雨の日の駅員
雨の匂いが、古い駅舎のホームに静かに落ちていた。
終電を逃した高校生の春人は、濡れたベンチに座りながら、スマホの画面を何度も見つめていた。
「母さん、ごめん。今日は帰れない」
送ろうとして、消す。
また打って、消す。
母はきっと心配している。
だけど、今は帰れなかった。
春人は今日、父の形見だった腕時計を失くしたのだ。
三年前、病気で亡くなった父が、最後に「時間は大事にしろよ」と笑って渡してくれたもの。
それを、自分の不注意でどこかに落としてしまった。
探して、探して、探し尽くして、それでも見つからず、気づけば夜だった。
情けなさで胸が潰れそうだった。
「隣、いいかい」
顔を上げると、白髪の老駅員が立っていた。
古びた制服に、優しい目。
春人が黙って頷くと、老人は缶コーヒーを一本差し出した。
「探し物か」
「……はい」
「大事なもの?」
春人は少し迷ってから、小さく答えた。
「父の……形見です」
老人は「そうか」とだけ言って、ホームの線路を眺めた。
「なくしたものはな、不思議と“なくなった”んじゃなく、“別の場所にいる”だけのことがある」
「……」
「物も、人も、想いも」
春人は、泣きそうになるのをこらえた。
老人は立ち上がると、「ちょっと待ってな」と言って、雨のホームをゆっくり歩いていった。
十分後。
「これか?」
差し出された老人の手の中には、泥で汚れた父の腕時計があった。
春人は息を呑んだ。
「……あ……!」
線路脇に落ちていたらしい。
もう見つからないと思っていた。
「ありがとうございます……! 本当に……!」
何度も頭を下げる春人に、老人は少し照れたように笑った。
「ちゃんと帰りなさい。心配してる人がいる」
春人は、震える声で「はい」と答えた。
その夜、家に帰ると、母は玄関で泣きながら春人を抱きしめた。
「よかった……」
その腕の温かさに、春人はようやく気づいた。
失くしたと思っていたものばかり見て、
まだここにある大切なものを、見ていなかったことに。
翌週。
春人は駅へ向かい、あの老人に礼を言おうとした。
だが、駅員室にいた若い職員は、不思議そうに首をかしげた。
「白髪の駅員さん……? この駅、もう何年も前から夜勤は私一人ですよ」
「え……」
「でも……昔、“佐伯さん”って駅員はいました。雨の日に線路へ落ちた子どもを助けて亡くなった人です」
春人の背中に、静かな震えが走った。
壁に飾られた古い写真。
そこにいたのは、あの夜の老人だった。
優しい目で、少し笑っている。
春人は、しばらく写真の前から動けなかった。
やがて深く一礼し、腕時計を握りしめた。
時が過ぎても、
いなくなっても、
想いは消えない。
誰かを大切にした時間は、
きっと別の誰かを救い続ける。
雨上がりの空には、雲の切れ間から、柔らかな光が差していた。




