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雨の日の駅員

掲載日:2026/05/04

雨の匂いが、古い駅舎のホームに静かに落ちていた。

終電を逃した高校生の春人は、濡れたベンチに座りながら、スマホの画面を何度も見つめていた。

「母さん、ごめん。今日は帰れない」

送ろうとして、消す。

また打って、消す。

母はきっと心配している。

だけど、今は帰れなかった。

春人は今日、父の形見だった腕時計を失くしたのだ。

三年前、病気で亡くなった父が、最後に「時間は大事にしろよ」と笑って渡してくれたもの。

それを、自分の不注意でどこかに落としてしまった。

探して、探して、探し尽くして、それでも見つからず、気づけば夜だった。

情けなさで胸が潰れそうだった。

「隣、いいかい」

顔を上げると、白髪の老駅員が立っていた。

古びた制服に、優しい目。

春人が黙って頷くと、老人は缶コーヒーを一本差し出した。

「探し物か」

「……はい」

「大事なもの?」

春人は少し迷ってから、小さく答えた。

「父の……形見です」

老人は「そうか」とだけ言って、ホームの線路を眺めた。

「なくしたものはな、不思議と“なくなった”んじゃなく、“別の場所にいる”だけのことがある」

「……」

「物も、人も、想いも」

春人は、泣きそうになるのをこらえた。

老人は立ち上がると、「ちょっと待ってな」と言って、雨のホームをゆっくり歩いていった。

十分後。

「これか?」

差し出された老人の手の中には、泥で汚れた父の腕時計があった。

春人は息を呑んだ。

「……あ……!」

線路脇に落ちていたらしい。

もう見つからないと思っていた。

「ありがとうございます……! 本当に……!」

何度も頭を下げる春人に、老人は少し照れたように笑った。

「ちゃんと帰りなさい。心配してる人がいる」

春人は、震える声で「はい」と答えた。

その夜、家に帰ると、母は玄関で泣きながら春人を抱きしめた。

「よかった……」

その腕の温かさに、春人はようやく気づいた。

失くしたと思っていたものばかり見て、

まだここにある大切なものを、見ていなかったことに。

翌週。

春人は駅へ向かい、あの老人に礼を言おうとした。

だが、駅員室にいた若い職員は、不思議そうに首をかしげた。

「白髪の駅員さん……? この駅、もう何年も前から夜勤は私一人ですよ」

「え……」

「でも……昔、“佐伯さん”って駅員はいました。雨の日に線路へ落ちた子どもを助けて亡くなった人です」

春人の背中に、静かな震えが走った。

壁に飾られた古い写真。

そこにいたのは、あの夜の老人だった。

優しい目で、少し笑っている。

春人は、しばらく写真の前から動けなかった。

やがて深く一礼し、腕時計を握りしめた。

時が過ぎても、

いなくなっても、

想いは消えない。

誰かを大切にした時間は、

きっと別の誰かを救い続ける。

雨上がりの空には、雲の切れ間から、柔らかな光が差していた。

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