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【流転】

 ふわふわと浮かぶ泡。

 エーテルの海に浮かんだマナのあわ。


 なんだかずいぶんと昔にこの光景を見たことがある気がして。

 アリシアとして産まれる前だったろうか。

 それとも……


(わたくしはやっぱりあの時に死んだのだろうか。ウィルヘルムとの邂逅は夢?)

 というよりも、ここ、この場で自分がアリシアだという自我を保ったままなのが摂理に反しているのでは?

 そう思い返す。


 ここはきっと、命が生まれる前の場所。

 世界の根幹。


 何もわからないけれど、それだけは心の奥底が正しいと告げている。


(ああ、そうか。わたくしは……)


 そう何かに気がついたと思ったところで意識が途絶えた。

 目の前の泡の一つに、スーッと吸い込まれていくような、そんな感覚だけがあって。



 ◇◇◇


「お母様、いや、いや、目を覚まして……」


 目の前で大好きなお母様が眠るように静かになって。

 まだ五歳のアリシアは、その母のベッドに縋りつき泣き腫らしていた。

 慟哭のたび母ゆずりのその白銀の髪が揺れ、碧いサファイヤのような瞳から大粒の涙が落ちる。

 妻フランソワがこの世を去ったというのに、夫であるライエル・ブランドー公爵はこの場には居なかった。


 夫婦仲が悪い、というのとも少し違う。

 そもそもフランソワとライエルは政略的に婚姻を結んだだけであり、そこには何の感情も情緒も生まれてはいなかったから。

 筆頭公爵家であるブランドー家の一人娘だったフランソワ。そこに婿入りした遠縁の子爵家末子ライエル。

 先代の公爵が亡くなった際、病弱だったフランソワを押しつけられる形で婿入りしたライエルにとって、公爵という地位だけがこの婚姻の全てであった。


「お嬢様。あちらでお食事にいたしましょ? 何も食べないではお体にさわりますわ」

「ミーナ、ミーナぁ……。わたくし、わたくし……」

「さあ、お嬢様。お嬢様までがたおれてしまってはお母様も悲しみますわ」

「ミーナぁ……」

 侍女のミーナに抱き抱えられ母のベッドから離されたアリシア。

 そのままミーナに抱きついて泣き続けた。


 食事は寝室に用意されていた。


 ベッドに腰掛けたアリシアに、ナイトテーブルに置かれたスープ皿を手に取り、スプーンで彼女の口に運ぶミーナ。

「さあ、お嬢様。美味しいですよ」

「ありがとうミーナ」

 あーんとその可愛らしい口を開け、スープをいただく。



「ああ、ほんとうにかわいいわね。食べちゃいたいくらいだわ」

「え? ミーナ?」

 目の前の、ただただ優しいお姉さんと認識していた女性の顔。その口角がニイっと持ち上がる。

「あらあら、忘れちゃったの? せっかくあなたの希望通りに、『無垢な』刻に戻してあげたのに」

 ——え?


 まだ幼い意識のその奥底の、一番深いところで衝撃が走る。


 ——ああ、ああ、わたくしは……。


 アリシア・ブランドー。王太子ルイスと妹マリサによって地獄に堕とされたアリシア、だ。

 そう。

 意識がどっとなだれ込んでくる。



 それと同時に、もう一つの別の記憶が流れ込んでくる。


 ——これは、何? これは……、前世? あの、泡の世界の記憶? その前、の?


 顔が、熱い。頭が、熱い。のぼせて、たおれ……。


 スーッと熱くなった頭の中に冷たい水が流れるような感触を感じたと思うと、そのままベッドに倒れ伏せていた。


 はっと、意識が戻り。

 次に目を開けた時、目の前に映ったのは、ツノが黒曜石の断面のような輝きが散りばめられ頭頂部から背中に向かってうねりながら伸びた、悪魔のような姿の男性だった。


「ウィルヘルム、よね?」

 そう、声に出す。

「ああ。思い出したか?」

 ふっと笑い声を吐き出しながら、アリシアを見つめるその魔王。


 思い出していた。全て。

 あの地獄のような牢獄での生活も、精も根も尽き果てそれでも魔方陣を描ききったときの、あの時の気持ちも全て。

 それもそれだけではない、アリシアとなる前の前世の記憶も、少しだけではあったけれど片隅に残っている。


 漆黒の髪に浅黒い肌、切長の瞳に真っ赤な唇。

 そんな口角をニッと持ち上げ、魔王ウィルヘルムは続けた。


「お前は五歳の頃に巻き戻った。いや、厳密に言えば少し違うな。お前はもう一度お前アリシアとして生まれたんだ。すっかり前世を忘れてしまっているようだったから、少しだけきっかけを与えて思い出させたんだがな」


「だからなのね。なんだかわたくし、アリシアとして生まれる前の前世も少しだけ思い出したみたいなの」


「はは。そうか、なるほどな。だから少し別の色が混じっているようにも見えるのか。まあいい。それでどうするんだ。復讐劇を見せてくれるんだったよな」


「ええ。それは。もちろん、よ」


「なら、いいが」


「ところで、さっきのミーナはあなただったの? ウィルヘルム」


「そうだ。この格好でお前のそばに居るのもおかしいだろう?」


 そういうと。

 彼の周囲にブワッと黒い霧が巻きおこる。

 一瞬ののちに現れたのは、黒いメイド服に身を包んだ女性。先程までかいがいしく幼いアリシアの世話をしていたミーナの姿だった。


「この格好なら貴女のそばにずっといても大丈夫でしょう?」


 そう、怪しく笑うその顔。真っ赤な唇の口角をニッとあげ、妖艶にその場でくるっと回る、彼女?


 スカートが円形に膨らんで、閉じる。

 少し見えた足元も、完全に女性のそれに見える、そんな姿。


「お父様や他の皆が怪しんだりは、しないのよね?」


「ええ。その辺は任せておいて。あたしの存在は認識阻害の魔法で目立たなくなっているし、それに。周囲の人たちの記憶には少しだけ干渉しておいたから。周りにはただのモブにしか見えないから」


「ただのモブって、あなた……」


「ふふ。楽しいわ」


「なんだか、まるでロマンス小説の登場人物のような言い草ね」


「ふふ。だってそうでしょう? あなただって、こんなふうに人生をやり直しているんだもの」


(ロマンス小説、か。この世界はまるで……)

 そう。少しだけ思い出した前世の記憶にあるロマンス小説。この世界はそんな「おはなし」の世界に酷似している。

 モブ、の侍女には覚えが無かった。けれど。

 アリシア・ブランドーという少女のことは、その小説の登場人物として覚えていた。


 王太子ルイスと、その真実の恋のお相手、マリサ・ブランドー。

 そしてその二人の仲を邪魔する「悪役令嬢」としてのアリシア、として。

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