。毎回そんなことをしていれば、いずれ母なる大地のお叱りを受けるでしょうに」


 言いながら、酋長はぼくの手を取って、立つように促します。

 腰砕けになりながらも、ぼくはよろよろと立ち上がりました。いつの間にか、周りにたくさんの人が集まってきているのが見えて、気恥ずかしくなります。


「我々アウソの成人儀礼は、与えられた魔導具でもって、己のなすべきことをなすこと。それが何であるかは、わたくしにもわからないし、また決める権利もありません。なすべきことは、成人を目指すもの本人が考えるべきことですから」

「……ははあん。読めたぞ」


 酋長の言葉の最中に、藤子さんが納得行かない、といった表情でつぶやきました。


「タムルワ、お主意外と曲者ではないか」


 しかし酋長は、藤子さんのそんな言葉に小さく肩をすくめてみせるだけ。それから、話を続けます。


「……まだ若かったわたくしは、悩んだ末にピューマを倒して成人と認められました。しかし……」


 そこで、酋長は周りに集まっていた人々を見渡しました。まるで、言い聞かせるように。


「それからと言うもの、ピューマを倒すものが増えました。見栄えとしても、相応の説得力があったからでもあるでしょう。確かに、実にわかりやすい。

 気づけば、いつの間にか、成人するにはピューマを倒さなくてはならない、という掟があるかのように吹聴されるようになっておりました」

「じゃ、じゃ、じゃあ……じゃなくて、それでは、酋長……」

「はい。何をしても、成人と認められるのです。何もしない、それだけが唯一、この儀礼で認められない行為なのです。ですから……」


 酋長が、そっとぼくの頭をなでました。それから、今までずっとぼくのそばで座っていた、ピューマの頭もなでます。


「ここらでもっとも恐れられる猛獣を、こうして手懐けたあなたの行為は、とても立派なものです。反論する余地などありません。胸を張りなさい、ミュゼ=ク。

 村の掟に正しく従い、その誤りを正してくださったあなたに、村を代表して感謝します」

「は、は、はい……っ」


 まだ、頭がぐるぐるしています。本当に、ぼくは成人と認められたんだという実感がまったくわかなくて。

 何より、間違った意味で広まっていた儀礼の本当のことを知って、ほっとしたり、混乱したりで……。


「ミュゼ、ようやったな!」

「やったじゃん!」

「おめでとう!」


 気づけば、ぼくは藤子さんをはじめ、サイユや父さんたちに引っ張られて、みんなの真ん中にいました。

 それから、ぼくが成人したことを祝う声に迎えられて、注目を浴びる恥ずかしさと緊張が、一気に襲ってくるのを感じました。


 そんな騒動の中で、ぼくは藤子さんの顔に目を向けました。

 透明感のある白い肌。なめらかな黒い髪。そして、何より、空でも川でもない、宝石のような青い瞳。彼女のそんな顔を見ているだけで、胸がどきどきして、幸せな気分になります。


 ぼくは――。


 ぼくは――ぼくは、藤子さんのことが。


 5.


 その日は、美しい夜でした。星がいくつも降り注いで、いつもよりも夜空が光って見えます。


 星の泉で改めて酋長から成人と認められたぼくは、儀式が終わった後もそのままそこで空を眺めていました。

 ぽっかりと丸くあいた空の彼方で、何度も何度も流れ星が現れては消えます。


 少し前、流れ星が消える前に願い事を三回言えばそれが叶う、というおもしろい風習を、藤子さんから聞いたことがあります。

 こんな風に流れ星がいっぱいある夜だったら、どんな願い事も叶っちゃうんじゃないのかな。


 そんなことを考えている間にも、また流れ星がいくつか空を横切りました。


 周りからは、虫の声と、泉のせせらぎ。静かというのは少し違いますが、それでも騒がしいなんてことはなく、音楽を聴いているような感覚です。もっとも、この村にある音楽とは、だいぶ趣が違いますけど。


 不意に、ざり、と土を踏む音がしました。


「ミュゼ」


 それと同時に、この二日間、ずっと聞きたかった声がぼくの名前を呼びます。


「藤子さん」


 振り返れば、そこには藤子さんがいました。

 いつものように白い上着と、青い袴を着ています。夜闇に溶けて見える黒髪の下では、どんなに真っ暗でも見えそうなくらい輝いて見える、青い瞳がぼくを見つめていました。


「もう皆は村に帰ったぞ。泉にこれほど長居してもよいのか?」

「時間とかは、聞いてないですよ。いいんじゃないですか?」

「ふうん……まあよいか。付き合おう」


 言いながら、藤子さんはぼくの隣に座りました。


「ようやったではないか。殺しなどしとうないとぼやいておった子供が」

「あ、あはは……そうですね」


 にやり、と笑いながら、藤子さんが言います。ぼくには、笑ってごまかすことしかできませんでした。


「でもホント、これでよかったなんて、今でも信じられないです」

「そんなものじゃよ。実感はいずれついてくる、今は素直に喜んでおけ」

「……はい」

「それに何より、タムルワも言っておったが、間違った解釈が広まっていた成人儀礼を、元の道に戻したという功績は大きい。誇れ、ミュゼ」

「はい」


 ぼくは、そこでようやく少しだけ笑うことができました。

 藤子さんの言葉はいつもじんわりと響いてきます。藤子さんの励ましが、どれだけぼくを助けてくれたかわかりません。


「しかしさすがに、わしも驚いたのう。まさかピューマを手懐けてくるとはのう」

「い、いえ、そんなつもりだったんじゃないんですよ?」

「わかっておるよ。そんなつもりがあってのことであれば、よほどの大人物じゃ。しかし……お主、どちらかというと、召喚士に向いておるやもしれんな」

「しょう、かん……?」


 また、聞いたことのない言葉。ぼくはいつものように、その意味を尋ねます。

 すると、いつのもように、藤子さんが丁寧に教えてくれます。


「精霊などを呼び出し、使役する魔法使いのことじゃ。魔界の悪魔を従えるものもおれば、自ら作り出した使い魔を中心に扱うものもおるが、一様に彼らは動物に好かれやすいという特徴があってな」

「へ、へえ……」

「あのピューマは、お主の使い魔第一号になるやもな。魔法使いに寄り添う動物は、その力の影響を受けやすい。大事にしてやれ、あれほどなつかれておるのじゃし、無碍にするでないぞ」

「はい、それはもちろん」

「……時にミュゼよ」

「はい?」


 藤子さんの言葉にうなずきながらぼんやりと遠くを見ていると、ふと藤子さんが思い出したように声をかけてきました。


「とりあえず、成人おめでとうと言っておくぞ」

「あ、は、はい、ありがとうございます」


 不意打ちに言われて、思わずぼくは頭を下げました。

 藤子さんはたまに、こうやっていきなり話を変えます。だいぶ慣れたつもりでしたが、二日間離れていたせいか、どうにもぎこちない返事になってしまいました。


「しかしミュゼ、お主、何ゆえ成人の儀式を受けるなどと思うたのじゃ? 唐突すぎて、腑に落ちぬぞ」

「えっと……」


 ぼくは、言葉に詰まりました。その質問は、できればしてほしくなかったから。

 だってこの質問への答えは一つに絞れなくて、短くまとめられる自信がないのです。

 そしてそれ以上に、その一番の理由が藤子さんに大きく関わっていて……ぼくは、もっと心の準備をしてから、藤子さんに言いたかったのに。


「えっと……いろいろ、あるんですけど……」

「ふむ」


 あれこれ考えながら、とりあえず言葉を口にするぼく。そんなぼくに青い視線を向けて、藤子さんが次の言葉を待っています。

 こうなってしまったら、言ってしまうしかないでしょう。藤子さんに嘘は通じないし、ぼくは、嘘をつくのが下手ですから。


「ん……その、先日の襲撃騒ぎの時……藤子さんの言葉の意味がわからなくて……」

「…………」

「藤子さん、あのとき、理解してもらう必要はない、って、そう言いましたよね。でも……ぼく、わかりたかったんです。藤子さんが、どんなこと考えてて、どういうつもりでそう言ったのか……それが知りたくて」


 そう言いながら、あの日、憎んでくれればそれでいい、と言った藤子さんの寂しそうな顔が頭に浮かびました。

 あれがあったからこそぼくは藤子さんを憎むなんてとてもできないし、それに、何よりも藤子さんの寂しそうな顔、悲しそうな顔は、見たくなくて。


「……少しでも、藤子さんの考えてること、わかったらな、って……そう、思って……だから」

「……まず、成人と認められることで、精神的に大人の舞台に上ってみようと思ったのじゃな。社会的にわしと対等な立場となることで、あの言葉の真意に近づけるのではないか、と」


 さすが藤子さんです。ぼくの考えていることを読んだのか、それはわかりません。けれど、ぼくよりもぼくのことがわかっているみたいでした。


「……はい」


 こくり、とうなずいて、ぼくはそれから空を見ました。流れ星は、まだまだたくさん降っています。


「そ、それに……ぼく……」

「うむ?」

「…………」


 もう一つ、大きな理由。それは。


「…………」


 思わず、口が止まってしまいました。言いたいのに。言いたいはずなのに、でも、言ったらどんな言葉が返ってくるか、怖くて。


「……それに、なんじゃ?」


 言葉を詰まらせたぼくに、藤子さんが続きを催促します。ぼくを見つめる青い視線が、少し痛いです。ぼくは思わず、藤子さんから視線を外してしまいました。


 何をしているんだろう。どうしてぼくはこう、いつもいつも意気地がないんだろう――。


「……ぁ……」


 ぼくが動かした目線の先には、星空がありました。満天の星空で光る星座を切り裂いて、流れ星が横切っていきます。


 流れ星に、三回願いごとをしたら、願いが叶う。


 本当に?

 ……わからない。でも。


 このたくさんの流れ星がついているなら、きっと、きっとぼくでも。


 ――言わなくちゃ。義務なんかじゃなくて、そうしたいから。もう一つの、大きな理由、それは。


「……あの、ぼく……」

「うむ」


 降りしきる流れ星に、心の中で願い事を唱えながら、ぼくは藤子さんに向き直りました。

 三回、同じことを胸に刻みながら。ぼくの気持ちが届くことを、願いながら。


「ぼく……」

「うん?」


 ぼくの様子に、藤子さんは少し、眉をひそめました。そんな彼女に向かって、ぼくは姿勢を正して。


「ぼく、……ぼく、ずっと、藤子さんの隣にいたくて!」

「……っ」

「……世話役してたら、藤子さんと一緒にいれるけど……でも、それ子供のままで、それって、酋長が替われって仰ったら、替わらないといけないです、それって、そんなの、イヤで」

「……お主」

「ぼく、ぼく、あんな風に人質を無視した藤子さんが、いつか追い出されるんじゃないかって……そんなの、イヤで!

 でも、ぼくは子供で、大人の人に、意見なんて言えなくて……だから、だから、大人になれば……言える、大人じゃなきゃ、意見、言えない、から……」


 そして、ぼくは、藤子さんを顔を、正面から見ながら、言います。

 恥ずかしさと緊張とで、また彼女から顔を背けたくなるのを必死にこらえながら、ぼくは続けます。


「それに、大人になれば、もし、もし本当に藤子さんが追い出されちゃっても、大人だったら、追いかけていける、村、出ても大丈夫だから……あ、の、だから……」


 だんだん、何を言っているのかわからなくなってきました。でもどれも、ぼくが言いたかったことで、ぼくが思っていたことです。


 もし、あの騒動の収め方がみんなの反感を買っていて、藤子さんが追い出されるようなことになったら、ぼくは藤子さんを助けてあげたい。追いかけていきたい。

 だから、ぼくは、大人になりたくなったんです。


「と、藤子さん、好き、です……大好き、ですっ! ぼく、ず、っと、ずっと、一緒に、いたいんです……何があっても、ずっと、藤子さんと……!」


 ――言った。言っちゃった。


「ミュゼ……」


 ぼくの言葉に、藤子さんはなんとも言いがたい表情をしました。一瞬、嬉しそうにも見えたけど、でも、悲しそうな顔をしていて、勘違いだったかなと思えるくらいで。

 けれど、その青い瞳が、なんだかうるうるしているようにも見えて。


 もしかしたら、藤子さんの気分を害してしまったんじゃないかって考えて、ぼくは全身がはじけ飛んでしまいそうで、息をすることもできませんでした。


「…………」

「…………」


 しばらくぼくたちは、見つめ合っていました。藤子さんが何を考えているのか、それは見当もつきません。

 でもきっと、ぼくみたいに息を詰まらせて、どきどきして、死にそうになってるってことは、絶対にないでしょう。藤子さんはどこまでも大人で、いつでも、どんな時でも冷静で、強くて、ぼくとは正反対な人だから


「……ミュゼ」

「はは、はい、はいっ!?」

「……落ち着け」


 あんまりにぼくが慌ててうわずった声をあげたのを見て、藤子さんはぼくの顔から視線を逸らして、くすりと笑いました。


「……ではお主は……なんというか、あれか。わしに、夫婦めおとになってくれ、と……そういう意味合いじゃな、今のは?」


 め、めおと!?


 え、そ、そこまでは考えていなかった、けれど……。……一緒にいてほしい、というぼくの告白は、確かにそういうふうに取れるわけで。

 でも実際に、藤子さんと結婚することができるのなら、ぼくは、すごくすごく、幸せな、わけで……。


「は……、はい……っ。あの、と、藤子さん……ぼくと、ぼくと暮らしてほしい……です……っ」

「……はあー……」

「えっ!?」


 言うのと同時にためいきが返ってきて、ぼくは悲鳴みたいな声を上げていました。

 同時に、ぼくは思わず硬直していました。次に来る言葉が、ぼくにとって来てほしくないものだと予想してしまったのです。


 そんなぼくに小さく首を振って、それから藤子さんは、改めてぼくをまっすぐ見つめます。


「……以前、言うたよな。わしは、この星を侵す異形と戦っておると」


 ぼくには、うなずくことしかできませんでした。


「わしは……母の呼び声の赴くままに、この星を流浪する身。一つのところにとどまるつもりはないし、それはするわけにはいかぬ」

「…………」

「さりとて、誰かを我が道に伴うことはできぬ。わしの行く道は修羅の中の修羅、地獄でしかない。わしに誰かを守るような余裕なぞ、ない」

「…………」

「わかるな、ミュゼ。わしと共にあれば、お主は口にするのもはばかられるような死に方をすることになる。わしは……近くでお主が死ぬところを見るのは、絶対に嫌じゃ」

「とう、こさん……」

「じゃから、お主と夫婦になることはできぬ。お主にも、そしてアウソのみなにも、迷惑しかかけぬからな」

「…………」


 ……藤子さんは。

 嘘をつくような人ではありません。自分でそう言ってはいましたが、間違いないという根拠はないです。ぼくの勘です。というより、願望かもしれません。

 でもぼくは、藤子さんはそういう人だと思っています。めちゃくちゃかもしれないけれど、ぼくはそう信じています。


 だから……きっとこれも、嘘じゃなくて、本当に思っていることなんだと、ぼくは思いました。

 敵と戦う時、あんなに徹底的だったのに、人質を無視してでも、敵を倒そうとしたのに。

 それでも、藤子さんは、ぼくたちを巻き込みたくない、って、言ってくれるんですね。


「……で、でも、藤子さん……」

「ミュゼ」


 言いかけたぼくを制して、藤子さんは首を振ります。


「……ありがとうな。一月にも満たぬ時間で、そこまでこんな年寄りを好いてくれて」

「…………」

「人間は、辞めたつもりであった。しかし……やはり、好意は嬉しい。……一人の女子として、素直にそう、思う……」

「……ぁ」


 びっくり、しました。声が、つまります。


 藤子さんが。

 あの、藤子さんが。

 ぼくに、くっついてる。抱きついてきてる。


 もう。何も、考えられなくて、ぼくは。


「ありがとう、ミュゼ」

「あ、う、は、はい……」


 顔が熱くなるのがわかりました。きっと、真っ赤だ。


「……一つ」

「へ、え、なな、なんでしょう?」

「一つ。お主がいなくなってからのここ二日に、一つ、考えておったことがある」


 すぐ目の前にある藤子さんに顔に、ぼくはこくこくとうなずきます。


「わしはな。人から好かれた経験がない。誰かを好いた経験もない。家族や友人としてのものとは違う……色恋沙汰なぞ、とんと縁がなかった。そのような感情は抱くだけ、戦いの邪魔にしかならぬと、……そう、思っておったから。じゃから、お主から向けられた好意は、わしにとって初めての経験であった」

「ぇ、ぇぅ、あ」


 ああ、気づかれてたんだ。そうだよね、藤子さんくらいの人なら、気づくよね。

 毎日の中で、ずっと藤子さんだけを見ていた自分を思い出して、穴にでも隠れたくなるぼくです。


「……無駄と、思うておったのにな。だのに、お主の好意は、嬉しかった。恐らくは……世界の代償とはいえ、国を破壊するような輩が好かれるはずもないと……そう、心のどこかで思うていたのであろう。そしてだからこそ、誰かに好かれたいと思うていたのやもしれぬ」

「…………」

「そしてお主は……こんなわしにそうした想いを抱いてくれた。そんなお主が、隣におるのが普通であった。この村では、少なくともそれがわしの普通であった。

 わしの一切を否定せず、ただ優しく笑って受け入れてくれるお主とすごす時間が、……そう、心地よかった。じゃから……お主が消えた朝。わしは、お主がおらぬという事実に、納得ができんかった……」

「……?」

「じゃから……色々考えた。この二日間、考えた……。もし、お主が想いを告げてきたら、どうするか……? それを無碍にできるほど、今のわしは冷酷にはなれそうになかった。

 じゃから……わしもお主の気持ちに応えようと……できる限り、応えようと……いや、応えたいと……そう考えるに至った」

「あ……あの……わ、わかんない、ですけど……」

「ミュゼ。わしを追わぬと。わしを止めぬと。そう、約束してくれるか?」

「え……?」


 ぼくの質問に対する答えは返ってきませんでした。

 代わりに、藤子さんはぼくに聞きながら、ぼくの顔をのぞき込みます。すぐ近くにある青い宝石に、ぼくの顔が映り込んでいるのが見えました。


 胸が、どくどくと高鳴ります。


「……わしは、母に呼ばれれば戦いに行く。星が乱れれば、すぐにでもこの村を出ていく。そして、それがいつになるかはわしにもわからぬ。明日やもしれぬし、遠い未来のいつかやもしれぬ。じゃが、それがもし明日、起こったとしても……」


 言いながら、とてもまじめで、低い調子で言いながら。

 藤子さんは、ぼくの頬に右手をはわせました。そっと、ぼくの頬をなでます。


 小さな手。ぼくよりも小さくて、けれど、とても大きなものを持っている、支えている、少しひんやりした手。


「わしを、見送ってくれるか? それが、できるのであれば……その時が、訪れるまで」


 今度は、左手もぼくの頬に。藤子さんの青い視線が、まっすぐぼくを見ています。


「お主と共にありたい。わしのこの気持ち、それからお主の気持ち……双方に折り合いをつけるのは、これしかないと……これが、わしの達した結論じゃ」

「え……っ!?」


 それ、って。

 どういう、ことなんだろう。


 ぼくはその言葉の意味がわからなくて、目を白黒させました。

 それを見て、藤子さんはいたずらっぽく笑うと、その額を、ぼくの額にこつん、とあわせます。


「わからんのか? まったく……言わせんでくれ。こういうことは初めてなのじゃ、恥ずかしいであろう。

 ……わしも、お主が好きなのじゃよ。もっと一緒にいたいと、そう、思うほどには。じゃから、ミュゼ。答えてくれ」

「ぁ……う」


 これは、現実なんでしょう、か。


 藤子さんが、ぼくのこと、を。

 好き?


 これは、夢なんじゃないのでしょうか?


「ミュゼ、もう一度言うぞ。星辰次第では、明日にでもわしは出ていくやもしれぬ。しかしもしかすると、まだ何年かは一緒にいられるやも、しれぬ。お主は……どうしたい?」


 手も間に入らないくらいのすぐ目の前で、藤子さんがささやきました。


 ぼくは……ぼくは……。


「……た、った……一日、でも……」

「…………」

「ぼく……は。い、一日でも、いいです……藤子さんと、一日でも長く、一緒にいたい……ずっとじゃなくても、いい――」


 だって……笑っている藤子さんも、怒っている藤子さんも、敵と戦っている藤子さんも、それに、いつかぼくの手を離す藤子さんも。

 全部、どれも、どんな顔をしていても、藤子さんで。


 ぼくは、ぼくは、そんな藤子さんが、この世界の、どんな青よりも青い瞳の、この女の子が、世界で、誰よりも、どんな人よりも――。


「す、好きです、から……藤子さんが……」

「……ありがとう、ミュゼ。わしも。わしも……一日でよい、少しでも長く、お主のそばに、いたい」


 藤子さんの、くすぐったそうな声が聞こえました。


 そして、ほとんど隙間がないくらい密着していたぼくたちの顔は、次の瞬間、完全にくっついて――。


◆ホルスアウソ(Hhorrs Aousho)

アウソ族に古くから伝わる魔導具。歴代の酋長が引き継いできた。

光がなくとも輝く、青く丸い宝玉であり、その様は地球の姿写しである。そのため、その形状は真球ではない。

遠い昔、地球断章の持ち主により創られた魔導具であり、地球断章と同質の存在。魔導具としても極めて良質であり、近い将来神をも宿すと目される。

二十一世紀現在、二つのホルスアウソが確認されている。

一つはアウソ族最後の酋長の子孫が受け継ぐ、白い杖の一部として。

もう一つは「災厄の魔女」光藤子が、その魔導具藤天杖の一部として。

二つのホルスアウソの関連性は謎とされているが、一般的には地球断章を持つ「災厄の魔女」が、模造品を作り上げたという見解で落ち着いている。

なお、「ホルス」はアウソ族の言葉で「青」の意味であり、ホルスアウソとはすなわち「青い大地」を意味する。

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