12 母親
父親のチョウガンが遠征に出ている時などは、リョウを託児所に迎えに来るのは母親のリンだった。
リンは節約のため、リョウと二人で歩く帰り道でも、道中の食品店に気になる品があれば値札を見に行き、おつかいのためにリョウに安い店の場所を覚えさせたりする。
特にめぼしい話題が街中にないときは、リョウの友人の話を聞くことが多い。
とにかくリンは、リョウとの帰り道で会話を欠かさないようにしていた。
リョウは何となく、リンは自分をとても熱心に育ててくれているのだと感じている。
会話の中では論理性や国語力を、買い物の話になれば数理的な感覚を伸ばそうとしているのだろう。
そうした母親の無償の愛を感じるたび、リョウの心は温かくなった。
つまり、今までのリョウは、幸せな人生を送っていたはずだった。
リョウは、目の前を無言で歩く母親を必死で追いかけながら、過去を回想し、これから起こることを予測していた。
未曾有の事態に、頭の中では緊急事態を知らせるサイレンが鳴り響いている。
前例がないからこそ予測が難しい。それはつまり、今まで経験したことのない何かが起こるという意味だった。
短い足がもつれそうになるが、驚異的な集中力を発揮して踏ん張る。
今ここで転び、リンを振り向かせるのは良くない。
そんな予感が瞬間的に走ったのだ。
堂々巡りの思考に陥っているリョウの前で、リンが足を止め、右を向く。
右手には黄緑色の壁。
帰宅である。
「リョウ。言いたいことはありますか?」
テーブルを挟んで向かい合って座らされる。
そこは、いつも父親が座る椅子だった。
リョウは、これまで何度かリンがチョウガンを説教する場面を見てきた。
その逆は存在しない。
しかも、リョウが寝たふりをして聞いている限り、リンの意見が不当だったことは一度もなかったように思える。
今日も同じ構図なのだろう。
違うのは、父親の代わりに自分がそこに座っているということだけだ。
「シャオユーさんの言うことを聞かずに、医務室に残りました。ごめんなさい」
「何が悪かったのかわかっているの?」
「シャオユーさんの言うことを聞けば良かったと思います」
「具体的には?」
「……オレンジの部屋に戻れば良かった」
「それは解決案の一つね。今回の結果より良かった可能性は高い。でも最善ではないと思う。なぜかわかる?」
「なぜ……?」
言葉に詰まる。
「あなたが医務室に残った理由と同じよ。
あなたとガオくん、それにユイちゃんは魔法を見たんでしょう?」
リョウは小さくうなずく。
「あなたはしないかもしれない。でも、ガオくんやユイちゃんが興味を持って、誰かに話したらどうなる?」
「……確かに。でも、どうすれば良かったのかな」
「大人の判断を待つこと。それがあなたのすべきことよ。
あなたならできると思っているわ」
リンは一息置いて続ける。
「その場で意見の対立が起きていたなら、大人同士で方針が決まるのを待つべきだった。
結果的に魔法の話を聞いたかどうかは関係ないの。
判断には責任が伴うから」
「……」
「今回、あなたはその場に残ることを自分で判断した。
その結果、ガオくんとユイちゃんを巻き込む可能性があった。
あなたは、この二人の人生に責任を持てますか?」
「持てません」
「そう。だから、大人の判断を待つの」
リンは少しだけ表情を和らげた。
「どうしても知りたいなら、そう聞けばいい。
母さんは、リョウの好奇心があるところは素敵だと思ってるし、止めたりしないわ。
ただ、行動の判断には責任がついてくるってことを忘れないで」
「……はい」
「分かったならいいわ。夜ご飯を食べましょう」
リンは立ち上がる。
「今日は、昼前に解体されたばかりの猪の肩肉をもらってきたの。
忘れているかもしれないけど、今日はあなたの誕生日よ。
今から焼くから、楽しみに待っていてね」
鉄のフライパンで、塩を振った肉の塊を脂身から焼く。
脂の焦げる香りが家中に広がり、食欲を刺激する。
リンは汗をかきながら、厚切りのステーキに中までしっかり火を通した。
残った脂で薄切りのレモンを揚げ焼きにし、ステーキに添える。
テーブルには、焼きたてのレモンステーキと、玉ねぎとキュウリのサラダ、パンが並んだ。
今までで一番豪華な食卓だ。
リョウの中には多少の落ち込みも残っていたが、母親の説教が愛情に満ちたものであったこともあり、前向きな気持ちで食事を始めることができた。
滅多に口にできないステーキや生野菜に、リョウは舌鼓を打つ。
リンは、息子が大口を開けて厚切りの肉にかぶりつく姿を、静かな笑顔で見つめていた。
リンは非常に優秀な役人である。
チョウガンと結婚してからは、アワル兵士団とアワル市役所軍務部の橋渡し役として働いていた。
兵舎や練兵場が勤務先になることもあり、情報調整や交渉を得意としている。
猪の肩肉は、本来業務外の日に急な対応を迫られたことを理由に、平和的な交渉の末、チンハオから譲り受けたものだった。
そんな彼女でも、今回ひとつだけ、事実と異なる主張を行なっていた。
それは、リョウの「残りたい」という主張と、チンハオの「説明してしまった方が良い」という主張の、時間軸のずれである。
実際には、リョウが主張した時点で、チンハオはまだ意見を述べていなかった。
つまり、チンハオとシャオユーの間では、大人同士の意見の対立は起きていなかったのだ。
リンの指摘には、結果的に的外れな部分が含まれていた。
それは単なる勘違いだったのか。
それとも、リョウに伝えたいことが先にあり、説明の順序を組み替えたのか。
あるいは、リョウがチンハオの意見に従っただけだということにして、責任を軽くするための配慮が行われていたのか。
母親の愛情は、子供が感じている以上に、深いものなのかもしれない。




