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『あこがれ/愛』

作者: 小山らいか
掲載日:2026/02/09

 精神的に深く病んでいるときは、人は死さえ選べないという。

 だから、いまのこの感情をあらわすとしたら、「もう、いいかな」くらいのものだろう。

 選ぶというのは喜びでもあり、苦痛を伴うものでもある。こんな心理状態にありながら、さてコーヒーでも飲もうか、いやたまには紅茶にしようかなどとふと考える。


「いままでありがとう。さようなら」


 数時間前、彼女はそう言い残して静かに出ていった。ここ数年は一緒にいても、もう彼女が何を考えているのか、まったくわからなくなっていた。最後にきちんと言葉を交わしたのがいつだったかさえ、思い出せない。

 結局、コーヒーを飲むことに決めて、台所に立った。そして、ふだん自分は紅茶などほとんど口にしないことに気づいた。昔から、コーヒーしか飲まないのだ。自分の意思で選んでいるようで、何も選んでなんかいない。

 どこからか、ピアノの旋律がかすかに聞こえてくる。


 ――この子が生まれたら、一緒にピアノを弾くのが夢なの。


 少し大きくなってきたお腹で、窮屈そうにピアノを弾きながら、彼女はこちらを振り返った。その姿全体から、幸せが溢れていた。僕にはピアノのことはよくわからなかったが、彼女の奏でる音色は、彼女の心の様子をよく映していると感じた。透き通るような軽やかな高音、ゆったりとした低音の響き。春の暖かな陽だまりのような、時間の流れ。

「大変申しあげにくいのですが……お子さんには重い障害がある可能性があります」

 彼女はずっと子どもを持つことを望んでいた。僕はそんな彼女の望みをかなえてあげたかった。治療にも通い、やっと授かった命だった。あまりにも残酷な医師の言葉。「何があっても産みます」彼女は迷わず産むことを選んだ。

 そして生まれてきた我が子は泣き声を上げることもなく、数時間の生涯を閉じた。


 ピアノの蓋は数年の間、閉じられたままだった。いつしか会話もなくなり、家の中は重苦しい空気が漂っていた。そんなある日、彼女はおもむろにピアノに向かい、弾き始めた。それは、彼女が初めて僕に聴かせてくれた、悲しくも美しい曲。


 ――ジョージ・ウィンストン『あこがれ/愛』。


 その音色は、彼女の心の様子をよく映していた。次の日も、その次の日も、彼女はその曲を弾き続けた。あの日以来、心の内を話すことのなかった彼女の、心の叫び。その音色とともに痛いほどに流れ込んでくる感情を、僕はどうすることもできなかった。

 別れを切り出されたとき、僕は受け入れることを選んだ。悲しいという感情よりも、どこかほっとしている自分がいた。

 彼女のことを深く愛していた。そう、今も変わらず。たぶん、これから先も、ずっと。


 選ぶというのは喜びでもあり、苦痛を伴うものでもある。

 僕は自ら選んで一人になった。でもわかっていた。本当は、何も選んでなんかいない。道はふたつに分かれているようで、結局はひとつしかなかった。

「この子はパパ似ね」

 何気なく発せられた看護師の言葉。それはあまりにも重く、僕ら夫婦に影を落とした。彼女はそばにいて、僕に何を見ていたのか。

 淹れたてのコーヒーを口にしながら、ぼんやりと考える。最後に彼女の笑顔を見たのはいつだっただろう。


 ――あなたには、私の気持ちなんてわからない。


 たった一度だけ、彼女はそういって泣いた。何とかして、助けてあげたかった。もう一度、あの笑顔が見たい。でも、彼女の心を救うことなんてできなかった。自分が自分であることを恨めしく思った。あの陽だまりのような時間は、もう二度と戻らない。


 ――もう、いいかな。


 コーヒーを飲み終えると、外に出た。そう、これから向かうのだ。自ら選んだ場所へ。人の痛みも、苦痛も感じないところへ。


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