10 潮風の誓いと遠くなる境界線
五日間は、一瞬の潮風のように過ぎ去った。
俺と汐音は、授業中も休み時間も、家にいるときも、全ての時間を共有した。俺が「嫌い」という言葉で蓋をしてきた、幼馴染としての安心感と恋人としての高揚感が混ざり合い、毎日が奇跡のようだった。
俺はもう、彼女を突き放さなかった。彼女のそばにいるのが当たり前で、彼女の笑い声、潮の匂いがする髪、不意に触れる手の温かさ、全てが愛おしかった。
最終日の夜。
俺たちは、いつもの堤防にいた。満月が海面に銀色の道を伸ばしている。
「…五日って、本当に短いね」汐音が、俺の肩に頭を預けながら呟いた。
「ああ。でも、この五日間で、俺たちは五年分くらい、本当の距離を縮めた」
俺は彼女の手を握った。もう、彼女は俺に無理にくっついてこない。彼女が望む距離に、俺がちゃんと踏み込んでいる。
「海斗…今まで、私のこと、うざいって思っててごめんね」
「俺の方こそ、最低でごめん。全部俺のせいだ」
「じゃあ、これでチャラだね」汐音は笑った。
「転校しても、毎日連絡する。距離感バグるくらい、電話するから覚悟しておけ」
「望むところだ。ただし、バグらせるのは俺の方だ」
俺はそう言って、初めて、汐音にキスをした。
塩辛い潮の味と、微かに甘い彼女のリップクリームの味がした。この瞬間、俺たちの間の「幼馴染」という境界線は、完全に消滅した。
そして、別れの朝が来た。
引っ越し業者のトラックが、隣の家の前に停まっている。
俺たちは、玄関の前で向かい合っていた。汐音の瞳は、昨日泣きすぎたせいで少し腫れている。
「海斗。これ」
汐音は、小さな貝殻を俺の掌に握らせた。真っ白で、丸みを帯びた、小さな二枚貝だ。
「この町に来たら、この貝を私だと思って、海に報告してね」
「わかった」
俺は貝殻をぎゅっと握りしめた。
「じゃあ、行くね」
汐音はそう言うと、俺に背を向け、車に乗り込もうとした。
その背中が遠ざかる。俺の頭の中で、『もしまた、私が遠くに行きそうになったら、今度は海斗の方から、私を呼び止めてね』という彼女の言葉が響いた。
俺は、もう迷わない。
「汐音!」
俺は力の限り叫び、彼女の元へ駆け寄った。
車に乗りかけていた汐音が、再び振り返る。
俺は彼女の腕を掴み、しっかりと抱きしめた。
「絶対、遠い場所には行かせない。次に会うのは、年末か、それとも夏休みか。すぐにでも、東京に追いかけていく。だから、向こうで他の男に距離感バグらせるような真似はするな」
汐音は、今度こそ大粒の涙を流しながらも、満面の笑みで頷いた。
「…うん!じゃあね、ダーリン。またね」
それが、俺たちが交わした最後の言葉だった。
車は静かに発進し、俺たちの海沿いの日常から、汐音の姿を連れ去っていった。
俺は一人、静かになった隣家の前で立ち尽くす。
ポケットの中には、俺たちが初めて触れた貝殻。
そして、俺の心の中には、キライだと嘘をつき、距離感をバグらせたことで、初めて手に入れた本当に大切なものがあった。
俺たちの関係は、もう幼馴染という生ぬるいものではない。これからは、「遠距離の恋人」として、新しい境界線を築いていかなければならない。
だが、どんなに距離が離れても、俺たちの心はあの潮風の誓いで繋がっている。
俺は、掌の中の貝殻を強く握りしめ、青く広がる相模湾を見つめた。




