人情紙風船
〈ホーホーと梟の知惠深き森 涙次〉
【ⅰ】
成佛して今は冥府にゐる黑瀬巨文。まだまだ*「くろせ・ひろふみ」として、上総の勤める新聞社に、その健筆を届けて來る。** 上総は社會部に配置替へとなつたが、黑瀬の原稿(勿論文藝批評)が届いた時だけは、文藝欄担当者に取つて變はり、黑瀬の書き物を扱ふのだ。
* 當該シリーズ第29話參照。
** 當該シリーズ第94話參照。
【ⅱ】
さて、谷澤景六としてのテオ。彼の文學の出發點は「拒絶」ではなく、「受容」である。一旦一味のメンバーとして黑瀬と對立した過去、を水に流し、彼の批評を受容する事にこそ、谷澤文學の特殊性がある。さう、谷澤には「論敵はゐない」。* 時軸ではないが、谷澤=テオの文學は「和合」に立脚してゐるのだ。
「なになに、くろせ・ひろふみ−『ラノベ轉向論』とな」−黑瀬はこれ迄の** ラノベ擁護の立場を大きく崩し、何時まで經つてもラノベ界が彼の云ふ「娯樂文學の未來像」を示さない事に業を煮やして、謂はゞラノベを「見限つた」。大體に置いて、若年者のラノベ離れのとば口が見えて來た昨今である。多分余りにワンパターン過ぎるからだ。黑瀬は、その「轉向」の捨て台詞としてこの批評を書いたのだと云ふ。谷澤「これで、日本文壇とラノベ界とは、完全に決裂したな」。
* 當該シリーズ第155話參照。
** 前シリーズ第197話參照。
【ⅲ】
で、涙坐。彼女は* 生前の黑瀬の戀人だつた過去を持つ。今は** 安保さんに秘めた戀心を捧げてゐる彼女だが、黑瀬の事をすつかり忘れてしまつた譯ではない。その涙坐が魔界に(透明人間として)潜入した時、黑瀬の姿をちら、と見たと云ふ。「え゙、奴は冥府にその坐を収めてるんぢやないのかい?」とじろさん。成佛すると云ふ事は、嚴しい資格審査の後、冥府に降りる、と云ふ事だ。魔界との「二股」など有り得ない。だが、菩提寺の人別帖の操作で、實は如何やうにもその點、誤魔化しが効く、と云ふ事、カンテラ・じろさんはこの度初めて知つた。黑瀬は『轉向論』の執筆を最後に、冥府を去つた。寺の人別帖から荼毘に附された過去を抹消したのだ。
* 前シリーズ第197話參照。
** 當該シリーズ第157話參照。
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〈嫌さうな顔をしてシャツ身に着けた洒落心なきバンドメイトよ 平手みき〉
【ⅳ】
案外、黑瀬の* 姉・桝本千代(狼狂の女)に對する想ひと、カンテラに對する敵愾心とは根深かつた譯である。抹消された人別帖の記述には、副葬品の欄もあり、それには「モデルガン」と書かれてゐるのを、テオが確認した。生前の黑瀬にはモデルガンの趣味はなかつた。元戀人の涙坐が云つてゐるのだから、まづ間違ひない。これは、彼が本物の拳銃を冥府に持ち込んだ、所謂「掟破り」の行動に出た事を示唆してゐるのではないか?
* 當該シリーズ第197話參照。
【ⅴ】
カンテラは、涙坐に命じて、黑瀬がいつ人間界に現れる(即ち、カンテラに復讐しに來る)のか、調査させた。12月1日− 邊りではないか、あやふやだが、それはまあ致し方ない。だが* 12月には悦美の出産が控へてゐる。それ迄くたばつてたまるか! カンテラは12月1日を待つた。無論、黑瀬は誅殺する豫定である。テオはそれを聞き、「惜しいな」と思つたが、谷澤としての立場より、テオとしての立場を優先させた。
* 當該シリーズ第167話參照。
【ⅵ】
12月1日− 黑瀬は現れない。その日涙坐は、意外と云へば意外過ぎる事を、魔界の住民から聴いた。黑瀬は、拳銃で自らの頭を撃ち拔き、自死した、と云ふ。それには流石のカンテラもショックを受けた。復讐より、姉の跡を追ふ道を彼は撰んだのである。カンテラに返り討ちされるより、自ら生命を絶つてしまふ事を撰んだのだ。
これにて一件落着、とするには、余りにも哀しい黑瀬の末路であつた。上総はだうする積もりなのだらう。全く、死後の人間が更に自死するなど、前代未聞である。
【ⅶ】
カンテラに氣になつたのは、これから彼は何処へ行くのか、と云ふ事である。取り敢へず、黑瀬を新しい墓に改葬した一味− 稼ぐどころか、余計な出費だ。だがそれも人情の上では仕方ない。「ナイーヴ過ぎたんだな、奴は」とじろさん。カンテラは瞑目した。お仕舞ひ。
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〈納豆や粘つく過去は持たざりき 涙次〉




