9 残された時間と最後の「幼馴染の特権」
俺の、なりふり構わない叫びを聞いて、汐音は声を出して泣き始めた。今までの静かな涙とは違う、感情が爆発したような泣き声だ。
「っ、海斗の…バカ…!」
汐音は立ち上がり、俺に掴みかかってきた。その小さな拳が、俺の胸元を何度か叩く。
「なんで今なの!なんで私がいなくなるって決まってから…!私が毎日あんなに頑張ってくっついていたとき、なんで一言言ってくれなかったの…っ」
「悪かった!俺がビビってたんだ!お前を失うのが怖くて、ずっと自分に嘘をついてた!でも、もう無理だ、お前が本当にいなくなるなんて考えられねぇ!」
俺は汐音の細い肩を掴み、強く引き寄せた。
汐音は抵抗をやめ、俺の胸に顔を埋めた。彼女の涙が、俺のパーカーを濡らしていく。
「…海斗」
震える声で、俺の名前が呼ばれた。
「私…ずっと、待ってた。海斗が『うざい』じゃなくて、『好き』って言ってくれるのを…」
俺は、今まで味わったことのない熱い感情に支配されていた。これは、嫌悪感でも依存でもない。紛れもない、愛情だ。
「返事は?」俺は喉を絞り出して尋ねた。
汐音は顔を上げ、涙でぐちゃぐちゃになりながらも、心から嬉しそうな顔で笑った。
「…今さら断るわけないでしょ。バカ」
その瞬間、水族館前の喧騒も、沈みゆく夕日も、全てが遠のいた。
俺と汐音は、恋人になった。
しかし、その事実に浸る時間すら、俺たちには残されていなかった。
「…あと、どれくらい時間があるんだ」
俺が尋ねると、汐音は指を折りながら答えた。
「今日の夜を含めて、あと五日」
たった、五日。
俺が、自分自身と汐音の気持ちに正直になるまで、一体どれだけの無駄な時間を過ごしてしまったのだろう。
俺は固く拳を握りしめ、すぐに顔を上げた。
「じゃあ、この五日間、お前はもう転校する準備なんてするな」
「え?」
「俺といる。今までの、キライな幼馴染の時間は無しだ。この五日間が、俺たちが過ごす、最初の、そして最後の恋人としての時間だ。お前は、この町がどんなに大切か、俺がちゃんと教えてやる」
汐音は目を丸くして、それからふわりと笑った。その笑顔は、曇り一つない、まさに太陽そのものだった。
「…うん。海斗のわがまま、聞くよ」
「わがままは、もう一つある」
俺はそう言うと、汐音の腰に腕を回し、彼女の身体を思いっきり自分に引き寄せた。
「あの堤防で、お前はもう『バグる前の距離感』に戻るって言ったな」
「言った」
「訂正しろ。この五日間だけは、俺がお前の距離感をバグらせる。誰にも文句は言わせねぇ。これは恋人の特権だ」
彼女の耳元でそう囁くと、汐音は全身を硬直させた後、耳まで真っ赤になって俺に抱きついた。
「…っ、海斗のバカ!本当に距離感がバグってるのは、海斗の方でしょ!」
「そうだよ。この町で、一番距離感がバグっているのは、俺だ」
俺たちは、水族館のイルカが泳ぐ水槽のように、複雑で濃密な感情の渦に巻き込まれていた。
五日間。
短すぎる猶予。だが、俺たちはこの時間で、今までのすれ違いを、全て愛で埋め尽くそうと誓い合った。




