7 正しい距離の違和感と突然の呼び出し
次の日から、汐音は宣言通り、「バグる前の距離感」に戻った。
朝の通学路。俺が曲がり角を曲がっても、「かーいーとー!」という甲高い声はもう聞こえてこない。汐音は、俺より数メートル離れた場所を歩いていた。
もちろん、彼女は俺に笑顔を見せる。目が合えば、軽く手を振って「おはよ」と言う。だが、それだけだ。
昨日の朝まで当たり前だった、肩がぶつかるほどの密着も、わざとらしい甘え声も、「ダーリン」という茶化しも、全て消えた。
そして、それが猛烈に気持ち悪かった。
昼休み、俺の席に図々しく座ってパンを半分要求する汐音もいない。彼女は友達と和やかに笑い合い、楽しそうに昼食をとっている。
俺は、今まで汐音が隣にいて「うざい」と思っていた時間が、実は「特別」だったことに気づき始めた。
普通のクラスメイトとしての汐音は、俺にとって遠い。
俺が話しかけなければ、彼女はもう、わざわざ俺の個人的なテリトリーに踏み込んでは来ない。彼女の周りには、俺よりもっと楽しくて優しい友達がたくさんいるのだ。
三日目の放課後。
俺はいつものように昇降口を出た。汐音は、女子バスケ部の友達と笑いながら海とは反対方向へ歩いていく。
今までなら、俺が黙って歩いていれば、彼女は自動的に俺の隣に「ワープ」してきたのに。
俺は焦りのようなものを感じ、思わずその背中に声をかけそうになった。
「…汐音」
だが、口をついて出たのは、その名前だけ。俺が声をかける前に、彼女は友達と談笑しながら角を曲がって見えなくなった。
俺が、彼女を呼び止められなかった。
あの堤防で、彼女は言ったのだ。「もしまた、私が遠くに行きそうになったら、今度は海斗の方から、私を呼び止めてね」と。
遠ざかる汐音を見て、俺の心は敗北感で満たされた。
俺は、彼女を突き放すことには慣れていたが、自ら距離を縮めることには、ひどく臆病だった。
その夜、自分の部屋で次の日の授業の準備をしていると、スマホが鳴った。
画面を見ると、『汐音』の文字。
『明日、放課後。水族館前のベンチに来て』
珍しく、短いメッセージ。いつもの絵文字一つない、素っ気ない文面だった。水族館は、俺たちが小学校の遠足でよく行った、通学路からは少し外れた場所にある。
なんだろう。まさか、また**「告白の返事の催促」か?それとも、もう俺との関係は諦めたという「さよなら」の合図か。
俺の胸は激しく高鳴った。
あのバグった距離感を失ってから、初めて汐音の方から境界線を越えて俺を呼んでいる。
俺はメッセージを読み返し、ため息をついた。
俺の胸を占める感情は、もはや「うざい」ではない。
明日、俺は一人の男として、一人の女の子の呼び出しに向かうことになる。それは、今までの幼馴染の関係を、完全に終わらせる行為だ。
俺は、窓の外に広がる暗い海を見つめた。潮風が、ガラス窓を微かに揺らしていた。




