『あこがれ/愛』
精神的に深く病んでいるときは、人は死さえ選べないという。
だから、いまのこの感情をあらわすとしたら、「もう、いいかな」くらいのものだろう。
選ぶというのは喜びでもあり、苦痛を伴うものでもある。こんな心理状態にありながら、さてコーヒーでも飲もうか、いやたまには紅茶にしようかなどとふと考える。
「いままでありがとう。さようなら」
数時間前、彼女はそう言い残して静かに出ていった。ここ数年は一緒にいても、もう彼女が何を考えているのか、まったくわからなくなっていた。最後にきちんと言葉を交わしたのがいつだったかさえ、思い出せない。
結局、コーヒーを飲むことに決めて、台所に立った。そして、ふだん自分は紅茶などほとんど口にしないことに気づいた。昔から、コーヒーしか飲まないのだ。自分の意思で選んでいるようで、何も選んでなんかいない。
どこからか、ピアノの旋律がかすかに聞こえてくる。
――この子が生まれたら、一緒にピアノを弾くのが夢なの。
少し大きくなってきたお腹で、窮屈そうにピアノを弾きながら、彼女はこちらを振り返った。その姿全体から、幸せが溢れていた。僕にはピアノのことはよくわからなかったが、彼女の奏でる音色は、彼女の心の様子をよく映していると感じた。透き通るような軽やかな高音、ゆったりとした低音の響き。春の暖かな陽だまりのような、時間の流れ。
「大変申しあげにくいのですが……お子さんには重い障害がある可能性があります」
彼女はずっと子どもを持つことを望んでいた。僕はそんな彼女の望みをかなえてあげたかった。治療にも通い、やっと授かった命だった。あまりにも残酷な医師の言葉。「何があっても産みます」彼女は迷わず産むことを選んだ。
そして生まれてきた我が子は泣き声を上げることもなく、数時間の生涯を閉じた。
ピアノの蓋は数年の間、閉じられたままだった。いつしか会話もなくなり、家の中は重苦しい空気が漂っていた。そんなある日、彼女はおもむろにピアノに向かい、弾き始めた。それは、彼女が初めて僕に聴かせてくれた、悲しくも美しい曲。
――ジョージ・ウィンストン『あこがれ/愛』。
その音色は、彼女の心の様子をよく映していた。次の日も、その次の日も、彼女はその曲を弾き続けた。あの日以来、心の内を話すことのなかった彼女の、心の叫び。その音色とともに痛いほどに流れ込んでくる感情を、僕はどうすることもできなかった。
別れを切り出されたとき、僕は受け入れることを選んだ。悲しいという感情よりも、どこかほっとしている自分がいた。
彼女のことを深く愛していた。そう、今も変わらず。たぶん、これから先も、ずっと。
選ぶというのは喜びでもあり、苦痛を伴うものでもある。
僕は自ら選んで一人になった。でもわかっていた。本当は、何も選んでなんかいない。道はふたつに分かれているようで、結局はひとつしかなかった。
「この子はパパ似ね」
何気なく発せられた看護師の言葉。それはあまりにも重く、僕ら夫婦に影を落とした。彼女はそばにいて、僕に何を見ていたのか。
淹れたてのコーヒーを口にしながら、ぼんやりと考える。最後に彼女の笑顔を見たのはいつだっただろう。
――あなたには、私の気持ちなんてわからない。
たった一度だけ、彼女はそういって泣いた。何とかして、助けてあげたかった。もう一度、あの笑顔が見たい。でも、彼女の心を救うことなんてできなかった。自分が自分であることを恨めしく思った。あの陽だまりのような時間は、もう二度と戻らない。
――もう、いいかな。
コーヒーを飲み終えると、外に出た。そう、これから向かうのだ。自ら選んだ場所へ。人の痛みも、苦痛も感じないところへ。




