5 境界線の向こう側、初めての違和感
翌日も、汐音は俺に話しかけてこなかった。
朝の通学路は静まり返り、教室に入っても、彼女は俺とは目を合わせようとしない。昨日までのあの、うざいほどの距離の近さが嘘みたいだ。
彼女は友達に囲まれて笑っている。その笑顔は明るいけれど、俺に向けられていた、わざとらしい甘さや、バグった親密さは欠片もない。ただの、クラスメイトの「可愛い汐音」だ。
その様子を見て、俺は奇妙な喪失感を覚えていた。
昼休み。
いつもなら、「ねー、海斗!パン半分こしよ!」と、俺の席に図々しく座ってくる汐音がいない。俺の机の引き出しには、まだ彼女のラブレターが入ったままだ。
俺はたまらず席を立ち、購買で買ったクリームパンを片手に、屋上へ続く階段を上がった。
コンクリートの壁に背中を預け、パンを齧る。潮風が、昨日よりもずっと冷たく感じられた。
俺が引いた境界線。
俺が突き放したことで、彼女は無理をしてまで俺を追いかけてきた。そのバグった行動が、俺にとっては彼女が「まだ俺の幼馴染でいる」という依存的な安心感になっていた。
なのに、今。彼女は自分でそのバグをリセットし、正しい「他人との距離」を取り始めた。
それはつまり、俺が、本当に彼女を失ったということだった。
「…なんでだよ」
誰にも聞こえないように呟く。
なんで、あんなに嫌いだと思っていたくせに、今になってこんなに胸がざわつくんだ。
手紙の内容を思い出す。
「小学校の頃、みんなで海で遊んでいたとき、私、貝殻で足を切っちゃったこと覚えてる?」
あの時、俺が彼女を抱き上げて運んだときの、彼女の身体の軽さと、俺のシャツにしがみつく指の力を思い出した。あの瞬間から、俺は彼女を「守るべきもの」として認識し始めたのかもしれない。
そして、その感情が「恋愛」という形に変わるのが怖くて、俺は突き放した。
俺は、今まで汐音に対して、一度も正面から向き合っていなかった。いつも、突き放すか、うざがるか。
俺はクリームパンを飲み込み、立ち上がった。
もう逃げない。このバグを直せるのは、俺しかいない。
その日、放課後。
俺は昇降口を出て、彼女のクラスの近くで待った。汐音が友達と出てくる。彼女は俺に気づいて、一瞬立ち止まったが、すぐに視線を外し、友達と笑いながら海とは反対方向へ歩き出した。
逃げてる。
俺は意を決して、大声で叫んだ。
「汐音!」
彼女はびくりと肩を震わせ、振り返った。友達が不思議そうにこちらを見ている。
俺は早足で彼女のそばまで歩み寄った。
「…海斗、何?」
「ちょっと来い」
俺は返事も待たず、彼女の腕を掴んだ。
汐音の身体が、完全に硬直したのがわかった。
昨日まで、あれほど俺の身体にくっついてきた彼女が、今、俺が自ら触れたことで、一番遠い場所にあるように感じられた。
彼女の腕は細くて、そして、ひどく温かかった。
俺は、彼女を強引に引きずり、慣れ親しんだ海沿いの道へと向かった。
この瞬間、俺と汐音の間の境界線は、音を立てて崩れ去った気がした。




