3 内省
リンが扉を開けると、チョウガンは身を屈めて建物の中へ入った。
立ったままでは木枠の上辺に頭をぶつけるのだろう。普段から繰り返しているらしく、その動作には迷いがない。
扉と枠は木製だが、壁や天井はおそらくコンクリート製だ。
鉄筋コンクリートが存在するかどうかは分からないものの、コンクリートを扱う技術水準はかなり高いように見える。
街を歩いてきた(正確には、抱えられて運ばれてきた)道中、リョウは街並みを目にしていた。
画一的な形状のコンクリート建築が立ち並び、それぞれが隣と被らないよう、色とりどりの塗料で彩られている。
三人が入ったこの建物は、濃い黄緑色で塗られていた。
建物の内壁は、外観よりも落ち着いた緑色だった。
六畳より少し広い程度のワンルームに、大きめのベッドと簡素な台所、二人掛けのテーブルと椅子が所狭しと配置されている。
その中で、ベッドの隣に置かれた、ひときわ座面の高い椅子が目を引いた。
少し緑がかったコンクリートのような質感だが、リョウの記憶には存在しない素材だ。
テーブルと椅子が木製である分、その椅子は狭い室内でも異彩を放っている。
(……多分、自分用なんだろうけど)
その素材について、もう少し観察を続けたかったが、リンが籠からリョウを抱き上げ、ベッドの上へと優しく寝かせた。
柔らかく、白いシーツ。
包み込まれるような感触とともに、リョウの意識は抗えない眠りへと沈んでいった。
家に到着してからの二日間、リョウ、リン、チョウガンは家の中で穏やかな時間を過ごした。
チョウガンは書類仕事をそれなりに抱えているらしく、数時間おきに兵士が紙の束を持って訪れる。
そして、チョウガンが何らかの処理を施した、ほぼ同じ厚みの紙束と交換するようにして帰っていった。
リンも読み書きができるようで、チョウガンの仕事を手伝っている。
いや、リョウの目には、むしろリンの方が主役に見える場面も多かった。
「食堂の経費、計算が合わないわ。どこかで桁を間違えていない?」
「あ、本当だ。この資料だと売上が少なすぎるな。要確認書類に回しておこう」
リンが指摘し、チョウガンが応じる。
そんなやり取りが何度もあったが、二人並んで机に向かう姿は、終始楽しそうだった。
その間、リョウは家の中を観察するか、眠るかして過ごしていた。
もちろん食事も必要だが、リンから母乳を与えられることはなく、長時間煮た穀物を、ココナッツミルクのような液体で溶いたものが与えられた。
少し残念に思う一方で、不思議と安堵も感じている自分がいた。
定位置となったベッドからは、壁と、あのキッズチェアをじっくり観察できる。
壁面は非常に滑らかで、塗装技術の高さがうかがえた。
キッズチェアは、触れば適度な弾力があり、感触だけなら樹脂製に近い。
しかし見た目は、砂を固めたようにも見え、そのギャップが脳に違和感を残す。
製品表示には「人工土100%」と記されており、五年経過後は、所定の機関へ返却することが求められていた。
文字が問題なく読めることに気づいてからは、チョウガンとリンが扱う書類の山を、こっそり覗き見ることもあった。
内容は主に兵舎関係の決算書類や領収書で、チョウガンは経理のような役目も兼ねているらしい。
経理手法や数学的水準を探ろうと考えたこともあったが、深い思考に踏み込もうとすると、強烈な眠気に抗えない。
結局、この二日間で、リョウが何か新しい発見や発明をすることはなかった。
一方で、目を閉じて行う内省は、驚くほど捗った。
まず大きな問いは、ここが死後の世界なのか。
それとも、時間軸の異なる元の世界なのか。
あるいは、完全に切り離された別世界なのか。
リョウは、どれであっても今後の判断に大きな影響はないと考え、この疑問を保留した。
次に浮かぶのは、自分が坂倉良弥本人なのか、それとも記憶を引き継いだ別人なのかという問いだ。
どこかで読んだ「テセウスの船」の話を思い出したが、結局この問題も、今すぐ答えが出るものではない。
この問いも、保留。
ただし、自分の中にある良弥の記憶については、何らかの想定をしておく必要があると感じていた。
人は三歳頃に、幼少期の記憶がほとんど消える。そんな話を、保健の授業で聞いた覚えがある。
それが自分にも当てはまるのかは分からない。
だが、少なくともこの世界の両親は、自身がよく知る普通の人間に見える。
もし、すべての人間が前世の記憶を持ち、三歳前後で等しくそれを失うのだとしたら。
だからこそ、前世の記憶が表に出る者がいないのだとしたら。
荒唐無稽だと自分でも思いながら、そんな仮説が頭をよぎる。
つまりその場合、良弥としての自分には、数年後に「精神的な死」が訪れることになる。
(……それでもいい。記憶が消えるなら、その前に、リョウに知識だけでも残しておきたい)
(まあ、高校二年生程度の知識しかないけど)
リョウは、そう結論づけた。
もっとも、記憶とは本来、境界線を引かれるように消えるものではない。
グラデーションのように薄れ、自我もまた、静かに形を変えていく。
すでに良弥としての輪郭が曖昧になり、リョウとして適応し始めていることに、本人が気づいていない。
それこそが、記憶と自我の関係の、最も厄介なところなのだが。




