4 砂に埋めた感情と俺が引いた境界線
その日一日、俺は授業に集中できなかった。
目の前の教科書には、まるで海面が揺れるかのように文字が滲んで見える。頭の中は、ずっと汐音のラブレターの文字と、昨日までの甲高い声が反響している。
一番強烈に残っているのは、手紙にあった一文だ。
「海斗が私を避けるようになって、話しかけても『うざい』って顔をするようになって…本当に辛かった」
俺は本当に、あいつのことが嫌いだったのか?
否。もし本当に嫌いだったら、朝、あいつが隣にいなくて、こんなにも通学路が寂しくなるはずがない。
放課後、俺は誰もいない教室の窓際で、遠くの海を眺めていた。その青い水平線を見て、一つの記憶が鮮明に蘇ってきた。
それは、高校入学直前の、まだ肌寒い春の日。
俺と汐音は、中学生最後の思い出にと、二人で釣りに出かけていた。その頃はまだ、俺たち二人の間に、「幼馴染」という名の平和な境界線がしっかり引かれていた。
「ねぇ海斗、高校行っても、昼休みは絶対一緒に食べようね!」
「…うるせえよ。別に約束しなくても食べるだろ」
当時の俺は、まだ素直にそう答えていた。
その時、堤防の向こうから、同じ高校に進学するらしい、バスケ部の先輩たちが通りかかった。彼らは、立ち上がって大きく手を振った汐音を見て、ニヤニヤしながら話しかけてきた。
「お、可愛いじゃん。君、うちの学校?何組?」
「汐音っていうんだ。よろしくね」
汐音は愛想よく受け答えしていたが、その瞬間、俺の胸の中に、急に冷たい砂が流れ込んできたような感覚があった。
――こいつは、もう俺だけの幼馴染じゃない。
中学までは、俺と汐音はセットだった。誰もが認める、家の隣同士の二人組。だが、高校という新しい世界で、汐音はあっという間に**「クラスの可愛い子」**になってしまうだろう。多くの視線を集め、俺の手の届かない場所に行ってしまう。
その事実に、言いようのない焦燥感と、独占欲が湧き上がった。
それは、幼馴染としての安心感を失うことへの恐れであり、初めて異性として彼女を意識したことへの**戸惑い**だった。当時の俺は、その複雑でドロドロした感情を、「うざい」という一言で片付けた。
逃げたんだ。
その日の帰り道、俺はそれまで築き上げてきた境界線を、自らの手で壊した。
「おい、汐音」
「ん?どうしたの、海斗?」
「高校入ったら、もう俺に無駄にくっついてくるな。お前は友達も多いんだから、俺といるよりあっちの方が楽しいだろ」
俺がそう言ったとき、汐音の、夕焼けに照らされた笑顔が、**カッと消えた**のを覚えている。まるで、潮風に吹き消された蝋燭の火のように。
俺が引いたのは、新しい境界線なんかじゃなかった。
それは、彼女の優しさに付け込んで、自分から離れないようにするための、呪いの線だったのだ。俺が突き放せば、彼女はきっと、昔の関係を必死に取り戻そうと、バグった距離感で俺を追いかけてくるだろうと、無意識に期待していた。
そして、汐音は俺の期待通りに、距離感をバグらせて、俺の近くに居続けた。
あいつは、傷つきながらも、俺が引いた境界線に、毎日毎日、体当たりしてくれていたのだ。
ポケットに入れた、折りたたまれたままの手紙が重い。
俺は、もう一度、潮風の匂いを嗅ぎたくなった。
汐音の告白に、俺がどう答えるべきか。その答えは、いつも俺たちの始まりと終わりを見てきた、海の中にある気がした。




