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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

山賊姫と若き騎士

作者: 茗裡

 森を抜け、さらに細い獣道を登った先。

 その日は、朝から天気が崩れる兆しがあった。暗雲が空を覆い、湿った風が木々をざわめかせていた。


 王都から派遣された若き騎士・レオンは、剣も満足に扱いきれぬまま、「山賊討伐隊」の末席に加えられていた。


 前任の騎士たちが何者かに討たれ、山賊の勢力が拡大しているという報せを受けての急派遣だった。


 ──なんで俺が、こんな山の中で……。


 泥に足を取られながらも、レオンは小さく息を吐いた。雨が降り出しそうな空の下、急斜面を踏みしめる。


 しかしその瞬間だった。


 ズルッ──。


 足元が滑った。

 踏み外した岩が崩れ、身体が宙に浮く。


「……ッ!」


 叫ぶ暇もなく、視界がぐるりと回転した。斜面を転がり落ちる感覚と、無数の枝の打撃。

 最後に、鋭い衝撃が背中を打ち、意識が闇に沈んだ──


 #


 雨の音がした。


 ぽた、ぽた……と岩肌を伝って落ちる水音が、静かな空間に響いている。

 薄く目を開けると、濡れた天井の向こうに、仄暗い洞窟の奥がぼんやりと揺れていた。


「……目、覚めた?」


 不意に、傍らから声がした。

 顔を向けると、かすかな火の明かりの中に、一人の少女が座っていた。


 十代半ばほどだろうか。

 茶色の髪は肩で束ねられ、粗末な上着は雨に濡れ、乾ききっていない。頬に泥の跡がありながらも、その瞳は、雨の外にある空のように、まっすぐだった。


「骨、折れてるかもしれないね。……足、変なふうに曲がってた」


 そう言って、少女は脇に置いてあった小さな布包みを開き、香草を煮詰めた独特の匂いが立ち込める軟膏を取り出す。

 レオンの足元に身を寄せ、手際よく塗りつけてから、山で拾ったらしい枝で添え木を当てた。


「君は、誰……?」


 声を絞り出すように問うと、少女は一瞬だけ手を止め、そして小さく答えた。


「……山の子」


 それ以上、名も、素性も語らなかった。

 ただ、洞窟の奥でくゆる焚き火が、少女の横顔を赤く照らしていた。


 数日間、雨は止まなかった。

 レオンは、痛む足を庇いながら、洞窟の片隅に身を横たえるしかなかった。

 湿った空気が衣服に染みこみ、身体の芯まで冷えていくような感覚に、何度も眠りと覚醒を繰り返す。


 けれど、少女は毎日、変わらず現れた。

 雨水を集めた皮袋を手に、山の木の実や茸を抱え、小さな体で薪を運び、焚き火の炎を絶やさなかった。


「お腹、すいてるでしょう。あったかいの、食べないと、傷が治らないよ」


 そう言って、焦げ付き気味の土鍋で粥を煮る少女の背中を、レオンはぼんやりと見つめた。

 彼女の素性も目的も、何ひとつ知らないのに、不思議とその姿は懐かしさすら覚えるほどだった。


 ある日の夕暮れ、洞窟の入り口から雨音が遠く聞こえる中で、少女がふと口を開いた。


「ねえ。……騎士様も、山賊を討伐しに来たの?」


 投げかけられた声は、静かだった。

 けれどその一言には、どこか試すような──それでいて怯えるような、微かな色が滲んでいた。


 焚き火の火が、ぱちりと小さくはぜた。

 湿った空気に、焚きしめた草の香りがわずかに漂っていた。


 レオンは少しのあいだ、答えを探すように沈黙した。


「……ああ。俺は、王都の命で来た。山に巣くう山賊の討伐が任務だった。けど……結局、落ちてしまって、隊からもはぐれた」


 それは、嘘のない事実だった。

 けれど語るほどに、自分が何を討ちに来たのか、その確信は霧のように曖昧になっていく気がした。


 少女は、ふっと目を伏せた。

 焚き火の明かりが、その横顔の影を濃くする。


「……そう。じゃあ、きっともう、戻れないね」

「え?」

「隊はもう……いないよ。きっと全部、山に呑まれた」


 さらりと、雨の音と同じくらい自然に少女は言った。

 その言葉が何を意味しているのか、レオンはすぐには理解できなかった。


「な、なにを……?」

「たまにいるんだ。山のことも、山の者たちのことも知らずに入ってきて、帰れなくなる人。──騎士様は、その中ではまだ運が良い方だったんだと思う」


 レオンは、少女の瞳をじっと見た。

 そこには涙も怒りもない。ただ、長くこの山で生きてきた者の静けさだけがあった。


「君は……一体、何者なんだ?」


 そう問えば、少女は小さく首を横に振った。


「“山の子”って、言ったでしょ」


 それ以上、彼女は何も語らなかった。

 焚き火がまた小さく爆ぜて、ふたりの間の沈黙を埋めた。


 朝が来た。


 幾日も降り続いた雨が、ようやく止んでいた。

 湿気を孕んだ空気はまだ重く、森の葉からはしずくが静かに落ちていたが、洞窟の外には柔らかな光が差し込んでいた。


「今日は診療所まで運んであげる」


 少女はそう言って、いつものように淡々と荷物をまとめた。

 レオンは驚いたように彼女の顔を見たが、彼女は目を合わせなかった。


「君ひとりで、俺を……?」

「何度も通った道だから。問題ない」


 そう答えながら、少女は自然な動作でレオンのそばに屈み込んだ。

 肩に腕を回すように促す手つきだった。


「ちょ、ちょっと待ってくれ!」


 レオンは慌てて声を上げた。

 顔が少し赤くなる。


「それは……さすがに。いい大人が君みたいな子の背に負ぶさるなんて、騎士の名折れだ……っ。ほら、それに──」


 彼はそばに立てかけてあった木の枝を取って掲げた。


「君が拾ってきてくれたこの枝、杖代わりに使えば、俺ひとりでも何とかなる!少し時間はかかるかもしれないけど……!」


 そこには、騎士としての意地と、少女への負担を気遣う気持ちがあった。

 だが少女は、枝と彼の足元を一度見て、ふっと表情を緩めた。


「そう?」


 少女は一瞬だけ立ち上がり、レオンの言葉を受け止めるように首を傾げた。

 そして、洞窟の入り口に立てかけていた木の枝──彼女が山で拾って削った即席の杖を手に取り、すっと差し出した。


「じゃあ、立ってみて」


 その声はどこまでも平坦で、けれどどこかくすぐったいような含みがあった。

 言われるまま、レオンは腹筋に力を込めて身体を起こし、少女の助けを借りて慎重に立ち上がった。


 痛みはあるが、支えればなんとか歩ける。そう思った、──その瞬間。


「うわっ……!」


 ぐらりと体が傾いだ。

 力が入りきらず、杖に体重をかけすぎてバランスを崩す。


「ほら、言った通り」


 あっさりと、少女はレオンの腕を取り、自分の肩にまわした。


「背負うよりは、これで行こっか。これなら騎士様のプライドも守れるでしょ?」


 そう言って、小さく笑ったその顔に、レオンは何も言えなくなった。

 照れ臭さと悔しさが混ざって喉元まで込み上げたが、不思議とその温かさが、心にしみた。


「君、妙に世慣れてるというか……」

「この山で生きてるからね。大人の真似事くらい、できるよ」


 ふたりは肩を並べて洞窟を出た。

 森の中は、雨に洗われたばかりで、すべてが静かに輝いていた。


 小鳥のさえずりが戻り始め、ぬかるんだ山道を慎重に下っていく。

 少女は何も言わず、ただ必要なときにそっと手を貸してくれる。

 言葉より、その背中があたたかかった。


 やがて麓の村が見えてきた。

 坂を降り、道が平坦になってからは、レオンが杖を突きながら一人で歩いた。


「この道を真っ直ぐ行って、突き当たりを左に曲がったら……診療所があるから」


 少女がぽつりと道を指し示した。


「おぉ、ありがとう。本当に、君のおかげで助かったよ!」


 そう言って、レオンは嬉しげに振り返る。

 けれどそこには、もう──


 少女の姿はなかった。


 まるで最初から幻だったかのように、森の緑だけが静かに揺れていた。


「……名前、聞きそびれたな」


 レオンはぽつりと呟き、もう一度だけ森の方を見やった。

 雨の匂いが、まだかすかに風に残っていた。


 診療所に辿り着いたレオンは、すぐに町医者の手当てを受けた。

 診断は思いのほか良好で、傷も骨折も丁寧に処置されており、安静にしていればすぐに治るだろうとのことだった。


 ──あの少女が、すべてやったのか。


 野山で拾った草木で、あれほど正確な処置ができるなど、尋常ではない。

 彼女はいったい何者なのか。どこでそんな術を──。


 その後、町に残っていた伝達役の兵と合流した。

 彼の話によると、レオンが所属していた討伐隊は、あの夜──全滅したという。


 生き残ったのは、レオンただひとり。

 今は本隊の倍の兵力を有する第二部隊が、すでにこの町へ向かっているという。


 レオンの心に、不安が募った。

 彼女は「山の子」だと言っていたが、近くに集落があるのかもしれない。

 であれば、次に山賊が掃討されたとき、その渦中に巻き込まれる可能性がある。


 どうにかして、彼女に伝えたい。

 逃げてくれ、とまでは言えなくても、せめて山を離れていてくれと。


 そう思ったレオンは、怪我を押して、再びあの山へ向かった。

 杖を突きながら、彼女と出会った洞窟を目指す。

 道中、とある光景にレオンは足を止めた。


 雨上がりの森は、前よりも少し明るく、どこか穏やかに見えた。

 けれど、洞窟に辿り着くと、そこには誰の気配もなかった。


「……やっぱり、約束してたわけでもないし。そうそう会えるわけないか」


 肩の力が抜ける。

 ぽつりと独り言のように呟いたときだった、 


 ガサッ


 背後の茂みが揺れた。

 レオンは驚いて振り返る。


「……騎士、様……?」


 そこに立っていたのは、あの少女だった。

 泥のついた裾を揺らし、少しだけ息を切らしている。

 けれどその瞳は、再会の喜びよりも、戸惑いの色を濃く湛えていた。


「君……」


 レオンは言葉を失い、一歩踏み出しかけた足を止めた。


 少女は、ほんの少しだけ微笑んだように見えた。

 そして、静かに首を傾げる。


「どうして、戻ってきたの?」


 その問いには、責める色も、喜びの色もなかった。

 ただまっすぐに、レオンの胸の奥を見透かすような声だった。


「きちんと、お礼を言えてなかったし……君の名前も、聞きそびれちゃったからね」


 レオンの返事に、少女は少し驚いたように目を見開いた。

 その瞳が、わずかに揺れる。


「お礼なんて、いらないよ。私が勝手にやったことなんだから」

「いいや。君がいなかったら、俺は間違いなく死んでた。君は、俺の命の恩人だ!」


 思わず食い気味に返したレオンの真剣な声に、少女はぽかんと口を開け、そして、ふっと吹き出した。


「命の恩人って……そんな大袈裟な」


 くすくすと、肩を揺らして笑う少女。

 その姿に、レオンはバツが悪そうに目をそらし、顔を赤くした。


 そしてふと、何かを思い出したように、肩にかけた鞄をごそごそと探りはじめる。


「そうだ……これ、君に渡したくてさ」


 そう言って、差し出したのは──小さな花冠だった。

 レオンはそれを、そっと少女の頭に乗せる。


「これは?」


 少女が花冠を手に取り、きょとんとしながら尋ねる。


「ここに来る途中、綺麗な花が咲いてるところがあって……そこで摘んで編んだんだ。……こんなの、お礼になるかわからないけどさ」


 レオンは頬をかきながら、照れくさそうに笑う。


「ごめん、やっぱちゃんとしたお礼、今度改めて持ってくるよ。今日はこれが精一杯だったけど……」


 少女は、しばらく黙って花冠を見つめていた。

 やがて、その頬にふわりと花のような笑みが浮かぶ。


「ううん。すごく、嬉しい。……ありがとう、騎士様」


 その笑顔に、レオンは思わず見惚れた。

 無意識に、言葉が口をついて出る。


「レオンだ」

「へ?」

「“騎士様”じゃなくてさ。……名前で呼んでくれると、嬉しい」 


 少女は目を丸くし、すぐに目を伏せた。

 一度、口を開きかけて、躊躇するように閉じる。

 そして、意を決したように、静かに口を開いた。


「……レオン」


 その控えめな声が、自分の名を呼ぶ──

 たったそれだけで、レオンの胸には、じんわりと温かいものが広がった。


「ありがとう。君の名前も、聞いていい?」

「私は……フィオナ」


 フィオナは一瞬逡巡したあと、小さく名乗った。


「フィオナ、か。いい名前だな」


 だが、その静けさの中で、レオンの表情にふと影が差した。 


「……フィオナ」 


 その声は、先ほどまでの柔らかさとは少し違っていた。

 彼女が顔を上げると、レオンは真剣な目で彼女を見つめていた。


「近々、この周辺は……戦になる可能性が高い。もし、この近くに集落があるなら、今のうちに避難してくれ。必要なら、避難誘導も手伝う」


 フィオナの瞳が、大きく揺れる。 


「……戦、が?」


 その声は、小さく、かすれていた。


「ああ。先日、先行していた討伐部隊が──全滅した。それを受けて、王都から新たな部隊が派遣された。前の倍の人数だ。今はまだ王都を出たばかりだが……数日もすれば、ここに到着する」


 静かな森に、重たい言葉が落ちた。

 フィオナは俯き、手の中の花冠をそっと握りしめる。


「わかった。皆にも伝えておくね!」


 ぱっと顔を上げて、フィオナは明るく笑った。

 その笑顔はまるで、さっきの沈黙なんてなかったかのように無邪気で──どこか、少しだけ張り詰めて見えた。


「ねぇ、レオンはもう、王都に戻っちゃうの?」

「いや。しばらくこの町で傷を癒しつつ、部隊の到着を待つようにって命じられてる」

「そっか……。じゃあ、明日も会えないかな?」


 少しだけ声を弾ませて、フィオナが聞いた。


「……別に、構わないが」


 レオンはわずかに目を細めた。

 その問いが何気ないようで、何かを隠しているようにも感じられた。


「ふふ、よかった。じゃあまた、この場所で」


 そう言って、フィオナは踵を返し、森の奥へと歩き出す。

 振り返らずに手を振るその背に、レオンはしばらく声をかけられなかった。


 それからの日々。

 次の部隊が到着するまでの間、レオンとフィオナの逢瀬は続いた。


 何気ない会話。森を歩きながらの花摘み。岩陰での魚釣り。

 特別なことは何もない、けれど確かに満ち足りた時間だった。


 そして、ついにその日が訪れた。

 伝令が告げたのは、「明日、後続の部隊がこの地に到着する」という報せ。


 ここ数日続いていた晴れ間が嘘のように、この日は朝からしとしとと雨が降っていた。


 湿った空気を胸に吸い込みながら、レオンはいつもの場所へ向かう。

 最後になるかもしれないという思いが、心の奥を静かに締めつけていた。


 そして、木々の合間にフィオナの姿が見えた。

 レオンは、ゆっくりと歩み寄り、まっすぐに彼女を見つめた。


「明日、後続の部隊がこの地に到着する。恐らく、雨が上がったらここ一帯は戦場になる。……君も、早く避難してくれ」


 雨音だけが、ふたりの間に降り続いていた。

 レオンの言葉を聞いたフィオナは、ほんの短い沈黙ののち──静かに頷いた。


「……わかった」


 その声に揺れはなかった。ただ、静かに受け止めるような響きだった。 


「じゃあ、会えるのは……今日でお終いだね」


 微笑みながらそう言ったフィオナの表情に、レオンは胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。

 その笑顔は、いつもと変わらぬ優しさをたたえていて──けれど、どこか遠くに感じられた。


「レオン。あなたが話してくれた、“弱い者を守れる騎士になりたい”って夢。……すごく素敵だと思った。だから、絶対に出世してね──」


 そう告げたフィオナの声は、確かに笑っていた。

 けれど、どこか泣いているようにも見えた。それが雨のせいだったのか、涙だったのか。レオンには分からなかった。

 なぜなら、フィオナはすぐに背を向け、そのまま森の奥へと駆け出してしまったからだ。


「フィオナッ!」


 レオンの叫びは、降りしきる雨音にかき消されていった。

 届いたのかさえ、分からないまま。


 ──翌日。

 予定通り、王都から派遣された討伐部隊が到着した。

 雨は上がり、空には晴れ間が広がっていた。


 山へ向かった部隊は、山賊の本拠を突き止め、頭領を討ち取った。

 生き残った山賊たちは散り散りに逃げ、数日間にわたって残党狩りが続けられた。


 任務を終えた部隊は、王都への帰還を命じられた。


 出立までの数日間、レオンは何度か、あの“いつもの場所”──

 フィオナと出会い、過ごしたあの森の中の小さな空間を訪ねた。


 けれど、彼女に再び会えることはなかった。


 #


 二年後──


 レオンは目覚しい活躍で騎士団の副団長にまで出世していた。

 王都では、彼の名を知らぬ者はいないほどであり、縁談話も山のように舞い込んでいたが、彼はすべて断っていた。


 その胸の奥には、今も忘れ得ぬ面影があったからだ。


 そんな折、王都より勅命が下る。

 北部の山道──かつて彼が命を救われた、あの山で再び山賊による襲撃事件が多発しているという。


 貴族や商隊の荷が狙われ、被害は甚大。

 山賊は民を襲わず、標的は決まって王都の富と権威を担う者たち。だが、それが王を怒らせるには十分だった。


 討伐命令は即日発令され、レオンはその鎮圧部隊の隊長として、現地指揮を任されることとなった。


 山に入った部隊は、数日間の偵察の末、山賊の根拠地を突き止める。

 各隊が包囲を固め、いよいよ総攻撃の合図が鳴った。


 戦の火蓋が切って落とされる。

 霧の立ち込める山中、剣戟と怒号が響き渡る中、レオンは自ら先頭に立って敵陣へと斬り込んでいく。

 この日もまた、雨だった。


 レオンは自ら剣を抜き、先陣を切って駆ける。

 背後に続くのは百名を超える精鋭部隊──この討伐のために王都から選りすぐられた騎士たちだ。


「構わず進め!本陣はこの奥にあるはずだ!」


 叫ぶ声に、部隊が応じて一気に斜面を駆け上がる。

 濡れた土を踏みしめ、樹々の隙間を抜けていく。

 その時、奥の方から、複数の足音が迫ってきた。


「敵が来るぞ、構えろ!」


 レオンの警告と同時に、木々の間から無数の矢が放たれた。

 数名の騎士が矢に倒れるが、即座に盾兵が前へ出て防陣を築く。


 矢の雨が止んだ刹那、今度は剣を手にした山賊たちが突撃してくる。


「迎え撃て!」


 号令とともに、鉄と鉄が激突した。

 悲鳴、怒号、刃の擦れる音が入り混じる。

 深い森の奥、冷たい雨の下で、静かな大地が戦火に飲まれていった。


 冷たい雨に煙る中、ひときわ異質な気配が現れた。


 赤いマントに身を包んだ影が、戦場の混乱を縫うように突き進む。

 信じがたい速さと正確さで敵味方の間を駆け抜け、ただ一直線に、レオンのもとへ──。


 刃がぶつかる。

 鋼と鋼が火花を散らし、衝撃が空気を震わせた。


「……貴様、頭領だな」


 レオンが低く問いかける。


「いかにも──」


 応じたのは、意外にも女の声だった。

 雨に濡れたフードの奥から響くその声に、レオンは一瞬目を見張る。


 ──女?山賊の頭領が?


 驚きはしたが、すぐに戦意を取り戻す。今はただ、この戦いを制することだけが任務だ。


 互いに一歩も退かず、剣が交差する。

 彼女は驚くほど強かった。無駄のない動きと、読みの早さ。何より、何のためらいもなく剣を振るう覚悟があった。


 幾度となく刃が交錯し、雨が濡らす中、ついにレオンの剣が彼女の顔すれすれを掠めた。

 寸でのところで躱した頭領のフードが、はらりと風に舞う。


 その瞬間、彼女の素顔が露わになった。

 その瞳を見た瞬間、レオンの身体が硬直する。


「まさか……!」


 凍りつくような思いが、胸の奥を走る。

 この雨、この瞳、この面影──


 記憶の奥に刻まれた、あの雨の日が蘇る。


 頭領もまた、レオンを見つめたまま、わずかに動きを止めた。

 そして、ぽつりと、名を呼ぶ。


「……レオン……」


 掠れるような声だった。

 だがその一言で、全ての疑念が確信へと変わる。


 頭領は、ハッとして慌てて口を塞ぐ。


「やっぱり……フィオナ、なのか……?」


 雨音の中、レオンの声が震える。


 フィオナの瞳が揺れる。

 彼女は剣をわずかに下げ、唇をかすかに噛みしめながら、言葉を吐き出す。


「なんで……あの頃みたいに呼ぶの……あなたは騎士で、私は……」


 雨が二人の間を隔てるように降り続ける。


「どうして、山賊の頭なんて……!」


 レオンが叫ぶと、フィオナは静かに答えた。


「……父のあとを継いだの。あの討伐の時、父は殺された。……残されたみんなを、生かすには、私が……こうするしかなかった」


 彼女の声には、怒りも、悲しみもなかった。

 あるのは、ただ受け入れてしまった者の静けさ。


 レオンは、ぐっと剣を握りしめる。

 だがそれは、怒りのためではない。


「君が……生きていてくれて、本当に……よかった」


 思わずこぼれたその言葉に、フィオナは一瞬だけ目を見開いた。


「でも……どうして俺に、何も言わなかったんだ……!」

「言えるわけない。……私とあなたは、住む世界が違う」


 ふたりの間に沈黙が落ちる。

 雨は絶え間なく降り続けていた。


 レオンは剣を構えたまま、息を飲むように言った。


「フィオナ……戦いたくない」


 一瞬、世界が静止したようだった。

 雨音さえも遠のいたかのように、沈黙が降りる。


 はっ、とフィオナが息を吐く。


「隊長ともあろう者が、とんだ腰抜けね」


 乾いた声だった。

 その言葉は挑発のはずだったのに、どこか自嘲めいていた。


 フィオナはゆっくりと剣を構える。

 いつものように無駄のない所作。けれど、その瞳は苦しげに揺れていた。


「あなたは、王都から山賊を討伐しに来た部隊の隊長。──そして私は、その山賊たちを束ねる頭目。互いに、上に立つ者として……引けない立場にいるのよ」


 剣を持つその手が震えていた。

 だが、フィオナは一歩、前に出た。

 ──それが彼女なりの覚悟なのだと、レオンはすぐに察した。


 だからこそ、彼もまた、剣を下ろすことはできなかった。


 剣戟の音が、再び森に響いた。


 雨が二人の足元を叩き、視界を煙らせる中、レオンとフィオナは幾度も刃を交えた。

 互いに本気で──けれど、どこかで躊躇いを残したまま。


「本気で来なさい、レオンッ!」


 フィオナの叫びに、レオンは歯を食いしばった。

 剣を振るたび、心が軋む。守りたい者を傷つけるための剣に、意味などあるのか。


「なぜだ……!生きて、罪を償えばいい。君は、もう誰も殺していないんだろう!?」

「生きて、どうやって?捕まれば、皆は路頭に迷う。私が、頭でなくなったら、居場所を失う子がまた増えるだけよ」


 レオンが刃を止めたその瞬間、フィオナが自ら一歩、踏み込んできた。


「やめろ、フィオナ!俺は──っ!」


 だが、その叫びを遮るように、彼女は駆けた。

 迷いも、躊躇いも、すべてを振り切るように。

 その瞬間、レオンの身体が反射的に動いた。


 刹那──鋼の感触が、腕を通して確かに伝わる。


「っ……!」


 フィオナの動きが止まった。

 胸元に、レオンの剣が深く突き刺さっていた。


「な、ぜ……動いた……」


 レオンの声が震える。

 振るうつもりなど、なかった。

 ただ、反射的に──命を守るために動いた手だった。


 フィオナはゆっくりと顔を上げた。

 唇の端に、うっすらと笑みを浮かべる。


「そっか……」


 その目には涙とも雨ともつかない雫が浮かんでいた。


「……やっぱり……好きな人は……殺せないやぁ……」


 その声は、どこか晴れやかで。

 剣を、最後まで振るうことなく。

 フィオナは、レオンの腕の中に崩れ落ちた。


「フィオナ……っ、なぜ……なぜだよ……!」


 レオンの叫びが、冷たい雨に掻き消されていく。

 空は容赦なく降り続け、まるで世界までもが涙しているようだった。


 彼の腕の中で、フィオナの身体は静かに、音もなく力を失っていた。

 温もりが、指の隙間から少しずつ零れ落ちていく。


「こんな終わり、望んでなんか……っ!」


 レオンはその小さな骸を抱きしめた。

 泥にまみれ、血に染まり、冷たくなっていく彼女を、それでも腕の中に閉じ込めようとする。


 まるで、そうすればまだ彼女がそこにいてくれるような気がした。


 嗚咽とともにこぼれ落ちる涙が、フィオナの頬に一滴、静かに落ちた。

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