山賊姫と若き騎士
森を抜け、さらに細い獣道を登った先。
その日は、朝から天気が崩れる兆しがあった。暗雲が空を覆い、湿った風が木々をざわめかせていた。
王都から派遣された若き騎士・レオンは、剣も満足に扱いきれぬまま、「山賊討伐隊」の末席に加えられていた。
前任の騎士たちが何者かに討たれ、山賊の勢力が拡大しているという報せを受けての急派遣だった。
──なんで俺が、こんな山の中で……。
泥に足を取られながらも、レオンは小さく息を吐いた。雨が降り出しそうな空の下、急斜面を踏みしめる。
しかしその瞬間だった。
ズルッ──。
足元が滑った。
踏み外した岩が崩れ、身体が宙に浮く。
「……ッ!」
叫ぶ暇もなく、視界がぐるりと回転した。斜面を転がり落ちる感覚と、無数の枝の打撃。
最後に、鋭い衝撃が背中を打ち、意識が闇に沈んだ──
#
雨の音がした。
ぽた、ぽた……と岩肌を伝って落ちる水音が、静かな空間に響いている。
薄く目を開けると、濡れた天井の向こうに、仄暗い洞窟の奥がぼんやりと揺れていた。
「……目、覚めた?」
不意に、傍らから声がした。
顔を向けると、かすかな火の明かりの中に、一人の少女が座っていた。
十代半ばほどだろうか。
茶色の髪は肩で束ねられ、粗末な上着は雨に濡れ、乾ききっていない。頬に泥の跡がありながらも、その瞳は、雨の外にある空のように、まっすぐだった。
「骨、折れてるかもしれないね。……足、変なふうに曲がってた」
そう言って、少女は脇に置いてあった小さな布包みを開き、香草を煮詰めた独特の匂いが立ち込める軟膏を取り出す。
レオンの足元に身を寄せ、手際よく塗りつけてから、山で拾ったらしい枝で添え木を当てた。
「君は、誰……?」
声を絞り出すように問うと、少女は一瞬だけ手を止め、そして小さく答えた。
「……山の子」
それ以上、名も、素性も語らなかった。
ただ、洞窟の奥でくゆる焚き火が、少女の横顔を赤く照らしていた。
数日間、雨は止まなかった。
レオンは、痛む足を庇いながら、洞窟の片隅に身を横たえるしかなかった。
湿った空気が衣服に染みこみ、身体の芯まで冷えていくような感覚に、何度も眠りと覚醒を繰り返す。
けれど、少女は毎日、変わらず現れた。
雨水を集めた皮袋を手に、山の木の実や茸を抱え、小さな体で薪を運び、焚き火の炎を絶やさなかった。
「お腹、すいてるでしょう。あったかいの、食べないと、傷が治らないよ」
そう言って、焦げ付き気味の土鍋で粥を煮る少女の背中を、レオンはぼんやりと見つめた。
彼女の素性も目的も、何ひとつ知らないのに、不思議とその姿は懐かしさすら覚えるほどだった。
ある日の夕暮れ、洞窟の入り口から雨音が遠く聞こえる中で、少女がふと口を開いた。
「ねえ。……騎士様も、山賊を討伐しに来たの?」
投げかけられた声は、静かだった。
けれどその一言には、どこか試すような──それでいて怯えるような、微かな色が滲んでいた。
焚き火の火が、ぱちりと小さくはぜた。
湿った空気に、焚きしめた草の香りがわずかに漂っていた。
レオンは少しのあいだ、答えを探すように沈黙した。
「……ああ。俺は、王都の命で来た。山に巣くう山賊の討伐が任務だった。けど……結局、落ちてしまって、隊からもはぐれた」
それは、嘘のない事実だった。
けれど語るほどに、自分が何を討ちに来たのか、その確信は霧のように曖昧になっていく気がした。
少女は、ふっと目を伏せた。
焚き火の明かりが、その横顔の影を濃くする。
「……そう。じゃあ、きっともう、戻れないね」
「え?」
「隊はもう……いないよ。きっと全部、山に呑まれた」
さらりと、雨の音と同じくらい自然に少女は言った。
その言葉が何を意味しているのか、レオンはすぐには理解できなかった。
「な、なにを……?」
「たまにいるんだ。山のことも、山の者たちのことも知らずに入ってきて、帰れなくなる人。──騎士様は、その中ではまだ運が良い方だったんだと思う」
レオンは、少女の瞳をじっと見た。
そこには涙も怒りもない。ただ、長くこの山で生きてきた者の静けさだけがあった。
「君は……一体、何者なんだ?」
そう問えば、少女は小さく首を横に振った。
「“山の子”って、言ったでしょ」
それ以上、彼女は何も語らなかった。
焚き火がまた小さく爆ぜて、ふたりの間の沈黙を埋めた。
朝が来た。
幾日も降り続いた雨が、ようやく止んでいた。
湿気を孕んだ空気はまだ重く、森の葉からはしずくが静かに落ちていたが、洞窟の外には柔らかな光が差し込んでいた。
「今日は診療所まで運んであげる」
少女はそう言って、いつものように淡々と荷物をまとめた。
レオンは驚いたように彼女の顔を見たが、彼女は目を合わせなかった。
「君ひとりで、俺を……?」
「何度も通った道だから。問題ない」
そう答えながら、少女は自然な動作でレオンのそばに屈み込んだ。
肩に腕を回すように促す手つきだった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
レオンは慌てて声を上げた。
顔が少し赤くなる。
「それは……さすがに。いい大人が君みたいな子の背に負ぶさるなんて、騎士の名折れだ……っ。ほら、それに──」
彼はそばに立てかけてあった木の枝を取って掲げた。
「君が拾ってきてくれたこの枝、杖代わりに使えば、俺ひとりでも何とかなる!少し時間はかかるかもしれないけど……!」
そこには、騎士としての意地と、少女への負担を気遣う気持ちがあった。
だが少女は、枝と彼の足元を一度見て、ふっと表情を緩めた。
「そう?」
少女は一瞬だけ立ち上がり、レオンの言葉を受け止めるように首を傾げた。
そして、洞窟の入り口に立てかけていた木の枝──彼女が山で拾って削った即席の杖を手に取り、すっと差し出した。
「じゃあ、立ってみて」
その声はどこまでも平坦で、けれどどこかくすぐったいような含みがあった。
言われるまま、レオンは腹筋に力を込めて身体を起こし、少女の助けを借りて慎重に立ち上がった。
痛みはあるが、支えればなんとか歩ける。そう思った、──その瞬間。
「うわっ……!」
ぐらりと体が傾いだ。
力が入りきらず、杖に体重をかけすぎてバランスを崩す。
「ほら、言った通り」
あっさりと、少女はレオンの腕を取り、自分の肩にまわした。
「背負うよりは、これで行こっか。これなら騎士様のプライドも守れるでしょ?」
そう言って、小さく笑ったその顔に、レオンは何も言えなくなった。
照れ臭さと悔しさが混ざって喉元まで込み上げたが、不思議とその温かさが、心にしみた。
「君、妙に世慣れてるというか……」
「この山で生きてるからね。大人の真似事くらい、できるよ」
ふたりは肩を並べて洞窟を出た。
森の中は、雨に洗われたばかりで、すべてが静かに輝いていた。
小鳥のさえずりが戻り始め、ぬかるんだ山道を慎重に下っていく。
少女は何も言わず、ただ必要なときにそっと手を貸してくれる。
言葉より、その背中があたたかかった。
やがて麓の村が見えてきた。
坂を降り、道が平坦になってからは、レオンが杖を突きながら一人で歩いた。
「この道を真っ直ぐ行って、突き当たりを左に曲がったら……診療所があるから」
少女がぽつりと道を指し示した。
「おぉ、ありがとう。本当に、君のおかげで助かったよ!」
そう言って、レオンは嬉しげに振り返る。
けれどそこには、もう──
少女の姿はなかった。
まるで最初から幻だったかのように、森の緑だけが静かに揺れていた。
「……名前、聞きそびれたな」
レオンはぽつりと呟き、もう一度だけ森の方を見やった。
雨の匂いが、まだかすかに風に残っていた。
診療所に辿り着いたレオンは、すぐに町医者の手当てを受けた。
診断は思いのほか良好で、傷も骨折も丁寧に処置されており、安静にしていればすぐに治るだろうとのことだった。
──あの少女が、すべてやったのか。
野山で拾った草木で、あれほど正確な処置ができるなど、尋常ではない。
彼女はいったい何者なのか。どこでそんな術を──。
その後、町に残っていた伝達役の兵と合流した。
彼の話によると、レオンが所属していた討伐隊は、あの夜──全滅したという。
生き残ったのは、レオンただひとり。
今は本隊の倍の兵力を有する第二部隊が、すでにこの町へ向かっているという。
レオンの心に、不安が募った。
彼女は「山の子」だと言っていたが、近くに集落があるのかもしれない。
であれば、次に山賊が掃討されたとき、その渦中に巻き込まれる可能性がある。
どうにかして、彼女に伝えたい。
逃げてくれ、とまでは言えなくても、せめて山を離れていてくれと。
そう思ったレオンは、怪我を押して、再びあの山へ向かった。
杖を突きながら、彼女と出会った洞窟を目指す。
道中、とある光景にレオンは足を止めた。
雨上がりの森は、前よりも少し明るく、どこか穏やかに見えた。
けれど、洞窟に辿り着くと、そこには誰の気配もなかった。
「……やっぱり、約束してたわけでもないし。そうそう会えるわけないか」
肩の力が抜ける。
ぽつりと独り言のように呟いたときだった、
ガサッ
背後の茂みが揺れた。
レオンは驚いて振り返る。
「……騎士、様……?」
そこに立っていたのは、あの少女だった。
泥のついた裾を揺らし、少しだけ息を切らしている。
けれどその瞳は、再会の喜びよりも、戸惑いの色を濃く湛えていた。
「君……」
レオンは言葉を失い、一歩踏み出しかけた足を止めた。
少女は、ほんの少しだけ微笑んだように見えた。
そして、静かに首を傾げる。
「どうして、戻ってきたの?」
その問いには、責める色も、喜びの色もなかった。
ただまっすぐに、レオンの胸の奥を見透かすような声だった。
「きちんと、お礼を言えてなかったし……君の名前も、聞きそびれちゃったからね」
レオンの返事に、少女は少し驚いたように目を見開いた。
その瞳が、わずかに揺れる。
「お礼なんて、いらないよ。私が勝手にやったことなんだから」
「いいや。君がいなかったら、俺は間違いなく死んでた。君は、俺の命の恩人だ!」
思わず食い気味に返したレオンの真剣な声に、少女はぽかんと口を開け、そして、ふっと吹き出した。
「命の恩人って……そんな大袈裟な」
くすくすと、肩を揺らして笑う少女。
その姿に、レオンはバツが悪そうに目をそらし、顔を赤くした。
そしてふと、何かを思い出したように、肩にかけた鞄をごそごそと探りはじめる。
「そうだ……これ、君に渡したくてさ」
そう言って、差し出したのは──小さな花冠だった。
レオンはそれを、そっと少女の頭に乗せる。
「これは?」
少女が花冠を手に取り、きょとんとしながら尋ねる。
「ここに来る途中、綺麗な花が咲いてるところがあって……そこで摘んで編んだんだ。……こんなの、お礼になるかわからないけどさ」
レオンは頬をかきながら、照れくさそうに笑う。
「ごめん、やっぱちゃんとしたお礼、今度改めて持ってくるよ。今日はこれが精一杯だったけど……」
少女は、しばらく黙って花冠を見つめていた。
やがて、その頬にふわりと花のような笑みが浮かぶ。
「ううん。すごく、嬉しい。……ありがとう、騎士様」
その笑顔に、レオンは思わず見惚れた。
無意識に、言葉が口をついて出る。
「レオンだ」
「へ?」
「“騎士様”じゃなくてさ。……名前で呼んでくれると、嬉しい」
少女は目を丸くし、すぐに目を伏せた。
一度、口を開きかけて、躊躇するように閉じる。
そして、意を決したように、静かに口を開いた。
「……レオン」
その控えめな声が、自分の名を呼ぶ──
たったそれだけで、レオンの胸には、じんわりと温かいものが広がった。
「ありがとう。君の名前も、聞いていい?」
「私は……フィオナ」
フィオナは一瞬逡巡したあと、小さく名乗った。
「フィオナ、か。いい名前だな」
だが、その静けさの中で、レオンの表情にふと影が差した。
「……フィオナ」
その声は、先ほどまでの柔らかさとは少し違っていた。
彼女が顔を上げると、レオンは真剣な目で彼女を見つめていた。
「近々、この周辺は……戦になる可能性が高い。もし、この近くに集落があるなら、今のうちに避難してくれ。必要なら、避難誘導も手伝う」
フィオナの瞳が、大きく揺れる。
「……戦、が?」
その声は、小さく、かすれていた。
「ああ。先日、先行していた討伐部隊が──全滅した。それを受けて、王都から新たな部隊が派遣された。前の倍の人数だ。今はまだ王都を出たばかりだが……数日もすれば、ここに到着する」
静かな森に、重たい言葉が落ちた。
フィオナは俯き、手の中の花冠をそっと握りしめる。
「わかった。皆にも伝えておくね!」
ぱっと顔を上げて、フィオナは明るく笑った。
その笑顔はまるで、さっきの沈黙なんてなかったかのように無邪気で──どこか、少しだけ張り詰めて見えた。
「ねぇ、レオンはもう、王都に戻っちゃうの?」
「いや。しばらくこの町で傷を癒しつつ、部隊の到着を待つようにって命じられてる」
「そっか……。じゃあ、明日も会えないかな?」
少しだけ声を弾ませて、フィオナが聞いた。
「……別に、構わないが」
レオンはわずかに目を細めた。
その問いが何気ないようで、何かを隠しているようにも感じられた。
「ふふ、よかった。じゃあまた、この場所で」
そう言って、フィオナは踵を返し、森の奥へと歩き出す。
振り返らずに手を振るその背に、レオンはしばらく声をかけられなかった。
それからの日々。
次の部隊が到着するまでの間、レオンとフィオナの逢瀬は続いた。
何気ない会話。森を歩きながらの花摘み。岩陰での魚釣り。
特別なことは何もない、けれど確かに満ち足りた時間だった。
そして、ついにその日が訪れた。
伝令が告げたのは、「明日、後続の部隊がこの地に到着する」という報せ。
ここ数日続いていた晴れ間が嘘のように、この日は朝からしとしとと雨が降っていた。
湿った空気を胸に吸い込みながら、レオンはいつもの場所へ向かう。
最後になるかもしれないという思いが、心の奥を静かに締めつけていた。
そして、木々の合間にフィオナの姿が見えた。
レオンは、ゆっくりと歩み寄り、まっすぐに彼女を見つめた。
「明日、後続の部隊がこの地に到着する。恐らく、雨が上がったらここ一帯は戦場になる。……君も、早く避難してくれ」
雨音だけが、ふたりの間に降り続いていた。
レオンの言葉を聞いたフィオナは、ほんの短い沈黙ののち──静かに頷いた。
「……わかった」
その声に揺れはなかった。ただ、静かに受け止めるような響きだった。
「じゃあ、会えるのは……今日でお終いだね」
微笑みながらそう言ったフィオナの表情に、レオンは胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。
その笑顔は、いつもと変わらぬ優しさをたたえていて──けれど、どこか遠くに感じられた。
「レオン。あなたが話してくれた、“弱い者を守れる騎士になりたい”って夢。……すごく素敵だと思った。だから、絶対に出世してね──」
そう告げたフィオナの声は、確かに笑っていた。
けれど、どこか泣いているようにも見えた。それが雨のせいだったのか、涙だったのか。レオンには分からなかった。
なぜなら、フィオナはすぐに背を向け、そのまま森の奥へと駆け出してしまったからだ。
「フィオナッ!」
レオンの叫びは、降りしきる雨音にかき消されていった。
届いたのかさえ、分からないまま。
──翌日。
予定通り、王都から派遣された討伐部隊が到着した。
雨は上がり、空には晴れ間が広がっていた。
山へ向かった部隊は、山賊の本拠を突き止め、頭領を討ち取った。
生き残った山賊たちは散り散りに逃げ、数日間にわたって残党狩りが続けられた。
任務を終えた部隊は、王都への帰還を命じられた。
出立までの数日間、レオンは何度か、あの“いつもの場所”──
フィオナと出会い、過ごしたあの森の中の小さな空間を訪ねた。
けれど、彼女に再び会えることはなかった。
#
二年後──
レオンは目覚しい活躍で騎士団の副団長にまで出世していた。
王都では、彼の名を知らぬ者はいないほどであり、縁談話も山のように舞い込んでいたが、彼はすべて断っていた。
その胸の奥には、今も忘れ得ぬ面影があったからだ。
そんな折、王都より勅命が下る。
北部の山道──かつて彼が命を救われた、あの山で再び山賊による襲撃事件が多発しているという。
貴族や商隊の荷が狙われ、被害は甚大。
山賊は民を襲わず、標的は決まって王都の富と権威を担う者たち。だが、それが王を怒らせるには十分だった。
討伐命令は即日発令され、レオンはその鎮圧部隊の隊長として、現地指揮を任されることとなった。
山に入った部隊は、数日間の偵察の末、山賊の根拠地を突き止める。
各隊が包囲を固め、いよいよ総攻撃の合図が鳴った。
戦の火蓋が切って落とされる。
霧の立ち込める山中、剣戟と怒号が響き渡る中、レオンは自ら先頭に立って敵陣へと斬り込んでいく。
この日もまた、雨だった。
レオンは自ら剣を抜き、先陣を切って駆ける。
背後に続くのは百名を超える精鋭部隊──この討伐のために王都から選りすぐられた騎士たちだ。
「構わず進め!本陣はこの奥にあるはずだ!」
叫ぶ声に、部隊が応じて一気に斜面を駆け上がる。
濡れた土を踏みしめ、樹々の隙間を抜けていく。
その時、奥の方から、複数の足音が迫ってきた。
「敵が来るぞ、構えろ!」
レオンの警告と同時に、木々の間から無数の矢が放たれた。
数名の騎士が矢に倒れるが、即座に盾兵が前へ出て防陣を築く。
矢の雨が止んだ刹那、今度は剣を手にした山賊たちが突撃してくる。
「迎え撃て!」
号令とともに、鉄と鉄が激突した。
悲鳴、怒号、刃の擦れる音が入り混じる。
深い森の奥、冷たい雨の下で、静かな大地が戦火に飲まれていった。
冷たい雨に煙る中、ひときわ異質な気配が現れた。
赤いマントに身を包んだ影が、戦場の混乱を縫うように突き進む。
信じがたい速さと正確さで敵味方の間を駆け抜け、ただ一直線に、レオンのもとへ──。
刃がぶつかる。
鋼と鋼が火花を散らし、衝撃が空気を震わせた。
「……貴様、頭領だな」
レオンが低く問いかける。
「いかにも──」
応じたのは、意外にも女の声だった。
雨に濡れたフードの奥から響くその声に、レオンは一瞬目を見張る。
──女?山賊の頭領が?
驚きはしたが、すぐに戦意を取り戻す。今はただ、この戦いを制することだけが任務だ。
互いに一歩も退かず、剣が交差する。
彼女は驚くほど強かった。無駄のない動きと、読みの早さ。何より、何のためらいもなく剣を振るう覚悟があった。
幾度となく刃が交錯し、雨が濡らす中、ついにレオンの剣が彼女の顔すれすれを掠めた。
寸でのところで躱した頭領のフードが、はらりと風に舞う。
その瞬間、彼女の素顔が露わになった。
その瞳を見た瞬間、レオンの身体が硬直する。
「まさか……!」
凍りつくような思いが、胸の奥を走る。
この雨、この瞳、この面影──
記憶の奥に刻まれた、あの雨の日が蘇る。
頭領もまた、レオンを見つめたまま、わずかに動きを止めた。
そして、ぽつりと、名を呼ぶ。
「……レオン……」
掠れるような声だった。
だがその一言で、全ての疑念が確信へと変わる。
頭領は、ハッとして慌てて口を塞ぐ。
「やっぱり……フィオナ、なのか……?」
雨音の中、レオンの声が震える。
フィオナの瞳が揺れる。
彼女は剣をわずかに下げ、唇をかすかに噛みしめながら、言葉を吐き出す。
「なんで……あの頃みたいに呼ぶの……あなたは騎士で、私は……」
雨が二人の間を隔てるように降り続ける。
「どうして、山賊の頭なんて……!」
レオンが叫ぶと、フィオナは静かに答えた。
「……父のあとを継いだの。あの討伐の時、父は殺された。……残されたみんなを、生かすには、私が……こうするしかなかった」
彼女の声には、怒りも、悲しみもなかった。
あるのは、ただ受け入れてしまった者の静けさ。
レオンは、ぐっと剣を握りしめる。
だがそれは、怒りのためではない。
「君が……生きていてくれて、本当に……よかった」
思わずこぼれたその言葉に、フィオナは一瞬だけ目を見開いた。
「でも……どうして俺に、何も言わなかったんだ……!」
「言えるわけない。……私とあなたは、住む世界が違う」
ふたりの間に沈黙が落ちる。
雨は絶え間なく降り続けていた。
レオンは剣を構えたまま、息を飲むように言った。
「フィオナ……戦いたくない」
一瞬、世界が静止したようだった。
雨音さえも遠のいたかのように、沈黙が降りる。
はっ、とフィオナが息を吐く。
「隊長ともあろう者が、とんだ腰抜けね」
乾いた声だった。
その言葉は挑発のはずだったのに、どこか自嘲めいていた。
フィオナはゆっくりと剣を構える。
いつものように無駄のない所作。けれど、その瞳は苦しげに揺れていた。
「あなたは、王都から山賊を討伐しに来た部隊の隊長。──そして私は、その山賊たちを束ねる頭目。互いに、上に立つ者として……引けない立場にいるのよ」
剣を持つその手が震えていた。
だが、フィオナは一歩、前に出た。
──それが彼女なりの覚悟なのだと、レオンはすぐに察した。
だからこそ、彼もまた、剣を下ろすことはできなかった。
剣戟の音が、再び森に響いた。
雨が二人の足元を叩き、視界を煙らせる中、レオンとフィオナは幾度も刃を交えた。
互いに本気で──けれど、どこかで躊躇いを残したまま。
「本気で来なさい、レオンッ!」
フィオナの叫びに、レオンは歯を食いしばった。
剣を振るたび、心が軋む。守りたい者を傷つけるための剣に、意味などあるのか。
「なぜだ……!生きて、罪を償えばいい。君は、もう誰も殺していないんだろう!?」
「生きて、どうやって?捕まれば、皆は路頭に迷う。私が、頭でなくなったら、居場所を失う子がまた増えるだけよ」
レオンが刃を止めたその瞬間、フィオナが自ら一歩、踏み込んできた。
「やめろ、フィオナ!俺は──っ!」
だが、その叫びを遮るように、彼女は駆けた。
迷いも、躊躇いも、すべてを振り切るように。
その瞬間、レオンの身体が反射的に動いた。
刹那──鋼の感触が、腕を通して確かに伝わる。
「っ……!」
フィオナの動きが止まった。
胸元に、レオンの剣が深く突き刺さっていた。
「な、ぜ……動いた……」
レオンの声が震える。
振るうつもりなど、なかった。
ただ、反射的に──命を守るために動いた手だった。
フィオナはゆっくりと顔を上げた。
唇の端に、うっすらと笑みを浮かべる。
「そっか……」
その目には涙とも雨ともつかない雫が浮かんでいた。
「……やっぱり……好きな人は……殺せないやぁ……」
その声は、どこか晴れやかで。
剣を、最後まで振るうことなく。
フィオナは、レオンの腕の中に崩れ落ちた。
「フィオナ……っ、なぜ……なぜだよ……!」
レオンの叫びが、冷たい雨に掻き消されていく。
空は容赦なく降り続け、まるで世界までもが涙しているようだった。
彼の腕の中で、フィオナの身体は静かに、音もなく力を失っていた。
温もりが、指の隙間から少しずつ零れ落ちていく。
「こんな終わり、望んでなんか……っ!」
レオンはその小さな骸を抱きしめた。
泥にまみれ、血に染まり、冷たくなっていく彼女を、それでも腕の中に閉じ込めようとする。
まるで、そうすればまだ彼女がそこにいてくれるような気がした。
嗚咽とともにこぼれ落ちる涙が、フィオナの頬に一滴、静かに落ちた。