31 越境
南側から迫ってきたのは、恐らく巡回中の兵士だろう。
リョウの頭の奥底は、不思議なほど冷静だった。
一方で表層では、まとまりのない解決手段が浮かんでは消えていく。
とにかく、何か行動しなくてはいけない。
(戦うのは無理そうだ……
とりあえず、登れるだけ登ろう)
そう判断した時には、すでに体が動いていた。
兵士が辿り着いた時、リョウは地上一メートル八十センチほどの高さにいた。
壁の上部には手が届く。
だが、もう数段というところで、左足を掴まれる。
「危ないから降りなさい。
これ以上何かするようだと、引き摺り下ろさなきゃいけなくなるぞ」
登ろうとした瞬間に放った魔法の光を見て、走ってきたのだろう。
兵士の視線は、リョウ一人に注がれている。
ガオとユイの姿は、どうやら見えていないようだった。
リョウは心を決め、壁にしがみついたまま兵士を見る。
「……少し、待ってください。話し合えませんか」
「話し合い?」
兵士が怪訝そうに眉をひそめる。
「見なかったことにして、ここを登らせてほしいんです」
「そんなこと、できるわけないだろ。早く降りてきなさい!」
「本当に、あと数秒の差だったんです。
確認した時には壁を登り切っていたと上司に報告しても、矛盾は起きないはずです」
「矛盾がどうこうじゃない!
君の命に関わるから言ってるんだ!
壁を越えたら危ないんだぞ!」
声には、怒りよりも焦りが混じっていた。
本気でこちらの身を案じていることが、嫌というほど伝わってくる。
リョウの胸に、わずかな罪悪感が生まれる。
だが、それでも引くことはできなかった。
「……お金を払えば、見逃してもらえますか」
「はあ?」
リョウは右手で壁に体重を預けたまま、右腕にかけている紙袋に左手を入れる。
そして紙袋の中から、手探りで一万ディストリー硬貨を取り出した。
「今、これくらい持っています。
これで、見逃してもらえませんか」
「馬鹿なことを言うな!
金額の問題じゃない!」
「じゃあ……一万二千ディストリーなら」
「だから、そういう問題じゃ……」
兵士の声が、途中で途切れた。
「助けてー!」
南側から、男の子の叫び声が響く。
リョウには、すぐに分かった。ガオの声だ。
石壁は円弧を描いている。
兵士の位置からでは、声が発された状況までは把握できない。
兵士が一瞬、背後を気にする。
その刹那、リョウの足を掴む力がわずかに緩んだ。
今しかない。
リョウは連続して魔法のブロックを生成し、兵士の拘束を振り切る。
勢いを殺さぬまま、リョウは壁を越えた。
次の瞬間、リョウはアワルの外側の地面に叩きつけられていた。
全身が痺れる。
だが、咄嗟に受け身を取れたおかげで、大きな怪我はなさそうだった。
すぐ近くに、ユイが座り込んでいる。
南側からは、ガオがこちらへ走ってくるのが見えた。
「リョウ……ユイの足、折れちゃったかも。
無理についてきたからだね。
リョウとガオだけでも、大人の人たちから逃げて……」
「何言ってんだよ!」
数メートル先から、ガオが声を張り上げる。
「諦めるな、ユイ!
リョウ、とりあえずどうする?
南門の兵士たちに報告される前に逃げないと……」
ガオは二人の元に辿り着いた。
肩で息をしている。
リョウはすぐに地図を開き、一瞥する。
「まずは兵士たちと距離を取るために、西に逃げよう。
もうすぐ暗くなるし、深追いはしてこないと信じたい」
そう言ってから、ユイを見る。
「ユイは、本当はどうしたいんだ?」
「そりゃあ、行きたいけど……」
「なら、行こう。僕とガオで体を支える」
リョウは地図を指さす。
「西側にも、森人の出現記録がある地点が載っている。
とにかく、今は進もう」
「ガオ、ユイの左肩を頼む」
三人は肩を組み、足並みを揃えて西へ向かった。
リョウの指し示す方角に従って十五分ほど歩いた頃、森との境界に辿り着いた。
空はまだ明るい。
だが、森の奥は鬱蒼として暗く、夜の気配を孕んでいた。
その闇は、侵入者を拒む壁のように感じられる。
「……ここが、ニンニンの森……」
ユイが、かすれた声で呟く。
三人は一瞬、足を止めた。
だが、誰からともなく、再び歩き出す。
それが、もう二度と子供の世界には戻れない一歩だと、三人のうち誰もが、心の底で自覚しつつあった。
そして、彼らは森の中へと踏み込んでいった。




